歓迎会(3)
 それは良夜が足りなくなったお酒を買いに出た直後くらいのことだった。一台の真っ黒なオートバイが良夜達のアパート駐輪場に滑り込んだ。高見直樹の愛車ZZR−400だ。直樹は愛車を駐輪場に停めると、ファイヤパターンの眩しいヘルメットを脱ぎ、自室へと向かう。これから喫茶アルトの新人歓迎会に参加するにあたり、彼にはいくつかのしなければならないことがあった。
 まず第一に、オートバイとヘルメットを片付けること。酒を飲むのだから当然だ。
 青年は自宅に戻るとヘルメットを玄関入り口、余り大きくない下駄箱の上に鎮座させる。その隣には貴美のヘルメットも置いてあった。ここに置いておかないと貴美がグダグダと五月蠅い。床の上に転がして置こうものなら、容赦なく蹴飛ばされるので要注意だ。
 次いで第二に……
 置いたばかりのヘルメット、そのシールドをポコンと軽く叩いて、彼は靴を脱いだ。目指すは台所、その片隅にある冷蔵庫だ。二人暮らしとあって良夜の部屋に置いてある物よりも少し大きめ。そこを開けば、賞味期限の切れたドレッシングや売れ残りの揚げ物、それと使いかけのキャベツくらいしか入ってない良夜のそれとは比べものにならないのほどの食材で埋め尽くされている。貴美がこまめに料理とかをやっているからだ。
 その中から、彼は缶ビールを一本取りだした。ごく普通、どこにでも売ってる三百五十ミリリットルの缶ビールだ。それをブラブラさせながら、外へ……階段を下りて、駐輪場を通り過ぎて、国道に出た辺りでパッシュと開ける。
「ああ……綺麗な月夜ですねぇ……」
 グビグビと白く細い喉に濃厚な苦みを持つ液体を流し込んでいく。歩きながら飲むというのは初めての経験だが、まん丸お月様をつまみに酒を飲むというのも悪くない。ちょっとダメ人間っぽいがそれがまた良い。
 これが喫茶アルトの新人歓迎会に向かうためにやるべき二つ目のこと。勿論、やらなければならない理由はちゃんと存在している。歓迎会の開始は午後九時過ぎか遅くでも十時前。そして、今は十一時少し過ぎ。短く見積もっても小一時間は飲んでる計算だ。底なしに飲む貴美はともかく、余り強くない美月辺りはすでに出来上がっているだろう。それに飲酒はほぼ初めてという新人二人も危ない。そこに素面で入れというのは、いくら何でもハードルが高いという物。だから――
 飲んでから行く事にしました。
 以上。
 我ながら良い考えだと、青年は思っていた。ぼんやりと歩きながらに飲むと、空腹なのも合わさって良い具合に酔いが回る。三百五十ミリの缶ビールを一本飲み終える頃には、喫茶アルトは目と鼻の先だし、頭も少しホワンホワンしてきて丁度良い感じ。鼻歌も飛び出しそうなほどの上機嫌で、青年は喫茶アルトの裏口へと回った。
 裏口から入ると、そこは眩しい明かりが灯されたキッチンだ。そこの片隅にあるゴミ箱に空っぽの缶を放り込む。
「お邪魔しま〜す」
 一声掛けると、帰ってきたのは――
「はぁ〜さっぱりした〜」
 明るく快活な女性の声。それは斜め前方、ちょうどシンクの辺りから発せられていた。そこにはポニーテールの頭が一つとザブザブという水の音がまだあった。
「あれ……? 時任さん……? どうかしたんですか?」
 直樹が声を掛けるとポニーテールが弾かれたように回れ右。直樹と視線が合えば、もう一度、回れ右。シンクの中に頭を突っ込み、慌ただしく手を動かす。何をしているのかはよく解らないのだが、彼女が酷く慌てていることだけは判断できた。
「なっ、直樹君!? いっ、いつから居たの?!」
「いつって……今さっき……」
「みっ、見た? 私が吐いてるところ!?」
「……見てませんけど、言ったら一緒ですよね……」
 青年は呆れ声で答える。その声に、それまで直樹に背中を見せて、シンクの中で一生懸命動いていた手が止まった。そして、キリキリと錆び付いたゼンマイ人形のように首だけが背後を向く。直樹に向ける顔は今にも泣きそうな顔……
「よっ、吉田さんには内緒に……ちゃっ、ちゃんと掃除と除菌もしておくからぁ〜」
「……わざわざ言いませんけど……吐くならトイレで……」
「保たないかと思って……えへへ……」
 照れ笑いを浮かべた顔は、今にも舌を出して誤魔化しそうで可愛い物だ。しかし、その愛らしい唇が吐き出す息は、それだけで酔うのでは? と思うほどに酒臭い。
