三度目の海、初めての海(10)
正直に言って、後半組妖精含めて四人の半分、二人はここに若干の躊躇をもって参加していた。
一人は良夜だ。
女三人に男一人、小市民を自認する彼にとって、この布陣には気を遣う物があることは明白だ。特に一人が『行きつけの喫茶店の顔見知りウェイトレス』程度の知り合いでしかないのだから、色々と気を遣うに決まってる。
で、もう一人、それは凪歩だ。凪歩から見れば、声も聞こえず姿も見えない妖精は数に含めないとして、残る二人、良夜と美月はカップルだ。はっきり言えば、お邪魔虫、もしくは蚊帳の外に置かれるのでは? と言う懸念を抱いても仕方がないだろう。それでもここにやってきたのは、やっぱり、友達と外泊って物をしてみたいという欲望に抗しきれなかったからと、彼女が海が好きだから、と言う理由だ。
で、その懸念は初日にいきなり現実の物になった。
凪歩がお風呂に向かった時にはリビングで悪夜と遊んでいた美月が、凪歩が風呂から上がった時には顔を真っ赤にして良夜の部屋から飛び出してきていたのだ。まあ、何をしてたかと言うのは、ある程度は察しが付く。
なんと言っても、猥談の女王吉田貴美の直接の部下なんだから、実体験は伴わずとも、知識だけは無駄に豊富だ。
その豊富な、しかも伝聞で微妙にずれてる知識を素に察した物が――
「浅間くん……上手く出来なかったのかな……?」
だったりしたのは、二人には秘密。しかも、その誤解が解けるのは、ずーっと先のお話。
そんな事を考えて顔が熱くなったというか、鼓動が早くなったとか、居たたまれない気分になったりとか……そう言うのは勿論あったが、それ以上に一抹の寂しさという物を感じ、その寂しさが彼女に……
「やっぱり、来なきゃ良かったのかなぁ……」
と、ベッドの中で呟かせた……と言うのも、美月達には秘密になっていた。
さて、後半組二日目である。
抜けるような青空と天まで伸びる入道雲。海岸線には色とりどりの水着が咲き乱れ、その向こう側には寄せては返す白い波。夕立には多少の注意が必要ではあるが、今日も今日とて、絶好の海日より。
だがしかし。
「……今日のお昼は美月さんと浅間くんでよろしく……」
時任凪歩さんは非常に不機嫌だった。
大きくしっかりとしたカップを持つブラにショートパンツ風のアンダー、白いセパレートの水着は色気や可愛さよりも機能を重視したタイプ。右手には大きなトートバッグを持って、凪歩はツカツカと一人先を歩いていた。その背後では胸元の大きなリボンが付いたビキニの美月と海パンにTシャツ姿の良夜が申し訳なさそうにトボトボと歩いていた。
そうというのも、今のお時間がすでに十二時ちょい前。泳ぐよりも先にお昼の心配をしなきゃいけない時間帯であること、そして、凪歩が――
「私、八時から起きてたんだよ?」
背後を振り向き、きっ! と睨みつける。
凪歩は八時から起きていたが、良夜と美月が起きてきたのは、今からわずか三十分ほど前。勿論、凪歩は何度も起こしたが、起きなかったのだ。昨夜の寝付きが悪かったとかで、全く、起きられなかったそうだ。しかも、単に起きられなかっただけならまだしも、美月は凪歩と昨日の夕方、買い物に出た時「一緒にお弁当を作ろう」という約束までしていたのだから、救いようもフォローのしようもない。
「だって良夜さんが……」
「……美月さんが出来ない約束するから……」
「だって、良夜さんがあんな事するから、私が眠れなく……」
「そっ、それに関しては、おっ、俺のせい?」
背後で続けられるのは、醜い罪の擦り合い……と言うか、じゃれ合いとでも言うべきか?
