三度目の海、初めての海(1)
 その日、良夜がバイトを終わらせ、日課になってる携帯電話のチェックをすると久し振りに“あれ”が入っていた。
『喫茶アルト』
『喫茶アルト』
『喫茶アルト』
『喫茶アルト』
『喫茶アルト』
 ……
 とりあえず、五回だけ書いてみたが実際の着信履歴にはこれの三倍以上は確実、面倒臭いので数えてなんかいないけど……それほどの多くの着信履歴が残しているというのに留守番メッセージは全くのゼロで、代わりのメールが一件だけ。
『ごめんなさい お店に来てください 美月』
 ため息一つこぼして、良夜は一つ一つ着信履歴を消していく。何をやったのか、何もしてないのか解らないが、それでもアレが騒動の真ん中に居ることだけは確かか? トントンと階段を下る青年の脳裏には、面倒臭いなぁ〜という一言しかなかった。それでも行かずに済みそうにもないし、ノコノコ行く自分が可愛いなぁ〜とも思った。
 美月からただ同然で譲って貰ったスクーターにまたがり、良夜は国道をひた走る。ペンペンという安っぽい音と振動が心地良い。その鼓動をお供にいつもの道をいつもの時間だけ掛けて、良夜がたどり着いたのは喫茶アルトの正面玄関前。
 明かりの落とされたアルトの玄関口にスクーターを停めると、青年は「アレ?」と呟いた。その前に闇の中に溶け込むような漆黒のZZR−400がどーんと鎮座ましましていたからだ。
 別に直樹が営業終了後のアルトに顔を出していると言うことが皆無という話でもない。ただ、良夜と一緒に、と言う事は余りないような気がする。特にアルトの無言電話での呼び出し時に直樹が居たと言う事はあっただろうか……? そんな小さな疑問を胸に抱き、裏口に回った。
「よっ!」
 真っ暗なキッチンから小さな灯一つのフロアへと入れば、カウンター近くの席に五人の人影があった。四人の看板娘ーズに直樹……っと、アルトを含めれば六人だ。一瞬、姿が見えなかった六人目の彼女は、なぜかぼさぼさになっている凪歩のポニーテールの上にちょこんと座っていた。最近はそこの座り心地が良い事に気づいたらしく、仕事をしている時はともかく、してない時はちょくちょくそこに居る。もっとも、今日みたいに彼女の頭が鳥の巣のようになっていることは珍しいのだが……
「遅かったじゃない?」
「遅かったじゃない? じゃないよ……どうしたんだ? 雁首そろえて……」
 凪歩の頭の上から尋ねるアルトに良夜が答える。そして、彼はストゥールに腰を下ろした。美月の横が良かったような気がするが、そこはあいにく貴美と翼が占領中。結果、近場だった凪歩の隣に我が身を落ち着けることにした。
「サーバもネルも片しちゃったから、これ、飲みなよ」
 そう言って貴美が身を乗り出して、缶のままのチューハイを手渡した。スクーターはどうしろって言うんだろう……と考えること三秒、押して帰るなり、置いて帰るなりしろって事だよな、と一人で納得し、缶のプルタブを開く。開いた飲み口から、パシュッと言う心地よい音と共に炭酸ガスが抜ける。そこからくぴくぴと一口飲んで、良夜は大きく息を吐いた。
「ふぅ……で? この缶チューハイの値段は? ただじゃないんだろう?」
 なぜか集まる看板娘ーズの視線に居心地の悪い物を感じながら、青年は三割ほど減った缶を左右にチャプチャプと振ってみせる。飲んじゃってから聞くのもどうかと思うが、飲んでも飲まなくても頼まれごとは断れないのなら、素直に飲んでから頼まれごとを聞いた方がお得だと思う。
「まあ、大したことじゃないですよ〜また、七月の末から海に行きますんで、良夜さんにも来て欲しいなぁ〜ってだけで……」
 美月が答えると、アルトと直樹を含めた五人がウンウンと首肯。その答えに良夜は拍子抜けした物を感じた。
「えっ……毎年行ってる奴、ですよね? いや、俺も楽しみだし、断る理由はないけど……」
 もう一口、缶チューハイに口を付ける。甘いピーチ味が口内に広がり、炭酸混じりのアルコールが喉を心地よく焼く。その刺激が彼に空腹であったことを思い出させた。
「あっ、何か、食い物、あります? 何でも良いんで……」
 言うと、腰を浮かした美月を制して翼がキッチンに向かった。それを横目で見送り、美月はストゥールに腰を落ち着け直して、言葉を続ける。
「で、ですね……実は、前半、四日は私がいけないので……」
「はぁ?」
「いやね……」
 美月の言葉に、思わず良夜が間抜けな声を出してしまうと、続きを説明したのは貴美であった。
 例年なら全員で一斉にという話になるのだが、今年はディナーを始めた影響で清華を呼び戻しても手が合わない可能性がある。特に先日、アルトのディナーがローカル新聞に小さくではあるが取り上げられたおかげで俄に忙しい。この調子だと夏休み本番になっても客が減らないかもしれない。そういう事を考えると全員一斉というわけには行かない。それに、美月の車だろうが清華の車だろうが、六人は乗れない。六人乗れる車は結構大きいので、レンタルするにしても運転が不安だ。
