ディナーもねっ!(5)
 その日、浅間良夜は一見するとデートのようにも見える物を美月と約束していた。
 美月と出かけるのは楽しい。それが大したことのないドライブ程度でも、それがアルトというおまけ付きの物であったとしても、十分に楽しいと思える。そう言う時、良夜は「ああ、彼女のことが好きなんだな」と自覚してしまう。
 が
「はぁ……」
 アルトへと向かう足取りは決して軽くない。お腹がギュルギュルと不平を訴えると、ますます、足取りは重くなる。しかし、いくら重くても自宅から目と鼻の先にある喫茶アルトへは十分と経たずに着いてしまう。
「あっ、おはようございます、良夜さん。朝ご飯、ちゃんと抜いてきました?」
 足取りの重い良夜に比べて、白いブラウスと若葉色のスカートの彼女が明るいことと言ったら……
「えっ……まあ……」
 言われた通りに良夜は朝食を食べていない。昨日の夜も少なめにした。だからこその、お腹の不平不満。
「では、まいりましょう!」
 明るく宣言する美月に「待って」と言えば、彼女は途端にぷーっと頬を膨らませる。膨れても愛嬌のある顔だな、とも思いながら、青年は彼女におまけが居ない事を伝えた。
「アルトが居ないから……呼んできます」
 そう言ってアルトの店内へと走り込む。辺りを見渡すと……カウンターの上で老店長の煎れたコーヒーカップを背もたれにくつろぐ馬鹿と目があった。
 その馬鹿は良夜と視線が交わった瞬間、ピン! と体を跳ね上げ、アタフタと小さな羽を一生懸命に動かし、逃げ出し始める。も、そもそも、身体が小さく、相応に足の遅いアルトが逃げられる物ではない。物の数秒と掛からず、彼女の小さな体は良夜の手の中。首から下を両手で握られ、そこから見上げる顔には冷や汗がべったりと溢れ出していた。
「おはよう、良夜。良い天気ね」
「逃がすと思ったか?」
 棒読み口調の妖精を上からのぞき込むと、彼女はプイッとそっぽを向いて言葉を繋いだ。
「なっ、なんのこと? 珍しく気を効かせて、二人きりのデートを許して上げようという妖精さんの心遣いよ?」
「それは次回で良い。アルト……今日のメニューはなんだ? 知ってンだろう?」
 ぶっ殺さんばかりの迫力で彼女に詰め寄ると、アルトは冷や汗を滝のように流し始める。なんかもう、手の中がほんのりと暖かく、しかも湿気を含み始めて居る気がした。
「…………コースメニューのあるお店が四軒……」
 斜め後方へと視線を移しながら、アルトはぽつりと答えた。その答えに良夜は猛烈な頭痛を感じざるを得ず、そこから導き出される答えを自ら口にしながら、その内容に戦慄を覚えた。
「……ようするにあれだ……コースを四人前、食わせるつもりか……あの人は……」
「……美月は多分、前半からかなり残すと思うから、貴方はそれ以上よ……」
「…………死んでまうがな……」
 別に良夜も残してはいけない、と言う訳ではない。ただ、幼い頃から残すなという親および姉小夜子の教育のたまものか、料理を残すと言う事に強い罪悪感を、良夜は感じる。そして、問題は美月だ。料理人だけあって、やっぱり、彼女も残すことを嫌うし、残すと物凄い寂しそうな顔をするのが心が痛む。なので、最近は美月と食事に行くと付け合わせのパセリまで食べる癖が付いてしまっている。
「でも、あなただって悪いのよ?」
 そういうアルトは、首から上だけを良夜の拳から出して、相変わらず金髪危機一髪状態。それでも彼女は多少の余裕を未だ残しつつ、先日の食べ歩き大会の様子を言葉だけで再現してみせる。すれば良夜の脳裏にもあの時の記憶がよみがえった。
 
 美月がズイッと大きなお皿に載ったパスタを良夜の方へと追いやる。一応、分類すれば美月の食べ残しという奴だが、実際に美月が食べたのは、一口と少々。それは食べ残しというよりも、ほとんど新品の料理と呼ぶ方が相応しいという。
 そして、彼女は多少申し訳なさそうに大きな瞳を陰らせ言い、青年はほぼ反射的に答える。
「あっ、あの……良夜さん……これ、いかがですか? 美味しいですよ?」
「ハイ」