「もう、良いよ。どっちが悪くても! それより、ご飯、食べようよ、お腹空いたよ!」
凪歩が怒鳴りつければ、二人仲良く――
「はぁい」
と、元気なお返事。
とは言っても、食事をするのは凪歩一人。残りの二人は、出てくる前に朝食を食べたばっかり。昨日のお昼に残したサンドイッチやらおにぎりやらで、未だにお腹が余り減ってないのだ。かき氷を一つずつ自分の前に置いて、凪歩が海の家名物具の余り入ってないカレーライスをぱくつくのをぼんやりと眺めていた。
「いちゃいちゃするのは良いけど、独り者の身にもなってよね……」
支払いは美月と良夜の折半。なのでカレーは大盛り、デザートに練乳たっぷりのかき氷とホットコーヒーも取る予定……腹が立つから焼きトウモロコシも頼んでやろうか? などと思いながら、凪歩は熱々のカレーライスを口に運ぶ。口いっぱいに広がるヤスっぽく粉っぽいカレーのお味。
「イヤ……何にもしてないし」
「そうですよ? ホント、何にもしてないんですよ? 知ってますか?」
二人並んで言い訳を並べ立てるカップルを前に置き、凪歩の手が一瞬止まる。そして、頭の上から感じる”合図”に精神を集中すれば、答えはすぐに帰ってくる。
「……アルトちゃんが嘘だって言ってるよ?」
「てめえ、アルト! 大嘘吐くなよな!」
良夜が勢いよく立ち上がれば、小さな丸椅子が彼の膝に当たって、カラカラと音を立てて転がる。青年の怒鳴り声と椅子の転がる音がコンクリ打ちっ放しの食堂に広がれば、そこで思い思いに食事や談話を楽しんでいた海水浴客達の視線が、その発生元へと集中。その視線に常々小市民を自認する良夜は、バツの悪そうな表情を浮かべ、椅子に座り直した。
しかし、この場合、何もしてないことの方が恥ずかしいことだって、わかんないんだろうか? だいたい、何もしてない人の部屋から、女が真っ赤な顔して飛び出してくるはずないじゃんか……と、似たものカップルに凪歩はジトォとした視線を投げかける。
「……別にしてようがしてまいが良いんだけど……なんなら、今夜から一人で寝ようか?」
それだけ言うと、美月達から視線をそらし、凪歩はカレールーのない所に福神漬けをドカッ! と乗せる。福神漬けの赤い汁がじわぁ〜っとご飯の上に広がるのを待ってから、それごとご飯を口の中にパクリッ! カレーも好きだが、福神漬け乗せご飯も大好き。凪歩、至福の時。
そして、その直後、凪歩の口内から福神漬け乗せご飯が消えるよりも早く、美月と良夜の顔がポン! と音を立てて茹で上がる。その二人の顔を上目遣いで見上げてみる。貴美が言ってた通り、からかうと面白いカップルだ。まあ、もっとも、凪歩もその手のことには全くの奥手なのは同じなのだが……なのだが、貴美からあれこれ聞いてるので、耳年増であったりすることは、当人としても否定は出来ない。
「良いよ、一人で寝るって……――いや、お前の監視付きなら一人の方がずっとマシだからな、アルト」
赤くなった鼻の頭を掻きながら、そっぽを向いて青年がポツリと漏らす。チラッと凪歩を横目で見ているのは、凪歩の頭の上にアルトが乗っているからだろう。朝からずっとアルトは凪歩の頭の上に居るようだ。
「あっ、アルトとは一緒に寝てみたいですけど……ね?」
「……美月さんといっしょに寝るのは嫌だって」
「酷いですよね……アルトって……」
頬を膨らませる美月に良夜が苦笑い。凪歩も思わず、笑みを浮かべてカレー皿に残った最後の一口を口に押し込んだ。そして、そろそろ温くなり始めたお冷やを一息に飲み干す。
「ふぅ……ごちそう様っと……あっ、ウェイトレスさん、かき氷とホットコーヒー、お願いします。かき氷は宇治金、練乳増量で」
「大丈夫ですか? 熱いカレーの後にそんなに冷たい物食べたら、お腹、痛くなりますよ?」
「大丈夫だよ、私、夏の海じゃこれが定番なんだよねぇ〜これやらないと、夏って気がしないよ」
火傷しそうなほどに熱いコーヒーとキンキンに冷えたかき氷を交互にパクパク。これが美味しい。お腹の中がほどよく暖まる感じが心地よい。
「夏、海には良く来るんですか?」
「えっ? うん。良く来るよ。お父さんが海が好きだし、うち、小さなプレジャーボートも持ってるんだよ」
