ディナーもねっ!(完)
 さて、一部に被害をばらまいてはいるものの、ディナーもやり始めると決めた後、三島美月は恐ろしいほど働いていた。先にも出た通り、メニューの参考にするため、遠くは隣県のお店にまで足を伸ばして食べに行ってみたり、専門学校時代の恩師と相談したりと、研究に励む。そして、店にいても試作品を作って良夜と直樹……は、何を食わせても「美味しい」としか言わないので、相手にするのを辞めて、他のスタッフや大食いかつ食べ歩きを極めた男二条陽やらに食べさせては、感想を聞いたりもしていた。勿論、アルトの通常営業には出来るだけ支障がないようにしつつ、だ。これはアルトをして、
「中の人が変わったかもしれない……」
 そう言わしめるばかりの働きっぷりだった。美月は大変良く働いて、アルトの通常営業にも“ほとんど”影響がなかった。
 そう、“ほとんど”で、ある。
 その、“ほとんど“からはみ出た、わずかな部分を一手に引き受けていたのが、寺谷翼さん、二十歳、今年専門学校卒業、新入社員、だ。
『今日のランチはバジルソースパスタ』
 ここ数日、彼女が出勤してくると、出迎えるのはこんな感じの張り紙一枚と、下ごしらえ済みの食材達。この下ごしらえだって、翼も手伝いはしたが主となって執り行ったのは美月本人だから、彼女の働きっぷりがよく解る。とは言え、ご本人は恋人と食べ歩き大会で、こちらは一人寂しくキッチンに残されるとあれば、釈然としない物を感じる事に誰が文句を言えよう?
「……と、言ったら泣いてた。チーフ」
「……泣くでしょ、そりゃ……」
 ザブザブと新人二人並んでの洗い物。翼はぽつりとこぼすと、相方は洗い物の手を一度止め、控えめな笑みを浮かべてそれに答える。直後にはすぐに洗い物をする手の動きを再開し、彼女は言葉を続けた。
「朝から晩まで食べっぱなしで、食通芸能人みたいなこと、してるそうだね。大変だと思うよ」
「……うん。頑張ってるみたい――あっ、それ、洗い直し。チーズが裏に張り付いてる」
 翼が置いた皿には、こびり付いたチーズがちょっぴり残っていた。それを指摘すると、凪歩はゲッと顔をしかめて、ゴシゴシとこすって……――
 割った。
「……帰って……」
「ごっ、ごめん……翼さん……」
 翼が冷たい口調で言えば、凪歩は大きな瞳に涙を浮かべた。何処のお嬢様かは知らないが、凪歩は今の今まで家事を一切やったことがなかったらしい。
「食器は流しに入れてれば、お母さんが洗ってくれるからさ……」
 と、言う家庭で育った女だそうだ。軽く殺意を覚えた、高校卒業するまでろくに家事もさせてない凪歩の母親に。ちなみに料理は小中の家庭科の授業でしかした事がないらしい。
「……嫁に行ったら困る……」
「いや……あの……ほら……旦那がしてくれたら……」
 ボソボソと言い訳のような言葉が耳に届くと、翼はやおら手を止め、凪歩へときつい狐目と称される目を向けた。
「……フリーターで旦那を養うと……?」
「えっ……あっ……イヤ、ほら、高給取りで家事とか得意な……」
「……そんな男は一人で生きていく」
 翼が小さくも良く通る声でぽつりと言うと、キッチンには出しっぱなしの水道の音だけが響き渡る。数秒の沈黙。
「うわぁぁぁぁぁん!!!」
 翼の冷たい言葉に心を抉られ、凪歩は脱兎の如くにかけだす。それをやっぱり翼は冷たい目で見送り、洗い物を再開した。先ほどまでラッフィンググール、二条陽が物凄い勢いで食事をしていたせいで、荒い物はまだまだ山と残っている。その山を前に翼は黙々と手を動かし続けた。
 そして、数分後、片足でピョンピョンと跳ねながら帰ってきた。
「うう……吉田さんにアリキックされた……」
 半泣きではなく、ほぼ、全泣きである。
「……洗い物、続けて……終わったら、始末書も……」
「……あい」
 チラリと一瞥、今度は手も止めずに声を掛ければ、彼女も一言だけ帰して、洗い物を再開する。出来るだけ、汚れの酷い物はこちらで引き受け、凪歩には余り汚れてない物を担当させる。とは言っても、汚れてないからと言って、雑に洗って良いわけでもなく、結局、凪歩が洗った物を横目でチェックしながら、自分の洗い物もするという体たらく。
 こんな感じで、美月不在のしわ寄せは確実に翼の元へ打ち寄せて来ている。もっとも、凪歩がここまで家事がペケな人間というのは、美月にとっても、貴美にとっても想定外だったのだろうと思う。思うから、我慢とがんばりを続けているのだ。
「なぎぽん、つばさん、フロア、落ち着いたから、店長が私らにもコーヒー、煎れてくれるって。皿洗い終わったら、出といで」
 そんなストレスの溜まる皿洗いが一息つく頃、貴美がお気楽な笑顔を浮かべてキッチンへと入って来た。ちなみに「つばさん」というのは貴美が決めた翼の愛称である。こう言うのは初めてなのでちょっと嬉しい。なお、これ以外につけられたことのあるあだ名は『キャプテン』である。翼だから。親と自分の名前がちょっぴり嫌いになった。
「……もう少し……掛かるかと……」
 シンクの中でてんこ盛りになった食器をチラ見して、翼は答える。それに貴美は「おっけー」とお気楽な返事をしてフロアーへと出て行った。その後ろ姿を見送りつつ、翼はもうひと声だけ掛けた。
「あっ、それから……なぎぽんはもっと掛かる……始末書、書くから」
「うぐっ……翼さん……」
「……黙れ、なぎぽん」
「……なぎぽんは止めて……」
 なぎぽんも可愛いあだ名だと思うのに……

