三度目の海、初めての海(9)
 そして、四日目木曜日。十三時四十五分着の高速艇からどやどやと大量の人が下りてくる。さすがシーズン真っ盛りと言うだけあって小さな島を訪れる人々も多い。そんな人々を良夜は少し離れたところに止めた車にもたれて、ぼんやりと眺めていた。
「これだけ多いと美月と凪歩を見つけるのも大変ね……」
「あっちも探してくれてると思うけど……電話した方が早いかな?」
 頭の上からアルトが顔を覗き込む。天地逆さま、真下に流れ落ちる長い金髪が潮風に吹かれる。それを手で払うマネをすると、アルトは大人しく頭の上に戻った。
 ちょこんと頭の上に座り込むアルト、お尻を数回動かして座り心地良いポジション――一つの頭にも座り心地が良い所と悪い所があるらしい――を探す。人の頭に尻をこすりつけるな、と思うが言っても聞かないので諦め気味。
 頭の上に一度だけ視線を投げかけるも、死角にいるアルトは見えずじまい。見えた所で言う事も特にないので、代わりに軽く息だけを吐いて青年はポケットに手を突っ込んだ。ブルージーンズのポケットの中に硬い感触、携帯電話。それを取り出すとパカッと開いて中から美月の電話番号を――
「あっ、居たわよ」
 呼び出すよりも早く頭の上からアルトの声。つられて顔を上げてもすぐには見つけられない。
「こっち!」
 髪をぐいと引っ張り良夜の視線を少し右へ。髪の引っ張られる方向に視線を向ければ、大きな荷物をぶら下げた女性が二人、人混みからわずかに離れた処でキョロキョロしているのが見えた。
「おっ……良く見つけられたなぁ……」
「目は良いのよ、前にも言ったでしょ?」
 頭の上からアルトが良夜の顔を覗き込む。目の前に揺れるのは美しくも目障りな金糸の髪と彼女の誇らしそうな表情。それを鬱陶しそうな手つきで良夜が払いのけると、アルトは再び、彼の頭の上にちょこんと座り直した。
 そんな事も言ってたかな? と随分前になる話をうすらぼんやりと青年は思い出す。そして、彼はパカッと開いていた携帯電話を畳んで、ポケットの中にねじ込みながら、足を彼女らの方へ向けた。
「おーい、美月さーん、時任さーん」
 大きな声と共に手を振る。それに最初に気付いたのは、凪歩の方だった。大きな眼鏡越しに大きな目をこちらに向ければ、良夜と視線が交わった。直後、彼女は美月の方へと向き直ると彼女に声を掛け、二言三言言葉を交わしたようだ。その会話までは良夜には聞こえなかったが、すぐに二人がこちらを向き、大きな声で言った言葉は良く聞こえた。
「りょーやさーん!!」
「あさまさーん」
 美月と凪歩の声に思わず良夜の足が止まる。
「あら、女が二人も貴方を呼んでるわよ? 大学三年目の夏にしてモテ期かしらね?」
「うっせぇ」
 頭上から降り注ぐ嘲笑混じりの声に吐き捨てるように答えて、青年は止めた足を再び動かし始めた。必要な時間はだいたい三十秒くらい。眩しい日差しの中、互いに歩み寄れば大声を出さずとも会話が成り立つ距離にまで近付いた。
「こんにちは、良夜さん」
「お久しぶり」
 美月と凪歩が揃って頭を下げると、少し気恥ずかしい物を感じながら良夜もぺこっと頭を下げた。
「あっ、そう言えば、三日会わなかったんですよねぇ……でも、毎晩電話してたから、そう言う気がしませんね?」
「言われてみればそうかも……――車、こっち」
 凪歩の言葉に美月が良夜に向けてクスッと微笑む。その微笑みを受ける頬が少し暑くなるのを感じつつ、青年は車を駐めている方を指さした。炎天下の下の立ち話を好む者などどこも居らず、三人――アルトを含めて四人は会話を続けながら、車の方へと足を進めた。
「時任さんとは久し振りって気がするかな……ああ、そう言えば、時任さんの私服って初めて?」
 車内に乗り込む直前、凪歩がいつもの喫茶アルトの臙脂色をした制服ではなく、黒いタンクトップの上にダボットした柄物Tシャツ、サスペンダー付きのキュロットスカートという姿であることに良夜は気付いた。その出で立ちは見慣れたズボン姿と大きく違っていて、ちょっと可愛い。
