ストレス(1)
朝、目が覚めると降り注ぐ雨の音。ザーザーと言うには少し弱すぎ、しとしとと言うには慎みがない。そんな中途半端な雨音に彼女――時任凪歩は起こされた。目覚まし時計よりも五分ほど早め、寝ぼけ眼をこすりながら目覚まし時計のスイッチを切る。彼女が目覚ましよりも早くに起きるのは、年に数回あるかないかという珍事。だから――
「……雨、振ってるんだぁ……」
肩口を大きく越えるほどに伸ばした髪をかき上げながら、彼女はベッドからのそのそと下りる。閉じていたカーテンを開くと遙か遠く、微かに海が見える……はずなのだが、今日はあいにくの雨空、全く見えない。分厚い雲越しの光を受け入れる部屋は汚れてると言うほどでもないが、あっちこっちにマンガの本やゲームの箱とかが転がっていて雑然としている。前はもうちょっとこまめに掃除もしていたのだが、最近は、アルトでの仕事を始めてからは、どうにもおざなりになっている。
ダボダボのトレーナーとホットパンツが彼女の寝間着。それをぽいぽいと脱ぎ捨て、色の白い裸を惜しげもなく晒す。その上に寄せて上げての無駄な努力と共にブラを着け、シャツに手を伸ばす。週末にまとめてクリーニングに出しているそれはピシッと糊が効いてて気持ち良い。母にアイロン掛けを頼んだら、返ってきたのは「自分でやれば?」の冷たい言葉。アイロン掛けの手間を考えれば一日百円ちょっとの金額は……やっぱり、惜しいか? ひと月分、三千円ちょっとあったら新市街の美味しいお店でちょっとしたランチにデザートとコーヒーまで付けられる。でも、ワイシャツのアイロン掛けとか、ろくにやったことないし……
等と、下らないことを考えてる内に着替えは終了。鏡の前でぼさぼさの髪をとかして、ポニーテールに仕上げる。鏡の中の自分にニマッと笑いかけ、部屋を後にする。
トントンと階段を下りるとキッチンには専業主婦の母の姿。
「おふぁよぉ……」
洗い物をしている母に、あくび半分の挨拶を投げかける。その言葉に母は振り向く。そして、目をまん丸くすると、彼女は一言だけ言った。
「今日は土砂降りねぇ……」
「……自分でもそう思うよ……ご飯は?」
わざとらしく空を見上げる母を横目に、テーブルに腰を下ろす。家族六人がゆったりと食事が取れる広いテーブルだが、今、二人は同じ家には住んでいない。それに凪歩も一緒に住んでいるとは言え、昼と夕食はアルトのまかない、家で食事をするのは朝食くらい。その朝食も父や弟より随分と遅く、一人で食べることが多い。それを考えると――
「テーブル、広くなったよねぇ……」
呟く彼女の前に、白米と味噌汁、それにシシャモがトントンと置かれた。シシャモが少し冷めているのは、きっと父や弟が食べた時に一緒に焼いたものだからだろう。立派な和朝食だが広々としたテーブルの上に一人前というのは、ちょっと寂しい。
「仕方ないわよ。子供なんていつかは巣立っていく物なんだから……」
シシャモを頭からかじる凪歩の前に、母親が腰を下ろした。娘とよく似た面立ちだが、肩口で切りそろえたショートカットなのと眼鏡を掛けてない目元のせいで与える印象は随分と違う。『見た目は凪歩の方がしっかりしてそう』とよく言われる。
「そだね……」
「まっ、あんたはまだしばらくは家に居そうだけどね……」
「うっ……」
冗談めかした母の言葉に言葉を詰まらせる。それを誤魔化すように茶碗の白米を口に書き込む。それに母は柔らかく微笑むと視線を点けっぱなしだったテレビへと向けた。
母の視線の動きにつられて、凪歩も顔を動かす。芸能レポーターらしき人物による有名俳優とアイドル歌手の熱愛報道が終わって、番組は気象情報に変わった。
『……地方は本日、梅雨入りしました。六月一日の梅雨入りは……』
「あっ……うちの辺りじゃん……ああ、この雨、梅雨の雨かぁ……」
お箸の端っこを咥えて、凪歩はぼんやりと呟く。嫌な時期の始まりにげんなりした気分。朝っぱらから思わず、溜め息が零れた。
「そう言えば……凪歩、あなた、六月から衣替えじゃなかった?」
そう言われて凪歩は箸を握る手首を目の高さまで上げる。ピチッと糊の効いた袖口が眩しいほどに白い。それを数秒見詰める。
「わっ!? 忘れてた!!」
慌てて味噌汁を一気飲み、ご飯もがつがつとかきこんで、食事終了。ごちそうさまの挨拶もそこそこに、凪歩は席から飛び上がる。その背後で母の溜め息が静かにキッチンに響いていた。
