最近、冷たい(完)
 出遅れたせいで良夜の食事が終わる頃には、そろそろ、店内は閉店という時間だった。もっとも最初から閉店まで居座るつもりだから大きな問題ではない。バイト休みの夜は閉店まで粘って、貴美を部屋まで送り届けるというのが定番だ。
「ああ……流石に食ったなぁ……」
 食前酒の後にはイタリアンのディナーコース、スープを飲んで、サラダを食べて、トマトソースのパスタが少々、メインディッシュの肉料理を食べ終えたら、デザートに小さなゼリーを食べて、コーヒーで締める。こういう豪華な食事というのは大学に入学してから初めてかもしれない。
 と言う話をしたら、アルトはこう言った。
「……良夜、ほんっっっっっっっっっっっとぉぉぉぉぉぉぉに、たまには良い物食べなさい」
 しかも、バカにすると言うレベルを超えて哀れむような感じだった。なんと言っても、目に涙を浮かべているのが心に突き刺さるというもの。流石にここまで露骨に哀れみの表情を浮かべられると、余裕のある時は良い物を食べよう……と良夜も思う。思うが結局、次に余裕があると思った時、彼が買った物はパソコンの部品だった。おもにグラフィックボード、後、メモリ。
「半分は食べ物に回しなさいよ!」

 さて、そんなわけで空瓶抱えて小一時間待たされた代償は、本日のコーヒー、飲み放題だった。と言っても、食事が終わった時には閉店直前で客は良夜を除いて数人と言ったところだったし、その数人もすぐに帰った。そうなると飲める量は二三杯と言ったところだろうか? それが代償として安いのか高いのかは、良夜にはよく解らない。貴美が頭を下げてそう言ってきた物だから、気持ちよくそれで許すことにした。と言うか、いつも偉そうにふんぞり返ってる貴美が、真面目に頭を下げているというのは、それが演技混じりであることを理解してても気味が良い。もっとも、凪歩が足を引きずって歩いているのを見た時、多少心が痛んだのだが……
「半分は演技だろうと思うけど、本気で悪かったとも思ってるんじゃないのかしらねぇ」
「そんなもんかねぇ……なんか、腹の中で舌出してそうな気もするなぁ」
「どうかしら? 良夜相手にそれをやるくらいなら、堂々と開き直ってるわよ」
「あっ……それもそうか……」
 アルトとのぼんやりとした会話を余り聞き慣れない声が遮った。
「……ここ、良い?」
 余り抑揚のない声、整った顔に鉄面皮を貼り付けた女性――寺谷翼がトレイの上にコーヒーカップと山盛りのパスタを載せて立っていた。
「他……掃除してるから……」
 返事をするよりも早くに彼女は言葉を続ける。そう言われると断るわけにも行かないし、そもそも、断る理由も特にはない。「どうぞ」とだけ返事をすると、彼女は遠慮することもなく、テーブルに着いた。
「……ありがとう……頂きます」
 そう言って食事を始めた翼を良夜はぼんやりと見るともなく眺めていた。ナポリタンをくるくるとフォークにまとめて、パクリ……アルトのメニューにナポリタンはなかったような気がするので、これはまかない用のオリジナルなのだろう。それを、翼はもそもそもそもそもそもそもそも……――
(飯、まずそうに食べる子だなぁ……)
 黙ってるのと食べる速度が遅い事、何よりも表情が全くぶれないせいで、なんだか、物凄くまずそうに見える。大体、フォークにパスタを巻き付けてるのは良いのだが、それがどう見ても数本単位でしか撒いてない。だから、パスタを食べてるのか、フォークを舐めてるのか、解りはしない。この調子だと食事が終わる頃には営業は終わってんじゃないのだろうか、と良夜は思う。
「……何?」
 視線に気付いたのだろう、不意に彼女が顔を上げた。ちなみに来た時から随分と経っているが、パスタの量は半分ほどにしか減っていない。
「……ああ、別に、なんでもないです」
 慌てて視線をそらせばアルトと目があった。そして、奴はなぜかニマッと笑う。軽く怖いのでさらに視線を別の所へと移動させようかと、悩んでいるところに翼が言葉を発した。
「飯、まずそうに食べる人だなぁ……と思ってた?」
「……ああ、自覚、あるんだ……」
 良夜が言うと翼はコクンと首肯。解っているなら直せばいいのに……と思ったが、良く考えるとどうやって直したら良い物なのかよく解らないので、その事に関しては話を棚置き。やっぱり、もそもそとまずそうに食事を続ける翼を、良夜はぼんやりと眺めていた。
 彼女のパスタが七割ほど減った辺りのことだった。周りの客は全て帰り、明かりも落とされた店内には従業員以外には良夜だけになっていた。そんなおり、ふと、翼はもそもそと動かしていた手を止めた。そして、両手の人差し指でまなじりを持ち上げて言った。
