三度目の海、初めての海(5)
 さて、二日目。
 水着の上にTシャツという姿の良夜はビーチパラソルとレジャーシートの間でゴロゴロしていた。周りにはクーラーボックス、中身は昨日からずーっと残っているアクエリアスとポカリスウェット、いい加減しつこい。その隣にメンバーの財布や携帯電話が入ったナップザック、それと赤いポーチのような物が一つ。中身は貴美が本人曰く「清水の舞台から飛び降りつもりで買った」というデジタルカメラだ。二万いくららしいが、それを聞いた良夜が――
「俺のグラボより安いじゃん」
 と、呟いたら、力一杯、貴美に向こう脛を蹴り上げられた。
 良夜が折角の海だと言うのに、水着姿でビーチパラソルとレジャーシートの間でゴロゴロしているのは、この赤いデジカメのせいだ。ようするに、コイツの留守番と言う訳。コイツに留守番が着くから、去年までは海の家の貴重品ロッカーか車の中に置き去りだった各人の財布やケータイなんかも今年はここにあるわけだ。
「ふわぁ……」
 砂で作った枕に頭を置いて背伸びを一発。大きな欠伸が真っ白いビーチパラソルで仕切られた空に消えていく。それを眺めながら、青年は自分の身の処し方が決定したときのことを思い出していた。
 彼が留守番に選ばれたのは、別に苛められた結果というわけではなく、単にじゃんけんに負けちゃったからと言うだけ。
 しかし、大声で「じゃん、けん……ぽん! グー!」と叫ばれると、反射的にグーにしちゃうのは仕方ないことだと思う。叫んだのは、まあ、予想は付くと思うが、吉田貴美だ。最近、開発した技らしい。翼や直樹は日常的に貴美とじゃんけんをしているので、このセコイ技を知っていた。知らなかったのは良夜ただ一人。全員パーの所を一人だけグーを出して居残り決定と相成った。
 勿論、そのじゃんけんに納得がいっているわけではない。しかし、同時にこの状況を決して不満に思って居るわけでもなかった。
 遠くに潮騒と多すぎない人のざわめき、潮風はほどよく湿度を含んでいて涼しいくらい。UVカットだというビーチパラソル越しの太陽は、眩し過ぎもせず、閉じた瞼に心地よい。じろじろ見ているわけでもないが、時折目を向ければ見知らぬ水着美女が居たりもする。
「たまにはこう言うのも良いなぁ……」
「なんと言ってもアルトが居ない」
「そうそう、なんと言ってもアルトが居ない……――居るじゃねーか、アルト……」
 声に誘われて、片目だけを開けてみる。そこには白いフリル付きのワンピース水着を着たアルトが立っていた。ちなみに立っているのは良夜の額の上。そこからニコニコと上機嫌な様子で良夜の顔を覗き込んでいる。
「直樹達と泳いでたんじゃないのか?」
「潮水の飲み過ぎで喉が渇いたのよ――きゃっ!?」
 アルトの声を聞きながら体を起こすと、妖精さんの足場が斜めになる。突如傾いた足場に足を取られて、哀れ妖精さんは良夜の足下にスッテンコロリン。頭から真っ逆さまに落っこちて、はしたなくも足を押っ広げ。
「あっ、悪い」
「あっ、悪い……じゃないわよ! 足場にしてる者の身にもなりなさい!」
「……お前以外に誰が人の頭を足場に出来るんだよ……ふわぁ〜」
 血相を変えて怒鳴りつけるアルトを見つつ、大きな欠伸を一つ。あぐらを掻いて座り直すと、彼女の羽を摘んで膝に座らせた。未だにぶーぶーと何やら文句を言ってるようだが、あまり聞いても意味がなさそうなので聞き流す。代わりにクーラーボックスを開いて、中からアクエリアスのボトルを取りだし、紙コップに注ぎ込んだ。
「ほら、飲めよ。喉が渇いたんだろう?」
「だいたい、良夜は……――いつまでこのアクエリアスポカリ地獄は続くのかしらね……?」
「なくなるまでだよ。今日にはなくなるって」
 プンスカと怒っていたアルトの顔から怒気が消え、代わりに諦観の表情が浮かぶ。それでも、ふぅと大きなため息を突くと、ストローを紙コップに突っ込み、ごくごくとアクエリアスを飲み始めた。
 そして、彼女は紙コップの三分の一ほどを一気に飲み干した。
「ンぐっ……んぐっ……ふぅ〜っと……しっかし、朝食の飲み物にスポーツドリンクはないでしょ……いつスポーツをしたって言うのよ?」
「しょうがないだろう? あるんだから……それに、コーヒー豆も紅茶のリーフも持ってきてないんだしさ」
 言って、アルトの飲み残しを一息に煽る。スーッと体に冷たく冷えた液体が染みこむのを感じ、良夜は自身が意外と乾いていたことを自覚した。
「美月には豆を持ってこさせないと……あっ、これ? 貴美のデジカメ」
 クーラーボックスの傍に各人の財布等が入ったザックと共に置いてあった赤いポーチ、それをめざとく見つけると彼女はそれに取り付いた。そして、器用にジッパーを開けると、中を覗き込む。
「弄るのは良いけど、手とか濡れてないんだろうな? それ、防水、余り強くないぞ」
