三度目の海、初めての海(6)
 初日の夕飯がデリバリーのピザという寂しい物だったので、二日目の夕食は張り込んでバーベキューと言う事になった。貸別荘の売店兼務の管理事務所に行けばコンロの貸し出しから、炭や紙皿、紙コップと言った消耗品のセットの購入まで、大抵揃う。それを別荘の庭まで運べば、後は焼いて食べる物を用意するだけというお手軽さ。去年や一昨年もしてれば良かったと思うくらい。
 女性三人が買い出しに行ってる間に、それらを調達してきて、火を起こしておくことが良夜と直樹の任務。彼ら二人は水着からズボンとTシャツという軽装に着替え、その任務に励んでいた。
 ……訳だが……
「……着かねえ……」
「……全然、着きませんね……」
 綺麗に手入れされた芝生の上、少し大きめのバーベキューコンロを覗き込み、二人は嘆息した。西の山陰に日が掛かり、空全体を赤く照らし出す頃になっても、良夜達の炭は黒いままだ。消耗品セットと一緒に『上手な火の付け方』と銘打たれたペラ紙も貰って、それに書いてある通りにやってるのだが、これが全く持って着かない。燻りもしない。そのうち、セットに入っていた着火剤もなくなっちゃうんじゃないか? と不安になってくるほど。
「……帰ってきたとき、着いてなかったら五月蠅いだろうなぁ……」
「馬鹿にされますよね……」
 半ば諦めたような口調で呟き、二人は互いの顔を見合わせた。そして、どちらからともなくがっくりとうなだれた。
 全く自慢にならないが、良夜はこの手のことの経験がさっぱりない。なんと言っても、浅間家長女小夜子がこの手のアウトドアな遊びに全く興味も関心も抱かない女だったからだ。彼女は海に行けばビーチパラソルの下で本を読み、川に行けばサンダルを履いた足を川に突っ込んで本を読み、山に来れば木陰で本を読む。そんな女の子だった。長女はそんな感じ、長男はまだ物心が付いてないとなれば、両親としては張り合いのないこと、著しい。自然、その手の遊びから遠ざかり、良夜が物心つく頃には、休みと言えばちょっとしたドライブや大きなデパートでの買い物でお茶を濁すという形になっていった。
 そう言うわけで、良夜がどちらかと言えば、インドア派オタク系青年になったのは姉小夜子が原因と言っても過言ではなかった。
「……って、自慢しないでくれませんか?」
 夕日に照らされるバーベキューコンロから良夜の顔を見上げ、直樹はあきれ顔……ではあるが、直樹は直樹で、役に立っているわけではない。そう言うのも、吉田家高見家共同で定期的に庭でバーベキューをやったりもしてたので、一応は経験者だ。だがしかし、貴美の父がこの手のことが非常に得意でなおかつ、やる気を発揮する男だった。彼が用意から片付けまで全て一人でこなしてたものだから、他のメンツにとって、バーベキューとは『黙って座れば、美味い肉が出てくる、屋外食事会』程度に過ぎなかった。故に直樹にあるのは実践を全く伴わない知識だけ。
 ぶっちゃけ、『上手な火の着け方』と名付けられたペラ紙と余り変わらない。むしろ、燃やせば焚きつけになるだけ、ペラ紙の方が有用と言う奴だ。
「……お前も自慢すんなよ……」
「……あはは……」
 良夜がジト目で睨みつければ、直樹は明後日の方向を向いて乾いた笑みを浮かべる。
 まあ、ようするにやったことのない二人に道具と材料だけが与えられ、ほったらかしにされているという素晴らしい状況。火は着かずに、日も消えそう……なんて冗談を言ってもらちが開かない。アルトを含めた女子三人が出掛けてすでに三十分、大きな問題がなければ、そろそろ帰ってくる頃だ。
「帰ったわよ」
「おっまったせぇ〜」
「……ただいま……」