 なお、アルトが頭の上で「おそ……」とか言ってるのはとりあえずスルー。
 すると後部座席へと繋がるスライドドアに掛けていた凪歩の手が止まった。そして、スーッと首だけが隣、運転席側のドアを開けようとしていた良夜の方へと向いた。
「……二回目。一回目はアルトの面接の時……浅間さんが死にかけてる私をさらっと見捨てていった時も私服だった」
 大きな眼鏡越しに、じとぉ〜とした視線で睨みつけられて思い出すのは、ゼーゼー言いながら喫茶アルト前の国道を上っていた凪歩の姿だ。そう言えば、あの時も私服だったはずだよな……と思いだしてみても、彼女がどんな服を着てたかなんてさっぱり思い出せない……が、もうちょっとだけ努力してみた。
「……ら、なんかアルトの制服姿の凪歩を思い出している良夜であった……まる」
 血を吐くほどに悔しいが、頭上のアルトの言葉は概ね正解だった。
「ほら、あの時は見知らぬただの女性だったからさ、仕方ないじゃん?」
「……そりゃぁ、そーだけどぉ……なんか……ムッとした……浅間さん、モテナイでしょ?」
 良夜の言い訳に納得したともしてないとも言えない、何とも言いがたくも、決定的に先ほどよりかは気分を害しているなと言うことだけは解る表情を見せ、凪歩はツーンとそっぽを向ける。そのまま、少し乱暴にスライドドアを開くと後部座席の硬いシートにどっかと腰を下ろした。
「大きなお世話だよ」
 その凪歩にひと言だけ言い置いて、視線を車内、そこを貫通させて助手席のドアを開いている美月へと良夜は向けた。
「…………」
 向けた視線が半目になってる美月の視線と絡まる。
「えっ……えっとぉ……」
 無言の圧力に胸の辺りが痛い。
「……何が悪いって、怒ってる理由に気付いてない所が一番悪い」
「……まあ、知ってて付き合ってるんですけどねぇ……」
 頭の上でアルトがひと言、それとほぼ同時に美月の睨んでいた目から力が抜けるというか、脱力し、唇からは「はぁ……」と溜め息が零れる。
「アルト、おいで」
 そして、彼女はシートベルトをキュッと締めると、良夜の頭の上に座っていた妖精を自身の方へと呼び寄せた。
「はぁい」
 気持ち良い返事を一発、頭上から飛び上がれば着地をするのは美月の少し膨らんだ袖が可愛い肩口。
 と、直後――
「あっ……ああ……アレだ……ウンウン、可愛いですよ。その白いブラウス。それに白いプリーツのスカートも。よく似合って――」
 慌てて良夜が褒め言葉を並べれば、女性三人が口をそろえていった。
「「「おっそい!」」」

 てな感じで始まった後半組の海研修(建前)。電車と高速艇の乗り継ぎの兼ね合いでお昼を食べ損ねた美月達のため、まずはコンビニでいくらかの食料の買い込み。大量のおにぎりやサンドイッチ、ついでにスィーツなんかをごっそり買い込むと、別荘に帰って久し振りの喫茶アルトオリジナルブレンドのアイスコーヒーと共に頂く。空腹に耐えかねていた美月と凪歩が勢いで買ってしまった食料は、随分と大量に余ったが、これは明日の朝食に、と言う事で一件落着。
「んで、今日はこれからどうするの?」
 迎えに行く前に食事を済ませていたアルトが、同じく食事を済ませていた良夜の頭の上から尋ねる。ちなみにこの二人はコーヒーだけというのは寂しいと言う事で、エクレアを買って食べている真っ最中。少し大きめのシュー生地にたっぷりとカスタードクリームが入ったエクレアは食べ応え満点。苦めのアイスブレンドとも良くあって非常に美味しい。
「俺はどっちでも良いよ。前半組の時、結構泳いだし、明日からも結構およ――」
「あっ、貴方には聞いてないのよ。それより、美月達に伝えなさいよ」
 ぶっ殺してやれるなら、どんなに気持ち良いだろう……と思いながら、アルトの美月と凪歩に話を伝える。
「今から泳ぎに行っても、余り時間がないよねぇ〜?」