 レジャーシートの上にあぐらを掻いて座り直し、青年は赤いポーチの周りでゴゾゴゾやってるアルトにそう言った。本当のところは弄るな、と言いたい所だがどうせ聞かないから言わない。
「ああ、それは大丈夫なんだけど……うーーーーーーんっ……って、出て来ないわ」
「……ハイハイ」
 一抱えもある機械の固まりに音を上げたアルトに苦笑いを見せ、青年はひょいと赤いポーチの中からデジタルカメラを取りだした。一応、貴美は撮りたければ撮れば良いと言っていたので、遠慮する必要はない。もっとも中に入ってるデータカードも貴美の物なので、被写体は良く選ばないと後で何を言われるか解らない。
「知らない幼女のお尻とか撮っちゃダメよ?」
「……それだけはないから安心しろ」
 ニマニマとそこ意地悪い笑みを浮かべるアルトの額をチョンと突く。そして、青年は手にしたデジカメをマジマジと見詰めた。赤く塗られたボディはスタイリッシュな物だが、見た目以上に高性能な代物だ……と、貴美が自慢してたのを思い出す。
「ねえねえ、中身、見てみない?」
「データか? プライバシーって奴だろう?」
「あら、撮ってもいいって言われてるんでしょう? 撮ったらその場で見てみなきゃ、デジカメの意味はないし、その時、前に撮ってある写真を見ちゃうのは不可抗力って奴よ」
「……お前の屁理屈展開能力って、ホント、素晴らしいな……」
 アルトの素晴らしい論理展開に呆れるような、感心するような……微妙な気分を味わいながら、青年はデジカメの電源を入れる。ぴぽと小さな音ともにロゴが表示されると、数秒と掛からずデジカメは起動した。そして、親切なアイコンが浮かぶディスプレイを触れば、ピッピッと音を立てて中身の一覧が表示された。
「私もこう言うの得意だけど、良夜も初めて見る家電製品とか、迷わず使いこなすわよねぇ……」
 太股から肩口に移動し、妖精は液晶画面を覗き込む。そして、瞬く間に変わっていく液晶画面と良夜の顔を見比べながらに呟いた。その呟きに青年はカメラの画像を切り替えながら答える。
「家電製品は見れば使えるようになってるの……って、中身三枚だけか……吉田さんのスクーターに……これは部屋の写真だな。後一枚は……吉田さんの水着姿か……これ、今、着てる奴だな」
 最後の一枚は、スカイブルーに白いドットプリントがなされたビキニ姿の貴美が脳天気な笑顔とピースサインで突っ立っている写真だった。どうやら、自室で試着し、それを直樹辺りにでも撮らせた物のようだ。写真はそれで終わり……ガッカリしたような安心したような……
「なによ……外部に流出したら貴美が一生外を歩けなくなるようなどえらい物が映ってるかと思ったのに……」
「……そんな物が入ってたら、俺の方が困るから……」
「その写真で貴美を脅して……この変態! 変質者!!」
「……馬鹿か? この女……」
 ペチン! とほっぺたを叩くをひっぱたくアルトを、肩から引きはがす。そして、その小さな体をクーラーボックスの上にチョンと置いた。
「何?」
 置かれたアルトが不思議そうな顔で良夜の顔を見上げる。その顔を見下ろしながら、青年はデジカメを再生モードから撮影モードに切り替えて、言った。
「折角だから、撮ってやろうか? どーせ、俺とお前にしか見えないだろうけど」
「……凄い、珍しく気を効かせたわね……明日は台風かしら?」
 そう言ってアルトは目をまん丸くし、わざとらしく雲一つない空へと顔を向けた
「……そう言う事言うなら、撮るの、辞めるぞ?」
「撮りたい癖――ごめんなさい、撮って欲しいです。片付けるのは辞めなさいって!」
 クーラーボックスの近くに放置されていたポーチを取り上げ、ジッパーを開く。するとアルトは細い手足をバタバタとさせ、顔色を変えた。その子供っぽい仕草に思わず笑みを浮かべると、青年は開き掛けたポーチをレジャーシートの上に置いた。そして、青年には指先で小さな妖精の頭をチョンと小突く。
「クーラーボックスの写真とか撮ってたら、まんま、おかしな人だからなぁ……早めに切り上げるぞ」
「私は気にしないわよ」
「俺が気にするんだよ。ほら、さっさとポーズ取れ」
 青年はアルトにそう言うと、デジカメのタッチパネルをぽちぽちと数カ所押していく。こういう小さな物を撮るときは接写モードが良いはずなのだが、そう言う設定はどこにあるのかなぁ……等と思いながら、設定の画面をいくつも開いていった。
 世の男性諸氏の御多分に洩れず、良夜は家電製品とか大好きだったりする。自慢ではないが、家電屋とかホームセンターとか行ったら、例え、財布の中身が空でも半日くらいは商品を見て回っているだけで、時間が潰せる。
 なので……
「どんなポーズが良いのかしらねぇ……M字開脚とか?」
「……ああ、ハイハイ……」
 ピッピッピッ……三百六十度パノラマ撮影モードなる物をを発見……って、どうやって使うんだろう?
