ディナーもねっ!(4)
『この人が居たら便利かもしれない……』
そう思って、美月は翼を雇うことにした。その直感は大当たりだった。むしろ、当たり過ぎだった。
三月も中頃になれば大学も春休みに突入して、喫茶アルトと大学周辺の人口密度は極端に減る。それは、この手の仕事は生まれて初めてという凪歩に対して、一から教育を施さねばならない貴美には丁度良い話だった。
「だーかーらー! 客の後から出すんだって、何回言わせりゃわかるんよ!?」
「だって、そっち、狭い――イタッ! 向こう脛蹴らないで!!」
と、直樹を席に座らせての新人研修は暴力沙汰に発展しながらも、人の居ないフロアで順調に進んでいた。
「いや、全然」
「吉田さん、酷い……」
貴美は否定するが、それ以外から見ると概ね順調に見えた。それを横目に見ている人間がため息を突くほどに。
「フロアは楽しそうですよね……」
なぜなら、キッチンの新人スタッフ寺谷翼さん二十歳は非常に有能だったからだ。
カチン……と小さな音共にトレイの上に置かれた食器達がキッチンに返ってくる。それに美月が取り付くよりも先に、翼が取り付きシンクで荒い物を始める。
「あっ……」
伸ばした手の行き場がなくなり、美月は小さな声を上げる。仕方がないので、フキンで作業台を拭いたり、コンロの辺りを磨いたり。おかげさまで最近、キッチンが恐ろしく綺麗だ。
「……あの、翼さん、もう少し、手加減しても――イタッ!」
思わず言いかけた後頭部に激痛が走った。それはフロア担当教育係吉田貴美さんの手に持つトレイだった。それがポコンと美月の後頭にヒットしている。
「新人に余計なことを教えないの。新学期入ったら忙しくなるんだから」
「だってぇ……良夜さんも里帰りしちゃったから、余計に暇で……」
「じゃあ、フロアを手伝ってくれりゃ良いっしょ? こっちはあのバカ仕込むために里帰りも返上してんだからさ」
貴美はぶっ殺さんばかりの勢いで、美月の肩を掴んで威嚇する。も、美月はその顔を見上げてさらっと言い返した。
「フロアは忙しいんですか?」
「ううん、全然。暇だから、アレを仕込んでんの」
パッと美月の肩を離して、パンパンと手を数回払って見せる。にらみつけていた顔もいつも通りのヘラヘラとした笑みに早変わり。春休みに入ってからと言う物、キッチンもフロアも暇だらけで喫茶アルトスタッフ一同はだれていた。
「……ここ、大丈夫?」
「二件連続倒産とかたまらないよねぇ……」
上司二人のじゃれあいを離れた処から見ていた翼、それと貴美が帰らないことによって一人で任されたフロアが、冷静に考えると物凄く広くて不安になったので、仕方ないからキッチンまで貴美を呼びに来た凪歩は顔を見合わせて呟いた物だ。もっとも、長期休業の度にこの調子であることを十分に知ってる美月と貴美に悲壮感は全くなく、単にやることのなさを嘆くばかりだった。
「まあ、私はあるけどね……って、なんで凪ぽんまでサボってんよ?」
肩口越しに凪歩を見つける。彼女の首から下がくるんと回転、伸ばした腕が凪歩のポニーテールを頭の天辺で掴んだ。
「わっ! いっ、今、戻ります! 戻りますから、髪を引っ張らないで!!」
貴美が凪歩のポニーテールを引き摺って退場すると、キッチンは元の通りに翼と美月の調理師コンビだけが取り残される。そして、美月は改めて言った。
「もう少し、手加減して働いてください……」
「……お断りします」
にべもなかった。
そう言うわけで、この頃の美月さんは『暇そう』というお言葉に過剰に反応するようになっていた。まあ、そういう話をする相手はアルトのスタッフ以外にあまりいないから、彼女らが気を付けていれば、耳にすることも余りない。しかし、世の中にはそう言うのを思わず言ってしまう馬鹿という者が居るものである。そして、喫茶アルト周辺でそう言う事を思わず言ってしまう方が、彼だった。
「美月さん、最近、暇そうですよね」
三島美月の彼氏と世の中的は思われている浅間良夜君二十歳だ。里帰りから帰ってきて数日、帰りの挨拶に行く度、美月が楽しそうに翼としゃべっているのを見て、つい、言ってしまっただけ事である。これを誰が責めることが出来よう?
