ディナーもねっ!(2)
 昔、高校時代三年間、貴美は『屋根の上の黒猫』という喫茶店で働いていた。定期試験の前日どころか、大学入試の前日だろうと無関係に働いていた。二年目には後輩(年上を含む)の教育まで行い、三年目はバイトウェイトレス部隊を統括する立場に抜擢されるほど、一生懸命働いた。流石に面接までは貴美がしていたわけでもないが、それでも、貴美曰く、
「なんとなく、長続きしそうな人は解る」
 そう言うわけで、時任凪歩の面接は貴美が担当した。もっとも、それらと同時に美月に『一人で二人の面接は無理』と泣き付かれたのが最大の理由だったりする。
「箸にも棒にもかからないフリーターが、十五回位泣いたら立派な黒猫のフロアマネージャーにまで育ったよ」
 ここまで豪語する人物であるから、貴美は基本的に「働く気がありそうなら取る」と美月に言っていたし、同時に「いざとなったら三ヶ月以内に追い出すから」とも言っていた。そんなわけで、貴美の面接は仕事の説明といった方が正しいような感じだった。
「……――と、説明はこんくらいやねぇ……ああ、家事とか、してたことある? 明日から入れる?」
「家事は……えっと……実家暮らしなんで……明日から、大丈夫です」
 そんな話をいくつか繰り返し、貴美は最後に言った。
「じゃあ、よろしくね。凪ぽん」

 さて、良夜が帰宅して十五分ほど過ぎた頃、直樹もそろそろバイトに行こうかと思い始めていた。バイトの開始時間は良夜も直樹も余り変わらない。しかし、良夜が勤めるスーパーの方、直樹が勤める本屋よりも若干距離が遠めなのと、足が本当は時速三十キロ以上出しちゃダメで六十キロになったらリミッターが掛かる原付と、その気になれば百キロ以上出せる四百ccバイクと言う差で、直樹の方が出るのが多少遅い。
「じゃあ、僕も行きますね」
 何処かに居るのか、居ないのか良く解らないアルトに直樹は声を掛ける。すると、どうやらテーブルの上にいたらしい彼女は直樹の指先をちょんと軽く突いてくれた。見送りの言葉の代わりらしい。その仕草に童顔の青年は童顔を少し緩めて、「また、明日」と改めて声を掛けた。
 立ち上がって辺りを見渡してみても、貴美の姿が見えず、代わりに和明が珍しくコーヒーを客席に運んでいた。それを見かけて、直樹は「ああ……」と彼女が面接のために事務室の方へ引っ込んでいることを理解する。仕方がないので、会計に呼んだ和明へ「伝えておいてください」と伝え、彼はアルトを後にした。
 外に出れば夕暮れちょい前の太陽が随分と大きく見える。アルトを出る時間はいつもほぼ変わらないのだが、太陽の位置は季節によって随分と違う。二月も半ばを過ぎると日も随分と長くなるものだ。西の空に輝く太陽が彼の足下に長い影を作っていた。その影を追いかけるように青年は足早に自宅へと戻る。
 そして、一度自宅に帰る。鉄製のドアを開くと余り広くない玄関の片隅に赤と黒のヘルメットが二つ、鎮座している。その片方、黒い方を引っ掛けると靴も脱がずに外に出る。トントンと階段を下りて駐輪場へ、愛車のエンジンを掛けて、軽くアクセルを拭かせると彼はブワァン! 大きすぎる声で返事をした。
「ウーン……音がおかしいですよね……」
