三度目の海、初めての海(7)
 三日目は事実上、前半の最終日だ。一応、タカミーズや翼は今夜もこちらに泊まるが、明日は朝食を食べればすぐに帰る予定。それも朝一番のフェリーに乗る予定なので、明日はないも同然。だから、今日が最終日と言う訳だ。
 この日を貴美は『焼く日』と決めて居た。勿論、肉とか魚とかではなく肌を、だ。まあ、言うまでもない。なので、彼女はころんとレジャーシートの上に寝転がり、恋人にオイルを背中に塗らせていた。
「ちゃんと塗るんよ? 背中がまだら焼けになったらなおのせいだかんね?」
「はいはい」
 ぺたぺたと直樹は貴美の背中にオイルを塗っていく。その塗られている背中はやけに白くて、傷一つ、シミ一つなくて……良夜にはやけに艶めかしく感じた。が、それ以上にそう言う背中に平然とというか、むしろ面倒臭そうにオイルを塗っていく直樹を純粋に凄いと思った。
「……童貞と非童貞の差ね、悲しいまでの……」
 そう言って頭の上に座っていた妖精が青年の顔を覗き込む。底意地悪そうなと言うか、小馬鹿にしているというか……見てるだけで向かっ腹の立つ顔を指先で払いのけると、彼はもう一人の女性の方へと視線を向けた。
「うるさいよ、馬鹿妖精――それで寺谷さんはどうするの?」
「ん?」
 そう言いながら視線を向けてみれば、翼も腕や脚にぺたぺたとサンオイルを塗ってる真っ最中。
「ああ……寺谷さんも焼くんだ? 泳がないの?」
「……んっ、腕の所……土方焼けになってる、から……」
 小さく首肯する翼の体を改めてみてみると、確かに彼女の二の腕の中頃から上はほんのりと色が白くなっている……ような気がする。元々、色が黒いからよく解らないが、どうやら毎朝の自転車通勤できっちり焼けてしまったらしい。
「……浅間君にじろじろ見られたって……チーフに言う」
「……悪かった」
 バツが悪そうにそっぽを向いて、ほっぺをポリポリ。頭の上で妖精が「むっつり」とか言ってるが、それに関しては無視を決め込む。
 そして、翼は腕と足にオイルを塗りおえると、いよいよ背中な訳だが、背中全面を一人で濡れるはずもない。肩から回してみたり、腰のほうから伸ばしてみたりするも、その涙ぐましい努力が役に立っているとは思えなかった。
「りょーやんに塗って貰ったら?」
 四苦八苦な翼の状況に貴美がウィンクとともにちゃかした口調で言えば、翼は手にしたボトルにチラリと視線を落とした……かと思うと、それをトンとレジャーシートの上に置いて、ごろん。顎を手のひらの上に置いてうつぶせ寝になった。
「潔いわね」
 その姿を見て呟いたのは、頭の上のアルトだ。別に塗りたいとか”余り”思ってないけど、ここまではっきりとした態度を示されると釈然としない気分で一杯。
「潔いのは良いけど、背中、まだらになんよ」
「……良い」
「……もう、塗ったげっから、こっち、来<き>ぃ」
 貴美に呼ばれると翼はのろのろと体を起こして、彼女の方へと近付いた。そして、貴美に背を向ければ、貴美も体を起こして翼の少し浅黒い背中にぺたぺたとオイルを塗り始める。
 それを良夜は見るともなしに見ていたが、見ていても何か始まるわけで無し、何より、
「スケベ、変態、ロリコン」
「……あの二人見ててロリコンって罵倒はどうかと思うぞ……」
 頭の上からアルトにあることないこと罵倒されるので面白くないったら、ありゃしない。
「んじゃ、俺、泳いでくるよ。直樹とアルトはどうする?」
 良夜が二人に声を掛けると、直樹はチラリと貴美の方へと顔を向けた。
「いっといでよ。荷物はつばさんと私で見とるから」
 そう言って貴美はオイルを塗りおえた翼の背中をペチン! 体を震わせ、背後を振り向く翼に彼女は「終わり」と悪びれない笑顔で言ってのける。そんな貴美と翼のやりとりに、直樹と良夜、それにアルトも小さな笑みを浮かべた。
「じゃあ、私もこっちに残るわ。女同士の会話って奴ね」
「……お前、出来ないじゃん」
「うるさいわね、気分よ、気分。とっとと行って来なさい。私が居ないからって、知らない女の水着とか見てちゃダメよ」
 良夜の頭の上からひらりと舞い降り、妖精はクーラーボックスの上にトンと舞い降りた。そして、しっしっと手を振り、アルトは良夜を追い払う仕草をしてみせる。その仕草と言葉を周りのメンツに伝え、青年は軽く肩をすくめて見せた。
