三度目の海、初めての海(2)
深夜の打ち合わせから実際に海に行くまで、三週間の時間があった。直樹や良夜がアルバイトを休ませて貰うためには、それくらいの期間が必要だからだ。もっとも、今年で三年目ともなれば、良夜の同僚のおばさま方は――
「浅間くん、今年も海に行くの? 大学生は自由で羨ましいなぁ〜」
等と軽い嫌味混じりではあるが理解はしてくれているので、話は多少早い。いつものように「お盆は出るから」と言えば、一も二もなく一週間の休みが貰えた。
しかし、それが不幸であった人も居る。今日はその人のお話。
あの話し合いが持たれた翌日からも、時任凪歩はいつものように喫茶アルトで働いていた。概ね問題なく働くが、ときどき些細なポカをやる。例えば……
「ふわぁ……ねむ……」
客が落ち着く夕方少し前、フロアーの壁際にもたれて、凪歩は小さな欠伸をかみ殺していた。昨夜、高校時代の友人とたらたらとメールのやりとりをしていたせいだ。あっちは暇な大学生、こっちは立派な社会人。あっちに合わせて、いい気になって続けていたら、寝たのは空が白々と明ける頃。そりゃもう、朝から眠いったらありゃしない。あくびが止まらない。こんな所を貴美に見つかったらまずいな、とは思っていたが、出る物は出てしま――
ぱちくり、と眼鏡の向こう側で鳶色の瞳が数回瞬きをする。どこか霞んでいた意識の焦点がぴたりと合う。瞬間、出掛けていた欠伸がぴたりと止まった。
(蹴っ飛ばされる!)
緊張感と次に来るであろう痛みに体が強ばる。しかし……
「……ちゃんと夜は寝なよ」
それだけ言って、貴美はてくてくと凪歩の側から離れていった。勿論、向こう脛を蹴ることも、つま先を踏みつけることもしない。それから少しして、キッチンで顔を合わせた時も、特に何も言わないし、何もしない。そんな事が二週間で数回ほどもあれば、凪歩は……
「真綿で首を絞められてる感じがする……」
「……なんで、その話をここに持ってくる?」
浅間良夜が言う所のここ、とは窓際隅っこ、良夜と直樹の指定席。数個の追試こそあったが、それも見事にクリアーした良夜は暇な夏休みをアルトのこの席でゴロゴロと費やしているようだった。
「大学生は暇そうで良いよね……」
「えっと……相談しに来たの? それとも喧嘩を売りに来たの?」
憮然とした表情でそっぽを向く良夜に、凪歩は「あはは」と笑って誤魔化す。同じく暇な大学生たる直樹は少し前にバイトに行ったので、居るのは良夜とアルトちゃん……だけらしいが、凪歩にはアルトは見えないので解らない。
「ああ、うん、アルトちゃんに愚痴ろうと思って来たら、浅間くんがまだいたから……」
「今日、バイト、休みだよ」
「じゃあ、食べて帰る?」
「んにゃ、もうちょっとだらけたら帰るよ……」
そこまで言うと、一端良夜の視線がテーブルの中央、凪歩のまかない料理がある辺りへと動いた。そこに視線を止めること数秒、わずかに頬を緩めると、彼は、再び、視線を凪歩の目元へと戻した。
「――サド姫様にサドい事されなくて寂しいのか? ってアルトが聞いてる。後、パスタの上に乗ってるシーチキン、アルトが回収してるから気を付けた方が良いよ」
「わっ!? シーチキンがなくなったら、ただのシソパスタになっちゃう! って、別にサドい事をされたいわけじゃないんだけどぉ……でも、怒られる所で怒られないと、なんか……ほら、怒りを溜め込んでるみたいで怖い」
なんて言うか、次にミスした時に今までの怒りが全てぶちまけられるのではないのか? そうなると、その時はきっと殺されてしまうに違いない。コンクリ抱いて海に沈められるとか、アルトの向かいにある山の中に穴を掘って埋められるとか……じゃあ、次はミスをしないようにすればいいって話だが、それを意識すればするだけ、余計な所でしょうもないポカを犯してしまう。そして、理不尽な利子が付く銀行に怒りという貯金を詰め込んでいってる気分になり、より追い詰められるという悪循環。