 等と言ってる間に建物の影から、アルト、貴美、翼の三人が顔を出した。勿論、三人とも水着ではなくそれぞれに思い思いの私服、どれもよく似合っているのだが、水着のままが良かったなぁ〜とか思ったり思わなかったり……
 そんな三人は未だ火の着かないコンロを覗き込むと、口々に――
「……どんくさいわねぇ……?」
「何してたんよ……?」
「……甲斐性ナシ」
 と、罵倒して回った。
「悪かったな……って、誰だよ、甲斐性ナシとか言ったのは? 関係ないからな、甲斐性は」
 反応する良夜に言った張本人は眉一つ動かすことなくそっぽを向いた。そして、紙コップや紙皿やらが置いてあるウッドテーブルの上に、買ってきた大荷物をどっかと置いて、店を開き始めた。
「自覚があるから反応するのよ……それより、早く火を着けなさいよ」
 貴美の上に座っていたアルトがぽーんと飛び上がり、良夜の頭に着地を決める。そして、彼の頭をガシガシと蹴っ飛ばしながら、生意気な言葉を吐いた。
 その言葉に青年はバツが悪そうに応える。
「意外と難しいんだよ……」
 すると、翼同様、テーブルに荷物を置いていた貴美が煤で汚れた炭用のトングを掴んで、がさごそ……と、バーベキューコンロの中をかき混ぜ始める……事、わずか十数秒。
 ぼっ!
 小さな音を立てて炭が火を噴いた。
「……着くじゃん」
「「えっ? やっ、ウソ、あっれぇぇ???」」
 訳のわからぬ状況に軽くパニックになる男二人に、貴美はトングを渡す。そして、間抜け面の二人を尻目に、再び、彼女は自身が買って着た荷物に張り付いた。
「アフォな顔してないで、りょーやんは鉄板と網を引いたら、油引きな。それとなおはリビングに上がって、庭の明かり、着けて来<き>ぃ。そろそろ、真っ暗になんよ」
 そう命じる貴美の言葉も耳に入らない勢いで、二人はバーベキューコンロに取り付いた。がさごそ、がさごそ! 良夜は手渡されたトングを持って炭を引っかき回す、直樹は目をさらにしてそれを見詰める。しかし、なぜ、火が着いたかという謎は決して解けなかった。
「……貴方たち二人が鈍くさいだけよ……」
 そう言うアルトの言葉も二人には聞こえなかった。

 さて、そんな感じで二日目の夕食が始まった。
 別荘の大きな窓の両脇には大きな投光器が二つあって、そこからの強い光がウッドテーブルを照らし出していた。その上には飲み物や紙コップが並べられていて、そのすぐ隣ではバーベキューコンロの中で炭がパチパチと良い音を立てて焼けている。そのコンロの前には良夜が右手に缶酎ハイ、左手に輝く真新しいトングという完全装備で立っていた。彼がそこに立つハメになったのは、貴美曰く「用意を何もやってないから」だ。
「何もやってないわけじゃねえよ……」
 そう小さな声で反論してみた所で……
「努力が認められるのは義務教育が済むまでよ?」
 頭の上から発せられる辛らつな言葉に返す言葉は見つからない。踵でカツカツと自身の頭を蹴っ飛ばす妖精を、チラッとだけ視線を投げかけて青年は口をつぐんだ。代わりにトングを動かし、焼けかけているお肉をひっくり返していく。
「……やってないのは……高見君も同じ……」
 そんな良夜の様子と貴美の横に座る直樹を見比べていた翼が、ポツリとこぼした。
「ああ、これにやらせると絶対火傷とかすっから。筋金入りの家事ベタなんよ」
 チビチビと缶酎ハイを舐めている翼に貴美が答える。そしてついでとばかりにペチン! と隣に座っていた直樹の頭をはたいた。それに直樹も言い返す言葉が見つからない様子。彼は缶酎ハイの缶に口をつけたまま、半開きの視線だけを貴美の方へと向けるだけ。その視線をさらりと横顔で受け流しつつ、彼女は最後に一言つけたした。
「後、タカミって呼ぶな。私かと思うじゃんか」
