新人二人(完)
彼女が寝起きする家の庭は広い。その広さは、庭でバーベキュー大会が開けるくらい。実際、上の兄が高校を卒業するまで、毎年のようにやっていた。家自体も勿論二階建てで、四人の子供たちにはそれぞれ自室が与えられていた。欲しいと言えばなんでも、とまではいかないが他の子供に比べれば買って貰える頻度は高かった。コンシューマーのゲーム機などは、兄弟全員でほぼ一通り所有していた。そんなお金持ちの幸せな家に生まれたことを、彼女――凪歩は恵まれているとちゃんと自覚していた。
しかし、彼女はこんな家には生まれたくはなかった。だって、彼女は……
「洋君の妹の割に……」
「静流君の妹なのに……」
「灯君のお姉ちゃんでしょ?」
そう言われ続けて、十九年、彼女は自他共に認める、時任家の出がらし娘だったからだ。
半ば社命で自転車の練習とはどういう了見だろうか、と凪歩は思った。
「じゃあ、なぎぽんは夜、一人でてくてく国道を帰るんだ? ふぅん……へぇ〜……そっかぁ〜貞操帯でも買っとく? 通販で、鍵付きの奴」
自転車の話が出た時、貴美はあのヘラヘラと締まりのない笑顔でそう言ってのけた。そう言われた夜の帰り道が空恐ろしかったこと……路肩の枯れ草が揺れただけでそこから誰か男が飛び出してくるんじゃないか、そんな妄想じみた想像までする始末。翼は翼で着々と自転車の算段をつけてるし、挙げ句の果てが――
「……犬に噛まれたと思えばいい」
である。翼のあの鉄面皮で言われると、どこまで本気でどこから冗談か、解った物じゃない。
「……本気」
「なお悪いわ!」
つー訳で、本日から自転車の練習をすることにしました。正確に言うと、もうすでに仕事を始めている以上、練習する日は実質今日しかない。次の休みまでに翼は自転車を手に入れるだろうし、手に入れてしまえば哀れ凪歩は暗い夜道を一人で歩いて帰ることになる。
そんなわけでジーパンにトレーナー姿という軽装で凪歩は自宅の物置に頭を突っ込んでいた。彼女は朝から物置の荷物をあっちにやったり、こっちにやったりと、大掃除に余念がない……と言っても、勿論、自発的にやっているわけではない。薄暗く、余り広くない空間に、自転車が二台と釣り竿、何だかよく解らない工具等々が、適当にぶち込まれた物置はちょっとした知恵の輪状態。自転車を取りたいからと言って自転車だけを上手に引っこ抜ける状態ではないのだ。
「はぁ……もう、面倒臭いな……」
物置の中はなんだか変な匂いもするし、埃は舞い上がるしとテンションは下がる一方。気がつけば、愚痴がこぼれ落ちる。
「……姉ちゃん、何してんの?」
「ああ……?」
背後から投げかけられた言葉に振り向くと、そこには坊主頭に金属バットを担いでる青年が立っていた。彼女の弟、時任灯―ときとうあかり―だ。バットを担いでいるからと言って、これから何処かに殴り込みに行くというわけではなく、純粋に彼が高校球児という奴だから。ちなみにライト六番という微妙なポジション。
「自転車……色々あって練習しなきゃいけなくなったの。細かい話は面倒臭いから聞かないで……」
一瞥して凪歩は頭を再び物置の中に突っ込み、ようやく、掘り起こした自転車を奥から二台、両方取り出した。どちらも二十七インチ、極々普通のいわゆるママチャリという奴だ。確か、灯はMTBとか言う奴を買っていたように思う。
「二台も?」
「一台はこっちで乗って、もう一台はあっちの駅に停めておきたいの……」
「……乗れないじゃん」
「だから、それを今から練習するの! ホント、あんたって子は昔っから、いちいち、しょうもない事を聞くわね!」
八つ当たり半ばのヒステリーも灯は柳に風と受け流し、コンコンと金属バットで自身の肩を数回叩いた。そして、その先端を古びたママチャリに向けて、一言だけ言った。
「それで?」
