祭りの後
 さて、新人歓迎会の翌日である。当然のように翼は二日酔いだった。物の見事な二日酔いである。起きた時から頭がくらくらするし、薄いベールのような物が思考を邪魔する。それに、吐いた息は恐ろしく酒臭い。一応、今日は三時出社でかまわないと言われているのが唯一の救い。しかし、目覚ましを普段通りに掛けていたせいで、起床時間はいつもの通り。二度寝しようかと思ったが、頭が痛すぎて寝られやしない。
「……気持ちわる……」
 のろのろと緩慢な動きで、昨日の夜から着ずっぱりの服を脱ぎ捨てる。少し地黒なのが玉に瑕な裸体を惜しげもなく晒すと、そのまま、狭いユニットバスへと足を進めた。そして、彼女は少し冷たいシャワーを頭から思いっきり浴びる。
 昨日は失敗だらけだった。飲み過ぎたのもそうだし、いくら気持ちが悪かったとは言え、良夜の胸に思いっきり吐いてしまったこと、今日会ったら詫びなければならない。何よりも……――
「……何……あれ……」
 飲み過ぎると記憶が飛ぶとよく言うが、残念ながら翼は全て覚えていた。ほっぺたを押さえて、ケラケラ笑っていたこととか、直樹に「普段怖い」と言われて泣いてしまった事とか、全部。
「……最悪……」
 強くて冷たいシャワーが翼の首筋から背中を叩く。そこから狭いバスタブの中へと流れ落ちるのを彼女はじっと眺めていた。頭の中に思い起こされるのは、昨日の間抜けな自分の姿だ。笑うわ、泣くわ、タコ踊りはやるわ……これなら、知らない男の隣で目覚めた方がマシだったのでは? と本気で思う……勿論、その手の経験なんて全くないけど。
「ハァ……」
 大きな溜め息が一つ零れる。実際、鉄仮面の自覚はあるし、好きでやってるわけじゃない。同じ年頃の女性が可愛く笑っているのを見て、羨ましいと思うこともあった。しかし、泣くほど気にしてるわけじゃない。こう言うのが良いとは女友達にも……余り言われてないか、と思い至って、ちょっと悲しくなる。
 いつまでもシャワーを浴びていても気分が晴れるわけでなし、水道料金がかさむだけ。彼女は蛇口に手を伸ばすとキュッと強めにそれを締めた。パッキンか何かが弱くなっているのか、油断するとポタポタ水が滴る。古いアパートだからあっちこっちにガタが来ているのは仕方のないことだ。
 彼女は下着の上にTシャツを一枚羽織っただけの姿で浴室から出て来た。それから、キッチン――と呼んでるが、どう見ても台所で歯を普段の倍ほどの時間を掛けてじっくりと磨く。それでも吐く息の酒臭さは全く抜けやしない。むしろ、歯磨き粉の匂いで少し気分が悪くなった。出掛けたしなに口臭消しのガムかタブレットでも買おう。
 ごろっと引きっぱなしになっていた布団の上に下着姿の肢体を投げ出す。翼の名誉のために言えば、普段はちゃんと毎日布団は上げ下げしている。今日は二日酔いでメンドイからやってないだけだ。その布団の上で枕元に転がしてあった文庫本を手に取り、ペラペラとめくる。翼の趣味は一応読書と言う事になっている。図書館で借りればロハでいくらでも時間を潰せるコストパフォーマンスに優れた趣味だ、と自分では思っている。
 って、友達に言ったら思いっきり同情された。つーか、泣かれた。
 しかし、今日はパタンと読んでいた本を閉じ、枕元に投げ捨てる。いくら読んだところで頭に入りやしない。むしろ、読んでるのも億劫だ。軽く目元を押さえて彼女は立ち上がった。溜め息を一つこぼして、部屋の片隅に積み上げている服の山から洗い立てのアルトの制服を取り出した。それをのそのそとたっぷりと時間を掛けて着替える。普段の流れで鏡の中を覗き込むと恐ろしく疲れた顔をしていた。
「……もう、飲むのは辞めよう……」
 右目の下を引っ張りながら、目の充血具合を確かめる。その白目は真っ赤。もう一度、溜め息が零れる。その溜め息すらも酒臭い。

 から〜んと乾いた音のするドアを鳴らして、翼がアルトに入ってきたのは、それから二時間半ほど経った、そろそろ、お昼ご飯でも……と言う時間だった。昼食を自分で作るのも面倒だったし、なにより、喫茶アルトで働き始めてひと月、まともに客として来店した事がない。だから、一度くらいはそう言うのも良いかと思ったからだ。
「いらっしゃいま……――ありゃ、つばさんじゃん、どったの? 今日は三時で良いって言ったよね?」