「あれの間の悪さに関しては責めるべきよ」
と、喫茶アルトに住まう妖精のアルトさんはおっしゃってますが、良夜は――
「ええ、ええ、もう、優秀な新入社員のおかげで暇を持てあましてますが、何か? なにか? な・に・か???」
薄い胸を突き出し、斜め下から良夜を睨みあげる。多分、本人はすごんでいるつもりなのだろうが、目に涙が浮かんでいるので余り迫力はない。しかし、ここで妙なことを口走ると深みにはまるので、「いや、あの、その」としどろもどろになって困るばかりである。しかも、翼はなんだか冷たい目のまま無言でこちらを見てるだけだで、助けてくれそうにない。
「とっ、とりあえず、落ち着きましょうよ……」
「落ち着いてますよ? もう……良夜さんまで私をいらない子扱いするとは……」
「あれも暴走族の友達だから……」
ふてくされる美月に少し離れた処から、されど決して聞き漏らされない程度の音量で翼がぽつり。未だに直樹のことを嫌っているのは察していたが、その巻き添えで自分までも彼女に嫌われているのかと思うと、流石に良夜もショックだった。
「翼さんがもう少し手加減してくれると良いんですけどね……」
美月は頬にてを当てため息を一つ。困ったような口調で呟いてみても、翼はつーんとそっぽを向いていた。
「暇なら明日の仕込みとかしてたら――」
「出来る所は出来てますが?」
スープの下ごしらえやらホワイトソース作りやら、明日の下ごしらえもほぼ完成。二人に増えたキッチンに死角はないらしい。
ジト目の間までそう説明されると、良夜は『仕事、早いですね』と冷や汗を額に浮かべるしか、他に道はなかった。
「と、言う訳で夜が暇なので、また、ゲームしに行きますね。良夜さんがお休みの日」
「ああ、良いですよ……新しいシューティング、入ってますから。次、明後日休みですよ」
例の試験勉強以来、美月はまれに良夜の家にゲームをしに来るようになっていた。良夜にもバイトがあるので頻度は決して多くないのだが……それでもちょくちょく彼女が自室に来るというのに、毎度毎度、一線を越えられないのは、アルトだけではなく、シレッとした顔で貴美も居るからだろう。貴美の方は毎回『気を効かせようか?』と尋ねてくるのだが、尋ねてくる時点ですでに気を効かせる気がないのは明白だった。
と、閑話休題。
「じゃあ、俺、バイトに行ってきますから」
「はーい、いってらっしゃい」
深々と美月が頭を下げて、翼はヒラヒラと数回手を振るだけで挨拶に代える。ここ数日、翼が入店して以来、バイトに行く良夜の見送られ方だった。ただ、今日は少しだけ違っていた。
「ああ、そうだ……いっそのこと、その下ごしらえした奴、夜に売っちゃえばどうですか? とか……あはは、じゃあ、行って来ますね」
思いつきで言った言葉、答えも聞かず、良夜は手を振ってキッチンからフロアーへ。貴美を呼んで会計を済ませれば、夕暮れ時の国道へ。いつも通り、いつもと変わらぬ一日。
が、しかし、彼は気付いてなかった。美月が良夜の一言に「ウーン……」と考え込み始めたことを……
そして、一週間。三月も末、里帰りしていた在学生達は勿論、今年の新入学生も引っ越してくる四月数日前のある日、美月はついに結論を下した。
「ディナー、しちゃいましょう!」
「オーダーストップ八時半で閉店九時、学生証チェックでハーフボトルのワインだけ出して、ディナーコースは千五百円から二千円くらいで行きましょう」
三人のスタッフに『ディナーも始める』という話を三人の従業員、プラスアルトにした時、美月はここまで決めていた。もっとも、それ以前に――とは言っても、今朝、朝食時に、である――和明には相談していたのだが、彼は相変わらず「お好きに」と言うだけで反対もしなければ、助言もしない体たらく。流石に四人も呆れた物だ。しかし、マズ、この場に良夜という通訳が居ないアルトの発言権は極めて薄い。そして、入店数日の翼凪歩コンビにも発言権はほぼない。故にあるのは貴美だけで、その貴美は――