「あの……凄いお酒の匂いしてますけど……大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫です。お父さんも『飲み会は吐いてからが本番』って言ってたから」
「……ダメ人間なんですね……お父さん」
 消毒用のアルコールスプレーを数回吹きつけ、安堵の息を漏らす凪歩と、もはや諦観の溜め息しか出ない直樹。二人は凪歩が取りに行かされていたつまみと残り少ない缶酎ハイ、それと氷が詰まった鉄のバケツ――アイスペールというのだが直樹は知らない――を持ってフロアへと向かった。その道のりはわずか十数秒の距離ではあるが、吐いていたと言うのに凪歩の足取りは恐ろしく軽い。息をする度というか、もう、肌から臭ってくるような酒の匂いがなければ、素面かと思うほどだ。
 フロアの方へ直樹が入ると、美月と翼はすっかり出来上がっているような様子。ライトブルーの液体で満たされたグラスを片手にケタケタと笑っている翼とすでにブラウスのボタンが全て外され、薄桃色の下着が丸見えになっている美月。控えめな胸元を飾る愛らしいブラに顔が熱くなるのを感じながら、青年は視線を外す。
 外したた先には――
「……今、なん見たんよ?」
 不機嫌そうな顔でショットグラスを摘む貴美の顔があった。三白眼の瞳とへの字につり上がった眉、背後にはジト〜と言う書き文字が浮かんでいるような気がした。
「……誰だって固まりますよ……あんなの見たら」
 ジト目の貴美の隣には使っていない皿やグラス、他にらしい席も見えないので青年はその席に腰を下ろす。斜め前の席では半裸の美月が隣の席に座っている翼相手になにやら一生懸命話している様子。別に見たいと思っているわけでもないが、前を向けば嫌でも彼女の胸元に目が行ってしまう。それは健全な男なら仕方のないことだろう……が、流石にまじまじと見ていられるほどに度胸があるわけでもないし、見たら貴美に殺される。仕方ないから、俯いて曇り一つない皿を見詰め続ける。何やってんだろう……と思うこと必至。
「ったく……美月さん、なおのアホが顔を上げられなくなってるから、胸元、閉じなよ」
 貴美が大きな声を上げる。しかし、その程度で美月がボタンを留めるのならば、良夜は苦労しない。この後、美月との間に暑いだの暑くないだのというやりとりが数回。最終的には――
「その貧相な胸、片付けないと死ぬよ!? なおが!!」
「なんで僕がっ!?」
 の脅しで渋々美月は胸元のボタンを上から二つだけ閉じた。まだチラチラと下着や白い素肌は見えているが、先ほどよりかは随分マシ。なんとか顔も上げることが出来るし、食事も出来る。
「でも、やっぱり胸元が熱いんですよねぇ……」
 相変わらず、美月はブラウスのボタンに指をやってクリクリと弄んでいる。油断すると今にもボタンを外しそう。
「つばさん、美月さんがそのボタン外したら思いっきりぶん殴って良いからね」
「あはは〜あいあーい。みじゅきしゃんがぬいだらぶんなぐりまーす」
「……ダメだ、完璧に酔ってる」
 開いてる左手をぶんぶん振って翼は答える。明るく元気は良いが、当てにはなりそうにない。そんな彼女の答え方に貴美は軽く額を押さえた。
「あはは……三島さんの脱ぎ癖、治りませんよねぇ……」
「うちのキッチンスタッフは酒癖が悪くていかんよ。なぎぽんは逆の意味でタチが悪いけど」
「えっ!? わっ、いや、あの……!」
 ワイルドターキーをベースにしたコークハイ制作とその味見に余念のなかった凪歩が、急に話を振られてピクン! と体を振るわせた。そして、濃いめの褐色をした液体で満たされたグラスを慌てて掴んで、テーブルの上をキョロキョロ。隠す場所でも探しているだろうが、そんな場所など料理や酒瓶、空き缶の並べられたテーブルの上には存在してない。それを十分に確認した凪歩は、何を思ったか、それを一気飲み。プッハーと一息漏らす姿を貴美はジィと呆れたような視線で眺めていた。
「ガブガブ飲んだ酒、どこに消えてんよ? 特異体質か?」
「いやぁ〜」
 照れ笑いを見せて頭を掻く凪歩に貴美はもう一度ため息を突いた。
「褒めてないかんね? なんでうちのメンバーってこう、酒癖の悪いのばっかなんかねぇ……」