「そうそう、なおも他の女の胸とか見てたら、殺すかんね?」
「ハイハイ。見ませんよ。じゃあ、行ってきます。何かあったら呼んでくださいね」
 アルトの言いぐさを受けて貴美も言えば、直樹は苦笑い。そして、二人は肩を並べて海水浴客で賑わう波打ち際へ……海水の冷たさを味わう老若男女に紛れ込んでいった。

 そんな彼らを見送り、アルトはクーラーボックスの上で大きく背伸び。彼女のいるクーラーボックスはビーチパラソルの真下にある。UVカットのビーチパラソルのおかげで直射日光は穏やかで日焼け止めクリームを塗った肌にほどよく気持ちよい。
 そして、翼と貴美は二人仲良く、直射日光の下に背中を晒している真っ最中。
 ここで問題。
 ボディタッチで意志疎通を図るアルトには、当然ではあるが、手の届く範囲に対象者を捉えている必要がある。が、肌が余り強くないアルトは日焼け止めクリームを塗ってビーチパラソルの下。日に焼きたい貴美と翼はサンオイルを塗って直射日光の下。両者の間には深い溝と言うか、光り輝く壁があった。
「……背中、真っ赤になって泣くハメになるのよねぇ……」
 ビーチパラソル越しの空を見上げて、ため息一つ。いくら日焼け止めクリームを塗っているとは言え、直射日光に当たってたら辛いことになるだろうなぁ……妖精はビーチパラソル越しに空を見上げて思った。とは言え、こちらに残ってた所で面白いわけで無し……
「まあ……仕方ないわね」
 独り言を呟いて、トンとクーラーボックスから飛び上がる。ビーチパラソルが投げかける薄い影から出れば、即座に眩しい盛夏の太陽が網膜を焼く。妖精はその日の光に目を細めながら、着地したのは翼の浅黒い背中の上。
「よっとっ……」
 勢いよく行ったのが悪かったようだ。彼女は足をオイルと滑らかな翼の背中に取られ、バランスを崩した。たたらを踏んでトンと尻餅。
「きゃっ!」
「ひゃっ!?」
 アルトの声はちょっとした悲鳴。翼の方は悲鳴と言うか……なんか、妙に色っぽい声。まん丸に目を見開いたかと思えば、レジャーシートに突っ伏していた顔を上げて、左右をキョロキョロ。
「どったの?」
 事情を知らない貴美も顔を上げて、翼の顔を覗き込むが、翼とて何が起こったかを把握しているわけではない。
「……なんでも……ない……と、思う……」
 小首をかしげながら、もう一度、ペタンと顔を伏せる。
「……急にエロい声上げたらいかんよ? 男が喜ぶじゃん」
「……んっ……」
 もう一度、翼が目を閉じれば、貴美も顔を突っ伏して目を閉じる。互いに言葉は余り交わさない。昨夜は随分と遅くまで盛り上がっていたから、もしかしたら、二人とも少し眠いのかも知れない、とアルトは察した。
 そんな翼の背中の上で、アルトはシュピッと細い指を翼の背中にこすりつける。
「……ふむ……これはこれは……」
 彼女の背中にはサンオイルがたっぷり。しかも、肌は綺麗ですべすべしている……色黒だけど……と、そんな事を数秒の間考えてみる。そして、うんと小さく頷くと、おもむろにとことことアルトは翼のお尻の方へと上がっていった。
 見下ろす背中に余計な生地はなく、見えているのは細いストラップだけ。これは翼の着ている水着がただのワンピースではなく、正面から見れば(際どい)ワンピース、後ろから見ればビキニという「モノキニ」だからだ。最近流行らしい。こういう流行の水着を翼が着ているのが、アルトには少しだけ意外だった。
 と、なれば……
「前方、一メートル弱に敵影なし。アルトちゃん、よーい」
 両足の裏にたっぷりとサンオイルを塗って、クラウチングスタイル。しかる後に、軽くお尻を持ち上げて……
「どん!」
 大きな声で自ら合図。直後、軽く羽を動かせば、小さな羽が推進力を作り出す。その推進力は翼の背中の滑らかさとも合わさり、アルトの体をシュピーっと一気に弾き出す。傷一つない滑らかな背中、背筋の少し凹んだ所をレールの代わりに、アルトの小さな体が流れていけば――
「ひゃうっ!? あひゃっ! うひぁっ! あはははは!!」
 哀れゲレンデにされた翼さんはアルトの足の下で、ビクビクと体を身もだえし始めるしかない。
