最近、冷たい(1)
 大学三年になったからと言って、良夜の人生がそんなに大きく変わるわけではない。ただ、去年よりも授業が難しくなって、提出物が増えただけだ。だけなのだが、増えた提出物のおかげで喫茶アルトへの出席率が微妙に下がったのは、致し方のないことである、と、良夜は思って居た。
 だがしかし。
 ある朝、お隣さんと三人で登校している時の事だった。
「最近、りょーやんが冷たい……と、美月さんが言ってる」
 何気なく言われた一言は、流石に良夜の心に突き刺さった。
「一応、りょーやんも三年になって忙しいってフォローは入れて置いたけどね? でも、ほら、意外と私が去年までと同じ感じだから、説得力なくて」
 かく言うのは、三年になったらランチのバイトは凪歩に任せて放課後だけのバイトにすると言っていたはずの吉田貴美だった。小さな恋人の小さな手を引いて歩く女性は、三年になってもしっかりとランチタイムのアルバイトをしている。
「時任さんでしたっけ? ダメなんですか?」
 二人の話を聞いてた直樹が、貴美の斜め下から尋ねると、彼女はあっさりと首を左右に振った。
「ううん、ダメじゃないよ。まだ、たまにミスはするけど、たまのミスなら美月さんもやるしねぇ〜もう、立派なウェイトレスだよ」
 その言葉に良夜はふぅんと余り興味もなさそうに答えただけだったが、直樹は「吉田さんが人を褒めた」と言って目を丸くしていた物だ。もっとも、その後、後頭部を一発はたかれたのはご愛敬。直樹が言うには貴美が後輩を褒めるというのは非常に珍しいことらしい。その分、あのポニーテールの新人が有能なのだろう。
「ふぅん」と余り興味もなさそうに、良夜は相づちを打つ。そして、「じゃあ、なんで?」と言葉を続けた。
「私が未だにランチにバイトやってんのは、なぎぽんが頼りないからじゃなくて……三年の授業が意外と簡単だったって事……――なんよ? 二人とも、その面白い顔」
 コイツとの友達付き合いはもう出来ない……と、良夜ははっきりと思った。

 さて、そんなわけで今日のお昼もアルトのランチに食べに行く余裕が、良夜にはなかった。図書館に籠もって資料集めとレポートの制作中。来週までの提出だが早めにやっておかないと、後が辛い。締め切り日まで提出物が増えることはあっても減ることはないのだから……
 そんな中、同じ授業をとっているはずの貴美はバイトに行っているし、直樹は強制連行された。貴美はともかく、直樹は大丈夫なのか? と思うが、いつも最終的には提出物は提出されているので問題ないのだろう。
 で、結局、レポートに必要な資料を図書館で集め終わる頃には、昼からの授業まで二十分ほどの時間しか残っていなかった。この時間からアルトに行くのは勿論、学食での食事すら危うい。そう諦めると、青年は購買で売れ残りの菓子パン二つと缶ジュースを一本手に取り、その日の昼食とした。売れ筋の調理パンならともかく、売れ残りの菓子パンはお世辞にも美味しいとは言えない。つか、ぶっちゃけ、甘ったるいだけのジャムパンとか豆の余り入ってない豆パンとか、物凄くマズイ。それをコーラで流し込むだけのお昼は悲しい物がある。その上――
「美月さんの目がこーなってたよ?」
 貴美がたれ目気味の目を両手の人差し指で持ち上げながら、そう言ったのは、昼一の授業が始まる三分ほど前だった。その時、良夜は次の授業がある講堂でジャムパン片手にレポートを書いていた。ちなみに講堂は飲食禁止が建前だが、破られることが多々ある。
「……あれだ、吉田さん、俺がこー言う昼飯だって、美月さんに言ったでしょ?」
「ちゃんと、クソまずい菓子パンと缶ジュースがお昼だって教えて上げたんよ」
 まずいジャムパンの袋を貴美に見せる。それを見た貴美が満面のほほえみで頷くと、良夜の頭は巨大なハンマーで殴られたかのような激痛が走った。その激痛に耐えながら、彼は最後の一口を口に放り込み、それをコーラで流し込む。そして、空っぽになった口が小さく動いた。