「この流れを繰り返して、胸焼けがするとか胃がもたれるとか、自業自得でしょう……」
 呆れかえるアルトの視線が胸を抉る。物凄い言葉が胸に突き刺さる。
「うるせえ! 男には戦わなきゃいけない現実があるんだ」
「彼女の食べ残しは、きっと“それ”じゃないのと思うの、私」
「仕方ないだろう……おごりだし……」
「……どうせ、経費で落としてるわよ……数学は苦手なのに、この手の勘定だけは隙がないんだから……あの子は」
 アルトのため息に釣られて良夜のもため息一つ。しかし、恋人そっちのけでカウンターの傍でそんな話をしていれば、待ちぼうけを食らった彼女が――
「良夜さん?」
 から〜んとドアベルを鳴らして、店内に入ってくるのも当然だった。良夜は彼女に呼ばれるとハイハイと、アルトを両手で握りしめたまま、答えた。
「ああ、アルトがなんか、今日は行きたくないってだだをこねてて……」
「わっ、汚い!」
「あら、どうしたんですか?」
 良夜が言えば、アルトが批判の声を、美月が憂いの言葉をほぼ同時に上げた。
「イヤ、なんか、今日は寒いとかなんとかって言ってます」
「嘘つき! 汚い! 汚いわよ!! 良夜!!」
「ふえ……車だから大丈夫ですよ。ねえ、アルトにも意見を聞きたいので来てください、ね? アルト」
 手の中でジタバタと暴れるアルトの体をギュッと握って、良夜は内心冷や汗を掻く。ああ、後で刺されるなとは思うが、もはや、コイツだけ温々と店でくつろがせるのは、敗北だと思う。
 そう思ったのだが、実は最初から良夜は敗者だった。
「それに、アルトが居ないと……良夜さん、何を食べても美味しいとしか言いませんし……」
 美月が自身の唇に人差し指を押し付け、申し訳なさそうに言えば、良夜にも心当たりがあった。実際、美月が良夜を連れて行くお店は、どこも美味しい。そもそも、美味しいという評判がある事が前提でその店に行ってるのだ。だから、ぶっちゃけ――
「美味しいのは解ってるので、美味しいとしか言ってくれないと意味がないんですよね……」
 美月が非常に申し訳なさそうに言えば、アルトもため息を一つ、良夜の手の中、握りしめられたままでこぼす。
「良夜って舌が安物だものね……」
 シミジミとアルトは言葉を紡いだ。それに関しては、良夜本人にもその自覚もなんとなくあった。カップラーメンとかインスタントラーメンとか大好きだし、美味しいとも思う。
「……そー言えば、貴方、一年の頃、調子に乗って一枚三千円の国産和牛ステーキ買って、翌日、物凄い、ガッカリしてた事があったわね……」
 アルトがふと思い出したように言う。ちなみにアルトでバイトした給料で買った奴である。貴美が風邪を引いて和明がぎっくり腰になった時の話だ。ただのお手伝いだと思って居たら、ちゃんと給料が貰えた。そこで調子に乗って、サシが綺麗に入ったちょっと高級な和牛サーロインって奴を思わず買ってしまったわけだが……
「……これが三千円かと思ったら泣けてきた……」
「……良夜さん、それはおかしいです、絶対に……」
 アルトとの会話を良夜の通訳越しに聞けば、流石の美月も呆れ顔に同情心を混じらせ、良夜を見上げる。この彼女に突っ込まれる自分が死ぬほどイヤだ。
「いっ、イヤ、そりゃ、美味しいとは思ったよ、美味しいとはさ……ただ、九百八十円の奴とマンガ五冊の方が幸せ度、高いなぁ……って」
 言い訳になってるのか、なってないのか、自分でもよく解らないというか、ほぼなってない自覚のある言葉、勢いが良かったのは当初だけ、お尻は消え入りそうな、尻切れトンボ。
 それを美月は大きな瞳にウルッと涙を溜めて……
「……良夜さん、たまには良い物食べないと、舌が腐りますよ……」
 美月の表情は相変わらず同情心込みのあきれ顔だが、心なしか同情の割合が大きくなっているような気がした。
「……お金、なかったらパンの耳とか上げますから……」
「……イヤ、別に要らないけど……」
 てな感じで、はっきり言ってしまえば、良夜の役割は味見役ではなく残飯処理とアルトの通訳係だったのだ。ぶっちゃけ、何を食べさせても美味しいとしか言わない恋人よりも、口が小さくて多少人間とは味の感じ方は違うが、舌の越えた喫茶店育ちの妖精さんの方が役に立つと言う事らしい。
「うわぁ……もう、なんか、一気にやる気無くすな……」
「あはは、そっ、そんな事を言わずに……あの、良夜さんが美味しそうに食べてる姿、好きですよ?」
 自身の立場という物を把握した時、自身の顔が仄かに歪む事を良夜は感じた。鏡など見ていないが、美月が苦笑いを浮かべながら珍しくフォローしている事からも明白だろう。

