ディナーもねっ!(3)
凪歩の場合。
彼女がアルトで働き始め、一週間ほどが過ぎたある夜の事だった。
「やる気はあるし、まあ、物覚えも並なんちゃう? あるちゃんもそう思うっしょ?」
彼女の上司、吉田貴美が大きなモップでゴシゴシと床を磨きながら、そう言っていた。立ち位置のほどは凪歩から見て数メートル先、勿論、そこに貴美以外の誰もいない。美月は明日の下ごしらえでキッチンにいるはずだし、翼はこの時まだ正式に所属はしていない。ついでに老店長は先ほど、凪歩にも声を掛けて居住区の方へと帰って行った。
「ん? ああ……わかんないとか? ……興味がないとか? ああ、なるほどねぇ」
大きなモップでゴシゴシと床をこすりつつ、顔も上げずにぶつくさとしゃべるお姿。明かりを落とした店内の雰囲気とも合わさり、何とも言えない異様な空間を醸し出している。その後ろ姿に薄ら寒い物を感じながら、ゆっくりと、恐る恐る、凪歩は貴美の側に近付いていく。しゃべる声はどんどん大きく聞こえ始めるも、貴美は凪歩に気付かないのか振り向きもしないし、顔も上げない。
その肩口をポンと一つ叩いて、彼女は言った。
「……お疲れでしたら、帰ってくれてもいいですよ? 精神的に」
「……まあ、精神的にお疲れだとしたら、おもに凪ぽんのせいだけどね……」
ひょいと、体ごと振り向いた貴美の様子は、まあ、普通な感じと言う奴だろうか? 多少不機嫌そうではあるが、特におかしな処はなくて一安心だ、が。
「ぎゃっ!」
尋ねた凪歩の向こうずねに激痛が走る! 貴美が表情一つ変えずに、彼女の向こうずねを力一杯蹴り上げているからだ。つま先が弁慶の泣き所に食い込む、見事な蹴りだ。ちなみに仕事中も良く蹴られる。ボーッとしてる時とか。
「何よ? その可哀想な病気を患ってる人を見る目は?」
「だっ、だってぇ〜」
足を抱えて涙目。その凪歩を貴美は冷たい視線で見下ろしていた。その顔を見上げ、力とか体力とか余りない人なのに、他人を蹴っ飛ばすとか張り倒すとか言う時だけ妙に力強いのはどうしてだろうと、凪歩は思った。
その顔を貴美はいつものヘラヘラとした表情で見下ろしながら、言った。
「この店、妖精が住んでんのよ」
「……吉田さん? ――いたっ!」
ついつい、残念な人を見る目で見上げてしまう。すると、貴美の容赦ないつま先が、もう一度、凪歩の向こうずねを蹴り上げた。走る激痛に、凪歩はとっさに足を上げて太股ごと足を抱え込む。
「ホント、マジ、もう、蹴らないでください……昨日、帰ったら青あざが出来てたんですから……」
足を抱え込んだまま、凪歩は涙目で訴える。それを見下ろし、貴美は蹴られる方が悪いと凡百な台詞を吐き、更に言葉を続けた。
「大体ね、ここ、タヌキ顔の狐が常連だったりするんだから、妖精ぐらい受け入れな? ほら、巨人帽を目深に被ってた女、アレ、狐だよ」
と、したり顔で語る。確かにそんなのが居たような気がする。店内でも目深に巨人帽を被っている姿は、確かに奇異に見え、良く覚えている。後、父が阪神ファンなので巨人帽はよく目に付くのだ。しかし、その女性とツレの男性との会計を済ませたのは凪歩自身だ。あの女性が、ツレの男性と楽しそうに話をしていた女性が、狐だというのは全く結びつかない話だった。そもそも、彼女は霊感の一つもなく、これまでの十九年間、常識的な人生を過ごしてきた。そんな馬鹿なことを言われても理解など出来るはずがない。
ひとまず二度も蹴られていたい向こうずねを優しく撫でて癒す。そして、痛みが落ち着いた足を降ろすと、彼女は口から吐息を一つこぼした後、尋ねるのだった。
「……人のこと、からかってます?」
すれば、貴美はモップの柄に顎を置きつつ、凪歩の顔に視線を投げかけた。ため息の混じるその表情、半開きのたれ目が雄弁に『馬鹿でしょ?』と言ってる気がした。その顔に見詰められること一分の半分ほど。
貴美は言う。
「あるちゃん、アレのこと、刺して良いよ。二三発、ざっくり」
と、その瞬間、ちくっ! 頭の天辺に小さな刺激。痛いと言うほどではない。されど、無視できる程度でもない。
「きゃっ!?」
思わずつむじへ手が跳ね上がる。跳ね上がった指先にサラサラとした何か――まるでおろしたての筆の毛先のような物が触れた……ような気がした?