「M字開脚で顔とか隠しちゃうとか……こんな感じ」
「……ああ、ハイハイ……」
 ピッピッピッ……なるほど……液晶に映し出されるガイドラインに沿ってくるっと一周させれば良いらしい。後で水平線を撮ろう。
「顔出しはNGの方向で……って、一生懸命呆けてるんだから、相手しなさいよ……」
「……ああ、ハイハイ……」
 ピッピッピッ……ちょっとだけやってみよう……あっ……失敗した。マーカーがガイドラインから外れると撮影が中断してしまうようだ。
「……赤ちゃんの歩き方は?」
「……ハイハイ……」
 ピッピッピッ……失敗した奴は消しておかないと……これでこうやると……うん、消えた。
 ザクッ!!!
「……ごめんなさい、夢中になってました」
 額からだらだら血を流して、青年は我に戻った。
 赤く染まる視界の中、アルトは仁王立ちで言った。
「突っ込みなんだから、ちゃんと仕事なさい」
 そんな仕事に就いた記憶はない。

 そんな感じでなんとなくアルトちゃん撮影会が開始された。
「こんなのどう?」
 何処かのグラビアで見たような格好でアルトはポーズを作る。何処かというのは、主に毎週水曜日に発売される少年誌が中心。どうやら、アルトの店内で学生が読んでるのを見て覚えたらしい。しかし、いくら胸元やお尻を強調しようとも、胸元は寂しいしお尻にも色気なんて物は存在しないし……こうなると、セクシーと言うよりも、痛々しい。
「……虚しくないか?」
「……ちょっと……」
 血の涙を流しそうなアルトの頭をチョンと撫でる。それをくすぐったそうに首をすくめて受け取ると、アルトはごく普通にクーラーボックスの上に腰掛けて、ピースサインをして見せた。それをパシャリと一枚撮影。それから数枚、手を振ったり、足をブラブラさせているのを写真に納める。
 そんな写真を五−六枚、時間にして十分少々が過ぎた頃の事。アルトの撮影会にもそろそろ飽きて来始めた頃、ポツリと囁くような声が投げかけられた。
「……クーラーボックスに欲情……?」
「……するか!」
 声に振り向けば、そこには少し色黒ではあるがスラッとした長い足。そこから視線を上げていくと、黒のワンピース、胸元がすっと細く、おへその少し上まで切り込まれていて、そのスリットを細いシルバーチェーンで止めているのがオシャレポイント。貴美をして「負けた……」と言わしめたセクシーな水着姿は――
「って、寺谷さんか……アルトだよ、アルトの写真、撮ってやってただけだよ」
 寺谷翼だ。その翼が、肩に大きな浮き輪を引っ掛けて突っ立っていた。
「……そう……」
 良夜の言い訳を聞きながら、翼はクーラーボックスに手をかけた。そこに座っていたアルトは、蓋が開かれる寸前、そこからトンと飛び上がり、翼の頭の上に着地を決めた。アルトが頭の上に乗ったことに気付いているのか居ないのか……翼は特に動作を滞らせる事もなく、中からポカリスウェットのペットボトルを一本取りだした。
 そんな翼の所作を見るともなしに見ながら、青年は尋ねた。
「直樹達は?」
 尋ねる良夜に翼はペットボトルの封を切りながらに答える。
「……高見君は吉田さんの浮き輪、引っ張ってる……」
「ああ……あれかぁ……」
 呟き、青年は我が恋人が開発したあの遊びに思いをはせる。水に浮かんでいるとは言え、人一人を波打ち際で引っ張るのは結構きつい。特に直樹の場合、自分よりも恋人の方が体重が重かったりするのでさらに大変だ。
「……高見君、私のは引っ張ってくれないから……」
 チビチビとポカリを飲み進めながら、翼は呟いた。それに良夜はちょっぴり苦笑い。小柄な直樹が女二人を引っ張っている姿を想像すると哀れとしか言いようがない。
「無茶苦茶言ってやんなよ、直樹が可哀想だからさ」
「それで、吉田さんが……現地調達して来いって……」
「……現地調達って、貴美らしいわねぇ……」
「――って、アルトが言ってるよ。どこで現地調達しろっていうんだか……」