「……今日、チーフの目がこうなってた……」
「あっ……ああ……うん……」
「……キッチンがギスギスしてた……」
「……たっ、大変だったね……」
「でも……」
 一旦彼女は言葉を切る。そして、お冷やを手にすると、それを口に運んだ。そして……
「でも、吉田さんが『りょーやんが来る』って言ったら、機嫌が良くなって……実際に来たら、凄く上機嫌になって……」
「……あはは……そっ、そうですか……」
 乾いた棒読みの笑い声、嬉しくはあるがその三倍は恥ずかしい。そんな気持ちを知ってか知らずか……鉄面皮のまま、彼女は言葉を続けた。
「……挙げ句、ホワイトソースを焦がした……やっかいな人……」
 溜め息を一つこぼして彼女は言う。それを見ていたかくんと頬杖から良夜の顎が落ちる。ずっこけた良夜を見る間、珍しく彼女は眉を潜ませていた。その顔を見上げ、やっぱり、少し凍りついた笑みを浮かべるばかり。翼はその乾いた笑みから皿へと視線を戻す。そして、ポツリと漏らすように言った。
「……でも、ミスしてる方が、居心地は良いから……ちょくちょく来てくれると嬉しい」
 そう言って彼女はわずかに笑った……ような気がした。口角が少し緩むだけの小さな表情の変化は、鉄仮面の上に浮かび上がってすぐに沈み行く。そして、すぐに元の鉄仮面に早変わり。止めていた手を動かし初めて、彼女は再び、まずそうにパスタを口に運び出した。
「まっ、ようするに焦げたホワイトソースは良夜の責任ってことよね」
「どういう思考経路を通れば、そういう結論に達するんだか……」
「二丁目の角を曲がって、コンビニの横の路地に入って、ずーっとまっすぐに行ったどん詰まりにあるマンホールの中に入ればいいのよ」
「……行くとどうなるんだ?」
「疲れるのよ」
「……今、疲れたよ」
 コーヒーカップを背もたれになぜか勝ち誇るアルトを見やり、良夜はプイッとそっぽを向いた。向いた先には、まだ三割ほど残っているパスタを挟んで、まじまじと良夜の顔を見詰める翼の顔。
「何?」
 と尋ねると、翼は、また、ポツリと答えた。
「……聞いてた通りに痛々しい……」
「……吉田さんだろう? 言ったの……」
 本日二度目の痛々しい人認定。苦虫をかみつぶすような顔をして見せ、良夜はアルトの背もたれを手に取った。そして、それを口につける。残っていたコーヒーはすでに冷え切っていた。それを一息に飲み干すと、普段よりもやけに苦いような気がした。
「でも、楽しそう……」
「……そうでもないよ」
「……そう?」
 飲み干して空になったカップをアルトが座るソーサに戻す。そこを椅子代わりにしていたアルトが、べーっと芝居がかったあかんべえをしてみせた。憎たらしいたらありゃしないが、また、イタイ人扱いはいやなので、一旦無視をする。
「ふわぁ……」
 アルトの相手をする代わりにあくびを一つ。良い具合に酔いも回って、お腹も膨れれば、眠くなるのも当たり前。コーヒーの目覚まし効果という奴は、やっぱり、迷信のよう……軽く握った拳をこめかみに押し当て、朧になった視線を薄暗い店内に投げかけた。見るともなしに眺める店内では、ウェイトレス二人がモップを持って右に左にと忙しそう。
「眠いなら、帰って寝たら?」
「……ああ……美月さんに逢いたいしなぁ……――あっ、えっと……寺谷さん、美月さん、まだ、仕事、掛かるの?」
 大きな欠伸ももう一発かみ殺して、翼に尋ねると、彼女は、食事の手を止めて答えた。
「まだ、掛かると思う……ホワイトソース、焦がしたし……」
「と、言う事で、この待ち時間も良夜のせい」
 その答えにアルトが言葉を被してくると良夜はアルトの額をチョンと軽く突く。それをアルトがストローで防ごうとするので、右に左にフェイントを含めながら攻撃する。当事者以外、誰も見てないがなかなかに白熱したバトルだ。
 が、
「カップ……突くと割れる……」
「……ああ、ごめ――イタッ!」
 意識が翼へと逸れた隙にアルトのストローが良夜の指先、爪の間にズブッと突き刺さる。慌てて手を引いても後の祭り。ジンジンと痛む指先を抱えて、アルトの底意地悪そうな視線と翼の無表情ながらも何処か批判めいた視線に晒される。居心地の悪い事請け合い。
「何してんの? 美月さんに仕事させて、つばさんは美月さんの彼氏を逆ナン中?」
 悪くなった居心地に浮かべられた助け船は、貴美の口から飄々と出航したものだった。掃除もあらかた終わらせたらしい彼女は後輩を引き連れ、良夜の席にひょっこりと顔を出した。
「……好みじゃない……掃除、終わった?」
「後はこの席だけ……あっ、つばさん、まかない食べ終わったんなら美月さんの様子見て、掛かるようだったら手伝って上げて」
「……んっ」