「なんよ……つばさん……一人エッチなら別荘に帰ってからやんなよ……しばらく、気を遣うからさ……」
 事情のわからない――もっとも翼が解ってるというわけでもないが――貴美はあきれ顔。体を少し起こして、まるでロデオの馬のように右に左に上に下にと動かす翼を、関わっちゃいけない病気を患っている人を見るような視線を投げかける。
「チッ、ちが……ちが、あひゃっ!?」
 その視線に翼は顔を左右に振るも、背中の上を縦横無尽に滑るアルトのおかげで、翼はまともに喋るなんて事は出来やしない。ただただ、首を左右に大きく振りながら身もだえするばかり。それも限界に達すると、彼女はばん! 跳ね上がるように体を起こした。
 すると、その背中をゲレンデかアイスリンクのように滑っていたアルトちゃんの体はピョン! と宙に投げ出される。投げ出された空中で羽を自在に使って一回転。するりとバランスを取り直すと落ちる先を微調整。目指す先は――
「うひゃっ!?」
 貴美の背中、肩口の辺り。ちょうど、肘を突いて逆エビのように反らしていた貴美の体は、シュプールを刻むには丁度良い角度。肩口に着地を決めると、そのまま、一気に背中を下ってゆく。すると……
「うひゃひゃひゃひゃぁぁぁぁ、ちょっ、だめっ、背中、弱いって!!」
 今度は貴美が間抜けな声を上げる番だった。
 ビキニのブラに足を取られぬように、一発ジャンプ! 腰の少し上に、十点満点の着地を決めたら、そのまま、ショーツの手前まで一気に滑り降りる。その頃になれば、過呼吸で悶絶してる貴美は顔をレジャーシートに突っ伏し、お尻を持ち上げ気味になっていた。
「よっと……ばれたら殺されるかしらねぇ〜っと……」
 そして最後に右のつま先を支点に一回転、くるんとポーズを決めてみせれば、誰も見てる人が居ないのが残念なくらいの決まりっぷり。そして、軽く突き上げ気味のお尻から、今度はつーっと肩に向けて一気に滑り降りる。
「……エロい声はどっち?」
「あひゃっ!? ひっ!! ダメダメダメ、ダメだって! マジダメ!!」
 落ち着いた翼が貴美にさっきのお返しとばかりに冷めた声を投げかければ、貴美は未だに過呼吸になっての悶絶真っ最中。そして――
「あると! あんたっしょ!?」
 貴美の顔を真っ赤にしながらの大声に、アルトの体がビクンッ! と固まる。その反応は自供したも同然。それと同時に貴美の鋭い声がもう一発走った。
「右の肩の辺り!」
 瞬間、翼の細い腕が跳ね上がり、その辺りをガバッ! と両手で掴む。
「ひゃっ!? でっ、出来心だったの!!!」
 等と、叫んだ所で手遅れだった。

「さっきまで……美人二人がレジャーシートの上でレズってたぞ……?」
「マジか?」
「ああ、まあ、いま、見に行ったらぶっ殺されかねない顔で怒鳴られるけど……いやぁ……エロかったなぁ……」
 そんな男二人の会話を聞いたとき、直樹と良夜が顔を見合わせ、「しばらく帰らないで居よう」と言い合ったのは、純然たるただのカンであり、何らかの根拠があったわけではない。

「……見えてないと思うけど、首にヒモはどうかと思うよね……これ、私が飛べなきゃ、締まってるわよ? 死ぬわよ?」
 プランプラン……ビーチパラソルの下で一本の紐が揺れていた。その先端、見えない人には何にも見えないが、見える人――は、只今絶賛海水浴中――には、その先端に小さな妖精がてるてる坊主よろしく、首つりで吊されているのが見えることだろう。もっとも、余りきつくも縛られてないし、アルトには羽があるので自分の体重で締まると言うこともない。しかし、ホバリングはちょっと疲れるので、早めに助けて欲しい所。反省は一応、少しはしているので……
「たっく……えらい恥ずかしい目に会った……」
「……浅間君に文句、言う……」
 そう言って貴美と翼は、ペタンとシートの上に顔を突っ伏させた。
「……もしかして、良夜を私の保護者だと思ってるのかしら……? それはむかつくわね……」
 トンと、一回転、ビーチパラソルの端っこに腰を下ろせば首も絞まらないし、ホバリングもしないで済んでちょっと楽ちん。日差しがきついのが気になるけど、ずっとホバリングをしてるよりかはマシという物だ。