 それはその場に居た誰も心の中で『思わないよ……』と突っ込む一言だった。言っても無駄だから誰も言わないけど……
 そうこうしているうちに最初に焼き始めた肉がこんがりと美味しそうに焼けてくる。焼き係の良夜はまず、自分の皿に少し取り置くと、残りを他の三人へと振り分けていく。量は適当、最初にとってやった直樹の分が多くて、最後になった貴美の分が少なくなってしまったのはちょっとした事故に過ぎない。
「……その分、野菜が多いじゃんか〜」
「気のせいだよ」
 野菜の山を前に、貴美が頬を膨らませる。それに言葉を返しながら、青年は空になった網と鉄板の上にさらなる肉を置く。今度はたれに漬け込んだハラミ、甘辛いのが溜まらない逸品だ。それを結構な量、適当に並べ終えると、良夜も自身の皿に取り置いた肉に箸をつけた。
「なんか、適当に置くわねぇ……」
「こう言うのは適当で良いの。ほら、食うなら食えよ」
「ありがと」
 アルトに自身の皿を差し出せば、彼女はそこからハラミを一枚ストローに刺してふわりと舞い上がる。向かう先はウッドテーブルの隅っこ。ちょこんとそこに腰掛けると、足をブラブラさせながら肉を頬張り始めた。それを見ながら青年は彼女の隣にショットグラスを置いて、そこに発泡酒を注ぎ込む。それにアルトが先ほどと同じように「ありがとう」と返すのを見やり、やおら、彼は自身の肉と酒に口をつけた。
 少し辛口のタレをたっぷりと着けたハラミを口に放り込む。それがまだ残っている間にグビグビと缶酎ハイを飲むと、昼間の翼引きの疲れすら癒えていきそうな良い気分。
「ふぅ〜」
 大きな吐息が一つ零れる。その吐息が消えるよりも先に、箸をトングに持ち替えて先ほど並べたタレ付きのカルビをひっくり返したり……と、焼き係はやっぱり忙しい。
「良夜、お酒、おかわり」
「ピッチ早いぞ?」
 ねだるアルトのショットグラスにもう一杯発泡酒を注ぐ。小さなショットグラスもアルトにすれば、一抱えもある大杯。そこからグビグビとお酒を飲んでいく様はやっぱり、『今場所優勝のアルト山』に見える。綱取りは上手く行ったのだろうか?
「……また、アルト山とか思ってるでしょ?」
「気のせいだよって――何?」
 鋭いアルトから視線をそらすと、こちらを見ている貴美と視線が交わった。頬杖を突いて、菅から酎ハイを飲みながらこちらへと投げかけられる表情は、どこか呆れているようにも見える。しかし、心当たりのない良夜は貴美を見たまま、小首をかしげた。
「……よくもまあ、甲斐甲斐しくあるちゃんの面倒見てんなぁ〜と思ってただけ」
「他にやる奴居ないからなぁ〜代わってくれる?」
「それはヤだけどねぇ〜」
 そう言って、グビグビと結構な量を流し込む。そして、随分と軽くなった缶をテーブルの上に置くと、皿の上から野菜に埋もれた肉を選び出して、パクパクと口に放り込んで、彼女は言った。
「代わりになおにやらせれば?」
「えっ? なんで?」
「そりゃ、なおも何にもやってないからに決まってんじゃん。ショットグラスに缶酎ハイ注ぐくらいは出来るっしょ? いくら何でも」
 急に話を振られれば直樹はくりくりの二重をまん丸に広げて驚く。しかし、貴美に言われれば特に嫌そうな顔一つ見せることなく、気軽に首肯した。もっとも「何もしてない」という部分だけには、「努力はしましたよぉ……」と小さな声で呟いたのだが……
「別に良夜でも直樹でも良いんだけど……じゃあ、行ってくるわね」