 凪歩がそう言うと、美月も首を縦に振り、結局この日は別荘でダラダラと言う事になった。前半組初日と同じような感じになるのは、結局のところ、移動時間という動かしようのない物があるからだろう、と良夜は感じていた。もっとも、美月のことなのでデリバリーのピザってのはないだろう。
「えっ、ゲーム持って来てるんだ? へぇ……あっ、これ、うちにもあるや……」
 美月と一緒にゲームのディスクが収まった袋を見ていた凪歩が、一枚のディスクを取り出した。それは随分前に発売されたシューティングゲームだが、この間美月が部屋で見つけ、以来、練習している物だ。
「うち、洋<よう>にいがシューターなんだよねぇ……未だにブラウン管のテレビが三台もあったりするし……家に」
「ふえ? シューターって?」
「シューティングゲームが好きなゲーマーのことだよ。そー言えば、美月さんもシューティング好きだし、シューターみたいなもんかなぁ……」
 美月の問いに答えながら、凪歩が手渡す入れ物からディスクを取りだし、本体にセット。電源を入れればぺろんと小さな音がして、すぐにオープニングが始まった。
 ちなみに美月はシューティングが一番好きだ。RPGやらアドベンチャーゲームなんかも良くやっているが、道に迷って同じところをぐるぐる回り続けてたり、細切れにプレイする関係で最初の頃の伏線を最後の頃には忘れてたりするので、単純なシューティングが一番という結論に達している。もっとも、美月の場合はシューティングが好きと言うよりもシューティングぐらいしか出来ない人なので、シューターとはちょっと違う。
 と、そんな感じの話をしながら適当にゲームで時間を潰す。
「凪歩、下手だったわねぇ……美月よりかはマシだけど」
「……兄がシューターってだけで私はパズルとかしかしないもん」
 ぷーと不機嫌そうに凪歩の頬が膨れるのは、良夜相手にトリプルスコアー、アルトにダブルスコアーで負けてしまったから。その下に美月が半分のスコアーで居るのだが……
「いままでで一番遠くにまで来れました〜」
 などと無邪気に喜んでいらっしゃるのを見ると、負けた気分で一杯になるらしい。良夜にも解らなくもない。
 気分的には最下位な凪歩が落ち物パズルでリベンジ、やり混んでるはずの良夜すら歯牙にも掛けない完璧な腕前を披露。ついで、くじ運だけはなぜか有り余っている美月が双六ゲームで圧勝を決めて……と、それぞれがそれぞれの得意分野で花を持つ結果。
「私は一番になってないわよ」
「お前はどれもそこそこのスコアだったよな」
 どれも二位とか三位とか、一番にもなれなければドベまで落ちることもないアルトだけは、少々不完全燃焼気味。ちなみに良夜は双六で思いっきりビリッケツだった。どうやら、彼にはくじ運がないらしい。
「美月と付き合ってる時点で全ての運を使い果たしたのよ」
 なんて事をアルトが言っているが、悔しいので無視する。
 そんな感じのゲーム大会は夕方少し前に一旦お開き。
 夕食は良夜が近所のスーパーで買い出してきた食材を、美月と凪歩の二人が調理した物。メニューはちょっと焦げた肉じゃが(凪歩担当)と良い出来の豚汁(美月担当)、パック詰めの漬け物に炊きたてのご飯。メニュー立案は毎日毎日イタリアン中心の料理を作ってる美月さん。外に出た時くらいはコテコテの和食が欲しくなるらしい。それも寿司だの刺身だのというのではなく、日本の家庭料理が欲しいそうだ。
「アレ……ビールは……?」
「ねーよ、ウワバミ女」
 凪歩だけはアルコールがないことを不満に思ったようだが、他の三人には概ね好評。肉じゃがは少し香ばし過ぎたけど美味しいし、具だくさんの豚汁はこの時期には少々熱い気もしたがやっぱり美味しかった。
 そして、夕食が終わったらまたゲームをやったり、テレビを見たり……笑い声の絶えない一日はあっという間に終わった。
「ふぅ……久し振りにやりこんだなぁ……」