 バイクの返事を聞いて主は、小首をかしげて独りごちる。少し前に交換したマフラーの取り付けが悪いのか、そもそも中古だったので物が悪かったのか、どーも思って居た音と違う音がする。二研のメンバーもおかしいというのだから、直樹の耳が悪いわけではないのだが、誰も原因がよく解らない。直らなかったら返品だなと思って居るが、守銭奴西山恵子との交渉はげんなりする物があった。されど、やらないわけにはいかない。車検対応品だと言うがこのうるささだと通らないって事も考えられる。
 などと考えてる暇は今の彼には余りない。
 バイクにまたがり、アクセルをもう一度吹かせる。彼の愛車ZZR−400は弾かれたように加速し、国道に躍り出たら……速攻で赤信号だった。やる気を削がれること甚だしい。
 ため息を突きつつ、空ぶかしを数回。タコメーターの針は気持ちよく触れてくれるが、音がおかしいのは当然変わらない。ヘルメットの風防を上げてみる。腹に響く音を直接聞いてみても変わらない。変わらないが気になるので辞められない。ここ数日、バイクに乗る度に似たようなことを彼は繰り返していた。
 そのすぐ傍、一人の女性が無表情ながらもひそめた眉を彼に向けていることも知らずに……

 凪歩が凪ポンと命名され固まる頃、凪歩と同じように長すぎる坂を見上げる女性が一人いた。手にはメモ用紙に走り書きされた地図。茶色がかった髪をショートボブにした女性は数秒の間その坂道と地図を見比べて居たが、すぐに彼女は長めのスカートが絡む脚を前へと動かし始めた。
 てくてく……早くはないが決して滞らない歩みは確実に彼女の脚を目的地へと運んでいく。そうは言っても長くそれなりに急な坂道は彼女の歩みを少しずつ遅くさせる。規則正しかった呼吸は次第に跳ね上がっていき、荒い物へと変わっていき、半分ほど登った頃、ついに……
 ついに彼女の歩みが止まった。再び坂を見上げる顔、向かい風は冷たいほどだというのに、少し地黒な額には汗が滲んでいた。待ち合わせまでには多少の時間はあるが、立ち止まっている余裕がそんなに沢山あるわけではない。されど、休まず歩くにはしんどい坂道だ。
 立ち止まること暫し。やおら彼女は再び歩き始める。その時、彼女の表情こそ大幅には変わっていなかったが、その視線は坂の頂上ではなく、足もと、群青色のアスファルトを眺めていた。
 その足下を一つの影がパッと走り抜ける。小さな小さな黒い影。
「あっ……!」
 小さな声を上げ、彼女は歩みを止めた。危うく踏みそうになった小さな影、それは彼女が地面に画く影に溶け込むような黒猫だった。何処かの飼い猫なのか、彼(もしかしたら彼女)の首には小さなリボンと鈴が一つ。人なつっこそうに女性の足下をくるくると動き回る度、チリンチリンと素朴な音を鳴らしていた。
「……」
 女性はその小さな黒猫を踏まないように気を付けて歩き始める。女性の歩みに会わせて猫も歩く。顔は俯いたままだし、表情も大して変わらない。しかし、彼女は先ほどよりも少し軽快な歩調で、踏みつけないよう、慎重に歩く。されど、猫はまるで踏んづけて貰いたかのように、彼女の足を中心にくるくると良く動く。それがますます、彼女の歩調を軽い物に代えていく。
 そんな楽しい散歩が十五分ほど過ぎると、彼女は坂道の七割方踏破するに至った。彼女の息は随分と上がっていたし、額にも大粒の汗が滲んでいた。それに反して彼女は楽しげな歩調で道を歩いていた。
 のだが……
 ばぁぅん!
