新人二人(1)
 話は寺谷翼がアルトに入社した数日後にまで巻き戻る。彼女が寝起きしているのは、旧市街の外れにある古びたアパートだ。彼女と年齢がどっこいどっこいのアパートは畳の部屋が一つとシンク、それと狭いトイレ兼用のユニットバスがあるだけ。安いだけが取り柄のアパートは彼女の遠縁が経営している物だ。両親とは早くに死に別れていて、親戚らしい親戚もこのマンションを経営する親戚が一人きり。他にも居るらしいが付き合いはほとんどない。
 そういうと、不幸な女性にも見えるだろうが、彼女自身はそうとも思っては居なかった。両親を早くに亡くしたのは確かに辛い出来事ではあったが、それでも親戚に引き取られ、食うに困らない環境と雨に濡れない部屋を与えられている。それに何くれとなく面倒をみてくれた友人も少ないながらも居る。それに今年からはついに就職も決まった。
「……来月からは家賃も払おう……」
 テレビと小さな食器棚、CDプレイヤー、そして両親の仏壇、それだけで一杯になってしまうような狭い部屋。狭い部屋だが数年も住んでいると愛着がわいてくる。その部屋の家賃は今のところ支払っていない。しかし、アルトの給料を貰えるようになれば、家賃の支払いくらいは出来るな、と彼女は指を折って考えてみた。
 アルトの制服――臙脂を基調にした男物のスーツは蝶ネクタイを着けなければ通勤に着ていてもそんなにおかしくはない。もっとも全体的に薄着なので真冬になればコートか何かが必要だろう。それはその時にまた考えればいい。小さな鏡の前でショートボブにクシを入れれば、準備はほぼ完成。部屋を出る前に仏壇の前に座って、おりんを一つ叩く。手を合わせ、目を閉じ、余韻が消えるのを待つ。それは物の数秒……
 音もなく目を開き、彼女は立ち上がった。
「……行くね……」
 彼女の部屋は二階、六つ並びの部屋の西から三つ目。サビの目立ち始めた階段をギシギシときしませ、一階まで降りると西の端のドアを通りすがりにコンコンと数回叩き、「出掛ける」とだけ声を掛ける。そこがここの大家兼彼女の保護者が住む部屋。出てくるのを待っていると遅くなるので待たないのがいつものパターンだ。多分、聞いてると思うが、聞いてなくても彼女の知った事ではない。
 駐輪場に行くと自転車が数台並んでいて、彼女が高校時代から乗っている自転車もそこに納められていた。極々普通のママチャリ、免許をまだ持っていない彼女にとって、唯一の足だ。それに乗って十分ほど行けば最寄り駅。アルトでの就職が決まってすぐに買った定期を駅員に見せて、彼女はプラットフォームに上がる。
 待つこと数分、すぐに電車はやってくる。ラッシュアワーから少しずれている上に、下りとあって、車内は経営を危ぶむほどにガラガラだ。その列車に乗り込み、余裕のあるシートに腰を落ち着ける。そこから流れる景色をぼんやりと目で追えば、いくつ目かの駅でプラットフォームに全速力で駆け込んでくる女性の姿が見えた。時任凪歩、数日前から翼の同僚になった女性だ。彼女は大きな眼鏡と電車の窓ガラス越しに翼を見つけると、パッと顔を輝かせ、足早に電車の中に乗り込んできた。
「ふぅ……おはよ〜」
 何処か疲れたような口調で、凪歩はそう言った。その出で立ちはアルトの制服姿ではなく、ジャージ生地の上下に大きなナップザック。出勤すると言うよりもジョギング……もしくは遠足の女子高生のような格好だ。しかも、額にはにはすでにうっすらと汗が滲んでいる。
「……んっ……おはよ」
 ドサッと崩れ落ちるようにシートに座り込んだ凪歩に控えめな声で返事をする。そして、そこから視線を動かし、意識を車窓の外へとは翼は運んだ。ガタンゴトンと再び動き始めた車窓は、そろそろ山間の風景に変わっていく頃。まだ新緑と言うには少し早いが、それでも枯れた冬景色から春めいた物に変わっていく山というのは美しい。翼はしばらくの間、その風景に心を――
「はぁ……はぁ……ふぅ……」
 風景に心を浸す……
「んんっ……はぁ……はぁ……ぜぇ……はぁ……ひぃ……」
 浸す心に雑音がうるさくてたまらない。
「……エロい声出すな、なぎぽん」