「って、ことで前半後半、二人ずつ分けたい訳なんよ」
「……で、なんで、俺がその前半後半、両方に行くって話に……お前か!?」
「ひっ!?」
 ぎゅん! と音を立ててアルトののんきそうな顔に視線を向ける。その射貫くような――本人的には――視線に、素っ頓狂な悲鳴を上げたのは、アルトの椅子になっている時任凪歩だけ。反射的に腕で顔を庇う彼女の上で、当の本人は
「あら、女相手にすごむなんて、紳士失格よ?」
 等と嘯く。つかみかかってやりたい所だが、それをすれば凪歩が更に怖がるだろうから、一応の遠慮と配慮。後で覚えてろよ、の気分をたっぷりと込めた視線を受け流されつつ、青年はコホンと咳払いで誤魔化した。そして、青年は浮かび上がっていた腰をストゥールに下す。
「ったく……ようするにあれか、アルトが『三日じゃ足りない、一週間、ずっと行きたい』ってごねたせいで、俺がとばっちりを食らう訳か?」
「なんて言ってごねたのかは知らないけど、多分、そういう事なんじゃないんかねぇ……? で、ほっとくとなぎぽんの頭が可哀想なことになりそうなんで、人身御供としてりょーやんを提供することにしたんよ」
「時任さんの頭はすでに可哀想なことになってるとは思うけど……ああ、そういう事ねぇ……」
 最後に残った缶チューハイを一息に飲み干すと、ほぼ同時に目の前にオムライスとお水のグラスがドン! と無造作に置かれた。置いたのは勿論、先ほど、取りに行っていた翼だ。
「……美月さん、ちょっと位はつばさんに給仕とか教えようよ……」
「……良い、私はキッチン一筋だから……」
 余りにもぞんざいな食器の扱いに貴美が眉をひそめるも、翼は眉一つ動かさない。彼女はいつもの鉄仮面を維持したまま、良夜の隣に腰を下ろした。
「あはは、もう、ずっと、この調子なんで……フロアは私が手伝えば良いかなぁ〜って……」
 その態度に美月も苦笑い。もっとも、実際問題、美月の場合、フロアの仕事も好きなので翼にはフロア仕事を覚えて貰うよりも、キッチンの仕事を覚えて欲しいんだろうな、と良夜は察した。
 そんな事を考えながら、パクッと良夜はオムライスをスプーンで崩し、口に運ぶ。どうやら、冷やご飯を炒めてミートソースで味付けし、卵で包んだだけの簡単な物のようだが、それでも十分過ぎるほどに美味しい。
「ありがとう、美味しいよ」
「……んっ」
「ミートソースは私が味付けしたんですよ? 知ってました?」
 良夜の礼に翼が小さく頷く。それに美月が翼の向こう側から顔を出して、薄っぺらな胸を張る。その子供っぽい仕草に「ハイハイ、美味しいよ」と笑みを浮かべると、彼女も満足したように頷いてみせた。
 そのやりとりを面倒臭そうに見ていた貴美が、言葉を続ける。
「……いちいち、対抗心燃やさなくて良いから……でさ、前半、月火水を私とつばさん、それになおも付いてくるから四人で過ごして、木曜日はりょーやんとあるちゃんで留守番するなり、勝手に海に行くなりして遊んで貰って、金土日と美月さんとなぎぽん、それにりょーやん」
「あれ、時任さん、外泊、大丈夫?」
「ええ、社員研修旅行ってことで……なんとか」
 照れくさいというか、バツの悪そうな顔で凪歩が言うと、良夜を始めとした周りも苦笑い。毎年招待される貸別荘、あるのは綺麗な海と綺麗な空と海の家くらいな物。百パーセント遊びだ。それをネタにひとしきり皆で笑いあった後、良夜はふと、気付いた。
「あれ? 直樹は?」
「えっ?! ああ、僕は一応、吉田さんといっしょに帰ってくるつもりですけど?」
 それまでずーっと眠そうな表情で黙り込んでいた直樹が、慌てて顔を上げた。もしかしたら、半分くらい居眠りしていたのかも知れない。彼の半開きで涙のたまった目元はそう思わせるに十分な様子だった。
「いや、お前も前後半、両方出席しろよな……女二人に男一人ってのは気を遣う――……ああ、三人だな、三人、その殺人者の目でこっちを睨むなよ」
 アルトがぎんっ! と目力を込めて睨みつける。右手にはストロー、左手には凪歩の髪。その下では凪歩が目に涙を浮かべて「痛い、痛い」と悲痛な声を上げている。何ともカオスな状況。妖精と青年がにらみ合いと牽制を続け、それに巻き込まれて痛がる凪歩の三角関係、それを崩したのは美月のやけに明るい声だった。
「ああ、ダメですよ〜吉田さんは直樹くんが居ないとダメな人ですから〜」
 その楽しそうな一言を聞いた時、良夜は「ああ……」と天井を見上げた。その嘆息の意味をその場に居た六人の中でアルトだけは理解してくれた模様。それまでぶっ殺しそうな顔で良夜を睨みつけていた顔から険が取れる。そして、肩をすくめて、彼女は小さな声で良夜の気持ちを代弁した。