と言う話をしているのに、良夜の視線は凪歩ではなく、凪歩のまかない食事――本日はシソとシーチキンのパスタが載った皿をじーっと見詰めて下さっていた。
「……で、浅間くん、聞いてる?」
「ああ、いや……アルトが時任さんのシーチキンを食べ過ぎて、胸焼けおこしてるのが面白くて……」
「……浅間くんの見てる世界って楽しそうだね」
嫌味と溜め息を混じらせながら一言言えば、良夜は苦笑いを浮かべて「聞いてたよ」と答えた。聞いててくれたようで一安心、もっとも、聞いてただけで――
「ほら、非暴力に目覚めたとか……」
コーヒーカップを片手に他人事のような口調で青年は言った。実際、他人事なのだろうが、軽く殺意を覚える態度は聞いてただけで真面目に考えてはくれてない事を、凪歩に教えていた。
「……んな訳ないじゃん、サド姫様だよ? サドヶ島出身の」
投げやり気味に凪歩が言えば、良夜は体重を背もたれに掛けて、苦笑を投げかけた。
「言うね……本人居ないと……」
「言うよ、本人居ないと……でさ、直樹くん、何か言ってなかった? 様子がおかしいとか……」
スプーンとフォークを使ってお上品にパスタを口に運びながら尋ねる。今日のまかないパスタはシソツナ味、刻んだシソのさわやかさがツナの脂っこさを消してくれて、とっても美味しい。
その食事風景を眺めながら、良夜は「ウーン」と数秒悩んでから、答えた。
「……特になんも言ってなかったと思うけどね。それに俺も会ったけど、普段通りだったと思うよ」
「浅間くん、そう言うの、鈍感だって話だからねぇ……当てになんないかな?」
「言うね、本人目の前にして……」
「言うよ、相手が浅間くんだもん」
凪歩が良夜の顔から手元のパスタに視線を落として言うと、良夜は不機嫌そうにそっぽを向いた。その横顔にわずかばかりの笑みを投げかけ、パスタを口に運ぶ。さわやかなシソの香りが口いっぱい。そのまま、特に大した会話もせずに食事を進めると、凪歩の皿があらかた空っぽになる頃、良夜が椅子から立ち上がった。
「じゃあ、美月さんに声を掛けたら帰るよ。一応、直樹と顔を合わせたら、吉田さんの様子を聞いておく……」
そう言った後、良夜は視線をテーブルの上、あらかた空っぽになった皿の上へと視線を落とした。そして、数秒、クスッと笑みを浮かべて一回だけ頷いた。
「……――って、そうだな、直樹も鈍いからなぁ〜」
「えっ?」
「ああ、アルトが『直樹も気付いてないんじゃないの?』ってさ」
「あはは、そんな感じするね。うん、ありがとう」
伝票片手に席を後にする良夜を、凪歩は視線だけで見送った。そして、残っていたパスタを食べ終えると、仕事に戻る。その日の仕事は大きなミスも小さなポカも起こさず、平穏無事に終了。まあ、毎日毎日、怒鳴りつけられそうなことばっかりやってたら、身が持たないし、何より、今頃クビになってる事だろう。凪歩の仕事風景は、概ね、日々平穏無事に過ぎ去っている。
そんな感じで翌日、昼食を食べに来た良夜は、入り口のすぐ傍で凪歩に声を掛けた。そして、まだ、客も疎らなフロアで――
「やっぱり、いつも通りだってさ。非暴力にも目覚めてないみたい。直樹の馬鹿、二−三日前の夜、二研の連中と峠に走りに行ってたのが、吉田さんの耳に入って、ボッコボコに殴られたらしいぜ? 目の下に青たんが出来てたよ、あのバカ」
と、貴美の様子を凪歩に伝えた。そして、その時の様子を思い出したのか、良夜が「あはは」と楽しそうに、同時に底意地悪く笑った。その笑みにつられて凪歩も笑みを浮かべる。
だがしかし。