「最悪だ……」
 きっと美月のことだから「まずいパンの方が良いのか?!」と拗ねているに違いない、と言う事が容易に想像できたからだ。
「好き好んで、学食のジャムパンや豆パンを食べる人って居ませんよね」
 話を聞いていた直樹が、苦笑い混じりにそう言う。それにつられて、良夜も苦笑いを浮かべて頷いてみせる。ともかく、安いだけが取り柄の学食のパンを好んで食べる奴は居ない。それが学生たちの共通認識である。
「……スピード違反とかして貧乏一直線の馬鹿なバイク乗り以外は、ねっ!」
 吐き捨てるように貴美が言えば、直樹の顔が苦笑いのまま土色に変わる。明後日の方向に向いた唇が奏でるは「ボクも好き好んで食べたわけでは……」というつぶやき。三食学食の菓子パンの刑一週間はきつかったらしい。
「まっ、ともかく……今夜バイト休みだから、今夜、顔を出すって言っておいて。ああ、機会だし、ディナーでも食べるかなぁ……予約とかやってたっけ?」
 尋ねれば貴美が首肯した。それに良夜は七時半と返す。
「あれ、放課後、来ないん?」
「七時半までにアルトに行くためには色々やんなきゃいけないことがあんの。買い出しとかもあるしな」
 そんな話をしてるうちに担当の教官が五分遅れで講堂に入って来た。雑然としていた講堂内も静まり、午後の授業が始まった。ふたコマの授業が終わると時間は四時半を回る辺り。一度、自宅に帰って荷物を置いて、スクーターに乗って買い出しへ。一週間分の洗濯も片付けて、干して……と、週に二度しかないバイト休みは意外とやることが豊富。アルトに顔を出せるようになったのは七時を少し過ぎた頃だった。
 から〜んとドアベルを鳴らした時、良夜は「おっ?」と小さな声を上げた。この間までなら閉店間際のこの時間は店内は閑散としているのが常だった。しかし、今夜は席の七割か八割程度が埋まる盛況ぶり。二人のウェイトレスも随分と忙しそうに店内を歩き回っている。
「いらっしゃいま――あっ、浅間さん、いらっしゃいませ。予約、取れてますよ」
 そのうちの一人が良夜を見つけるとぺこっと大きなポニーテールを揺らして頭を下げた。店に入って名乗らずとも名指しで呼ばれるのは、常連客だ、と言う気分で心地よい。良夜はにこやからな彼女の笑顔に微笑み返しながら言った。
「ありがとう、寺谷さ――」
「寺谷はキッチンの方です」
 にこやかな空気と笑顔がぴきんと音を立てて、凍りつく。それを解凍したのは、名前を間違われた時任凪歩さん(十九歳)だった。彼女は一言だけを良夜に告げた。
「いつもの席、作ってますので、ご自分でどうぞ」
 プイッとそっぽを向いて、彼女はキッチンの方へと大股に歩いて行った。それを見送り、良夜は軽く溜め息。頭を数回ポリポリと掻くといつもの窓際隅っこの席へと足を向けた。そこでは凪歩の言葉通り、アイロンの効いた白いランチョンマットでお化粧されたテーブルが良夜の登場を待ち構えていた。
「あら、いらっしゃい、何したの? 凪歩、機嫌悪そうな顔してたわよ」
「名前、間違えた……寺谷さんと」
 退屈そうにあくびをするアルトを一瞥し、すぐに視線をそらす。そして、バツが悪そうに頭を掻いて答えた。その答えにアルトも溜め息を一つ、哀れな人を見つめる瞳で良夜を見上げる。その冷たい視線を視野の端っこに見ながら、彼はテーブルに腰を下ろした。
 二人同時に美月に紹介して貰ったから、どっちがどっちときちんと名前を覚えていなかったのが原因。以来、特に親しく付き合ってるわけでもないから、名前なんて覚えてなくても仕方ないじゃん……と、心の中で何処かの誰に言い訳を並べてみる。
「良夜、美月は大事になさいよ。振られたら一生、恋人とか出来ないから」
「うっせ」