「でも、時任さんは酒量が多いだけですし、寺谷さんも……普段より明るくて良いですよね? 普段、怖いし」
 笑いながら、青年は貴美に言った。そして、テーブルの中央付近に置いてあったピザの皿に手を伸ばす。なんだかんだ言って、まだ、何も口にしてないのだ。空腹はもはや最高潮と言って良い。そこから一切れつまみ上げる。すると、斜め前に座っている翼と目があった。先ほどまで、ケラケラと楽しそうに笑っていた顔から笑みは消えていて、どこかぼんやりとした表情。あれ? と直樹が思っていると、見る間に表情が陰り、視線が下へと落ちていく。
 そして、彼女はコトンと空になっていたグラスをテーブルの上に置いた。フリーになった両手が俯いた顔を覆う。
「……別に……好きで鉄仮面じゃないもん……私だってみんなみたいに可愛く笑いたいもん……」
 翼がぽつりぽつりと語り始めると、辺りの歓談の声や飲食の手が止まる。
「……どうせ、可愛くないもん……いつも怒ってるような顔だもん……うう……」
 彼女の言葉が零れる度に、他の三人の視線が険しい物になっていく。いや、三人ではない。普段なら感じることの出来ない視線をもう一つ感じる。大体、美月の座っている席の隣辺り。もっと具体的に言えば、コーラらしき水滴で汚れたグラスの辺り。
 そして、それらは……
「……ひっく……ひっくっ……」
 と、翼が肩を振るわせてしゃくり上げ始めた辺りで最高潮に達した。
「……なお、今のは酷いよね……」
「……直樹君、子供でも言って良い事と悪い事があるんですよ?」
「……ああ、泣かしちゃった……」
 貴美、美月、凪歩が口々に直樹を責め立てる。その上、どこからともなく――
「……直樹、今のは最低だわ」
 なんて、聞き覚えのあるような、ないような不思議な声まで聞こえる始末。女性三人プラスアルファに口々に攻められて、気分は、帰りの会で突き上げられるいたずら男子の気分だ。
「いっ、あのっ、いや……あの、ごっ、ごめんなさい。ホント、ちょっとした冗談ですし、笑ってる顔、可愛かったで――ぎゃっ!」
 フォローする言葉が、ゴッ! と言う凶悪な音ともに途中で止まる。左側頭部に感じる猛烈な痛み。ゆっくりと視線をそちらに向ければ、笑顔の恋人が右ストレートを自身のこめかみに突き刺しているのが見えた。
「ほぉ、つばさんが可愛いか? そうか、そうか……」
「……こめかみに右ストレートとか、死にますから! てか、恋人だと思ってんなら、いきなりぶん殴るとか止めてください!!」
「散々、面倒見させた挙げ句に目の前で他の女に可愛いとか……泣くぞ!?」
 殊勝なことを言っているが、左手は彼の胸ぐらを掴んでいるし、たれ目気味の目には殺気が籠もっている。そして、彼女は先ほどまで握りしめていた指をピッと向かい側の席へと伸ばした。
「えへへ……かーいい、言われたぁ……」
「ほら見ろ、喜んでんじゃんか」
 伸ばした先には、先ほど直樹が来た時と比べてもよりいっそうニコニコしている翼の姿。泣いていたとは思えない笑みを浮かべて、体をクネクネさせている。もしかして、泣き真似だったのでは……? と思うほどに彼女の機嫌は良い。実際、別に眼も赤くないし、涙の痕があるわけでもない。と言うか、単に酔っ払っているだけなのだろう。
 その姿に直樹は思わず溜め息が零れた。
「来るんじゃなかった……」

 さて、そうこうしているうちに良夜も帰ってきて、新しい酒が宴に納入された。
「大した量は買ってないからな……」
 と言ってテーブルの上に置いたのは大きめのビニール袋が一つ。一人、缶酎ハイ一本程度の量だろうか? 貴美はワイルドターキーをショットグラスで飲んでるし、凪歩は自作コークハイの味を調整することに夢中とあって、もうちょっとは多めに当たりそう。
 直樹もビニール袋から冷えてない酎ハイの缶を取りだし、氷が入ったグラスにそれを注いだ。薄い黄色をした酎ハイはレモンフレーバー、それが氷を溶かすのをピザを囓りながら待つことしばし……そろそろ冷えたかな? と思ってグラスに手を伸ばすと、ガタン! と椅子が動く音が聞こえた。
「ハイハイ、ちゅーもくですよ〜」
 立ち上がったのはブラウスを上二つのボタンだけで留めている美月だった。彼女は満面の笑みを浮かべながら、ふらふらと定まらぬ視線で辺りを見渡す。どうでも良いが、座ってる時は問題なかったのだが、立ち上がると開いたお腹の辺りが丸見え……