 パジャマ代わりのトレーナーの上下に着替え、青年はグッタリとベッドの上に寝転がった。アルトと二人きりだった昨日の翌日がこれで少々疲れ気味。思ったほど気を遣った訳でもないのだが、やはり、周りが女性ばかりというのは自他共に認める小市民には少々居心地が悪い。
「直樹一人でも大分違うんだなぁ……」
 枕に顔を埋めたまま、青年は呟く。
 楽しくないと言えば勿論嘘になる。それも結構な大嘘だ。しかし、やっぱり、気を遣ってしまうのは彼が小市民だからだろう。明日は海で泳ぐわけだし、水着にもなるわけだし、こんなので大丈夫かなぁ〜とか思ったりするけど、それでもやっぱり、女性陣の水着姿は楽しみになってたりして……
 コンコン……
 そんな何とも複雑な心境のところに、小さなノックの音が二つ、三つ……顔を枕から半分ほど上げて「開いてるよ〜」と間延びした声で答えると、入ってきたのは美月……と、その頭の上にアルトちゃん。
「こんばんは〜」
「お邪魔するわよ?」
 ひょこっと顔を出した美月は去年も着ていたピンク色の生地にデフォルメされた妖精がいくつもプリントされたパジャマ姿。先ほど、お風呂に入るとか言ってたので、湯上がりという奴だろう。長い髪をアップにまとめているのが少し珍しくて可愛い。
「あれ、どったの?」
 体を起こして、美月を改めて迎え入れる。そして、ベッドの端っこに腰を下ろすと美月はその隣に座り込んだ。
「ちょっと近いわよ」
「いちいち、うるさいな……小姑」
「誰が小姑よ!? だいたい、風呂上がりにベッドの上とか、暴走しない方が……」
 まくし立てていた言葉がぴたりと止まり、睨みつけていた目元から力が抜ける。そして、きょとんとした表情で彼女は言った。
「――しないの?」
「……して欲しいのか、して欲しくないのか、はっきりしろよな……」
 そんな妖精の仕草を見て、良夜は軽く溜め息を漏らす。パジャマ姿は余り見たこともないが、裸に近い格好も見たことがあるし、第一、頭の上に気付け薬の極みみたいなのを乗せて、ニコニコしてる女性相手――
「どうかした? ニコニコして……面白い?」
「いえ、やっぱり、久し振りだなぁ〜と思いまして。良夜さんとアルトの喧嘩」
 幸せそうな笑みを浮かべて美月は言うと、良夜とアルトはその美月の顔をマジマジと覗き込む。それでも美月は変わらずニコニコしっぱなし。なんとなく、毒気を抜かれたような気分。
「毎日電話もしてくれてましたし、電話でアルトのお話も聞いてましたから、お二人に会うのは久し振りって気はしないんですけどねぇ〜」
 美月は一旦言葉を切ると、そっと自身の右手を良夜の右手に重ねた。そして、左手は頭上、そっと手をやればアルトは自ら彼女の指先に頬を寄せる。美月はしばらくの間、二つを……まあ、主に左手に触れる物の感触を楽しんだ。
「やっぱり、電話だけじゃダメですよねぇ〜笑ったり、お話ししたり、良夜さんとアルトの漫才見たりしなきゃ、物足りないですよ……パルメザンチーズの掛かってないミートソースパスタくらい」
「……微妙なのね……」
「……タバスコのないマルゲリータ?」
「……不必要な方に振れたわよ」
「私、タバスコがある方が良いんですけど……」
「タバスコ、一滴でも私にはかなりクるのよ?」
 等という下らない漫才をやっているのは美月の方だ。良夜はその間に立って、通訳を続けた。そんな時間が二十分少々。会話の内容が、『カレーには福神漬けか、らっきょうか』と言う所をフラフラし始め、良夜が『どーでも良いがな……』と思い始めた頃……
「うーーーーーーーーん、たっぷり、話しちゃいましたし、そろそろ、凪歩さんもお風呂から出る頃ですかねぇ〜?」
 美月は大きな背伸びを一発、長く座っていたせいで固まっている関節を鳴らすように立ち上がった。そして、頭の上に手をやり、ひょいと――
「痛い、痛い、痛い!!!」
「そこ、頭、頭、頭だから!」
 つまみ上げたのは、アルトの頭。耳の辺りを人差し指と親指で摘めば、アルトは美月の指を掴んでジタバタと暴れる。
