ストレス(完)
 雨が降ると来ない人間もいる。その人が来ないと不機嫌になる人も居る。衣替えと同時にメニューも変わって、それを楽しみにしてる人も居る。そう言うわけで今日の喫茶アルトは結構忙しかった。流石に並ぶほどでもないが、注文待ち、ウェイトレス待ちというお客さんはそこそこ。
 人で溢れるフロアを凪歩もバタバタと忙しく走り回っていた。
「走るなって、言ってるっしょ? いい加減にせな、蹴るよ」
 と言われた時には、凪歩は向こう脛を抱えてうめき声を上げていた。前々から確かに言われていたが、歩いてたら間に合わないような気がする。と言うか、絶対に間に合わないって、間に合う方がおかしいって!
「泣きそうな顔してないで、しゃんとしなよ。ほら、お客さん、また来たよ」
 キッチンの片隅、客からは決して見えない位置、ここが貴美の折檻場所になっていた。そこで凪歩を見下ろす貴美の顔は冷たい。絶対にサディストだと思う。出身地は佐渡島に違いない。サドヶ島だ。
 恨みったらしい目で見上げる凪歩をほったらかしにして、貴美はフロアへと戻っていく。その貴美の後を追って凪歩もフロアへ……しばらく足をさすっていたかったが、ちんたらしてればまた蹴っ飛ばされるのがオチなので、しゃんと歩く。
「いらっしゃいませ、ようこそ喫茶アルトへ」
 痛む足でもしゃんと背筋を伸ばして、フロアへ戻れば、貴美は新しい客を案内してる真っ最中。零れんばかりの笑みで客を迎え入れると、彼女は優雅な足取りで空いてる席に案内する。先ほどまで女王様の目で自分を見下ろしていたサドヶ島出身のサド子さんとは思えない。
「いやぁ、やっぱ良いよな、あの子」
「美人だし、愛想いいしなぁ……彼氏とかいんのかな?」
 案内されたばかりの客が貴美の後ろ姿を目で追いながら、そう言っているのが聞こえた。きっと、一年生か二年の文系の学生なんだろう。同級の三年、もしくは近くで生活している工学部系の学生なら二年でも貴美の被ってる猫が着ぐるみ並だと言う事は気づくはずだ。ちなみに凪歩は一緒に働き始めて三十分で知った。三十分経った辺りで初めて向こう脛を蹴っ飛ばされたから。
(折檻場所での吉田さんの映像を流してしまいたいなぁ……動画サイトとかで……)
 そんな事を考えながら働いてるうちに、そろそろランチタイム――大学の昼休みもそろそろ終了というお時間。貴美が腕時計を気にし始めると、一つの山を越えたかと、凪歩も一安心する。貴美が帰る前にまかないをかきこむかなぁ……などとの立案に傾く思考を一つの声が引き戻した。
「すいません、ウェイトレスさん」
「はい」
 答えたのは凪歩ではなく、貴美の方。たまたま、彼女の方が呼んだ客に近かったから。しかし、凪歩はそのお客さんの座っている位置と彼の顔を見て、「しまった!」ととっさに思った。
「あの……コーヒー……まだ、届いてないんですけど……」
「申し訳ありません! すぐにお持ちします」
 テーブルの上にはとっくに空っぽになった食器達、そして、その上で深々と頭を下げる貴美さん。勿論というか、当然というか、予想通りというか、そこの担当なのは凪歩だ。コーヒーは食後に、と言われて綺麗さっぱり忘れてた。だって、忙しかったんだもん……と言う言い訳はきっと通じない。
(マズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイ……)
 頭の中では「マズイ」の一言が何度も何度もリフレインし続ける。その凪歩へと食器を抱えた貴美が近付いてくる。満面の笑みだが目が笑ってない。と言うか、サド姫様の目だ。
「凪歩……五時に事務室しゅーごー」
 ぽつり……すれ違う瞬間、貴美は呟いた。決して周りには聞こえない程度の大きさ、されど凪歩の胸にはぐさりと刺さる程度の大きさ。
「……逃げちゃおうかなぁ……」
 殺意の波動を背に背負い、カウンターの方へと歩く貴美を見送り、凪歩は呟いた。しかし、同時に……でも、逃げたらきっと殺される……比喩表現じゃなくて……とも思った。