と、凪歩が言った瞬間、ピーンと空気が凍りつく。そして、美月と良夜が互いの顔を見合わせて、ボソボソと言葉を交わし始めた。
「ブルジョアですよ、ブルジョア。労働者の敵、発見ですね」
「……そこまでは言わないけど……家、でかかったもんなぁ……――あっ、アルトもブルジョアって言ってる」
「みっ、美月さんだって、三島食品の役員じゃないのよ……」
「名前だけですよ〜そう言えば、良夜さんの実家はお車が三台もあるって、アルトが前に言ってましたよね」
「えっ? うちは普通だよ……って、車が三台もあるのは、家が地方都市だからで、姉ちゃんも車に乗ってるだけだって」
「あっ、うち、車は二台だよ、一台は軽四だし」
「うちも二台です、勿論、一台は軽四ですよ。良夜さんちは確か……クラウンがあったとか……」
「……覚えてなくても良い事ばっかり覚えて……」
やいのやいのと、アルトを含めた四人ので話し合いの結果、一つの結論が出た。
「結論、良夜さんちが一番のブルジョア」
「……あっ、あれぇ?」
代表美月のお言葉に良夜が首をかしげた。
だいたい、本物のブルジョアがなんで海の家で具のないカレーと高いかき氷とアルトお墨付きの「クソ不味い」コーヒーをセットで奢って貰って喜ぶというのだろうか? その辺りをはっきりしてもらい物だ、と言う凪歩の呟きと共に、後半組二日目午後の部が始まった。
「凪歩さん、そのトートバッグ、なんですか?」
凪歩の右手には大きなトートバッグが一つ。海の家を出て来た所からずーっとぶら下げている物だ。それを美月が覗き込むようにしながら、尋ねると凪歩は砂浜の片隅にしゃがみ込んで、中身を取り出して見せた。
「水中眼鏡とシュノーケル、フィンと後はラッシュガードだよ」
鼻まで覆う大きな水中眼鏡とシュノーケルがセットになったもの、黒いゴムで出来た足ひれ、それと知らない人が見たらウェットスーツか何かに見えそうな半袖と半ズボンのスーツが一式。次々と出してみせると、美月の大きな目がクリクリと興味深げに見開かれる。
「ふえぇ〜凄いですね。なんか……後は槍とか持ってたら、漁師さんみたいですよね」
「……そう言う時は槍じゃなくて銛<もり>だと思うよ、それと漁師って言うより海女じゃないかな……――的確な突っ込み……って、アルトが言ってる。別に褒めなくても良いからな、アルト」
等と言いながらも良夜も興味津々らしく、しゃがみ込んだ凪歩の隣にしゃがみ、中身を興味深そうに見詰めて居た。もっとも、その中にラッシュガードのパンツがあったのは良夜にとってはちょっぴり不運だったのかも知れない。
「えっち」
冗談めかした口調でひと言言い置き、クスッと笑って、凪歩はラッシュガードのパンツをひょいとつまみ上げた。
「あっ、いや、違うって! ほら、水着着てるのに、こう言うの、なんに使うんだろう? って思っただけだよ!」
慌てて言い訳しても後の祭り。美月はニコッと笑ってそっぽを向くし、頭の上で小さな衝撃があったかと思った次の瞬間には、良夜が――
「ぎゃっ! イッテェ!」
と、大声で悲鳴。抱え込む頭を見るに、知り合って半年ちょいだが、成長しない人だと思った。
「あはは。うん、日焼け防止と沖の方に行けばこの時期でも寒いから、シュノーケリングにはこういうの必須だよ」
トンと小さな物が頭に乗っかる振動を感じながら、凪歩はぽいぽいとトートバッグに出した物を片付け始める。他の物はともかく、ラッシュガードはちゃんと畳まないと収まりが悪い。引っ張り出した物を全て片付け終えると、持ち手を肩に引っ掛け立ち上がった。
すると、そう言いそうだなぁ……と、半ば以上、予想されたことではあったが、美月はパッと顔を明るくして言った。
「あっ、私もしてみたいです!」
「美月さん、かなづちじゃん……」
美月の言葉を受けてそう言ったのは、良夜だった。
美月は『二十五メートルプールを横に泳ぎ切れる』程度にしか泳げない。しかし、美月はこれをもって『泳げる』と言い張っている。もちろん、良夜もアルトも完全に彼女をかなづち扱いだ。まあ、凪歩もそれが間違えた認識ではないと思う。でも……
「でも、シュノーケリングなら出来るよ。だって、ほら……――」