 さて、事務室へ始末書を書きに行った凪歩を見捨てて、翼は一足先にフロアへと顔を出した。店内の人影はまばらで、それぞれのテーブルでは、すでに届けられているコーヒーやケーキをお供に歓談のひと時が静かに流れていた。
「なぎぽん、またやったん?」
 すでにカウンター席を陣取り、コーヒーを傾けていた貴美が尋ねると、翼はコクンと小さく頷いた。
「……ピザのお皿……」
「ピザの皿かぁ……あれ、大きいだけで余り高くないから良いか……」
「お怪我の方は?」
「上手に安いお皿を選んで割ってる。怪我でもすれば懲りるのに……」
 老店長の質問に答えながら、翼もカウンター席の一つに腰を下ろす。降ろすとほぼ同時にすっとコーヒーカップが目の前に置かれた。流れるようなリズムを心地よく感じる。彼女は『頂きます』と小さな声で言うと、早速それに口をつける。インスタントや缶コーヒーにはない香りが鼻腔をくすぐり、カップ全体を手のひらで包めば、水仕事で冷えた手に温かさが優しかった。
「つばさん、コーヒー、苦手じゃなかったん?」
 問いかける貴美をコーヒーカップが半分ほどになる程度待たせ、翼は小さな声で答えた。
「……インスタントや缶コーヒーは苦手……相変わらず」
「ふぅん……」
 不思議そうな顔をして貴美は自分のカップに残っていたコーヒーに口をつける。彼女の口内に流れ込むのは、一杯のコーヒーにスティックシュガーを一本半とミルクも二人前近く入れたカフェオレもどき。それを一口二口の見込むと、彼女は不思議そうに小首をかしげる。アルト店内では『泥水でも砂糖とミルクを入れたらコーヒーだと思って飲む人間』という陰口を叩かれている女らしいと、翼も思う。
「……馬鹿舌……」
「……聞こえとんよ? つばさん」
 ポコンと貴美が頭を小突く。それを片手でさすりながら、コーヒーにまた口をつけた。
「美月さんがバタバタしてまして、キッチンの方、大変かと思いますが、頑張ってください」
 老人の柔和な表情でそう言うと、翼は「んっ」とだけ小さな声で答える。「んっ」と小さく答え、翼はふとっ気付いた。
「……店長が手伝ってくれれば楽に……」
 両手で包み込むように持ったカップから、顔を上げ、翼は呟いた。そのつぶやきに貴美も和明も沈黙。二人は互いの顔へと視線を送り会うと、にこやかな笑顔で一言だけ言った。
「……やっと気付いた……」
 と。
 その一言が穏やかな午後のフロアーに拡散していき、ついには、その言葉がそこに存在していたと言う痕跡すら消え去っていく頃……
「うわぁぁぁぁぁん!!!」
 翼は席を立ち、泣きながらキッチンへと走り去っていった。
 ちなみに和明は美月が居ない事を良い事に、思いっきりパイプをくゆらせていた……と言う事は美月にだけ秘密である。

 こんな感じで一部に多大な悲喜劇を振りまきながらも、四月初旬のある日、大学で入学式が執り行われたある日、喫茶アルトのドアに小さな張り紙が張られた。
『新年度も喫茶アルトをよろしくお願いします
 今年度からはディナーもねっ!』

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