灯はそう言って、引っ張り出したばかりの自転車をバットの先っぽで指す。そのバットの動きにつられるように視線を動かすと、見えたのはぺったんこの前輪だ。ついでにぺったんこの後輪と真っ茶色になった挙げ句に力なく垂れ下がっているチェーンも見えた。とても乗れるような状況にないことは一目でわかる。
「ヒロ兄が高校卒業して三年だからなぁ……」
弟がそう言うと凪歩はぺったりと花壇と通路を仕切るブロックの上に腰を下ろした。花壇には芝桜が今を盛りに赤や青の花を一面に咲かしているのだが、のっけから思いっきり躓いた凪歩にそんな物は見えていない。気付いたのは、何気なく後ろ手についた手の平が、彼らを無残にも押しつぶした瞬間だった。その瞬間の次の瞬間、彼女の口を「ああ、もう……」と動かしたは、壊れかけた自転車なのか、折角の花を潰してしまった自分の手のひらなのか……それは凪歩にも解らなかった。
「――……って、灯、何してるの?」
落ちた花びらを摘んでみても元の所に収まるはずはない。少し早く散ってしまった花に小さくお詫びをしてから、顔を上げる。すると、弟は先ほどまでの姉と同様に物置の中に顔を突っ込み、ガサガサと何か物を取り出していた。
「直すんだよ……」
男にしては少し甲高い声が、物置の中から聞こえる。
「……自転車屋さんに持っていくよ?」
ぱんぱんと手を払いながら、物置の中からの声に凪歩は応える。
「ただのパンクだろう? 直せるよ……チェーンも外れてるだけだし……」
「ふぅん」と膝の上に両腕を置き、彼女は弟の行動に視線を向けた。大きな工具箱が倉庫の中から取り出されて、開けられる。中には良く知ってる工具から知らない工具まで盛りだくさん。それらを使って弟は自転車を手際よくばらし始めた。
「……変わった事出来るんだね……」
「知ってれば誰でも出来るよ」
そう答える弟の言葉に、凪歩は、またため息を一つついた。出来る人間はいつだってそう言うのだ。複雑な微分方程式も、英語の読解も、ついでに自転車や皿洗いや、上品な給仕だって、出来る人は「誰でも出来る」と言う。
「箸にも棒にもかからない、出来損ない……かぁ……」
子供の頃から言われ慣れた言葉をため息と共に呟いてみる。昔は随分と傷ついた物だが、最近となっては自分の人生はそんな物だという諦めも付いてきた。
高台の高級住宅地、広い庭もある大きなお家、こう言うところに住んでいるだけあって彼女の両親はお金持ちだ。それも別に祖父母から受け継いだなどと言う訳じゃなく、自身で稼いだというのだから、我が親ながらびっくりする。兄は二人とも名門私立中学の受験に合格し、そこから中高一貫教育を経た上で東京の大学に進学した。上の兄は今年から霞ヶ関勤務だし、下の兄も似たような感じになるのだろうと思う。
引き替え、凪歩は中学受験に失敗どころか、受けることすらはばかられる成績だったので、素直に公立中学に進学。そこから県内有数の滑り止め高校に進学して、そこを並の成績で卒業。拾ってくれる大学もなければ、特にやりたいこともなかったので就職したら、一年と保たずにそこは倒産。ツテを頼んで見つけた次の職場は、大学傍の喫茶店。そこで大学生バイトに蹴っ飛ばされながらのウェイトレス生活と来たもんだ。こんな家に生まれてなければ、並の人生だろうが、この家だと酷く自分がミジメに思えた。
「別に俺だってそんな立派なもんじゃないけど……?」
つぶやきが聞こえたのだろう、坊主頭の青年は自転車をばらす手を止め、顔を上げた。その顔を一瞥、彼女は小さなため息と同時にぽつりと言葉を漏らした。
「……リトルからずっとレギュラーじゃん……高校だって野球推薦だし……」
「主役にはなれない立ち位置だよ……立派なもんじゃないって……野球、好きだし」
再び手を動かし始めた灯を、凪歩はぼんやりと見詰め始める。器用にタイヤからチューブを引っ張り出して、直していく手管は魔法のようにも彼女には見えた。
「……私にはやりたいことも、やれることもないもん……」
灯の手元から潰してしまった芝桜へと視線を向ける。今を盛りに咲き乱れる芝桜と、不注意な娘に押しつぶされた芝桜のコントラストが痛々しい。