「あっ……えっと……なんか、離すと逃げられそうなので、このまま……」
「逃げない、逃げないから! 痛いって、ホント、輪っかに締め上げられる孫悟空じゃないのよ!」
 アルトの悲痛な叫び声とこの世の終わりかと思うほどに暴れている姿は、良夜によって美月にも伝えられている。しかし、彼女は意に介さず、明るい笑顔で言い切った。
「ともかく、しばらく、目を閉じててくださいね?」
「閉じる、閉じる、閉じるから、離してっ! って、美月に伝えてぇぇぇぇ!!!」
 美月が言うと、アルトはよっぽど苦しいのか首を何度も上下に……振っているつもりなのだろうが、その首は固定されているので振ることは出来ず、代わりに首から下がぴょこんぴょこんと首を支点に上下に動く。なんか、気持ち悪い絵面だ。
 その気持ち悪い絵面と台詞を良夜が説明すると、された美月はベッドのヘッドボードへと手を伸ばした。そして、ヘッドボードの上でアルトの顔を摘んでいた指から力を抜く。
「ふぅ……死ぬかと思ったわ……」
 頭をブンブン、大きく数回振ったら、ボードの端っこにちょこんと腰を下ろす。どうやら、約束を守るつもりはあるらしく、彼女はギュッと硬く目を閉じた。
 そして、美月は良夜の体にぴたっと密着するように座り直す。
「……ときどき、大胆だよね?」
「えへへ、アルトの前ですからねぇ〜良夜さんからは無理かと思いまして〜」
 笑顔で恋人が漏らした台詞は否定したいがしきれない代物。それに苦笑いだけで答えると、青年はそっと恋人の肩に腕を回した。その仕草を受け入れ、彼女も良夜の胸元へ頭を寄せる。少しだけ高い所から見る美月の顔は、いつもよりも少し大人びているような気がして、良夜はまっすぐに見詰めるのが恥ずかしいような、それでいてその大人びた横顔をいつまでも見ていたいような……そんな気分になっていた。
 しかし、良夜の幸せな時間という物は長く続かないように出来ていた、この世界は。
「そろそろ、”しばらく”は終わりにしても良いかしら?」
 アルトの片目がぱちりと開く。金色に光る左目がじーっと良夜を見詰めること、きっちり三秒。
「まあ……あと三十秒は許そうかしら?」
 と言って、ぱちりと目を閉じた。
(びっ、微妙な時間を指定しやがって……!)
 愛を囁く……覚悟を決めるためには短く、黙ってキスするだけなら余ってしまう微妙な時間、そして……
「良夜さんの……悪い所は沢山思い付くんですけどねぇ〜服とかよく見てないとか……」
「……自覚はあるよ……あっ、このパジャマ…………」
 昼間、再開した時のミスを埋めようと彼女の寝間着に視線を落としてみた物の、二頭身の妖精が乱舞するパジャマって……
「……どうかと思うよ、これ……」
「……良いじゃないですか……好きで着てるんですから」
「あはは、うん。でも、似合ってる」
「……今更言われても……」
 頬を膨らませる美月からは、先ほど感じられた大人びた様子は消えていた。代わりにいつも通りの、年齢にそぐわない子供っぽさが彼女の表情に浮かび上がっていた。いつも通りの美月……だから、と言う訳でもないのだが、良夜は美月の肩を抱いていた手にほんの少しだけ、余分に力を加えた。
「んっ……」
 それに美月は素直に反応する。ほんの少しだけ強張る体、閉じられる瞳、そうするとやっぱり、美月はいつもよりもほんの少し大人びて見える。もしかしたら、それは色気という奴なのかも知れない。
「美月さん……」
「はい……」
 今更引くにも引けず、良夜はそっと彼女の唇に自身の唇を重ね合わせた。甘い香りが鼻腔をくすぐる。それは多分シャンプーの香り。先ほど、良夜自信も同じシャンプーを使ったからよく解る。しかし、それは自身の頭から匂っている物とは大違い。理性を溶かすというか、男の本能をくすぐるというか……
 いつもよりも深い口づけ……半開きになった唇から互いの吐息と体液が流れ込んでくる。何度も啄むように口づけを繰り返していく内、”アレ”の存在を忘れた所で誰が責められよう?