「な? 居るっしょ? 受け入れなって、世の中、変なのも居るって……ああ、幽霊とかはいないけどね」
何かが触れた指先をまじまじと見詰める。その凪歩に貴美は大きな胸を反らして、それ見たことか、と言葉を続けた。しかし、凪歩には未だに納得できかねる物があった。
「えっ、あっ、嫌、あの、たっ、確かに、確かに痛かったですけど……」
「もう……頭硬いな……そんなんじゃ、これからの時代、生き残っていけんよ? って、凪ぽんもさっさと掃除しなよ。テーブル、ふきん掛けが終わらんかったら、帰さないかんね」
未だ釈然としかねる凪歩に、貴美はそれだけ言うと随分と長く止まっていたモップの動きを再開させた。しかも――
「全く、凪ぽんがアホな事言うから、遅くなんじゃんか……」
などと、ぶつくさ文句まで言い出す始末。理不尽な言いがかりに、凪歩は世の中という物が信じられなくなりそうだ。
「わっ、私が悪いんですか……いっ、今の流れ……」
そう呟いてみても、貴美は聞こえてないのか、聞こえてないふりをしているのか、鼻歌交じりで掃除を続けるだけ。思わず膨れるほっぺたを、何か小さくて暖かくて柔らかい物が優しく撫でた。まるで……
「慰めて欲しくないって……」
と、こんな感じで凪歩は無理矢理喫茶アルトにいる妖精のことを受け入れた。
「……多分、凪歩が正しいのよ……でも、相手が貴美なのよねぇ……」
凪歩の肩口から彼女の頬を数回、優しく撫でてアルトは囁くのだった。
翼の場合。
凪歩が夜の常識を疑うようになった少し後のことだった。翼の通う調理師学校は三月一日が卒業式で、彼女が正式にスタッフになるのはその翌日から、と言う事になっていた。と、言う訳で三月二日が正式な入店日と相成った。
その日、翼入店初日、彼女は朝からキャベツを刻んで、タマネギを刻んで、根野菜の皮を剥いて……と、後に『野菜を刻んで皿を洗ってる人』と自称するに相応しい仕事をチマチマとしていた。
「あっ、すいません。パンの耳を揚げて粉糖をかけて置いてください。おやつにします」
夕方を過ぎた辺り、恋人を立ち話の後に見送った上役が彼女にそう命じた。本日、初めての野菜を刻む仕事と皿を洗う以外のお仕事、翼は、小さな声で――
「はい」
とだけ答えたが、内心、多少嬉しく感じる所があることを否定できなかった。
小さな鍋に油をなみなみと注いで暖める。頃合いになったらサンドイッチのパンから切り取った耳をドサッと放り込む。詳しい作り方は聞いてないが、揚げろと言うのだからこう言うことを言うのだろうと、彼女は判断した。そして、カリッと揚がったらキッチンタオルの上に置いて、余計な油を吸い取らせる。そして、お皿に盛ったら、粉糖を多めにかけて出来上がり。粉糖が多めなのは、彼女自身が甘い物好きだから。
濃いめの小麦色をしたパン耳の上に粉雪のような粉糖がフワフワと掛かって、見た目は悪くない。勿論、一本取って囓ってみれば、従業員達のおやつには十分な美味しさ。
「出来ました……」
テンション低めの声で美月に声を掛けると、彼女は「ご苦労様」と一声だけかけて、ポリポリと一本咥えて、仕事を再開した。それ以上の感想等は特になし。まあ、この程度の物に美味しいも何もないと思うが、ちょっと一言欲しいと思うのは料理人の性<さが>という奴だろう。
それは残りの二人、フロアの茶髪も藍色の髪の方も同じような感じ。ちょくちょくキッチンに顔を出しては作業台片隅に置かれているそれを咥えて、外に出て行くだけ。お礼を言うどころか、おやつがそれであることに落胆するほど。もっとも、それはパン耳スティックが作業中のお菓子の中ではグレードの低い物に分類されるからだ。間違っても翼が作っているからではない、と彼女は信じたかった。唯一の救いはオーナーである老人――和明さんとか言っただろうか? が「美味しいですよ」と声を掛けてくれたことだけ。彼女はこれで今夜は報われたような気がした……と言うのは言い過ぎ。
そんなわけだから、彼女は自分が作ったパン耳スティックの行く末が気になって仕方がなかった。勿論、一応はお仕事中の身、野菜を刻む仕事は一息ついたが、それに反比例して食器を洗う仕事が増えてくる。のんびりと見守る余裕は彼女にはない。彼女に出来ることと言えば、チラチラと視線を投げかけ、そのたびに量が減っていることを嬉しく思うことだけだった。
そして、チラ見すること数回、てんこ盛りだったパン耳スティックも随分減る頃。その頃、結構な量のスティックも完食への道筋が見え始め、翼はちょっとした達成感を胸に抱き始めて居た。そんなときだった。