「でも、これで最終日かぁ……明日は起きたらすぐに帰るんよねぇ……」
「んっ……来年も……来たい……」
 貴美の呟きに翼も呟きのような声で答える。
「私は……来年、来れないかなぁ……多分……」
「……就職活動?」
「……うん。このご時世だし……つばさんもしんどかったんっしょ?」
「……んっ……でも、料理の仕事……したかったから……」
「そっか……私、したい仕事とか……ないんよねぇ……」
 顔をレジャーシートの上に着けたまま、貴美はポツリとこぼした。
「……大学は?」
「……なおが行きたいって言ったから……なおが居なかったら、多分、高校卒業した後も黒猫でウェイトレスしてたんじゃないかなぁ……ずっと……」
 貴美は翼の方へと顔を向け、ぼんやりとした口調でそう言った。その表情がアルトのいるビーチパラソルの端っこからは、よく見えないのが少し残念だ。
「……やっぱり、依存、してる……」
「うっさい」
 翼が小さな声で言うと、貴美は長い足を振り上げて翼のふくらはぎを蹴っ飛ばす。それも寝転がったままとはあっては、大した力も入っていなかったようだ。翼は小さな声で「痛い」とだけは言ったが、特にやり返すような様子も、逃げるような素振りも見せはしなかった。
 そして、二人はレジャーシートに顔を埋めて、言葉を一旦区切った。海水浴客で賑わうビーチには少し似合わぬ沈黙が、二人の間に舞い降りる。しかし、その沈黙には不思議と居心地の悪さという物は存在していない。居心地の良い沈黙、その居心地の良さに誘われるかのように、アルトは小さな声で鼻歌を歌い始めた。
「♪〜〜〜――……♪」
 声にもならない程度の小さな声でハミングを口ずさみながら、彼女はビーチパラソルから垂れ下がる足をブラブラさせて、リズムを取る。その足下では貴美と翼は心地良さそうに甲羅干し。時折、声を掛けるナンパ兄ちゃんを手で追い払ったり、無視したり……時には、
「……やっぱさ、サテンにいんだから、フロアでも働いた方が面白いよ?」
「……私は、キッチン……一筋……」
 この程度の実のない会話。
 時間がゆるゆると流れていく。それは、アルトにとっても、強すぎる日差しと首に掛けられたヒモがなければ、心地よい時の流れだった。
「……アルトに残れば?」
 そんな中、不意に翼がポツリと尋ねると、貴美は寝転がっていた体を起こした。
「ふぅ……あっちぃ……」
 答えず、一言だけ漏らして、クーラーボックスから缶ジュースを一本取りだす。よく冷えた缶ジュースのプルタブをパシュッと涼しげな音を立てて、貴美は開く。そこから一息にジュースを飲み干し、「ふぅ……」と大きな息を吐いた。
 その貴美の様子を見ながら、翼も体を起こして、質問を重ねた。
「……大卒でウェイトレスは……イヤ?」
「……今は仕事があるだけでもめっけものの時代っしょ? 別にウェイトレスが嫌なわけじゃないよ。ただねぇ……」
 缶ジュースの上側を手のひらで覆うように彼女は握ると、それをぷらぷらとさせながら、視線を大海原の方へと向けた。それにつられるかのように、見守っていたアルトも視線を海辺と向ける。数多くの海水浴客の中に、見慣れた二人の姿も見えた。腰まで水に浸かって、何かを話している様子だ。勿論、遙か遠くに見える後ろ姿から、何を話しているのかはさっぱり解らない。ただ、良夜が水平線の方を指さし、その指先を直樹が見て何かを言っているような様子だけは、見て取れた。
 それを貴美も見ているのかどうかは、アルトには解らない。人の頭よりも高いビーチパラソルに座っているアルトと、レジャーシートの上に座っている貴美とでは視線も違う。そもそも、人混みに紛れている二人が彼女の位置から見えているかどうかも怪しい物だ。
「……ただねぇ……」
 一旦言葉を切っていた貴美が口を開いた。その言葉に痙られるように下を覗き込めば、貴美が立て膝を付いているのが見えた。その立てた片膝の上に缶ジュースを握った腕を置いて、貴美は海の方へと視線を向けたまま、言葉を選ぶように口籠もった。フラフラとジュースの缶が揺れる……
「……ただ?」
「……ウーン、なんか、言葉、みっかんないや。たださ、最初からアルトに残るつもりでいんのはいかん、思うんよ」