 さて、あれやこれやと揉め事はあった物の、結局、アルトも観念してと言うか、むしろ――
「しょうがないわね、良夜が役立たずなら、私が行くしかないわ」
 肩に座った妖精さんは、むしろ、鼻高々に勝ち誇っていらっしゃる。負けた気分で一杯だ。
「実際、負けてるのよ、良夜」
「良夜さんもたまには良い物を食べた方が良いと思うんですよね」
 妖精の声を無視して、後を続く美月に視線を向けながら、良夜は内側からアルトのドアベルを鳴らた。
「おっ……」
「あっ、ごめん」
 トン……と誰かに肩が触れる感触と野太い声にとっさに詫びて、視線を向ける。そこにはスカート姿の人物が『ノープロブレム』と書いたメモ書きを持って立っていた。赤いミニスカとロングブーツ、そして、黄色いマフラーと編み上げた赤毛、どこからどう見ても女性なそれは、大学の名物演劇部の女形、二条陽、勿論『男』であった。スカートの似合う外見と地獄の底から響いてくる魔王の声がチャームポイント。
「ああ、陽さん、いらっしゃいませ」
『デート?』
「はい」
 陽がメモ帳で尋ねると、良夜よりも美月が先に答える。
『羨ましい 彩音ちゃん 今日は大工仕事』
 演劇部の女形以外にも笑う餓鬼――ラッフィンググールの異名を持つ二条陽は喫茶アルトの上得意の一人。良夜も彼の事は良く知っているのだが、なんとなく、会話に入りそびれていた。どうも筆談というのが多人数での会話を成り立たせにくくしているような気がする。もっとも、どう見ても女性な女装青年に魔王声でべらべらしゃべられても困るわけだが……
「ねえねえ……良夜、いっそのこと、陽に頼めば? あれならきっとコース四人前も足りないとか言い出すわよ」
 陽と美月の会話を聞くとはなしに――片方の分は読んでるわけだが――聞いていると、アルトがちょいちょいと髪を引いて良夜を読んだ。
「大食いで食い道楽でしょ? あれ……」
「……らしいな」
 ギャンブラーだけあって大きく当たれば高級店で豪勢にと言う話も聞いた事がある。もっとも、外れてアルトでパン耳スティックをあてに水を飲んでいる事も良くある。むしろ後者の方が多め。
「あっ、良夜さん、行きましょう。遅くなっちゃいます。じゃあ、二条さん、失礼しますね。お祖父さんも居ますし、翼さんももうすぐ来ますから」
 美月が言うと陽は零れるような笑みを浮かべて、コクンと頷いて見せる。そして、ヒラヒラと右手を数回振れば、メモ帳は閉じているが、彼の言いたい事は誰にでも理解出来た。
「ああ……うん、じゃあ、またね」
 それに良夜も軽く手を振り答え、店舗の裏側、駐車スペースへと足を向けた。
「ふぅん……」
「なんだよ……」
 美月の後ろを歩く良夜の顔を見上げ、アルトはにやにやと底意地の悪い笑みを浮かべている。それをジト目で見下ろしながら、ちょんと良夜は彼女の額を突いた。
「いたっ、照れ隠しで暴力とか、最低よ?」
 軽くしか突いてないのに、アルトは大げさに居たがり、批判の目を向ける。それに「うるさい」とだけ返せば、一足先にパステルカラーの軽自動車に取り付いた美月が声を上げた。
「良夜さん、早く行きましょう!」
「まっ……あれも一応、男だしな……」
 アルトにそう答え、良夜は少しだけ足取りを早くする。向かう先には、黒髪の彼女が嬉しそうに手を振っていた。

 そして、翌日……
「ヤバ……まだ、なんか、いろんな物が喉の辺りにまで来てる……」
 喫茶アルト、隅っこにあるいつもの席で良夜は胸を押さえて死んでいた。
「……男の意地は見せて貰ったわよ……でも、やっぱり、大食いは男の意地を見せるところじゃないのと思うの……」
 その頭の上で妖精アルトちゃんは良夜の事を見直すべきか、呆れるべきかを、しばらくの間悩んだ挙げ句、やっぱり、呆れる事に決めたらしい。

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