 翼を出迎えたのは従業員が増えても相変わらず「喫茶アルトの巨乳の方」と呼ばれている吉田貴美だ。並の胸で悪かったな、と思ってるのは秘密。悔しいから。
「……家に居てもやること、ないから……」
「じゃあ、三時までゆっくりしてなよ」
 そういう貴美にコクンと小さく首肯する。そして、老店長が佇むカウンター席へと向かった。
「アイスコーヒー……ブレンド……」
 ストゥールに腰を下ろし、小さな声で彼女は老人に注文を伝える。視線は俯いたまま。起きてからずっと俯いてる気がするし、実際に俯いてるのだろう。上げると頭痛が悪化する気がする。
 そんな翼に彼は優しい声で――
「二日酔いですか? 昨夜は随分と盛り上がったようで……」
「……もう、飲むのは辞める……」
「私も何度そう思ったことか……」
 うつむけた顔を上げもしないで答えると、老人は苦笑いのニュアンスが含まれた声でそう呟いた。その呟きに翼はふと顔を上げた。そして、顔を少しだけ歪める。軽く額を手のひらで押さえて、彼女は尋ねるともなしに尋ねた。
「……まだ、飲む?」
「飲みますよ。流石に二日酔いは……――」
 そう言って老人は指を折ってみせる。どこか芝居がかった仕草は、次の言葉を言うタイミングを計っているようにも見えた。そして、数秒ほどが過ぎて……
「ここ十年ほどはやってませんね」
「……」
 その言葉に翼がなにも応えないで居ると、老人も視線を手元へと落とした。チュンチュンと小さなコンロの上でポットのお湯が沸騰し始める。それに合わせて、老人の手がネルや豆、サーバーを用意し始める。それを翼は見るともなしに見ていた……
 コポコポとお湯が沸騰した。老人はゆったりとした仕草で用意されていたネルにお湯を注ぎ込んでいく。辺りにフワッと芳ばしい香りがわき上がった。そのさわやかな香りは、翼の頭に張った薄いベールのような物を少しだけ晴らしたような気がした。
 頬杖をつき、薄く目を閉じる。そうすると、頭の中を占領するアルコールが少しずつ、コーヒーの香りに置き換わっていくようで心地良い。もっとも、全てが置き換わるには、コーヒーの量は少なすぎるし、アルコールの量は多すぎる。それでもアルコールが翼の意識が拡散していくのを拒まない程度にはなったようだ。
 うつらうつらと頬杖をついたまま、翼は船をこぎ始める。閉じた瞼が作り出す薄闇の中、意識がゆっくりと拡散していく。広がる意識の中で、ただでさえ静かだったフロアの音が更に遠くなっていく……
 そんな時間がしばらくの間続いた。不意に翼の頬がかくん! と手のひらから落っこちると、彼女はゆっくりと瞼を開いた。どのくらいの時間が過ぎたのかは、主観的には解らない。しかし、彼女自身の右腕に着けている腕時計に視線を落とすと、客観的には三十分ほどここで眠っていたと言う事を彼女に教えていた。
「おはようございます」
 そう言ったのは、相変わらずコーヒーを入れている和明だった。その姿をぼうっと数秒見詰めた後、彼女は辺りをキョロキョロと見渡した。
「寺谷さんのコーヒーなら十分ほど前に吉田さんが飲みましたよ」
 老人の言葉に翼が「えっ?」と小首をかしげる。どうやら、翼に起きる気配がないから貴美が飲んでしまったらしい。温くなるし、氷も溶けて薄くなりそうだから……と言う言い分。そして、今、和明の煎れているのが代わりの分だ。
「……と言うわけですから、怒らないでくださいね」
 サーバをコーヒーで満たしながら、老人はわずかに目元を緩める。それに翼はいつものように小さな声で「んっ」とだけ答えた。そして、彼女はストゥールに腰掛けたまま、少しだけ背伸びをした。
 連休中の昼間は客も少なく、閑散としている。そういう話はキッチンに引きこもってる翼の耳にも十分過ぎるほどに届いていたが、こんなにも居ないものかと、今更ながらに呆れさせた。
「毎日忙しいと、おちおち、お酒も飲めませんよ……はい、アイスブレンド、入りました」
 老人は微笑を浮かべてそう言うと、翼の前にコルクのコースターとグラスを置いた。クラッシュアイスが詰められたグラス、その上に暑い煎れ立てのコーヒーが注ぎ込まれる。クラッシュアイスがぴしぴしと澄んだ音を立てて溶けていく。涼しげな音は一足も二足も速い夏を感じさせてくれた。