と、言う訳で折角早起きしたというのに、凪歩が自宅を出たのはいつもより少し遅め。しかも、今日は自転車じゃなくて歩き……と言うか、全力疾走。高校時代から使ってるお気に入りの傘も閉じたまま。薄桃色と白のチェック柄が可愛くて気に入っているのだが、開いても意味がなさそうだ。
この間、自転車に乗り始めたばかりだからカッパなんて持ってないし、傘さし運転は見てるだけで怖そう。そう言うわけで、肩にハンドバッグ、手に閉じたままの傘というお姿で全力疾走の真っ最中。当然、かなりのずぶ濡れ、その上汗だく。ちょっと泣きそう……
エレベータもエスカレータもない田舎くさいプラットホームに上がると、乗るべき電車はそこに居た。とりあえず、そこに飛び込んで息を整える。数十秒も「ぜぇぜぇ」言ってたら、電車は車掌の笛の音と共にプラットホームから滑り出した。
「良かったぁ……間にあったぁ……」
安堵の吐息を漏らして、辺りを見渡してみる。普段ならそんな凪歩をあきれ顔で見ている翼の姿はどこにもない。いるのは経営を危ぶんでしまうほどに少ない乗客だけ……
「……翼さん、今日、休みじゃなかったよね……」
間違えて上り車線に飛び込んじゃったという愉快なサプライズは勿論なく、電車は凪歩の思った方向に走っている。翼が電車に乗り過ごしたと言う事は知り合ってからただの一度もない。だから、先に行ったか、それか風邪でも引いて寝込んでいるか……携帯電話でもあればメールでも送ってみるのだが、凪歩はともかく、翼は持っていない。最初の給料で買うとか言ってたが、それが実行された様子はない。おそらく、買ってないのだろう、と思う。買えば番号ぐらいは教えてくれるだろうし、何より、本体価格と月々の使用料金を聞いた時、表情こそいつもの鉄仮面だったが、声を失っていたからだ。
窓際に一直線に並ぶシートに腰を下ろして、顔を外に向ける。相変わらず、窓を強く叩く雨粒は大きくて、それを見てるうちに大きな溜め息がまた零れた。今日は一日雨らしいから、あっちに置いてる自転車も乗らずにいった方が良いだろう。例年、梅雨と聞くと憂鬱になるが今年はいつも以上に憂鬱だ。
一人きりの電車はいつもよりもゆっくり走っているようで、待ち時間が随分長くに感じられた。それでも電車は客観的にはいつもと同じ時間だけを消費して、アルトの最寄り駅に滑り込む。その駅に凪歩が下りると、やっぱりそこは田舎くさいプラットフォーム。勿論、頭の上には分厚い雨雲と大粒の雨、雨、雨……
「……さっきよりも激しくなってるかも……」
嘆いてみても恨んでみても、雨は凪歩のことなど全く気にしてないように降り続く。その空を一度だけ見上げると、凪歩は折りたたみの傘を開いた。その下、彼女はうつむき、とぼとぼと歩き始めた。途中、自身が自転車を停めている駐輪場の前にさしかかると、彼女は一度だけ顔を上げる。昨日の夜に置いたままの所に凪歩の自転車、その隣にはぽっかりと一台分のスペースが空いていた。そこには翼が停めていたはずだ。ない所を見ると、先に行った様子。今日も元気に出勤していることには安心したが、彼女が先に行っちゃったことにはちょっとだけガッカリ。
凪歩と同じ電車には数人の大学生も居たようで、彼女と同じ道を同じくらいの速度で歩き始めていた。時間は、一コマ目はとっくに始まっているが、二コマ目を考えるのは早すぎる時間。中途半端な時間のせいか、周りを歩く学生達ものんびりとしている。
もっとも、凪歩の出勤時間としては余り余裕はない。のんびり歩けば丁度良い時間になるはず。濡れた頭を乾かす時間とかを考えれば、少し急いだ方が良いだろう。そう思い、凪歩は坂道を登る足を急がせた。
その凪歩に後方から近付いてくる車が一台あった。勿論、凪歩は歩道で車は車道だし、別に車の方がふらふらしているとか、無茶な速度を出しているというわけではない。それどころか、速度で言えば周りの迷惑になるほどの低速だ。なぜなら、その車は車でも、ダンプ、と呼ばれる車だからだ。しかも、土砂を満載してる。
それが凪歩の背後から轟音と共に近付いてくる。満載してる土砂はたっぷりと水を含み、荷台からボタボタと茶色い水を垂れ流し中。
「……汚いなぁ……」
すぐ隣を行き過ぎる車を凪歩は眉をひそめて、見送る。相手も仕事中だとは言え、余り、良い気分では――
ざっぶーん!