 見上げるアルトの額をチョンと突く。イタッと大げさに声を上げる妖精の顔で軽く溜飲を下げておく。もっともその後に刺されたので下がった溜飲がまた上がって、吐きそうになった。
「飲み過ぎなのよ、最近」
「そういう意味じゃない……」
 右手の人差し指をブラブラさせること数分、足をひょこひょこ引きずる凪歩が青年の席に姿を見せた。
「こちら、メニューになっております」
 明るい声で凪歩はメニューを良夜に手渡す。斜めになっていた機嫌も治ったかと良夜も一安心。メニューを受け取ると、それを開きながら、少しだけ気になっていたことを尋ねてみた。
「あっ、どうも……足、どうしたの?」
「……ちゃんと席に案内しろって……吉田さんに蹴られた」
 快活だった言葉が一オクターブ下がった。ついでに辺りの気温も数度下がった……ような気がした。
「ホント、良夜の地雷探知能力、あり得ないほどに冴え渡ってるわね……」
 アルトの言葉に、良夜も最近そうかなぁ……と言う気がしてくる。とりあえず、凪歩にごめんなさいと一言謝った後で、ディナーのコースを肉料理で頼む。ついでに――
「テーブルワイン、ハーフボトルで」
「何、良夜? イタリアンのコースにワインって……何処のおしゃれボーイみたいなマネしてんの? しかも一人で。やって良い事と悪い事の区別はつけた方が良いわよ」
「……これはやって良いことだよ………………多分」
「……力強く言い切りなさいよ」
 呆れるアルトから視線をそらす。知らん顔をする。そらした先には目を丸くする凪歩の姿があった。
「あっ……時任さんも……アルトのこと、知ってますよね?」
「えぇ……まあ……なんていうか、聞いてた以上に可哀想な人の絵面ですね」
「……そこまで言い切った人も初めてだよ」

 そんな感じで注文の時間はおしまい。取り終えた凪歩がキッチンに引っ込むのを良夜は頬杖で見送った。そして、彼女が視界から消えると薄暗い窓の外へと視線を動かした。この時間にここに座っていることも初めてではないが、その時、背後に客が居ることは余りなかった。今日は背後に明るい店内、薄暗い外と店内を隔てる窓には背後の喧噪が映り込んでいた。それが少し不思議な感じがする。
「流行ってんだなぁ……」
「良夜と違って、食にお金を掛ける人間が多いのよ」
 夕飯の九割方が売れ残りの揚げ物と適当に刻んだキャベツにやっぱり売れ残りのドレッシングを掛けて食べるという良夜はアルトの顔をチラッと見る。その顔は侮蔑よりも哀れみの方が強い。しかも目が合うと大仰に目頭を押さえるという小芝居も忘れない。向かっ腹が立つこと受け合いだ。
「……大きなお世話だよ」
 そんな下らない会話と共に待つこと暫し。赤ワインのハーフボトルはすぐに良夜の元へと届けられた。薄切りのバケットの上にチーズが載ったおつまみ……ブルスケッタとか言っただろうか? それも一緒に届けられた。どうやら、ワインをボトルで取ったらついてくるサービス品らしい。薄く切ってカリッと焼いたバケットの上にはほどよく溶けたモッツァレラチーズ、匂いだけでも美味しそう。
「あっ、私も貰える?」
 それを一口囓った時、アルトがどこからともなく小さなショットグラスを取り出した。少し前に良夜と一緒に買いに行った奴だ。それをアルトは席の周辺に隠しておいたらしい。何処なのかは永遠の謎。ショットグラスは小さい、とは言ってもアルトにすれば一抱えもある大きなグラス。相変わらず「今場所優勝のアルト山」だな、と思いながら、彼女のグラスに赤ワインを注ぎ込む。
「飲み過ぎるなよ……」
「飲み過ぎた事なんてないわよ」
「……明らかな嘘をつくんじゃない」
 自身と彼女の持つグラスに半分ほどワインを注いで、小さく乾杯。互いにそれを半分ほど飲み干して、ブルスケッタに口をつけた。甘みの強いフルーティーなワインが塩味の効いたブルスケッタに良く合う。空きっ腹に勢いよく酒を入れると悪酔いするかも、と言う事は自覚しているのだが、ついつい、彼はグラスに注いだワインを飲み干していった。