「……もう、飲まない……」
 十分に氷の溶けたグラスを手にして、翼は呟く。普段よりもぶっきらぼうな声は、自分自身が驚くほど。朝よりかはマシになっているが、まだまだ、気分は良くない。そのせいだろう。
「飲んでる間は楽しかったでしょう? 飲み過ぎなければ大丈夫ですよ」
 老人の言葉を翼は否定も肯定も出来ない。答える言葉も見つからず、代わりに握っていたグラスのコーヒーを一息に飲み干す。
「フゥ……」
 小さな吐息をこぼし、翼はカウンターの上にグラスを戻す。コルク製のコースターの上にグラスを置くと、グラスはコトンと小さな音を立てた。それと同時に、溶けかけた氷がクシャッと音を立てて崩れ落ちる。
「おかわりは如何ですか?」
「……いい」
 そう呟いて頭を左右に振る。その振った頭をチクッと小さな痛み。二日酔いのそれとは違う鋭くも短い痛みが二回。痛みを感じた頭の天辺をさわってみても、違和感は特になし。キョロキョロと辺りを見渡しても、彼女の頭に何かしたような物は見受けられない。
「……??」
 小首をかしげる翼に、老人は微かにほほえみかける。そして、先ほど開けたばかりのポットに新しく水を張り、コンロに掛けた。
「アルトですよ」
「……えっ?」
「寺谷さんが一気飲みしてしまったから、飲めなかった……って怒ってるんですよ、きっと」
 含み笑いを見せて老人が言うと、頭の上でもう一度だけ、小さな痛みが走った。そう言えば、二回が否定で一回が肯定、そんなルールがあったっけ……と、喫茶アルトの新人スタッフは教えられた事を思い出す。そして、もう一度、彼女はきっぱりと言った。
「……いらない」
 彼女が言い切ると数秒の沈黙……そして、グイグイと何度も髪が引っ張られる感触に翼は顔を少しだけしかめた。
「……これ、うっとい……」
 頭の天辺辺りで何かが何度も叩きつけられる感触、痛い……と言うほどでもないが、しかし、二日酔いの頭を揺らされると気持ち悪くなってくる。彼女は、チラリと視線を上に向ける。そこには何も見えない。ごく普通の天井があるだけ。とりあえず、頭の上の蠅でも追うかのごとくに手を振ってみるが、居なくなった様子はなさそうだ。
「何してるんだ? お前」
 そんな事をしていると、頭の上のほうから控えめながらも男性の声がはっきりと聞こえた。そちらへと視線を向ければ、昨夜、ちょっと迷惑を掛けた相手が少し眠そうな顔で突っ立っている。
「……お前?」
「ああ、寺谷さんじゃなくて、アルト。頭の上で地団駄踏んでる」
「……そう」
 小さな声で答えて、視線をテーブルの上に戻す。俯いた頭の上で良夜が二言三言、アルトと言葉を交わしているようだ。片方だけの声しか聞こえないから、どんな会話かは良く解らない。その会話が終わると頭の上で暴れていた何かの気配はなくなった様子。どうやら、彼が妖精を窓際隅っこのいつもの席に連れていったのだろう。
 それを見送り、ブラウスの胸ポケットに入れてあったタブレットケースを取り出す。ポンポンとケースのお尻を叩いて、そこからミントタブレットを手のひらに二粒取り出した。それをパクッと口の中に放り込み、一気にかみつぶす。強烈なミントの香りが口いっぱいに広がる。しかし、手のひらに息を吐き出してみれば、未だにかなり酒臭い。
「そう言うのはあまり効きませんよ」
「……んっ、そうみたい……」
 客商売でありながら良く二日酔いになっていた老人は、こう言う物は一通り試したそうだ。しかし、その手の物で『飲み過ぎないように心がける』以上に効果のある物は何一つなかったらしい。
「まあ、お酒との付き合い方は時間を掛けて学ぶしかありませんね。私なんて、何十年掛かったか……」
 老人のありがたくも、今は余り役に立たないお言葉を耳に、翼はお冷やに手を伸ばす。氷も溶けたお冷やは生ぬるく、余り美味しい物ではない。そのグラスを空っぽにすると、彼女はストゥールに小さな悲鳴を上げさせ、席を立った。向かう先はフロアの裏、キッチン。
 入ればそこは、勝手知ったる我が職場。製氷機からグラスに直接氷を入れて浄水器の水を注ぎ込む。席に戻る前に一息に飲み干し、もう一杯……
「おはようございます〜まかない、食べます?」