 唇を重ねたまま、彼女の背中に回した手がゆっくりと下へと下りていく。それに美月はぴくっとわずかに体を硬くしただけ。細く、そして少し荒れがちな指先が恋人の背中にギュッ食い込むのを青年は感じ、そして――
「アレから四十五秒くらいは閉じてたかしらね?」
 妖精と目が合った。
 青年は固まった。
 恋人とキスをしたまま。彼女のお尻の方へと手を下ろしたまま。
「ほぉほぉ、随分とおさかんなことで……」
 世界最強(良夜的には)の気付け薬は、金色の瞳を細くし、地の底から響くような声でゆっくりと言葉を紡ぐ。その声に良夜の血の気がざーっと音を立てて引いていくような、カーッと頬が熱くなるような……上がったり下がったり、血の巡りがやけに良くなる。
 そして、その変化は美月にも伝わったようだ。
 先ほどまでぎゅーっとしがみついていた手と指先から力が抜け、唇同士が離れる。そして、彼女の大きな瞳が良夜を見上げると、青年の自分ではない別の物を見ている視線を追いかけて……ぴたりと止まる。その視線が止まった位置がアルトの顔であることを理解したのは、良夜だけ。
 そのまま、十五秒。誰もが動けぬ十五秒が過ぎ去った。
 すると、美月はすっくと立ち上がった。
「さて、お部屋に帰りますねー」
 棒読みだった。
「アルトも帰りますよー」
 やっぱり棒読みだった。
「あっ、あの……美月――」
「大丈夫ですよ〜良夜さんには怒ってませんから」
 美月の棒読みじゃない台詞、良夜は久し振りに聞いたような気がした。そして、その言葉の余韻が消えるよりも早く、美月の右手がうなりを上げた。
「ふぎゃっ!?」
 彼女の右手が掴んだのは、アルトの顔だった。上手い具合に首から上だけがすっぽりと美月の手のひらに収まる。
「くるっ、くるしいっ! 苦しいってっ!!」
 手の中から籠もった声、勿論、美月には気付いて貰えないし、良夜の脳みそは絶賛フリーズ中。
「あっ……みっ、美月さん?」
「ホント、良夜さんには、怒ってませんからっ!」
 しかし、その顔は誰かに怒っているとか居ないとか言うよりも、世界中の全てに対して怒っているような……あと、ジタバタしていたアルトの体が動かなくなったような……
「さあ、アルト、寝ますよ。明日からたっぷり泳ぐんですから、十分に寝てないと、明日が辛いですよ?」
 大股で歩くと、両手が大きく振れて、手に握られている妖精の体がブラブラと上下に揺れる。
「あっ、美月さん! あっ、アルト、死ぬよ、そんな持ち方したら!」
 立ち去る背中に大声を掛けては見たが、美月の返事は――
「おやすみなさーい!!」
 普段よりもちょっと早口な夜のご挨拶。パタンとドアが閉められれば、聞こえてくるのは遠くの潮騒だけ……
「……まあ……良いか……生きてるだろう……死んでても良いし……」
 色々邪魔された青年に、アルトに対する優しさは残っていなかった。
 ポフッとベッドに横になって、薄手の肌布団を掛ける。頭上ではまだ蛍光灯が煌々と明かりを振りまいていたが、なんか、もう、電気を消しに行くのもかったるかったので、今夜はそのまま眠ることにした……が、眠れなかったので、二時間後、結局、消しに行くハメになった。
 消したからと言って、ぐっすり眠れたわけでもないというか、その夜は全く眠れなかった。

 のは、美月も同じ。
「うう……やっ、やり過ぎちゃいました……はぅ……」

 んで、アルトも同じ。
「……首……首が痛くて……」

 良く眠れたのは一人蚊帳の外だった凪歩さんだけでしたとさ。
「あれ? なんで、みんな、死んでるの?」

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