それで家族から責められたり馬鹿にされたりでもすれば、もしくは自分がもうちょっと馬鹿だったら、ぐれたりも出来たんだろうな、といつでも思う。しかし、家族はそれについて特に責めもしないし、馬鹿にもしない。『出がらし』とか『出来損ない』の言葉も親戚や教師からは聞いたことがあるが、家族の口から聞いたことはない。そんな家族を困らせないようにしようというのが、凪歩の最後のプライドみたいな物であった。
「……とりあえず、自転車くらい乗れるようになったら?」
「……それが出来れば苦労しないよ……ムカツク弟だね、あんたは」
そんな話も一段落がつけば、灯は黙々と手を動かし始めるし、凪歩も彼の邪魔をしないように口をつぐむ。穏やかな春の日差しが降り注ぐ中、工具がナットやビスを緩めたり締め付けたりする音だけが響く。そんな時間が二時間ほども続けば、自転車のパンクも直され、外れていたチェーンもたっぷりと潤滑油が塗られて復活した。
「まあ、こんなもんかな……姉ちゃん、ちょっと、そこに立ちなよ」
言われるままに立てば、弟が彼女の足の長さに合わせてサドルも調整し、修理は完了。ハンドルを渡されると、彼女は早速ペダルに足をかけ、サドルにまたがってみた。
そして、転んだ。
「……姉ちゃん……」
弟の視線と冷たい声が後頭部に突き刺さる。ちなみに本人の顔は芝桜に突き刺さっているし、芝桜にはハンドルも突き刺さっている。息をするたびに流れ込む土の香りと青臭い葉っぱの香りが溜まらない。そこに顔を埋めたまま、彼女は言った。
「……灯、言いたいことがあるなら言いなさいよ……」
「……思ってた以上にとろくて、バカだったんだな……」
「うっさいなっ!! はっきり言うな! 姉を思いやれ、バカ!!」
ガバッと顔を花壇からかおこす。チラッと視線の端っこに無残にもぐっちゃんぐっちゃんになった花壇と芝桜が見えて、胸が痛む……それと、ハンドルか何かでぶつけた胸は物理的にも痛い。
「……面白い姉をもって、俺は良かったと思うよ……」
で、彼女はこんな感じで自転車の練習を始めたわけだが、その練習風景は思いの外つまらなかったので割愛する。
「ちょっと!」
彼女がまともに自転車を乗れるようになるまで、二週間の時間が必要だった。その間、中古自転車とハムスターのセットという訳のわからない物を二千円で購入した翼が、彼女をネチネチと小馬鹿にし続けたことは言うまでもない。しかし、ネチネチ言いながらも帰り道は自転車を押してくれる辺り、凪歩は翼も優しい女性だとは思った。もっとも、朝は当たり前のように見捨てていってくれるのだが……
そして、二週間が過ぎ、おっかなびっくりではあるが、なんとか普通に乗れるようになった。なったからと言って、特に大きく彼女の人生が変わったわけではない。相変わらず兄も弟も有能だし、彼女の出がらしという自他ともどもの評価も変わったりはしない。
「んんっ……はぁ……はぁ……ぜぇ……はぁ……ひぃ……」
「……エロい声出すな、なぎぽん」
電車に駆け込んで、息を切らして、凪歩にエロい声と小馬鹿にされるのも変わらない。強いて言うなら、家から駅までの通勤時間が短くなった分、朝、起きるのが遅くなったくらい。
ただ……――
「毎朝、この坂、押すのしんどいね……」
「……なぎぽんは根性なさ過ぎ……」
坂道の頂点にまで自転車を押して歩く。その頂点で自転車にまたがり、背後を振り向く。昨日よりもわずかに高い位置から彼女は自分が歩いてきた道を見下ろした。そこから見える風景は、昨日と同じようで、少しだけ違うように見える。それはあの街路樹が、若々しい新芽を芽吹かせているから……ではないような気がした。
「……なぎぽん、休んでると遅刻」
「あっ、うん。待って」
一足先に下る翼を追って、自転車をこぎ始める。流れる風景が昨日よりも少しだけ早くなり、彼女のポニーテールを流す風も少しだけ早くなっていた。
それが凪歩には心地よかった。