 下っ腹を振るわせるような爆音が静かだった夕暮れの坂道に鳴り響く。それは半ば夢見心地だった彼女の意識を、現実へと引き戻す号砲。うつむき加減だった顔が跳ね上がり、視線がすぐ傍にいた黒いオートバイへと飛ぶ。真っ黒く大きな車体に小さな青年がまたがり、しきりに空ぶかしをしている。それを見詰める彼女の眉がへの字を画いた。しかし、それは一瞬だけ。彼女はすぐに先ほどと同じように足下へ……足下にいるはずの黒猫へ……
 ――居なかった。
 視線がまた跳ね上がる。左、道路の方……には居ない。そこから道の頂上……にも居ない。右はガードレールがあって、その下は少し谷になっていて河……そこにも居ない、居たら大変。最後に背後、彼女が今まで必死に上がってきた坂道に視線を向けた。そこには、おそらくはバイクの音に驚いて、その場を逃げ出す猫の姿だった。猫の癖に脱兎のよう……と言う冗談が彼女の脳裏を過ぎったらしい。
 夕暮れの国道に取りこのされた彼女に出来たのは、走り去る黒猫の後ろ姿に、無事、自宅へ帰れることを祈ること。それと……――
 黒いバイクにまたがった小柄な青年に殺意を込めた視線を投げかけること、の二つきり。ヘルメットの上げた風貌から覗く横顔を、彼女はぶっ殺さんばかりに目力を加えて見詰めていた。ヘルメットの上げた風防から覗く童顔を……

 そんな一騒動があった二十分ほど後、そう言う事はつゆ知らず、美月は直樹に殺意の籠もった視線を投げかけていた女性――寺谷翼(てらたにつばさ)を喫茶アルトのキッチンに迎えていた。
 そもそも、美月はウェイトレス志願の方は取って、キッチンスタッフ志願は取る気がなかった。理由は概ね、良夜の想像通り。今のところどうにかなっているのだから、新しい人を入れて仕事を取られるのは厭だ。それが美月の偽らざる気持ちだった。
 しかし、朝、和明に上手な断り方を聞いた時、
「断るつもりで会うのは失礼ですよ」
 そう、諭された。祖父には弱い美月のこと、こう言われるとその言葉を無視して、取らないと決めつけることも出来ないが、しかし、本音では取りたくない。と、結局、決めかねられずにこの時を迎えていた。
 美月は面接というのを行うのは、ほぼ初めてだった。貴美をアルトに雇った時は、喫茶アルトは地獄のような人手不足で、経験者の上にランチタイムにも入ってくれるという貴美は、救世主のようなバイトだった。だから、美月は雇う側と言うよりも「雇わせて頂く側」として貴美と条件等を話しあった。
 しかし、今回は世の中的に景気は悪いし、こちらは一応、ギリギリな所がないわけでもないが店は回っている。なので、今回は「雇う側」としての面接だ。
 だから、美月の方が彼女よりも上の立場のハズ……で、あった、が。
 キッチンの片隅、丸椅子二つを並べた空間が面接会場。そこで美月は翼が持ってきた調理師学校発行の成績表を見てみる。
「……」
 思わず、彼女は絶句していた。美月のそれよりもずっと良かったからだ。それも比べるのが失礼なほどに。実習はともかく、座学はどれも美月よりずっと良い。実習だって、悪くはない。平均並だ。もっとも、卒業できれば、否、卒業できなかったとしても就職先がほぼ決まっている美月と卒業は勿論、各種資格を取れなきゃ二年間がパーになる普通の学生とではかける情熱が桁違いだったのは言うにおよばない。しかし、ここまで差があると、美月が翼の精神的風下に立ってしまうのは仕方のないことだろう。一方的に、だけど。
「優秀、ですね……」
「ありがとう……ございます」
 ほぼ独り言のように呟いた言葉に、翼は特に感情も込めずに礼を言った。そして、ショートボブの頭を一度揺らし、彼女がぺこりと頭を下げる。
 そして、彼女は顔を上げると少し小さめで狐を思わせる釣り目で美月をじっと見詰める。
 沈黙が訪れた。
「……えっ、えっとぉ……と、とりあえず……キャベツの千切りでも作ってもらいましょうか?」
 その沈黙に耐えきれなくなったのは、美月の方だった。何を聞いて良いのかよく解らないし、彼女が良い人なのか、悪い人なのかもよく解らない。で、解ると言えば、包丁の使い方くらいなもんなので、こう言っちゃった。それだけのことだ。
 美月の緊張感はどちらが面接している方で、されている方なのか、よく解らないほど。そして、翼の方は唐突にそんな事を言われても特に表情を変えることはなかった。それどころか、