 アルトの方にも特に異論があるわけではなく、座っていた所から直樹の方へと近付いていく。ちなみに直樹の席はウッドテーブルの良夜側だ。その向こう側には貴美が居て、直樹の向かいに翼が座り、翼と直樹の間の縁にアルトが腰掛けていたという布陣。良夜側の中央付近に腰掛けていたアルトから、直樹の所までは、アルトの足で片道一分弱と行った所だ。その道のりを彼女は口にストローをくわえ、胸には小さくとも一抱えもあるショットグラスを抱いて、とことこと歩んでいく。アルコールも入っているせいか、少し千鳥足気味なのがちょっと可愛い……と思ったことに良夜は敗北感を感じた。
 なお、それに良夜を除いた一同が「ショットグラスが飛んでる!」と驚くのだが、それは余談。翼も表情こそ変えなかったが、それまで黙々と動いていた箸が止まっていた。
 そして、アルトが直樹の近くにコトンとショットグラスを置いた。それに反応して、直樹が早速缶チューハイを手にしたが、それにはまだ中身がなみなみと残っているし、先ほど、一息で飲んだばかり。
「まだ早いわよ」
 妖精がすまし顔で言った言葉を、直樹に伝える。その言葉に直樹は少しだけ残念そうな表情を見せると、自身のグラスを空けて、そこにピンク色の飲み物を注ぎ込んだ。
 それを尻目にアルトはチビチビとショットグラスから発泡酒を飲みながら、ストローの先にぶら下がる焼き肉をガブリ。吊したまま、ダイナミックにかじる様は、淑女を自称する妖精がして良い姿ではないと思うが美味しそうだ。
「これで良いじゃん、あるちゃんはなおに任せて、りょーやんは私の肉を焼くと良いよ」
「……吉田さんだけの肉じゃないからね?」
「りょーやんは私の肉を焼くと良いよ」
「……言い直してないじゃん」
 ニマッと笑う貴美の皿に焼けたタレ付きハラミを数枚放り込む。ついで、直樹と翼、最後に自身の皿……は、さっきのがまだ残ったままだったので、とりあえず、違う皿を一つキープしてそこに入れておく。そして、また、大量の肉、今度は豚トロをドカドカと大量に乗せる。それが焼けるまでに取り置いた肉をパクパクと口に放り込み、余り噛まずに缶酎ハイで流し込む。意地汚い食べ方だが、潮風に吹かれながら食べる焼き肉は普段以上に美味しく感じた。
「これ、高かった?」
「んにゃ、オージーだし、安いもんだよ」
「……和牛は後で……」
 良夜が尋ねると貴美と翼が答える。美味しい食事とお酒、ちょっとした会話……平和な時間が十分と少し続く……のを打ちきる二つの悲鳴。
「きゃっ!?」
「わっ!? ごっ、ごめんなさい!」
 あげたのはアルトと直樹……まさかと思っていたのと同時に、やりかねないと思っていた事態。すなわち――
「……溢れさせた挙げ句に慌ててひっくり返しやがったか、コイツ……大丈夫か?」
 良夜は深く深く嘆息、そして、そのひっくり返した発泡酒でドレスを黄色く濡らしたアルトに同情の視線を向ける。
「ああ、もう、動かんで良いから……つばさん、そこの台ふき取って」
 慌てる直樹は缶のお尻を掴んで、残っていた中身すらも全てテーブルに飲ませてしまう。そんな直樹を尻目にに貴美が立ち上がって、翼に渡されたフキンで濡れたテーブルを拭く。
「いやっ……あの……おっ、思ったより勢いよく出ちゃって……大丈夫ですか? アルトさん」
「ああ……大丈夫だよ、ぶっ殺しそうな目で睨んでるけど……」
「ふんっ! 直樹なんて当てにした私がバカだったのよ! もう! ちょっと着替えてくる!!」
 尋ねた直樹に答えたのは、良夜の方だ。当のアルトはプイッとそっぽを向いて、トーンと飛び上がった。どうやら、別荘の中へと飛んで行こうとしているようだが、やけにふらふらしているのは、彼女がもう酔っていることの証拠だろう。
 その飛び立つアルトの背後を見守っていると、小さな声が掛けられた。
「……次、私が……」
「えっ? 肉、焼くの?」
 呟くように言ったのは、この騒動の中でも一人、チマチマと肉と酒に舌鼓を撃っていた翼だった。彼女は答える良夜にフルフルと左右に小さく首を振り、もう一度、呟いた。