一旦言葉を切って、凪歩は片付けたばかりのシュノーケルを取り出した。そして、パクッとそれをシュノーケルを咥えてみせ、スコスコと息を吸ったり吐いたりする事、数回。
「ほら、息継ぎ、必要ないもん。足の着く所でもシュノーケルと水中眼鏡で見たら、大分違うよ」
「えっ!? 良いんですか!? あっ、でも……その眼鏡とか二つもないんじゃ……? それのその筒は咥える訳だし……」
「良いよ、交替で使えば。海水で洗えば大丈夫だよ。あっ、美月さんが嫌なら、無理にとは言わないけど……」
「いえいえ、気にしませんよ〜一つのケーキを分け合ってる仲じゃないですか?」
美月が慌てて首を左右に振ってみせれば、凪歩も思わず笑みを浮かべる。パッと女同士の友情が花開いた瞬間だ。
が、その隣で、良夜がぽつり。
「……海の家の売店で売ってたよ? シュノーケルの付いた水中眼鏡」
と言えば、どちらからともなく、女二人は顔をつきあわせ、ボソボソ……
「なんでも買えば済むと思ってるんだね、浅間くんって」
「ブルジョアさんですから、仕方ないですよ……さすが、家にクラウン他二台も車を持ってる方は違いますよ」
「あっ、アルトちゃんもそうだって言ってるよ」
ボソボソと囁き合い、チラチラと良夜に視線を投げる。それに良夜がそっぽを向けば、女二人は同時に声を上げて笑ってみせる。
「絶対、この三家族の中で、俺ンちが一番庶民だと思うけどなぁ……」
憮然とした表情で良夜が言うも、それは凪歩と美月を余計に笑わせるだけ。ケラケラと笑う二人の後を良夜がトボトボとついて歩く。そして、三人は波打ち際へ……本当ならビーチパラソルも立てて、その下にはレジャーシートも敷いて、その上にはお弁当を広げて、と言う予定だったのだが、それらの予定は全てマルッと明日に順延。
「まあ、おかげで三人とも一度に泳げるけどな、荷物番、いらないし」
水に足を入れながら良夜が言うと、凪歩も「そうだね」と小さく首肯して見せた。とは言え、やっぱり、海岸でお弁当と言うのは捨てがたい。
腰まで水に浸かる辺りに足を止める。美月はトートバッグから取り出した水中眼鏡を掛けて、彼女が尋ねた。
「明日は交替で荷物番ですよねぇ……あっ、これ、こんな感じで良いですか?」
それは凪歩が少しだけ髪が眼鏡の中に噛み込んでいるのを直してあげれば、だいたい、ばっちり。後はシュノーケルを咥えさせたら、後は泳ぐだけ……と、言いながら、凪歩は泳ぐに邪魔な眼鏡を外し、トートバッグの中に片付け込む。すると、教えられていた美月が凪歩の顔を見上げて、目を数回ぱちくり。
「へぇ……凪歩さんが眼鏡外すと、そんな感じなんですね……」
「うっ、うん、別に変わらないと思うけど……」
ぼやぁ〜とした視界。凪歩は近眼の上に乱視も患っているので、眼鏡を外すと途端に目の前が歪んでしまう。目の前に立っている人が誰なのか? 位は解るが、その誰かがどんな表情をしているのかは、少し離れるとすぐに解らなくなるほどだ。
「アルトが、顔つきが怖いって言ってるよ」
「あっ、うん。見えないから目つきが悪くなるんだよね……って、まあ、良いじゃん、始めよ」
手にしていたトートバッグを良夜に預け、凪歩は美月の手を握る。そして、そのまま、彼女を少し深い所にまで連れていく。だいたい、凪歩の身長で首の少し上くらい。そうなると、凪歩よりも若干背の低い美月だと、油断すると鼻くらいまで波の下に沈んでしまう位の深さになる。
「私が両手持ってるから、顔を付けて、力を抜いてね。バタ足はしないで良いよ」
力を抜いて体をまっすぐにすれば、人間という生き物は体が浮くように出来ている……のだが、まあ、いきなりそれが出来ればかなづちと呼ばれる人は居ない。
「あぶっ!? ひっ!? たっ、たす、たすけっ!!」
足の力を抜いた途端にザブン! シュノーケルの長さ以上に沈んでしまえば、そこから入ってくるのは空気じゃなくて、水だ。潮水を力一杯吸い込んでしまった美月は、噎せるは、溺れるは……半ば以上パニックになってジタバタ暴れた挙げ句に――
「ちょっ!? しっ、しがみついちゃダメだって!! ひゃっん!」
凪歩の体にまでしがみつく始末。
「ちょっ、美月さん!? 時任さんにしがみついちゃダメだって!!」
足が付く所だし……と高をくくっていた良夜もこれには目を剥き、助けに入る……も!