と、思っていた矢先、完全に油断していた所に一台の自家用車。それは先ほどのトラックが垂れ流した泥水混じりの水溜まりを踏みつけ、駆け抜けていった。
さて、それから十数分後、喫茶アルトの勝手口に一人の泥人形が立っていた。
「……誰が泥人形だ……」
「……じゃあ、濡れ鼠」
折角の傘も意味がないほどにずぶ濡れの凪歩、その前には大きなバスタオルを持った翼がいた。開襟シャツ姿の彼女はいつもの鉄仮面のまま、凪歩にそのバスタオルを押し付けた。
「ありがとう……」
なんだか泣きそうな気分になりながら、タオルを受け取る。そして、ポニーテールを止めてあった組紐を外して、ガシガシと頭を拭く。髪はタオルで拭けばそこそこどうにかなるが、車に水溜まりの水を引っ掛けられた白いシャツには真っ黒なシミがいくつも浮かんでいて、とてもではないが仕事が出来そうには見えない。
「……あっ、そう言えば、翼さん、今日、早かったの?」
「……んっ、雨、振ってるから……私服で来て、こっちで、着替えた……」
自分の仕事に掛かろうとしていた翼が答えた。その答えを聞いて、凪歩もそうすれば良かった……と思う。しかし、後悔先に立たずと、言う奴。濡れたのはともかく、上から下までびっしりと付いた黒い水玉模様が厳しい。
「……チーフの洗い替え、借りたら?」
「あっ……ああ、そうだね」
翼の提案に従って、凪歩は近くで仕事をしていた美月に声を掛ける。美月はそれを快諾すると、パタパタとスニーカーの音を立ててキッチンを後にした。翼も仕事を始めて、取り残されるのは凪歩一人。首からタオルを引っ掛けて、なんとなく、居心地の悪さを感じながら、とりあえず、事務室へ……
汚れた開襟シャツを脱いでるうちに、冬服のままの美月が着替えてを持って事務室に顔を出した。
「お待たせしました……結構、汚れちゃってますね……」
「うんっ……すぐに洗わないと落ちなくなるかな……」
椅子の背もたれに置いたシャツをつまみ上げて、広げてみせる。まっ白だった生地は今では見るも無惨なコーヒー色。喫茶店らしくて良い……なんて訳はない。
「最近、この向こうで工事してるんですよねぇ……」
どうやらそのためにトラックがひっきりなしに通るらしい。しかも、そのトラックが運んでるのは泥だったり、舗装用のアスファルトだったり……とかく、雨に濡れると汚れた水をばらまくような物ばかり。そう言うのがときどき水溜まりになってて、運の悪い奴が引っ掛けられる。そういう素敵な構図になっていた。
「まあ、しょうがないですし……洗っておきます? うちの洗濯機で……ああ、ついでにシャワーでも浴びて下さい。ちょっと、泥臭いですし……」
「えっ? ああ、良いの? 仕事中なのに?」
「ああ、良いですよ、この時間はまだ暇ですから……あっ、ちょっと待っててくださいね」
そう言って美月はまた事務室から姿を消した。取り残された凪歩はもう一度、汚れた開襟シャツに袖を通した。いくら人が居ないと言っても下着姿でフロアを突っ切る勇気はない。そして、そのままの格好で待つこと五分半。そろそろ、居たたまれなくなってきたなぁ〜と思い始めた頃に、美月がひょっこりと顔を出した。
「お待たせしました」
出て来た美月は薄っぺらい胸に大きな洗濯籠、中にはワイシャツだのワンピースだの……全体的に白い物ばかり。
「えっと……」
「これもよろしくお願いします、ついでに干しておいてください、ここに」
笑顔で洗濯籠を押し付けてくる美月と、それを受け取りながらがっくりとうなだれる凪歩。「やっぱり……」と呟きながら、彼女は教えられた浴室へと足を向けた。
喫茶アルト通称居住区の一角、広いお風呂場でシャワーのお湯が流れる音と、洗濯機の回るけたたましい音が響いていた。
「どっちがついでだよ!!??」
あと、凪歩のヒステリーも……
おまけ。
倉庫の対角線に張ったロープに大量の洗濯物、ブラブラと揺れる姿を見るとなんだかやりきった感。なんだか納得いかない気もするが気持ちよくもあった。
のも数分。彼女はふと思い出した。
「……たっ、タイムカード、押してない……」
時間はそろそろランチタイムに突入する頃だった。