「ん?」
最初はただの気のせいかと思った。しかし、しばらく見ている内、“それ”再び起こると、彼女はそれが気のせいなどではない、と確信を得た。されど、彼女は冷静な女性だった。決して、“あれ”が居たからと言って大声を出したりはしない。静かに彼女の上司がコンロの前で明日のランチの仕込みをしていることを確認すると、足早にそこへと近づき、静かに言った。
「ネズミ……居ますよ」
「ふえぇぇ!?」
極めて小さな声で教えたというのに、彼女の上司は大声を上げた。それでもあれの名前を直接口に出さないだけ上出来だったのかも知れない。それは今日一日の短い付き合いだが、翼にも理解が出来た。
「ほっ、本当ですか?」
ひそめられた眉に気付いたのか、美月も多少は小声で彼女に尋ねる。その言葉にコクンと頷くと、上司は今まで見たことがなかったのに……と、何処か信用してない様子。
「パンの耳、持って行きました」
何が持って行ったのかはよく見えなかったのだが、確実に何か、人間以外の何かがパン耳を持ち去った。それは間違いない事実だ。と、説明した所で美月の反応は鈍かった。ウーン、明後日の方向を見上げながらも、寸胴の中で煮込まれていくスープから灰汁を取る事だけは忘れない。
「……間違いない、と思いますが?」
「ああ! アルトでしょう。ウンウン。アルトが持って行っただけですよ」
翼が答えをせかすように言うと、ポンと柏手を叩いて上司は一人で納得した。アルトというのは彼女が勤める喫茶店の名前、それ以外の意味があるのだろうか? と、翼は美月が再び寸胴へと視線を降ろすのを見詰めて考えてみる。じっくりと考える……そして、数分、答えが出たので呟いてみた。
「……ネズミの名前? ――ん?」
呟いた直後、頭の後辺りがチクッとした。その辺りに手を当て、彼女は小首をかしげる。
「いや……アルトは妖精なんです、うちに住んでる。そのうち、紹介しますよ」
そう言って彼女はあく取り作業を再開し始めた。その後ろ姿を見ながら、美月の言葉をゆっくりと咀嚼してみる……いくら噛んでも、全く喉へと進み行かない。
「三島さん。ちょっと良いですか?」
そんな翼を横目にフロアーから帰ってきた凪歩が、美月を呼んでなにやら指示を仰ぎ始めた。
ぽつん、と一人の取り残される翼。彼女は……
「……ネズミの種類の名前が『妖精』で個体名が『アルト』――イタッ……」
無理矢理つなぎ合わせた答えを呟くと、再び、頭の後が痛くなった。なんだか、刺されたような痛みだ。そこをポリポリと掻きながら、いくら何でもこれはないと本人も思い、もう一度、考えてみる。その作業に一分ほど没頭してみたが、答えは出ない。
での、諦めた。
「……食器洗い、仕上げてきます」
凪歩と話をしている美月に一声掛ければ、彼女も「はーい」とだけ言葉を返し、もう一人の従業員との会話に意識を向ける。そして、そのお話はこれで終わり。結局翼は――
「この店でのネズミの符号が”妖精”で、個体名が”アルト”」
そう無理矢理納得するのだった。なお、それが誤解であると理解したのは、それから一週間後のこと。しかも、それは良夜が懇切丁寧に、危うく出会いから前日までの物語を延々語らされそうになった挙げ句での理解であった。
「ネズミじゃないから……ネズミじゃない……」
その一週間、ネズミだと思われ続けていたアルトは軽く凹んでいた。
てな、感じで見事、アルトは新人スタッフに受け入れられることになった……訳だが――
「良夜、あれ、いつもの台詞、言っても良いわよ」
「……ああ、あれだな、やっぱり、ここの関係者は全員、馬鹿だな」
もはや、疑問形ではなかった。
追伸。
「ゴキちゃんとかねずちゃんには符号をつけて、その物ずばりの名前で呼ばないようにしてるんですよ〜なので『ネズミの符号が妖精』と言う発想が出てくるんですよ」
「うち、『アレ』とか『それ』とかだよね」
「ネズちゃんは見ませんが、ゴキちゃんはちょくちょく――イタッ! 叩かないでくださいよぉ」
「そう言う事は外に向いていわんで良いん!」
以上、美月と貴美のまったく役に立たない飲食店豆知識でした。
追伸その二。
「アレが出たぁぁぁぁぁ!!! アレ、アレ、アレが居るから!! アレが居ますから!! よっ、吉田さん!! スプレー、どこ!?」
喫茶アルトのキッチンから凪歩の大声が響き渡る。絹を裂くような悲鳴と切羽詰まった口調に誰も察する。
『ゴキブリか……』
フロアにいる決して少なくない客、全員がそう思った。そして、貴美は静かに拳を握る。
「……凪歩、後で泣かす……」