「ハイ、えっとですねぇ〜そのですね、とりあえず、喫茶アルトも新人二人を迎えられましてぇ〜」
 何かと思えば、先ほど出来なかった……と言うか、思いつかなった挨拶の続きらしい。彼女は時折「ひっく!」としゃっくりをしながら、拙いスピーチを続けた。
「それでですね、ひゃっくっ! ひっくっ! 今年度からはぁ、ディナーも始められて……うぅ……ああ……良かったと思いますのでぇ〜えっとぉ……うぅ……礼も言わせてくださぃ……それと、乾杯の音頭もぉ〜」
 ろれつの回らない、ちょっと聞き取りづらい声ではあるが、美月はそう言った。すると、先ほどまでケタケタと笑っていた翼まで居住まいを少し正した。それに気をよくしたのか、美月はニコニコと上機嫌の笑みを浮かべながら、言葉を続けた。
「それでですね、私ですね、本当は人を増やす必要なんてないと思ってたんですよ〜三人でもお店はどうにかなってましたしぃ〜ひっくんっ……うう……飲み過ぎたかも……ひゃんっ……えっと……どこまで話しましたか……えっと……ああ、そうそう、でも、やっぱり、お二人に手伝って貰えて良かったと思ってます。本当に、翼さんも凪歩さんも、ようこそいらしてくださいました。お二人を喫茶アルトにお迎えできて、私は良かったと思います。ディナーもお客さん、沢山来てくれるようになりましたし……本当は少し……いいえ、あの、かなり不安だったんです。ディナー、お客さん来なかったらどうしようって……」
 と、この辺りまでは良かった。美月は目頭が熱くなってきたのか、しきりに指で拭っていたし、それにつられて貴美や凪歩、翼までも美月のスピーチに聞き入っていた。
 だがしかし。
「あっ、でもお金が儲かって嬉しいって話じゃないんですよ? 解ってますか? 思い起こせば、私がお店の手伝いを始めたのは中学生の頃でして、当時はバイトの方が……――」
 この辺りでヤバイんじゃないのか? と、誰もが思ったらしい。
 そして、案の定、彼女は誰も聞いていない中学生の頃の話を延々し始めた。どうやら、その時のバイトウェイトレスは美人で頭が良くてしっかりしていて、それで居て優しい、素晴らしい女性だったそうだ。あこがれていたとか、どうとか……かなりどうでも良い話だ。それを酔っ払いがあっち行ったり、こっち行ったり、迷走状態で話すのだから聞いてる方のテンションは下り最速である。
「その人がですねぇ〜お金なんて、食うに困らない程度あれば良いっておっしゃってぇ〜私もそうだなぁ〜と思いましてぇ〜それで、その方が卒業する時にですねぇ〜うぃ……ひゃっくっ!」
 されど、美月は楽しそうにその話を続けている。
 がんっ!
 テーブルの下で何かの音がした。隣を見れば、えらく浅く椅子に座っている貴美、その斜め向かいでは良夜は顔をしかめて貴美をにらみつけている。おそらくはテーブルの下で貴美が良夜の膝を蹴るか何かしたのだろう。
「んっ!」
「ちょっ、俺か?」
 貴美が顎で美月の方を指し示すと、良夜はぶんぶんと首を振る。そして、また、机の下でガンッ! と大きな音が響く。そんなやりとりが数回続いただろうか?
「……!!!」
「……お前、最低だな……」
 貴美の中指が立ち、良夜の顎がかくんと落ちる。そこにいたり、ようやく、良夜が立ち上がった。
「あっ、美月さん、そろそろ、みんな、飽きて――」
 良夜の言葉は美月の「あっ!」という歓声に中断させられた。そして、彼女は良夜の手を握ると、半ば無理矢理に立たせる。
「ホント、良夜さんにも色々、ご迷惑ばっかりかけてましてぇ〜ねえ、本当に……手が足りなくなったら手伝って貰ったり、今日も運転手を引き受けて貰ったりで、いつも、わがままばっかり言っちゃいましてぇ〜」
 ニコニコと微笑みながら、美月は良夜の腕に手を回す。肘にぶら下がっている姿はまるでダッコちゃん。ボタンを上から二つしか止めていないブラウスの胸元に、彼の顔は真っ赤っか。とてもではないが、意見しようという雰囲気には見えない。その姿は同性の直樹から見ても、情けない限りだ。大体、つきあい始めて一年が経ったというのに、未だに腕に抱きつかれただけで顔を赤くしているというのはいかがな物か?