「あっ、包丁はこちらに……」
 と言う美月に「いいえ」と返し、肩から提げていたカバンからふきんに丁寧に包まれていた包丁を取り出した。そして、慣れた手つきでシンクへと持って行くと、その包丁を丁寧に洗い始める。
「野菜用のまな板は……これ?」
 小さな声で尋ねると、彼女は実際に美月が野菜用と決めているプラスティック製のまな板を手に取った。それ自体は特に驚くことではない。加熱しない野菜は肉や魚用のまな板と別けるのは当然のことだし、その場合、新しく綺麗な方が野菜用なのも明白だろう。しかし、それでも初めて来た所でそれを出来るか、と言われると美月には自信があまりなかった。
 トントンと小刻みな音を立てて、包丁が振られる。その包丁へと視線を落とすと、包丁もよく手入れされているようだし、使い込まれているように見える。少なくとも道具を大事にしないタイプの人間ではなさそうで安心した。道具を大事にしない職人はだめだ、と言うのは美月が和明に幼い頃から何度も繰り返し言い聞かせられてきた言葉でもある。料理人として最低限はクリアーしてるような気がした。もっとも、美月の目から見ると多少危なっかしい所がある。手際も悪くはないが、早くもない。
 そんな事を考えながら、彼女の仕事っぷりを背後から眺めている内、キャベツ半玉が見事な千切りに化け終えた。それを大きなボールの中に浸すと、彼女は布巾で丁寧に包丁とまな板の水気を拭いながら、美月の次の言葉を待つ。待っているので仕方ないから、今度はジャガイモを切って貰った。やっぱり、上手だった。でも、ピーラーの存在は教えるべきだったと、ちょっと後悔した。続いてニンジンも刻んで貰って……あれやこれやして貰ってたら、明日のスープに使う具材が一通り刻み終わっていた。
 そして、美月は思った。
『この人が居たら、便利かもしれない……』
 そう思ったらもう、彼女に用意された言葉は一つしかなかった。
「卒業式が済んだらすぐで良いですか?」
 こうして喫茶アルト新人その二、寺谷翼、二十歳、キッチンスタッフ、後に『喫茶店で野菜を刻んで皿を洗ってる人』と自称する存在が生まれた

 さてさて、こうして二人の新人スタッフが生まれたわけだ。その事をアルトから聞いた時、良夜は――
「お前のこと、どうするんだ?」
 そう尋ねた物だったが、アルトの方は至って平然としていた。
「スタッフなんだし、隠さなきゃ、気付くでしょ? 改まって、自己紹介なんて、やる必要なんてないわよ」
 アルトはカップのソーサに腰掛けたまま、簡単に言ってのけた。そして、事実、数日もしないうちに気付かれるのだが、それはまた、別のお話。
「吉田さんの後輩の人、大変でしょうねぇ……」
「あの人、スパルタらしいじゃん?」
「頭の形が変わるかと、思うくらい殴られましたからね……」
「それで覚えなかったんだろう? お前、料理」
「家事が向かないにもほどがあるわよ……」
「――って、アルトが言ってる。俺もそう思う」
 三人で語り合う夕暮れ前のひと時はいつも通り、コーヒーの香りと一緒に穏やかに過ぎ去ろうとしていた。
「あっ、良夜さん、こちら、うちの新人さん、二人です」
 そこに二人の新人を引き連れた美月がひょっこり顔を出した。見慣れた彼女の右側には、何処かで見た覚えがある上背のあるポニーテール。そして、左側には美月よりも少し身長が低めで、ショートボブの狐目の女性が、なぜか直樹の顔をじーっと無表情で見詰めて立っている。二人ともアルトの制服で、狐目の方は美月と同じエプロンを着けているのを見ると、キッチンのスタッフなのだろう。
「時任凪歩さんと寺谷翼さん。アルトの新しいスタッフです」
 そう言って、美月は、まずは女性二人を良夜と直樹に紹介すると、次いで、男二人を新人二人に紹介した。
「こちらの男性二人、えっと、吉田さんとあの……私の彼氏って奴でして〜仲良くしてくださいね」
 そう言われたお二人、男二人の顔を交互に見詰め、翼は直樹を、凪歩は良夜を指さし、同時に言った。
「「こっちとは無理」」
 厭な沈黙が流れ、その夜、喫茶アルト内で六者協議が執り行われる事が決まった。

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