ひとしきり笑った所で、良夜はふと、彼自身の頭の上へと視線を向けた。何もない空間に笑いかける姿は何度見ても慣れないなぁ……等と凪歩が思っていると、良夜がまた、気楽な調子で笑って言葉を続けた。
「……あはは、『見捨てられたんじゃないか?』ってさ、アルトが」
「えっ? うわっ、ウソ、それ、ヤだなぁ……」
笑っていた笑みが自覚出来るほどに凍りつく。自分の顔から血の気が引く音という物を凪歩は聞いた。
「あっ、いや、そんな事ないって……アルトのいい加減な発言、真に受けてたら、身が持たないよ?」
良夜は慌ててフォローしてくれているようだが、凪歩の耳には届いていない。と言うか、もう、頭の中は『見捨てられた』の一言がぐるんぐるん。顔面蒼白、トレイを胸元に抱えたまま、あらぬ方向をしてんの合わぬ目で見つめるばかり……
「えっと……ほら、大丈夫だよ……ちゃんと働いてるって、アルトも褒めてるよ? ホント、マジ……――嘘も方便って言葉、知ってるか? クソ妖精」
「……あっ、ありがと……――って、聞こえてるからね、浅間くん、思いっきり、聞こえてるよ」
本人はこっそりしゃべったつもりなのだろうが、その囁きは未だ静かなフロアの中できっちりと凪歩の耳にまで届いていた。もっとも、その冗談のようなやりとりが凪歩の気持ちを落ち着けてくれたのも事実だった。凪歩は良夜の不器用な心遣いに頬を緩め、眼鏡越しにほほえみかけた。
「うん、気を遣ってくれてアリガト。それじゃ、仕事あるから……あっ、注文は?」
「アイスコーヒー、一つ。ブレンドで。それと……チーズアイスケーキってもう始まってる?」
「うん。始まってるよ。それじゃ、チーズアイスケーキとブレンドのアイスコーヒー、セットで。すぐに持っていくね」
凪歩が伝票に走り書きを加えていると、良夜は「じゃあ」とだけ言葉を置いて、いつもの席へと歩いて行った。
「はぁ……」
一人きりになってみれば、自然と溜め息がこぼれ落ちる。見捨てられたというのが冗談であることは理性では理解出来ていたが、彼女の感情がそれを切り捨てることが出来ずに居た。
「見捨てる、かぁ……」
ポツリと一言呟き、嫌な言葉だなと思う。「はぁ……」ともう一度息を吐いて、頭を振る。嫌な言葉を頭から追い出そうとする努力だ。しかし、その程度で追い出せれば苦労はしないわけで、その日の凪歩の頭の片隅には、『見捨てられた』との言葉が張り付いていた。
んでもって、元々、ドジを踏みやすい体質の凪歩が、こんな下らないことを考えて仕事をしていれば――
ぱーん!!
グラスによく冷えた氷水を注いで、持ち上げて、トレイの上に置く。たったそれだけの作業だったのだが、グラスの表面に付いた結露に指が滑ってグラスは真っ逆さま。心地よく涼やかな音を立てて、グラスは四散して果てた。
「あっちゃぁ……んっ、もう……何考えてんのよ、私は……」
口の中だけで自身への悪態をついて、彼女は割れたグラスの元にしゃがみ込む。その中には大きめの破片が三つ四つほど。それを手早く拾い集めると、一端それを捨てるために立ち上がった。
ら、そこに吉田貴美の呆れかえった顔があった。
「わっ!? あっ、いや……その……ごっ、ごめんなさい……」
「怪我、ないんな?」
消え入りそうな詫びの言葉に返ってきたのは、抑揚のない冷たい言葉だった。その言葉が凪歩の胸に突き刺さる。コクンと無言のまま、凪歩が頷くと、貴美は「じゃあ、捨てて来な」とだけ言葉を続ける。そして、振り向きもせずに事務室の方へ――掃除道具が置いてある事務室の方へと歩いて行った。
その背中に冷たい物を感じながら、凪歩は肩を落として室外へ……外に出た途端、むわっとした生暖かい空気が凪歩の頬を撫でる。その風に眉をひそめながら、彼女は手に持っていたガラスの破片を破砕ゴミのポリバケツに放り込んだ。そして、一息……割れたガラスの破片や切れた蛍光灯なんかが入っているポリバケツに、凪歩はいつまでも視線を落とし続けていた。