 そう声を掛けたのは彼女の上司、美月だ。シンクで洗い物をしていたらしい彼女は、フキンで手を拭きながら翼の方へと近付いてきた。
「でも……まだ、仕事に入ってない……」
「気にしないで良いですよ。三人前も四人前も余り変わりませんし……今日はツナのシソドレッシングパスタですよ、あっさりと」
 茹でたパスタにシーチキンと海苔と大根下ろしを乗せて、市販のシソドレッシングと塩胡椒で味を調えた簡単なパスタだ。この手の簡単にできるパスタ料理がお昼のまかない定番になっていた。これなら二日酔いの今日でも食べられそう……そのお言葉に甘えて、今日のお昼はアルトのまかないで決定。
 グラスに新しいお水を注いで、ふと、翼は手を止めた。そして……
「……浅間くんにケーキ一つ、出して上げて……払いは私で……」
「ふえ? 良夜さんに……?」
 ポツリと小さな声で呟く。勿論、昨日のお詫びだが、その事については秘密。昨日のお礼とでも言っておけば良いかと思った。のだが――
 目を丸くしていた美月がポンと柏手、明るい笑顔で彼女は言い切った。
「ああ、良夜さんの胸に吐いちゃったお詫びですか?」
 つるんと手に握っていたグラスが滑り落ちる。それは真っ逆さまに土間の上に落下して、パーンと涼やかな音を立てて砕け散る。美月が更に目を丸くするも、翼はそのグラスの破片と水と氷のカクテルをクシャッと踏みつけ、一歩踏み出した。
「……なんで? 知ってるの?」
「……なんでって……そりゃ、寝てて起きたら、服を着てた人が脱いでれば聞きますよね……普通」
 半歩ほど後退した美月の答えは、聞いてみれば当たり前の話。良く考えてみれば、あの場に美月も、寝てたとは居たのだから知っていると考えた方が間違いないだろう。そういう話は今となってはわかるが、考えても居なかった。
「……ホウキとチリトリ、取ってくる……」
 がっくりとうなだれ、事務室へ……と、向かう前に一言。
「あっ……あの……内緒……に……」
 翼がそう呟くと、しゃがみ込んで大きな破片だけを先に拾っていた美月が「あっ……」と声を上げた。
「いやぁ……もう、今朝一番に聞いてたりするんよねぇ、その話……と、カルボ、一人前ね」
 その言葉に弾かれたように顔を振り向ければ、そこにはニマニマと底意地の悪そうな顔で笑っている貴美の姿。彼女は手にしていた伝票を所定の場所に貼り付けると、言葉を続けた。
「それと、そう言うのは自分で持ってった方が良いよ? りょーやん、食べるの早いから、十五分後くらいね。それと、グラスの始末書、書いときなよ」
 そう言って貴美はヒラヒラと手を振りながら、その場を後にする。すれば、翼と二人きりで取り残された事を自覚した美月は――
「カルボ、カルボ、カルボナーラ〜♪」
 プイッと視線を外して、調子外れな鼻歌を唇のお供に作業台へ……誤魔化しているようだが、どう見ても誤魔化し切れてない。それに、翼にとやかく言う元気も残っていない。ただただ、翼の頭は更に深く垂れていく。
 そして、彼女は呟くのだった。
「……二度と飲まない……」
 と。

 だが、しかし……

 その数日後の夜、喫茶アルト営業終了後。アルトから峠までの上り坂、二人仲良く自転車を押しての帰り道。ふと、凪歩が楽しそうに翼に声を掛けた。
「ねえねえ、翼さん」
「ん?」
 呼びかけられる声にうつむき加減だった顔を翼は上げる。
「あのさ、お父さんがビヤガーデンのチケットくれたの、二枚。良かったら一緒に行かない?」
 楽しそうに言う凪歩の顔を翼はまじまじと見る。まあ、彼女はあれだけへっちゃらに大量に飲んでたのだから、そりゃ、お酒も美味しかろうと言うもの。しかし、翼は懲りました。二度とお酒なんて飲むものか……と。
「いい……いか――」
「飲みホ、食べホのバーベキューだって。絶対楽しいよ〜これ。値段、気にしないで飲めるしさ!」

 そして、ひと月後。梅雨の合間、綺麗に晴れ上がった蒸し暑い夜。翼は凪歩と一緒に某デパート屋上ビアガーデンに来ていた。その心にはたった一言――
「飲み過ぎなければ大丈夫」
 この一言だけを頼りに……していたのだが、すでに彼女はほっぺたを両手で押さえつけていた。

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