 翼の頭の上でアルトはあきれ顔。彼女の言葉に自分の言葉も足して伝えると、翼はペットボトルから半透明の液体を口内に流し込みながら、沈黙した。
「……」
 その沈黙に良夜がどうしたんだろう? と思い始める頃になって、ようやく、彼女はペットボトルから口を離した。そして、その蓋をキュッと締めると、どこからか取り出したマジックで「つばさ」とひらがなで名前を書く。比較的綺麗な文字で名前の書かれたペットボトルを、翼は中腰になって、クーラーボックスの中に戻した。
 そして、クーラーボックスの蓋がパタンと閉じられる。閉じた翼は良夜の正面に中腰のままで移動。イヤでも大きく開いた胸元に目が行くが、それを我慢して翼の顔へと向かわせる。
 視線が絡み合った。
「なっ――」
 に? と続けようとした言葉は翼の言葉で遮られる
「……へい、そこのお兄さん、私の浮き輪を引っ張らない?」
 相変わらずの無表情、しかも、台詞は棒読みだった。
 猛烈に頭が痛くなった。
「……ここでかぁ……」
「……ダメ?」
 翼が良夜の顔を覗き込むと、必然的にその頭の上に座っている妖精さんも良夜の顔を覗き込むことになる。
「……ダメ?」
 無表情な翼と違って、アルトの表情は底意地悪そう物だった。そのニマニマと笑っている面が物凄く腹が立つ。
「お前まで言うな……」
「……お前呼ばわり……?」
「……頭の上の馬鹿妖精相手に言ってるだけだからね?」
「……そぅ……」
 小さく短い返事だけを呟いて、翼は良夜の顔を覗き込むのを辞めて、座り直した。良夜はその翼の横顔に視線を投げかけた。切れ長の二重は少しきつい印象も与えるが、綺麗な物だ。それにふっくらとした頬、形の良い唇……整った顔つきだ。決してもてなくはない顔だとは思う。
「美人なんだから、他で調達してきたら?」
「……浮き輪……引っ張るだけで終わる人とか、居ない……と、思う」
「……まあ、終わらないだろうなぁ……」
「でも、浅間君だったら……甲斐性、ないから……」
「大きなお世話だよ。だいたい、俺だって、やる――」
「去年一昨年はきっちり引っ張って終わりだったわよね」
「――うぐっ……」
 やるときはやるよ、と言いかけた言葉を遮ったのは、アルトのなぜか嬉しそうなお言葉。その遮ったアルトの言葉は翼には聞こえていないので、当然……
「……何?」
 途中で止まった言葉に翼の顔が良夜の方へと向くことになる。そして、無表情な顔に穿たれた二重の瞳が良夜の顔をじーっと見詰める。なんとなく、この人の視線には妙な力強さがある……ような気がした。
 青年が「何でもない」と誤魔化してそっぽを向くと、翼も「……そぅ……」とだけ言って視線を海の方へと戻した。
 アルトを含めて、三人の会話がふと止まった。三人の視線は互いに交わることなく、平行線を画いて海岸線へ……
 良夜達のレジャーシートから波打ち際まで二−三メートルと言った所だ。その間、そしてその向こう側には少なくない海水浴客が思い思いに冷たい海水を楽しんでいた。その中でも、波に浮き輪で浮かぶ彼女を引っ張ってる男というのは、他に余り多くは居ない。だからと言うわけでもないのだが、白いTシャツにオレンジ色の海パンという直樹の姿がやけに目について仕方がない。
 それは翼も同じだったのか、良夜が出しっ放しにしてあったデジカメを手に取った。
「あっ、それ、防水余り強くないから、気を付けてね。潮水だし」
「……んっ……」
 小さく頷いて、そのデジカメをもレジャーシートの上に戻す。代わりにフェイスタオルを一枚手に取り、丁寧に濡れた手を拭き始める。それを「少し神経質すぎるかな?」と思わせるまで続けると、彼女は改めてデジカメを拾い上げた。向ける方向は、勿論、タカミーズの居る波打ち際だ。
「……………………」
 が、とりあえずは向けただけ。彼女はカメラを向けたまま、固まった。固まった翼の背後から液晶を覗き込んでみると、そこには何も映っていなくて真っ黒いままだった。
「電源はここ……それから望遠はこれで、こっちがシャッターね」
「……ありがと」