 翼が席を立つと、そこに凪歩が、そして別の席から椅子を持ってきた貴美が席に着いた。普段は一人が座っているところに二人が座ると少々狭そうだ。貴美と凪歩は互いの肩を押し付け合うように、狭いスペースを共有している。
 キッチンに消える翼を見送り、視線を良夜に戻した貴美は、ニマッと底意地の悪い笑みを浮かべる。
「で、りょーやんはつばさんをどう思ってるわけ? 好みじゃないそうだけど」
「……どーとも」
「あはは……三島さん、怒りますよ」
 翼同様、まかないのパスタを食べ始めた凪歩がそう言う。翼と比べて食べるのは普通か、むしろ早め。翼の食べ方を見た後だと、やけに早く、やけに美味しそうに食べる人だなと思ってしまう。
「美月さん、りょーやん来たって聞いたら、凄い喜んでたよ?」
「らしいね……」
 翼から聞いた「ホワイトソースを焦がした」という話を伝えると、貴美は「知ってんだ?」と少し残念そうな口調で答えた。そして、彼女は凪歩のパスタを人差し指で数本摘んで口に運ぶ。凪歩が「あっ……」と小さな声を上げて、眼鏡越しの目に涙を浮かべるも、それは丸ごと無視の構えで、貴美は言葉を繋いだ。
「……おっ……良い味出してる……んっ……りょーやんの食生活がアレなのは、ちゃんと伝えてっから」
「どういう風にだ?」
「だから、夕飯は売れ残りの揚げ物がメインで、ハムかつが売れ残ってると幸せな気分になれるって」
「……びっ、貧乏くさいですね……」
「……うわぁ、小市民……」
 貴美の言葉に凪歩とアルトがどん引き。アルトはともかく、貴美に数本のパスタをつまみ食いされた時、この世の終わりと言わんばかりにガッカリしていた凪歩には、言われたくないと思った。
「……総菜のおばちゃんが良くしてくれてんだよ……」
「私もここのまかないでお昼と夕飯、済ませてますけどね」
 そう言って凪歩はスルスルと上手にパスタをフォークに巻き付け、パクパクと勢いよく食べ進めていく。しゃべりながらだというのに食べる速度も遅くならないのは立派。
「野菜クズとウインナーだけのナポリタンだけどねぇ」
 からかうような口調で貴美は言う。ちなみにタカミーズの夕飯もこれを持ち帰って暖めたものに、パンが数枚らしい。
「……俺のはちゃんとした売り物だぞ? 売れ残りだけど」
「売り物だろうがなんだろうが、夕飯にハムカツと刻んだキャベツにマヨネーズぶっかけただけのサラダとご飯って時点で、貧乏くささ満点よ……」
「うるさい、人の飯の上前刎ねてるだけの奴は黙ってろ」
「ふっ、刎ねられてる人間が言えば、ただの負け惜しみよ?」
 思わず言葉に詰まれば、アルトはフン! と鼻で笑う。むかつくことこの上ない。が――
「ほらね、結構、痛々しいっしょ?」
「あはは……」
 わざとらしい耳打ちに、困ったような笑い顔。かくんとうつ向く。そこには氷も溶けきったお冷やのグラスとそこから流れ落ちた水滴がデレ〜とやる気なく流れ出していた。そいつらに向かって「美月さん、早く出てこないかなぁ……」と、彼は一人涙した。
 その願いが天に通じたのだろう。顔を上げるとキッチンから美月が翼を引き連れて、フロアの方へとやってくるのが見えた。
「あっ、美月さん。お疲れさま」
「良夜さん、いらっしゃい。お久しぶりです」
 小さく手を振り声を掛けると、美月は快活な声で言葉を返した。『お久しぶり』の言葉にトゲがあるような気がしたのは、おそらく気のせいだろうと言う事にしておく。ニコニコとしたいつも通りの笑顔、目がつり上がっていたという話が嘘のよう。その笑みを浮かべたまま彼女はさらに言葉を続けた。
「それじゃ、私達、ちょっと反省会ですので……」

 そして、三分後……
 入り口傍にあるレジ、そこに置かれた丸椅子にぽつんと座って良夜はコーヒーをすすっていた。座席ではなくレジに座っているのは、折角掃除したテーブルを汚されたくないと言うウェイトレス二人組――おもに貴美の方の意見。その薄暗い席から、良夜は普段彼が座っている辺りに視線を向けた。席自体は見えていないが、そこから漏れる明かりはやけに暖かそうだ。そこでは、賑々しく会議が繰り広げられている……らしい。話の内容は良く聞こえないので、確信は持てない。
「そこは認めてあげなさいよ……」
「そうなのか?……まあ、アレだよな……いわゆる……ほら……『美月さんは仕事と俺、どっちが大事なんだろう』って奴だよな……」
「……それ、女の台詞よ?」
 結局、この日、良夜はさらに三十分待って、十五分ほど美月と立ち話をして家に帰ることになった。それでも良いか……と思ってしまう自分がちょっとだけ可愛かった。

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