「食前酒だからってあっという間に飲んでるんじゃないんわよ」
「うるさいなぁ……お前だってガブガブ飲んでんじゃないか……っと……おっ……なくなったな……」
「あっ、もう……飲み足りないのに……おかわりは受け付けないのよ、居酒屋みたいになったら困るって……」
 心底ガッカリしているアルトを尻目に、空になったボトルを指先で撫でる。散々深酒をしていた成果、良夜も随分と酒に強くなった様子、ハーフボトル一本程度だとほろ酔いと言ったところ。丁度良いと言えば、丁度良いのだろうが、少し物足りなくも感じた。
 空になったグラスの縁を指先でツーッと撫でる。それから、グラスを右に傾けたり、左に傾けたり、くるんと回してみたり……
「また、手持ち無沙汰になってる……子供みたいだから止めなさいって言ってるじゃない……」
「あっ……ああ……なんか、暇だしなぁ……」
 グラスを指先で弄びながら、店内へと視線を動かす。来店した時と客の数は余り変わらないようだが、そのテーブルには食事が行き渡っているようだ。それぞれのテーブルでは豪華な食事を囲んでの歓談が繰り広げられていた。
 それを窓際隅っこ、店内から一歩下がった所から眺めている……ランチタイムにも良くしていることだが、酒が入っているせいか、それともディナーという時間帯のせいか? 新鮮で少し不思議な感覚を良夜は楽しんでいた。
「そりゃ、ここは客の席じゃないもの……って、だから、グラスで遊んでて、割ってても知らないわよ?」
 流石にそう言われるとグラスで遊んでもいられなくなる。引っ込めた手を頬杖にして、アルトに視線を戻した。
「ああ……ここ、元々は従業員が休憩する時に使ってたんだっけ? なんか、俺や直樹の指定席になってるけど……」
「そうそう。ここかカウンターの一番端。最近は凪歩や翼が良くまかない食べてるわよ」
 そういうアルトに「ふぅん……」と良夜は適当な相づちを打った。
 貴美はいつも直樹が帰ってくるまで夕食を食べないらしいし、美月も仕事が終わってからの食事でも十分間に合う。しかし、流石に仕事が終わってから電車で帰る二人は多少辛い。そこでこの席でこそこそとまかないを食べているそうだ。と言う事を、アルトが聞きもしないのに講釈を垂れてくれる。
「でも、俺だって普段は晩飯、十一時か十二時だよ。スーパーでもまかないが出りゃなぁ……」
「……無茶言ってるわよ、酔っ払い」
 ほんわかと酔った頭でアルトと下らない話をすること……なんと驚きの三十分。遅くないか? と言う話をしていた頃、ようやく、凪歩がニコニコと上機嫌で席に近付いてきた、その手に一つのプレートを持って。しかし、そのプレートに載っていたのはコースの最初に出てくる皿ではなく……――
 彼女のまかない料理、たらこバターパスタであった。そのたらこバターパスタが乗ったトレイを挟んで凪歩が良夜と見つめ合う時間、約三十秒。それだけの時間が過ぎて、やおら彼女はそれをテーブルの上に置いて、引き返した。
「うわっ、浅間さんのこと、忘れてた!!」
 の、一言を残して……

 喫茶アルト窓際隅っこの席は他の客席からも目立たず、良夜がアルトとしゃべっていても周りから不審に思われずに済む。谷川とその対岸の山がよく見えて、景色も素晴らしい。ただ一つの欠点は、店内から目立たなさすぎて、従業員にも忘れさられるという事だけ……
「だからこその従業員および関係者専用席なのよねぇ……」
 他人事のように呟くアルトを横目に、良夜は責任者の貴美に頭を下げられてちょっと良い気分だった。

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