 良夜がカメラの使い方を簡単に教えると、翼はすぐに理解したらしい。パシャパシャと数回シャッター音を鳴らして、直樹が貴美が捕まった浮き輪を一生懸命引っ張っている写真をカメラに納めていた。そして、タカミーズを撮ることに飽きると、美しく晴れ上がった空や遙か遠くに見える水平線なんかも、立ち上がってまで写真に納め始める。
「こうしたら、見られるよ」
 翼がひとしきり写真を取り終えると、今度は再生の方法も教えた。こちらもすぐに覚えたようで、レジャーシートの上に座り直した翼はタッチパネルを器用に使って自身が撮った写真を液晶に表示させた。その写真を翼と肩を並べて覗き込む。写真の善し悪しという物はよく解らないが、それでも家族連れが楽しげに泳ぐ波打ち際と、雄大な水平線が縦長の一枚に収められた写真は綺麗な物だと思う。
「綺麗に撮れてるじゃん」
「……ありがと……」
 素直に褒めると翼は表情こそ変えなかったが、小さな声には喜びの色が混じっているように思えた。
 もっとも、良夜の撮っていた写真を液晶に出しては――
「……マニア……」
 等と良夜の顔をチラ見して呟くのは辞めて欲しい……
 しかし、例の浮き輪引きのことを諦めてくれたのか……と、良夜は一安心。数日後には美月も来て、美月が来たら確実にやらされるのは目に見えている。だから、翼相手にまでやりたくない、と言うのが本音だった。
 そんな事を考えていると、ふと、翼が小さな声で言った。
「……浅間君、ここ……見て?」
 そう言って指さしたのは彼女自身の胸元。ワンピースではあるが、おへその少し上くらいまである深い切れ込みをシルバーのチェーンで止めているだけのそこはかなり扇情的だ。
「って、なんだよ、いきなり……」
「……違う、これ……」
 引き気味に言うと、翼は首を振った。そして、彼女はシルバーチェーンに付いている小さなアクセサリーを指で摘んで見せた。胸元を飾る小さなアクセサリー、いきなり見ろと言われても、困るなぁ……と思いながらも、素直に顔を近づける。
「……もっと……良く……」
 言われて素直に、顔を少し近づける。それは十字架……だろうか? 縦横同じ長さの十字架だが、それに何か細工があるようには思えない……
「……解る?……」
「何が?」
「……罠……」
「へっ?」
 顔を上げるのとほぼ同時、もしくは一瞬早く、パシャリと言うシャッター音が高い空に響き渡った。
「……この写真、チーフに見せられたくなかったら……浮き輪、引っ張って……」
 そう言って、翼が手早く再生した写真には翼の左側から胸元を覗き込む良夜の姿がばっちりと映し出されていた。しかも、翼本人はと言えば、その次の瞬間には胸を押さえて良夜から思いっきり離れている始末。
「……きっと、面倒なことになる……」
 そう付け足し、彼女は無表情のままに浮き輪を差し出した。
「……………………あっ!?」
 何を言われているのか、何をされているのか、理解するまでたっぷり三十秒必要だった。そして、彼は気付いた瞬間、大声で叫んでいた。
「きっ、汚え! いっ、今の、うわっ、何、この人、きったねぇぇぇぇ!! つーか、せめて、ちゃんと見せろよ! 俺、そのアクセしか見てねえぞ!?」
「あんたは何を口走ってんだ!?」
 先ほどから翼の頭の上で事態の推移を見守っていたアルトのストローが、本日、二度目の血を吸った。

 それから小一時間後、荷物の番をタカミーズに代わって貰って、良夜は翼の浮き輪を引っ張っていた……
 額からはまただらだらと血が流れていた……
「……俺の人生、ずっとこんなんか……」
「ずっとこんなんよ、割と幸せだと思うけど?」
 頭の上でアルトが答えた。
「……寝そう……」
 そして、引かれる翼は気持ちよさそうだった。
 こんな時だけ、妙に解りやすい表情になる彼女のことを、嫌いになりそうだと青年は思った。

 翌日、良夜も直樹も見事な筋肉痛だったことは言うまでもない。

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