「しーらない」
 と……
 美月がその一言を言った途端、貴美の顔がぽん! と音を立てて茹だり上がる。茹だり上がったというのに、茹でた本人は全く気が付かない。それどころか――
「直樹くんが居ないとダメなんですよ。ぼーっとしちゃって、いつもあんなにしっかりしてるのに、注文を取り間違えたり、お皿を割ったり」
 等と言って事細かく話を続けていく。
「えぇぇぇぇぇ〜〜〜吉田さんにそんな可愛い所があったんですか?」
「……サド姫様なのに……」
 その美月の説明に凪歩が大げさに、翼が淡々と驚けば、貴美の顔色はかーーっと、端から見てても解るほどに紅潮していく。まさにゆでだこ。ある意味可愛い。そして、止めれば良いのに、素直な男は素直に尋ねた。
「えっ……あっ、どう言うことですか?」
「ほら、直樹くんがオートバイで事故して、入院した時のことですよ〜もう、ずーっとぼーっとしてて、仕事にならなかったんですよ。微笑ましいのですが、お仕事に支障が出るので……」
「ああ……あの時かぁ……でも、吉田さんってこういう風な態度してますけど、ホント、かわいぃ――ぎゃっ!!!」
 可愛いという言葉を発しきったか切らないか、絶妙なタイミングで貴美の肘が直樹の後頭部に飛んだ。 ゴギュッ! とイヤな音を立てて、直樹の後頭部に肘が突き刺さり、同時に額がカウンターに叩きつけられる。やってる顔は、今にも泣きそうなほどに真っ赤で珍しい物が見られたなぁ〜と良夜は眼福を得たもんだと思ったが、やってることは後頭部に何度も肘をたたき込むというえげつなさ。
「あっ、あの、そっ、それ以上やると……直樹くん、死にますから……ね?」
「うっさい! わーった! じゃあ、なおもりょーやんと一緒に前後半、両方出席したら良いじゃんか!! 私はなおなんて居ない方が気楽に生活出来て良いンよ!!!」
 ストゥールを倒す勢いで席を立てば、最後に一言――
「帰ってくんな! りょーやんの家にでも泊まれ!!」
 大声で吐き捨てると、彼女はそのまま、エントランスへと向かった。そして、玄関ドアをガチャガチャ……と、何度ドアノブを回し…………てもドアは開かない。
「あの……吉田さん、そこ、鍵、かけてるから……」
「……うっさい!! わーってる!!!」
 教えた凪歩を怒鳴りつけ、彼女は大股でキッチンを横断、そして、明かりの付いてないキッチンへと消え去っていった。それをただ呆然と見守ることしか出来ない残りの六人……っと、直樹はそれどころじゃないので、残りの五人は呆然と見送るだけ。
 そして、それどころじゃない直樹は……と、言えば。
「かっ、顔……潰れるかと思った……」
 あれだけ思いっきり殴られていたにもかかわらず、彼は鼻血の垂れる鼻を痛そうに撫でているだけ。涙目にこそなっているが、妙に丈夫な人間だ。
 しばしの間、呆然としていた皆々の中、最初に気を取り直したのはある意味、直樹の次に貴美に慣れている凪歩であった。
「それで……直樹くん、後半も参加するの?」
「まあ……落ち着いたら話してみますよ。大丈夫だと思いますけど……」
 凪歩と直樹の会話に「でも……」と割り込んできたのは美月だった。彼女は人の居ない中、貴美が仕事が手に付かないようになったら困る、と言うのが彼女の主張。
「そりゃ、俺もどーしても直樹に居て欲しいって訳でもないけどなぁ……」
「ああ、でも、吉田さん、こうなると、意地でも僕を置いて帰るかも……連れて帰ると、今の流れを肯定することになりますから……」
 直樹がそう言うと、周りの皆も「ああ、そうかも……」という言葉が脳裏を過ぎった様子。何とも言えない微妙な空気感が明かりの落とされた喫茶アルトのフロアを支配する。
「はぁ……」
 誰ともなく、突いたため息の声がやけに大きく聞こえ、そして、美月が言った。
「やっかいな人ですよねぇ……」
 その言葉に、誰もが思った。

(お前が言うな……)

 そして、結局、直樹も前後半共々参加することになった。案の定――
「だから、私はなおなんて居なくても、大丈夫なん!」
 と、貴美が強硬に主張したためだ。

「きっと無理よ」
「言うなよ……」
 胸を張って言うアルトに良夜は軽く頭を抱えた……が、その時、自分はアルト周辺に居ないから、まあ、良いか……と、思うことにした。
 って事を翼に漏らしたら、彼女――その貴美と二人(和明含めて三人、もしかしたら清華も呼び戻せば四人)で留守を守ることになる彼女は無言のまま、良夜の向こう脛を蹴り上げた。どうやら、向こう脛を蹴り上げるのがアルト内で流行っているようだ。流行らせたのは貴美。全く持ってやっかいな女である。

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