「美月さん、それ、パンツ! 海パン! 海パンだから!!!」
文字通り藁をも掴む美月に海パンを引っ張られ、(社会的な意味合いで)命の危機。しかも、美月本人はと言えば、凪歩の背中に乗っかってるから、そのお口は波の上。薄っぺらい胸に一杯の酸素を取り込んで元気一杯だ。元気一杯で暴れ回るのだから、始末に負えない。
「助けて〜〜溺れちゃいます〜〜〜」
しかも、凪歩の背に乗っかった美月が大声でこんな事を叫んでる様は、どう見ても馬鹿な若者が遊んでいるようにしか見えない光景。だーれも本気で助けてくれやしない。それどころか、笑ってみている始末。
結局、一緒に……と言うか、むしろ、率先して溺れかけた凪歩ごと、良夜が浅瀬にまで美月を連れ帰り、落ち着いたのは、それからたっぷり二十分が過ぎた頃の事だった。
「ふわぁ……しっ、死ぬかと思いました……」
のんきにため息を突く隣で良夜と凪歩はすでに疲労困憊。死にそうになったのはこっちの方だ……浅瀬に座り込んで美月を眺める男女二人の心が一つになる。
「……後、アルト、お前、とっとと逃げ出しやがって……」
凪歩の隣にペタンと足を投げ出した良夜が、斜め上、上空を見上げる。その視線を凪歩が追いかけて見ても、そこに見えるのは天空高くにまでそびえ立つ入道雲が一つきり。
「お前……マジで最悪だよな……」
青年が見えない妖精と何を話しているのかは解らないが、力なくうなだれる姿を見れば、決していい話をしていないことだけは明白。その話を聞く気にもなれず、凪歩はゴロンと波打ち際、海と陸との境に寝転がった。白い砂浜を洗う波が、頬にまで登り、そして、引いていく。その心地よい波に、いつの間にかほどけていた髪が広がっていくのを、凪歩は目を閉じて感じた。
「はぁ……疲れた……」
目を閉じたまま、小さな声で呟く。とんでもない目に会ったとは思うが、それでも嫌な疲労感ではなかった。思えば、こんな風に騒いだのは高校を卒業して以来かもしれない。
その言葉が空に消え行くのとほぼ同時、トンと額に小さくもはっきりした衝撃。まるでつつかれたような感触に凪歩は片目だけをうっすらと開く。
「……あっ……」
背には砂浜、髪を揺らす波、開かれた瞳の先には空、眩しい太陽の光を受けて、キラキラと輝く金色の髪といたずらに微笑む瞳の少女。彼女は一瞬、目を大きく見開いたかと思うと、底抜けに意地の悪そうな顔で微笑んだ。
「……!」
とっさに右手が伸びた。しかし、その指先が触れたのは妖精の金糸のような髪ではなく、美月の右手、結構荒れている手だが、本人曰く、凪歩や翼が入ってからは随分とマシになったらしい。
「えへへ……」
「もう、美月さん、笑って誤魔化すの、止めなよ……」
屈託のない笑みに毒気を抜かれた気分。それと同時に、頭の上に妖精の気配こそ感じるが、その姿が見えなくなった。美月に気を取られなければもうちょっと見てられたのかも、と思う。しかし、凪歩はまあ、良いか……と口の中だけで呟き、引っ張り上げる手に合わせて、凪歩は体を起こそうとする。
「「よっこいっしょ」」
おばさん臭い言葉が凪歩と美月、二人同時に漏らす。
そして、凪歩は体に付いた砂粒を手で払い落としながら、美月の方へと視線を向けた。
「ごめんなさいは?」
「はい、ごめんなさい」
言えば美月はぺこりと頭を下げる。しかし、上げた顔には屈託のない笑み、罪悪感を全く感じさせない笑みに力が抜ける。
「得な性格してるよね……美月さんって」
「そうですか?」
「そうだよ……」
きょとんとした表情を見せ、美月は小首をかしげてみせる。まったく……と、小さく呟き、大きく背伸び。疲れた肺腑に一杯の空気が自然と流れ込み、満たしていくのを実感出来た。
「とりあえず、やっぱ、浮き輪、借りてくるよ」
その隣、良夜は独力で立ち上がるときびすを返して、海の家へと向かっていく。
「あっ、お金は?」
「良いよ、それくらい!」
美月が尋ねると良夜は歩みも止めず、振り返りもせず、大きめの声で答える。
「おっ、やっぱり、ブルジョアさんは違いますね」
「そだね、労働者の敵だよね」
「良い所のボンボンなのよ。家、マンションだもの」
顔をひっつけ会わせて美月と凪歩、そして――
「ふえっ?」
「あれっ……?」
美月と凪歩の顔がふっと上がって、辺りをキョロキョロ。しかし、互いに何も見えないことを確認しあうと、二人は声を上げて笑いあい、そして、叫んだ。
「やっぱり、良夜さんが一番のブルジョアだって――」
「アルトちゃんも言ってるよ!!」
その声が高く澄んだ空へと消えていく。そして、凪歩はもう一発叫んだ。
「うん、来て良かった!!」