「……違う……アルトちゃん……」
「……ああ、アルトの世話ね……いや、肉、焼いてくれた方が――」
「……アルトちゃん」
 良夜の言葉を翼の言葉が遮る。ジトと、翼の目が半開きになる。睨みつけられるとやけに怖い。そうなるとどうしようもないので「ハイハイ」と投げやりな言葉を返す。くだらない事で視線を離したおかげで、肉は少し焦げぎみ。慌てて、それをひっくり返したり、皿の上に取り分けたりと、青年は先ほどまでの作業へと戻った。
 そうこうしているうちにアルトも帰ってきたのだが、その着替えてきた服と言うのが、正確には服じゃなくて、水着だったことに良夜は軽い頭痛を覚えた。
「……突っ込み待ちか、それとも本気か?」
「……暑いのよねぇ……」
 不思議そうに彼女は小首をかしげる。どうやら、すでに結構酔っているようだ。もう、なんか、面倒臭いので翼がアルトに酌をしたいと言っていることだけを伝えると、彼女は素直に濡れたショットグラスを手にして、翼の側に座った。
 まずは一献、翼は無表情のまま、トクトクとショットグラスに缶酎ハイを注ぎ込む。直樹と違って溢れさせることもなく、ぴたりと止まった。
 それをアルトはやっぱり『今場所優勝のアルト山』の所作でグビグビと飲んでいく。先ほどまでは少々不機嫌な顔をしていた物だが、それも発泡酒の一杯で直ったようだ。彼女は、ショットグラスを半分ほど空けると、大きな吐息を一つ漏らして、テーブルにグラスを戻した。
「ああ、美味しいわね。昼間、泳いで疲れちゃったから余計だわ」
 頬を朱色に染めて、満面の微笑み。翼がそのすぐ傍にツイと肉の皿を差し出すと、彼女はそこから豚トロを一枚、ぷつりとストローに突き刺す。先ほどと同じようにストローに吊したまま、お肉をカプリ。顔ほどもある肉を食べるという贅沢は彼女ならではだと、それを見守っていた青年は思った。
「直樹の鈍くささは筋金入りだよな……」
 そう呟いて、視線をバーベキューコンロの上に戻す。たっぷりと乗せた肉も焼けているが、最初から焼いていたサツマイモがようやく焼けたようだ。それをトングで摘んで、一同の皿の上に乗せていく。
「ショットグラスに炭酸は入れにくいですよ……ブランデーならともかく……」
「あるちゃんのサイズでブランデーをショットグラスで飲んだりしたら、ひっくり返るって。あっ、りょーやん、次、焼きシャブいこ、焼きシャブ」
 貴美のリクエストにハイハイと適当に返事。言われるままに「焼きシャブ」とラベルされたパッケージを開いて、肉を並べる。薄手の肉はあっという間に焼けるものだから、良夜が食事をする暇がなくなるのが欠点だ。
「まあ……アルトの面倒見なくて済んでるだけマシかね……あっ、寺谷さんもいる? 焼きシャブ」
「……んっ……」
 小さく答える翼の皿にも向こう側が透けて見えそうなほどに薄い肉を取り置く。ついでに自分の皿にも数枚取り置き、それを指先で摘んで口に放り込む。綺麗なサシが入ったそれは、ジューシーで非常に美味しい。
 そして、ペロッとタレで汚れた指を舐めると、貴美が「汚いなぁ〜」と呟き眉をひそめる。そして、彼女がポイと、先ほど零れた酎ハイを拭くために使った台拭きをこちらに投げる。それは狙い違わず、テーブルの上、良夜のすぐ傍へ……それを手に取り、青年は手を拭き清めた。
「さんきゅって、言うほど汚れてないからな?」
「舐めた指で肉を摘まれたたまらんよ」
「生肉、直接手で持たねーよ」
 焼きシャブの次はロース、ホルモン、その次はまたカルビ、ハラミ……適当な順番で適当な量を適当なやり方で焼いていく。適当だらけだが、とりあえず、文句は出てないようなのでだいたい正しいのだろう。