「……エロくない! なんか、座り込んだら、疲れがドッと溢れてきて……」
 車窓からわずかに視線をずらして、口から吐息をいくつも吐き出す同僚を見る。まだ、仕事も始まっていないというのに、なぜか、彼女は疲労困憊。こんなので大丈夫かと思ったら……
「……今日は特に高く感じるよね……」
「……気のせい……」
 目的駅で下りて数歩歩けば、心臓破りの坂がずーんとまるで壁のように反り返っている……と言うのは、一般的にはちょっと言いすぎだ。しかし、隣で顔色をなくしている凪歩にとっては、多分、言い過ぎじゃないのだろうと翼は想った。
「ぜぇ……ぜぇ……ぜひっ……はぁ……きっ、きつい……」
「……なぎぽん、体力なさ過ぎ……」
 あっという間に息を切らす凪歩に翼はため息を突く。
「だっ……だって……うわっ、目の前が白い!」
「……眼鏡、曇ってるから……」
 慌てて眼鏡をハンカチで拭いても、掛ければすぐに吐息で白く曇ってしまう。だったら、掛けなければいいと翼などは思うのだが、どうやら掛けないと世界が歪んで見えるそうだ。どうやら、彼女は近視だけではなく、乱視も患っているらしい。そんな凪歩の一歩手前を歩く事、三十分弱、ようやく、二人は大学の前を通り抜け、峠の頂点へとたどり着く。振り返り見れば、駅は遙か彼方、良く歩いてきた物だと毎回思うし、同時に――
「……流石にしんどい……」
 そう呟けば、凪歩は我が意を得たりとばかりにしきりに何度も頷いている。まあ、あの根性ナシは相手にしてても仕方がないので、軽くスルーして、峠を下り始める。
「ああ……車欲しいなぁ……」
「……免許、ある?」
 息切れしているはずの凪歩が言うと翼はチラッと視線だけを後へ投げかけ、返事を与える。その言葉に凪歩はポニーテールを大きく揺らして応えた。
「ううん、まだ……」
「……お金は?」
「ううん、まだ……」
「……ダメ過ぎ」
「……うう……疲れた……これから立ち仕事なのに、もう、足が痛いよ……特に吉田さんに蹴られた向こう脛とか……」
 そこは疲れてようが疲れてなかろうが、関係ないだろうと思うが、とりあえずスルー。チラッと凪歩の曇った眼鏡を一瞥し、翼はてくてくと下り坂を、アルトに向かう。しかし、この道を通い始めてまだ三日程度、凪歩の疲れ方は根性なさ過ぎるとは思うが、確かにこれは何かを考えなければならない。
 ふぅ……小さなため息を一つ。視線を手元に落として、彼女は指を折る。来月の家賃、職場でも持っていないことを驚かれた携帯電話、春物の服等など……買わなきゃいけないもの、欲しいものは沢山ある。その沢山ある物の中に彼女はもう一つ付け加えた。
「……自転車……もう一台、買おうか……」
 彼女は小さく呟く。財布の中身に余裕はないが、専門学校時代にもアルバイトはしてたし、亡き両親の貯金も自転車一台分くらいなら買ったところで問題ない……と思う。そんな心算を建てる耳に凪歩の悲鳴が飛んだ。
「えっ!? ねっ、ねえ、それは辞めようよ、ね、一緒に毎朝歩こう? ダイエットだと思って、ね?」
「……別に……ダイエットとか必要ないもの……見せる相手も居ないし」
「見せる相手なら私も居ないけど、でも、ほら、いつかのために……ね? 一緒にあるこーよー、翼さん」
 自然と視線が下に降りる。人並み程度にふくよかな胸元とがっつりくびれたウェストが目に入った。それを見せる相手が居ないと悔やむのは、うぬぼれではないはず。と、同時に凪歩に視線を向ける。スタイルの良く解るジャージ姿を見れば、やっぱり、彼女だってその心配はないのではないかと、翼は思う。
「……一緒に自転車でも良いと思う……」
「……イヤ、ほら、自転車は……ああ、あれだよ、うん、どうせ、この坂だと押して上がらなきゃいけないしさ」
「……んっ、でも、ここの辺りは下り……それに帰りも、ある……」
「……でも、ほら、あれだよ、あれ、うん、ね、一緒に、歩こうよ。友達じゃない?」
「……」