もう、怒られるだけの価値もないとか、思われてるのかなぁ……とか思ってしまう。思ってしまえば、中に戻るのがなんだか、怖いというか、なんというか……
本人的にはたいした時間を過ごしていたわけでもないのだが、その肩をポンポンと二回ほど叩いた女性にはずいぶんな時間だったようだ。
「どーしたんですか? こんな所でぼーっと突っ立って……汗だくになってますよ?」
黒髪の上司、三島美月だった。彼女に言われ、凪歩は自分が額と言わず、背中と言わず、汗をべったりと掻いていることに気付いた。先ほどまで、空調の効いたフロアに居て、汗なんてかいていなかったのだから、ここで随分とぼーっとしていた計算になる。
「えっ……いえ、なんでも……戻ります」
「何かあったんですか? 相談事くらいなら聞きますよ?」
美月がそう尋ねると、凪歩はぽつりぽつりとここ数週間の間にあったことを語り始めた。
ら、美月は素直に言った。
「えっと……吉田さんに殴られたり蹴られたりしないから、寂しい、と言う訳ですか?」
「……どこをどう聞いたら、そういう結論になるのよ……そうじゃなくて……ちゃんと叱られないのがなんだか、怖いというか、ほら、叱られるうちが華だって、よく言うから……」
「はぁ……じゃあ、私がそれとなく、聞いてみますよ。大丈夫ですって。きっと、非暴力に目覚めただけですから」
「……浅間くんと同じ事言ってる……」
凪歩の呟きが聞こえたのか、美月は「あはは」と誤魔化すような笑い声を上げた。そして、二人は翼一人が洗い物をしているキッチンを通り抜けて、人も疎らなフロアへ……そこで数少ない客の相手をしている貴美を見つけると、美月は言った。
「吉田さん! 凪歩さんがサドい事されなくて、寂しいって言ってますよ!!」
それも割と大声で。
「ちょっと!!??」
多くないとは言え、公衆の面前でマゾ扱いされた凪歩は頭を抱えた。
とりあえず、余りにも体裁が悪いもんでその場でのお話は、いつもの営業終了後のお茶会まで棚上げ。そして、その時間が来ると貴美はバツが悪そうに頭を掻きながら、話を始めた。
「……いや、なお、りょーやんの所に置いて帰って、大丈夫かなぁ……とか、そういう事を考えてると、やっぱ、不安だし、不安に思うのがムカつくしで、ずっと不機嫌だったんだけど、そう言うのを後輩相手に当たり散らすのも体裁が悪いって思って、我慢してただけなんだけど……」
と、聞いてみればどうと言う事のない話。勿論、見捨てたとか、注意する価値もないとか思って居るとか……そういう凪歩の不安を素直に言えば、貴美はキョトンした顔を見せた後、楽しそうにケラケラと笑って言葉を続けた。
「なんかもうね、ここしばらく、怒ったら速攻ボコボコに殴っちゃいそうな精神状態だったんよ。なおが峠に行ったって話を聞いた時も、思わずキレて、思いっきり殴っちゃったしさ。でも、なおみたいになぎぽんのこと、ボコボコに殴れないじゃん?」
「……可愛げのない寂しがり方ですよね……」
貴美の説明を聞いて、美月がポツリと漏らす。すると、凪歩も、今回全く台詞のない翼もコクコクと何度も頷いて見せた。それに貴美は苦笑いを浮かべて、頭を掻く。
「でも、そういう事でしたら……」
話が一通り終わって、美月が一つの提案を行い、そして……――
「って、訳なんで……なお、連れて帰っていいよね?」
と、翌日、貴美はバツの悪そうな顔で良夜に言った。そして、この旅行、後半は女三人の中に良夜一人と言う、素敵な体勢が引かれることになった。
「結局、話し合いから旅行まで、三週間あったことが、一番、不幸だったのは良夜よねぇ……」
女三人に男一人の状況を『不幸』にしている一番の元凶はそう呟いたものだった。