 酒も肉も良い具合に行き渡り、各人が肉を食べるペースも新しい酒が開けられるペースも一段落。ようやく、良夜も落ちついて肉の味を味わうことが出来るようになった頃。
 ほっぺたを押さえてふら〜り、ふら〜りと左右に揺れていた翼が、パシュッと新しい缶酎ハイを開いた。
 新人歓迎会の時の様子からして、翼がほっぺたを押さえ始めるとそろそろヤバイという証拠なのは、良夜にも解っていた。しかし、同時に今日は彼女を送る必要はない。
「寺谷さん、今夜はひっくり返ったら、リビングに転がすからね?」
「良いじゃん、りょーやんがダッコして連れていってあげなよ。後で美月さんに電話しといてあげるから」
 茶化す貴美に「やらないよ」とだけ言い置く。当の翼は少しだけ頬を膨らませると――
「りょーやん……冷たい……やけ酒……」
 淡々とした口調で呟き、グビグビと缶酎ハイを喉の奥へと流し込む。そして、形の良い唇から「ほぉ〜」と吐息を一つ吐くと、彼女は中身の残る缶を置いた。
 ――アルトの頭の上に。
「わっ!?」
 と目を丸くしたのは、良夜とアルトの二人きり。
「重い! 重い!! 重い!!! 重い!!!!」
 肩から後頭部の上に缶酎ハイを置かれた妖精は、まるで天の蒼穹を支えるアトラスのようだ……と言うとなんかカッコイイので、そういう事にしておこう。もっとも、アトラスがあんなにも右に左に前に後にとふらふらしてれば、天体観測する人は大変だろう。
 そんな缶酎ハイを支えてふらふらするアルトの上で、翼もほっぺたを押さえて、ふらふら……
「しゃーわせぇ〜しゃーわせぇ……りょーやん、つめたいけど、しゃーわせ……」
 どうやら、先ほどの一口で限界を超えたらしい。しきりに「しゃーわせ」を呟きながら、体をふらふらさせるばかり。
「どったぁ?」
「どうしました?」
 タカミーズのお二人も良い具合にお酒が入っているのか、少しぼんやりとした表情でこちらを見るが、余り役に立ちそうにはない。
「いやっ、寺谷さんが、アルトに……」
「てか、のんきに解説しない!! 貴方が助ければ良いでしょっ!! この腐れ童貞!!!」
「……それは関係ないぞ、アルト……」
 水着姿のアトラスからひょいと缶酎ハイを取り上げる。重しから解き放たれた妖精はホッと一息、ペタンと腰を抜かしたようにテーブルの上に座り込んだ。
 そして、三割方残っている缶酎ハイをどこに置こうかと思案していると、じーっとこちらを見ている翼と目が合った。
「……りょーやんがつばさんのチューハイ……取った……ラッパ飲みの……」
「えっ……ああ、いや、これ、寺谷さんがアルトの頭の上に置いたから……」
「……舐める?」
 すでに一人称が『私』から『つばさん』に変わり、ほっぺを両手で押さえるほどに酔っている翼は、説明なんぞを聞く耳を持っていなかった。
「違うって! 返すって!」
「……舐めたのを?」
「だーかーら!」
 そんな揉め事をやってる傍では……
「あっ、もしもし、りょーやんがね、りょーやんがね!!」
 と、貴美が“どこか”に電話していた。まあ、その“どこか”なんて……
「って、てめえ、どこに電話してやがる!!??」
「うん、美月さんの所」
 貴美は大きく頷いた。

 そして、良夜はもう死にたくなった。

 もっとも、素面の美月は簡単に納得してくれた……のだが、
「楽しそうですよねぇ……昼は泣いちゃいそうなほど暇で、夜は泣いちゃってるくらい忙しくて、色々大変なのに……良いですね……明日も私は仕事なのに……」
 と、そっちの方向で拗ねられたのをなだめる方が、よっぽど大変だったことをここに付け加えておきたい。

前の話   書庫   次の話

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