 執拗にそう主張する凪歩を見やり、翼の足が止まる。それと同時に凪歩の歩みも止まる。静かに見つめ合う二人、その二人の背後、片側二車線の国道を猛烈な速度でトラックが行き過ぎる。ついでに自家用車が数台とオートバイが一台、二人の間を通り過ぎた。
 そして、恭しく翼は一言だけ言った。
「……乗れないの?」
「……」
 凪歩が言葉に詰まれば、思い起こされる事象もある。電車に乗ってきた時にはすでにほんのり汗を含んでいるポニーテール、妙にてかっている額に、弾む息。
「……ああ、乗れないから電車の駅ですでに息が切れてるんだ……」
 思い付くままに言ってみれば、凪歩は妙な作り笑いのまま、額から大量の汗を流し始めて居た。パクパクと動く口元、斜め上空、寒いけど良い天気なお空に彼女は視線を向けた。されど、翼は追求の手は緩めず、トドメの言葉を言い放った。
「……今時、幼稚園児でも乗れる……」
「うわぁぁぁぁぁん!!!」
 脱兎の如くに駆け出す凪歩、その時の彼女はほぼ全泣き。翼はその背中を見送り、小さな声で呟いた
「……まだまだ元気だった……」

 掛けだした凪歩の後をのんびりと歩けば、すぐに喫茶アルト、彼女の職場にたどり着く。この頃はまだディナーの話もしていないのでアルトの店内には老店長を始め、凪歩を含めて四人のスタッフ、全員が揃っていた。もっとも、凪歩は事務室で着替えの真っ最中らしく、朝のコーヒータイムを楽しむカウンターに姿は見えない。
「おはよう、つばさん。朝からうちのなぎぽん、苛めちゃいかんよ?」
「んっ……ごめん」
 金髪に近い茶髪の女性が冗談めかして言うと、翼も素直に謝り、席に着く。すると老店長がコーヒーを入れ始めてくれるので、翼はそれを見るともなしに視線を向けた。この店に入店するまでは余りコーヒーという物は得手ではなかったのだが、ここのコーヒーは美味しいと思う。
「どうしたんです? 凪歩さん、なんか、泣いてましたよ?」
「……なぎぽん、自転車が乗れないって言うから…………小馬鹿にしたら、泣いた」
「……小馬鹿にするのは止めて上げましょうよ……」
 尋ねる美月に答えると、彼女は苦笑い。簡単に今朝の経緯を話せば、貴美がツテを使って安い自転車を見つけてくれるという。ママチャリ程度なら、卒業生が置いて出ていったものが大学に半ば放置されているので、ただ同然で手に入るかも知れないらしい。壊れていなければ拘るつもりは毛頭なく、安ければ安いに越したことはない。
「ああ……でも、それ、困りますね……」
 そんな話を貴美としていると、聞いていた美月がうーんと悩み始める。そして、彼女はようやく着替えを終えて出て来た凪歩にはっきりと尋ねた。
「――あっ、凪歩さん、自転車、乗れないって本当ですか?」
「うわぁぁぁぁぁん!!!」
「……だから、うちのなぎぽんをイジメんなって……」
 出て来たばかりの事務室に泣きながら飛び込む凪歩と、あきれ顔の貴美、カウンターに明るい笑い声が響く。
 さて、美月が困ると言ったのは、帰り道の話だ。
「いくら国道で道が明るいからって、女性が一人ずつ帰るというのも不安ですよねぇ……駅は遠いですし……」
 貴美も大抵毎日一人で帰宅しているが、そちらは家が近いし、良夜や直樹がついていることも多い。しかし、凪歩と翼の場合、駅まで歩かないといけないし、送ってくれる男も居ない。二人で帰っていればひとまず安心と思っていたのだが、流石に片方が自転車でさっさと帰ってしまうと、多少不安だ。
 と、言うのが雇い主の主張だった。物事を余り考えてない人かと思っていたのだが、実は考えているようで、翼はちょっぴりびっくり。と、素直に言ったら、美月はカウンターにのの字を書いて拗ねてしまった。扱いに困る人だと思う。
「ので、まあ……翼さんがずっと押してく――」
「……なぎぽん、練習しろ」
 復活した美月の言葉を遮り、翼は凪歩を見てきっぱりと言い切った。
「……翼さん、十九年間乗れなかった物が、すぐに乗れるわけ――」
「……練習しろ、なぎぽん。押して帰るの、ヤ……」
 翼は凪歩の言い訳を聞く耳を持ち合わせてはいなかった。

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