 と、つきあい始めて四年間、キス以上に進めなかった男は思った。
(まあ、僕は中学生だったし……)
 などと自分のことは心の棚の中に片付け、青年はもう一度、役に立たない友人に向かってため息を突いた。その間も、良夜は美月に腕を抱きしめられてデレデレしているし、美月は良夜の腕に抱きついたまま、楽しそうに昔話を演説中。何ともグダグダな展開だ。
 それにしびれを切らせたのが貴美だった。
彼女は日本海溝よりも深くため息を突くと「ちょっと!」と、少し大きめの声を上げた。
「美月さん! そろそろ、演説は辞めて乾杯せん?」
 ショットグラスをブラブラさせながら、貴美が尋ねる。それまで一生懸命、良夜にお礼を言っていた美月の口が止まり、貴美を見詰めること数秒。
「ああ、そうそう。吉田さんにもお礼をですねぇ〜」
「って、どこまでやる気なんよ!? 日が暮れるから、とっとと……――って、美月さん?」
 半ば怒鳴り声だった貴美の声が止まった。そして、貴美は美月の顔を下から覗き込み、溜め息を一つ。不機嫌そうだった横顔から力が抜ける。あっけにとられた表情で美月の顔を見ていたかと思うと、おもむろに彼女はポケットに手を入れた。そこから取り出したのは、白く真新しいハンカチが一枚。
「日はとっくに暮れて……――えっ……あっ……あれ……なんで……?」
 それを手渡された美月が視線を落とす。すれば、その白いハンカチの上にポタポタと何かが滴り、シミを作り始めた。
「えっ?」
 と、直樹が、そして良夜が美月の顔を覗き込んだ。覗き込んだ彼女の目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちている。顔は笑っているのに、目からは止めどとなく涙がこぼれ落ちている。いわゆる泣き笑いという奴だ。
「感極まったって奴かね……」
「あっ、いや、大丈夫です、ホント……あれ、止まらなくなっちゃった……」
 貴美に答えながら、美月はせわしなく左手を動かし、ハンカチで涙を拭う。それでも涙は決して止まりはしない。
「美月さんらしいやね……」
「もう……それじゃ、私が変な人みたいじゃないですか〜」
 貴美の優しい口調に美月は涙を流しながら笑って答えた。そして、その美月の隣、ようやく、ダッコちゃんから解放された良夜が、美月の右手からグラスを奪った。
「あっ……」
「あっ、じゃなくて……なんで、この期におよんでもグラスを離さないかな……? ともかく、乾杯するなら――」
「一言だけ!」
 良夜が無理矢理乾杯の音頭をとろうとすると、未だ目に涙を溜めたままの美月が遮る。そして、彼女はぺこっ! と深々と頭を下げた。
「本当に、皆さん、ありがとうございます。そして、これからもお店をよろしくお願いします。みんなで楽しいお店、作りましょう!」
 美月の言葉に、まず、貴美が拍手を与えた。次いで、良夜、直樹、それは先ほどまでケタケタと笑っていた翼にまで広がって……凪歩は――
「すー……すー……」
 寝てた。テーブルの上に突っ伏して……眼鏡もきっちり外して、熟睡体制だった。
 その凪歩に全員の視線が集中する。されど、彼女に起きる様子は全くない。チクタクチクタク……秒針がトラック半周するほどの時間、誰もが動けずにいた。
 最初に動いたのは貴美だった。本日、やけに大活躍な右拳がうなりを上げる。
「起きんか! このボケ!!」
 大きく振りかぶられたそれは、適切な角度を持って凪歩の後頭部へとたたき込まれる。
「ぎゃんっ!!」
 バネ仕掛けの玩具のように凪歩が飛び起き、辺りをキョロキョロ。眼鏡を掛けてないせいか、それとも寝起きで眠たいのか、頭を押さえながらもしきりに目をこする。その仕草に一同が声を立てて笑えば、笑われている本人も訳も解らずに笑い始める。
 そして……
「じゃあ、かんぱーーーーーい!!!!」
 宴もとっくに終盤、終わりも見えかけているこのタイミング、それでも、今まで一番明るい声で、美月による乾杯の音頭が深夜の喫茶アルトフロアーに響き渡った。

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