 さて、夕方五時四十五分。そろそろ、お昼のお客さんはひけて、ディナーのお客さんはまだというローテーションの谷間。アルトのフロアも落ちついてくる時間帯だ。そんな中、凪歩は窓際隅っこ、いわゆる「浅間良夜と高見直樹の指定席」にいた。放課後は二人ともアルトに顔を出していたのだが、今はすでにバイトに出掛けてしまって、そこは空き家。その空き家に座って――
「いや、ホントね、私が悪かったってのは、解ってるんだよ? でもさ、土間の上に三十分正座させて、ネチネチネチネチお説教ってないと思わない? お姑さんか、ってーんだよね」
 二つのコーヒーカップを前に置き、独り言の真っ最中……と言うのは、第三者の目から見た視線。テーブルの上に放り出した右手の人差し指には、小さくも暖かくしっかりとした重さを感じていた。
「三十分だよ? 三十分、痺れが切れるとか、切れないとかってレベルじゃないから。もうね、土間に体温奪われて、感覚なんてないから。冷え性になるってーの! 女の子が腰冷やしちゃダメだって、おばあちゃんも言ってたよ。難産になるって……お産どころかその前段階もやったことないけどさ」
 指先にチョンチョンチョンと優しい感触。喫茶アルトに住む妖精アルトちゃんのお返事だ。紹介された頃は随分とびっくりした物だが、今ではもう慣れてしまった。それどころか……
「大体、聞いてよ。今日は、朝から付いてなかったんだって。雨降ってるしさ、お母さんはお母さんで絶対に解ってて、黙ってたんだよ? 私が長袖着てるの。それに翼さんは翼さんで一人だけ先に行っちゃうしさ。それに、なんで、私が美月さんちの洗濯物までしなきゃいけないのよ? ついでってついでの方が多いじゃん、九割方ついでだよ? てかね、私だって、出がらしだって、生きてんだよ? 一生懸命、出がらしなりにさ。出がらしのお茶っ葉だって、匂い消しにはなるって話だよ」
 それどころか、何かあると彼女相手に愚痴るのが日課になっていた。
「それにお客さんだって、吉田さんばーっかり褒めてさ。あれ、サド子だよ? サドヶ島出身のサド姫様だって、絶対。なんで高見くんはあの人と付き合ってられるのかなぁ……不思議だよ、やっぱ、グランドラインにある幻のマゾヶ島出身のマゾ王子様だから?」
 一息に愚痴って、ため息一つ。伸ばした指先にチョンチョンチョンとまた三回の合図。一回はYesで二回がNoというルールの上に、最近、三回で「とりあえず聞いてます。ただの相づち」というルールが加わった。
「えっと……アルトちゃん、前から思うんだけど、それ、聞き流してるって事だよね? まあ……聞き流しても良いかぁ……聞いてくれてるだけ……」
 もう一度、深々と溜め息。窓の外へと視線を向けて、コーヒーカップに口を付けた。外はまだ雨、今日は一日降り止まないらしいし、明日も雨だそうだ。明日は凪歩も一つ速い電車に乗って、こっちで着替える段取りを着けておこうか……? 今日もシャツの方は着替えられたがズボンは流石に美月とのサイズが大きすぎて借りられなかった。濡れたままのズボンは結構、気持ち悪かったし、それを考えれば、私服で来てこちらで制服に……と言うのは良いアイデアだと思う。
「とは言え、電車一本分早起きはしんどいよねぇ……十五分だもんねぇ……十五分の早起きかぁ……しんどいなぁ……」
 コトンとコーヒーカップを置くと、その指先に今度ははっきりと二回だけの合図。この流れとしては……と、十秒弱ほど、考えて尋ねてみる。
「十五分くらい早起きしろって……?」
 そう言うと今度は一度だけの合図。どうやら、そういう事らしい。でも、朝の十五分は夜の一時間か……いや、一時間半分はあると思う。雨が降る度に十五分早起きはやっぱりしんどい。どうしようかなぁ〜と思いながら、凪歩はカップをつまみ上げて一口口を付けた。ふんわりとしたコーヒーの香りに、思わず目を細める。
「まあ……うん、考えておく……さてと、じゃあ、そろそろ、仕事に戻るね。ディナーのお客さん、そろそろ入るだろうし。ありがとう、アルトちゃん……愚痴、聞いてくれるから仕事、続いてるって思うよ。また、愚痴りに来るね」
 そういう凪歩の指先にもう一回だけチョンと合図。その合図に頬を緩めると、凪歩は自信のカップを持ってその場を後にした。むしゃくしゃしていた気分が全て晴れた、とまでは言わないが残り数時間は頑張れそう。残りのストレスは自宅に帰って、熱めのお風呂に長く浸かってれば流れ落ちるだろう。