(ランチタイムに入るのを辞めた分、ディナーで稼げる……か。ランチに抜けた方が図書館も使えるし、勉強するには都合が良いかもしれない……九時閉店なら直が帰ってくるまでに帰れるし、それに、ランチの残り物よりもディナーの残り物の方が美味しいはず)
こんな計算をコンマ数秒のうちに組み立てた上で「良いよ」と一言。聞いてるアルトが不安になるほど、会議がしゃんしゃんと終わって、翌日。
「えっ……マジでディナーやんの?」
「責任、取りなさいよ……」
ランチタイム、アルトに顔を出した良夜は妖精さんにそう言われて、流石に血の気を失った。言った直後、三分後には忘れ去っていた冗談を真に受けられた上に、話がそこまで進んでいる、と言うか行き着く所まで行き着いているのかと思えば当然だ。
「お前も聞いた? ディナーの話」
「ええ、昨日、帰った時に。吉田さんは寺谷さんが一人前になったらランチのバイトを辞めるんで丁度良いとか言ってましたが……僕は夕飯が豪華になるなら、それで良いんですけどね」
他人事のように笑う直樹を見て、良夜も釣られて笑みをこぼす。そして、改めてその話が他人事であることを再認識した。喫茶アルトの営業が厳しくなれば、辞めれば良いわけだ。それに……と、良夜は視線を直樹からフロアへと移した。
「いらっしゃいませ。ただいま席にご案内します」
直後、貴美の声が聞こえる。未だに授業は始まってないが、随分と人も帰ってきて、フロアでは貴美も凪歩も大忙し。ほんの少し前の閑古鳥とはえらい違い。この忙しさをキープできるのならば、アルトが潰れるって事もないように思える。少なくとも、自身が心配する必要は全くなさそうだ。
「と、言うわけにも行かないのよ、それが」
のんきに視線をフロアへと移した良夜にアルトの呆れかえった言葉が返ってきた。
「えっ?」
「美月、朝から専門学校時代の先生の所に行って、メニューとかの相談に乗って貰ってるのよ、今」
「今?」
「そっ、今。丁度専門学校も春休みだし、アルトも暇な時期だから……ね。それは良いんだけど、入店一週間で――」
「と、言う訳でなので私はちょっと新田先生の所に行ってきますので、後のことはお任せします」
美月がそう言った相手は入店半月、今の今まで野菜を刻んで食器を洗うことしかしていなかった、翼だった。翼が出勤してきた時、美月は普段の制服ではなく、白いワンピースにエプロンという姿で彼女を出迎えた。
「……はい?」
エプロンを外す美月に翼は間の抜けた声で返事を返す。も、美月は脱ぎ終えたエプロンをちょいちょいと手早く四つに畳みながら、言葉を続けた。
「あっ、解らない事があったらお祖父さんに聞いてください。では」
「……はい?」
小首をかしげ、釣り目を限界にまで広げた翼に対して、美月はいつも通り。明るく屈託のない笑みを浮かべて、彼女はキッチンを後にする。一応、冷蔵庫のホワイトボードに『今日のランチはミートソースパスタとコンソメスープ』とか書かれていた所でなんの救いになるというのだろう?
「……はい?」
誰もいなくなったキッチン、和明が様子を見に来るまで彼女はその調子で呆然としていた。
「で、今現在、軽くパニックになってるの、翼が」
「そっ……それでなんで俺が……?」
「そりゃ、貴方のせいでこうなってるって、怨嗟の言葉を吐きながら、ランチを作ってるのよ、翼が」
「おぉい!!」
その言葉を聞いた時、綺麗な赤いミートソースが血の色に見えた……のは、多分、気のせい。