 缶の中に残っていたジュースを一息にあおったかと思うと、貴美はごろんと、今度は仰向けになって寝転がった。見上げる視線がアルトの覗き込む視線と交わる。もっとも、視線が交わったと思っているのはアルトの一方的な感覚に過ぎないのだが……
「……そう……」
 貴美の所作を目で追っていた翼は、小さな声でそう答える。それを貴美はアルトのいる空から翼の方へ、視線だけを動かし、頬を緩めた。
「まあ、職がなければアルトに居座ってやんよ。なぎぽん、泣くだろうけどさ」
「……んっ……」
「んで、来年の今頃は残らないつもりで一生懸命職活中だよ、きっと。再来年はどうなってるかなぁ〜どこでどんな生活をしているのやら……」
 貴美はそこまで言うと、先ほど寝転がったばかりの体を起こして、立ち上がった。そして、アルトに繋がれたヒモを指先でつまみ上げる。
「反省したんな?」
「一応、ね?」
 聞こえはしないけど、一応そう言うと、ヒモを摘んだ指先をチョンと一回ストローで突く。すると、貴美は首に巻き付けてあった紐をスルスルと外した。
「ありがと。ああ、もう、首が痛いわよ。死んだらどうするのよ?」
 聞こえはしないが、一応、文句は言っておく。そして、二−三度、体をほぐすように腕を回すと、自由になった体を宙に躍らせる。着地する場所は、貴美の頭の上。ちょこんと腰を下ろすと、彼女は貴美の脱色した髪を二−三回引っ張った。
「……まだ、早い……」
「あれ以上置かれたら、干からびちゃうわよ!」
「まあ、干物になられても困るかんねぇ? それに……」
 抑揚のない口調で翼が言うと、アルトは大声で、貴美は苦笑い混じりの口調でせいする。その言葉に翼は特に反論もせず、ただ、貴美がクーラーボックスの側に置かれてあった赤いポーチからデジカメを取り出すのを、ぼんやりと見詰めていた。
「私はもうここには来ないかもしれないしさ……だから記念に、女同士三人、男抜きの記念撮影ってのも良いじゃない?」
 そう言って、貴美はデジカメのセルフタイマーをセット。それをクーラーボックスの上に置くと翼の方へとレンズを向けた。体を起こす翼、その隣に貴美もあぐらを掻いて座った。
「あるちゃんもいる?」
 貴美が尋ねるとアルトは貴美の髪を一回、強く引っ張る。それに貴美はわずかに頬を緩ませ視線をデジカメの赤いボディとそこに穿たれたレンズへと向けた。
『カシャ!』
 合成的なシャッター音。貴美は仕事を終えたばかりのデジカメに手を伸ばすと、手早く撮ったばかりの映像を液晶モニターの中に再生した。
 貴美の頭の上から覗き込むと、そこには、黒髪のショートボブの女性と金に近い色にまで脱色した髪の女性、その金髪の頭を椅子代わりにしている一人の妖精がしっかりと映し出されていた。
「……やっぱり、映ってない……」
 そう言ったのは翼だった。
「まあ、しょうがないじゃん? 後でどうにかするよ。ああ、帰ったらプリントしてあげっからね。確か、写真部に良いプリンターがあったからさ」
 デジカメの電源を切りながら、貴美は言った。それに翼は「んっ」といつも通りに小さな返事。そして、どちらからともなく、大きく背伸びをすると、再び、枕を並べて仰向け。眩しい太陽に目を細めながら、二人は大きく背伸びをする。
 そして、一人だけビーチパラソルの下、クーラーボックスの上に避難する妖精。それでも、他の二人に習うよう、アルトはクーラーボックスの上で大きく背伸びをした。
「三年目で最後かぁ〜」
「初めてで……多分、来年も再来年も……来る……」
「三年目で、来年、再来年はどうなるのかしらねぇ〜良夜抜きで来るのも良いのかしらねぇ〜?」
 三者三様……海に思いをはせながら、前半、事実上最後の一日は過ぎていった。

 そして、それから数日後……翼は自宅に数少ない友人のうちの一人を呼んでいた。海で買ってきた土産物を渡すためだ。
「ねえ、寺谷、この写真……なんで、隣に座ってる人の頭の上に赤丸と『ここ』って書いてあるの?」
 海で撮ってきた大量の写真の中に、最終日に撮った一枚を見つけた彼女が不思議そうに尋ねるのを、翼は一言だけで答えた。
「……企業秘密……」

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