「さあ、ガンバろ!」

「でね、聞きなさい、良夜」
 翌日。やっぱり雨だったが、二日連続で購買の菓子パンと缶ジュースでお昼を済ませると、美月の機嫌が悪くなるので、今日のお昼はアルトのランチを食べていた。
 のだが……
「大体、聞いてれば、ほとんど凪歩が悪いのよ。食後のコーヒーは食後すぐにもってこいって言うのよ。待たされたらガッカリするでしょ!? 私だったら、三分以内に来ないと切れるわよ、マジで」
「……三分は短いよ、三分は」
「うっさい、黙れ、童貞。四十まで童貞貫いて、魔法使いにでも、賢者にでもなっちゃいなさい」
「……うわぁ、殺してぇ……コイツ、殺してぇ……」
「そりゃね、私だって美月があの子に洗濯物をさせたのはどうかと思うわよ? でも、洗濯機にブラウス一枚だとお水も電気ももったいないじゃない? だから、そう言うのは仕方ないって察して上げるべきよ。それが優しさという物じゃないのかしら?」
 凪歩の愚痴に対する愚痴を良夜は愚痴られていた。それも飯の最中に、である。面倒臭いというか……直樹は直樹で、独り言を言ってる良夜が不気味だからと逃げ出してるし、踏んだり蹴ったりだ。
「あの子のストレスが解消された分、こっちにストレスが溜まるって言うのよ、全く……あの子が仕事辞めたりしたら可哀想だと思って、愚痴くらい聞いて上げようと思ったけどね、もう、毎日長いのよ、三十分とか! コーヒー一杯で三十分の愚痴を聞くって、ああ、なんて優しい妖精さん……」
「なあなあ……アルト……」
「……何よ、これからが良い所なんだから、黙って聞いてなさい」
「……まだ、続ける気かよ……って、で、お前は時任さんの愚痴を俺に言って、ストレス解消してんだよな?」
「そうよ?」
「で、今現在、溜まりつつある俺のストレスはどうすりゃ良いんだ?」
「ああん? そんなの、悪夜に向かってブツブツ言ってれば良いのよ。どうせ、相手はどんなにストレスが溜まっても生米かじって、回り車回してれば発散できる齧歯類なんだから」
 なんか、偉そうな顔をして語るアルトに言われ、思わず、良夜はそのざまを想像してみた。
 …………
 どう考えても、心を病んでいる人だ。
「……」
「……」
 どうやらアルトも同じようなことを想像していたようで、額から汗を流して無言になった。無言のままで向かい合うこと十数秒、アルトはブン! と一回頭を大きく振って、その嫌な想像を追い払った。
「いや、流石にそれはないわね……うん。じゃあ、あれよ……走ってきなさい、その辺り、十キロくらい。きっと、ストレスも解消されるわよ。それに痩せるし」
「……じゃあ、お前がその辺十キロくらい飛んでこい。夏に向けて……と、じゃあ、そろそろ、昼の授業に行ってくるよ」
 片手を振って立ち上がれば、アルトも「ハイハイ、気を付けてね」と適当な見送りの言葉を返してくる。その見送りの言葉を背に受け、青年は外に視線を投げかけた。土砂降りというほどではないが結構な雨足。大学まで戻るのも億劫だが、サボるわけにも行かない。いかないが、サボりたい。ポリポリと頭を掻きながら、伝票に手を伸ばせば、アルトが不意に「あっ」と声を上げた。
「そうそう……」
「ん?」
「さっき、また、凪歩が貴美に叱られてたから、きっと、また、後で愚痴りに来るわよ……その愚痴の愚痴、明日、垂れるから覚悟してなさいよ」
 窓に叩きつけられる大粒の雨、それが流れて落ちるのを眺めながら、青年はポツリと呟いた。
「……明日、来るの止めようかなぁ……」
「明日は梅雨の中休みで晴れるわよ、きっと。ちゃんと来ないと美月の機嫌が悪くなるわよ」
 青年は思わず天を仰ぎ見た。相変わらずの梅雨空。その空に語りかける。
(俺の人生、こんなにも理不尽なのか……?)
 と……

「でよ、悪夜よ……ちょっと聞いてくれよ……」
 からからからから……
「大体、アルトってわがままだよな……」
 からからからから……
「……ダメだ、余計に気が滅入ってくる」
 回り車を一生懸命回す悪夜ちゃんの前で愚痴を垂れること十秒、青年はすぐに飽きた。

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