ディナーもねっ!
喫茶アルトは大学の授業が一通り終わる夕方の四時を少し回った辺りに小さなピークがやってくる。授業が終わった学生がやってきて、一斉に注文をするからだ。そのピークを捌ききると喫茶アルトの巨乳、もとい、茶髪の方、吉田貴美はレジ近くの椅子に座って雑事をこなすのが通例になっていた。たとえば、テイクアウトのケーキを入れる箱を折ったり、伝票の仕分けをしたり。大抵は視覚と指先だけ使っていれば済む仕事なので、頭の中は明後日な方向のことを考えていることが多い。夕飯の段取りとか課題のレポートとか。
『じりりり……じりりり……』
入り口近くのレジに置かれた電話機が、貴美のそんな拡散し始めて居る意識をこちら側に呼び戻す。最近、ちょっと見ないような黒電話は呼び出しベルが五月蠅い。貴美としてはとっとと代えようと何回か提案しているのだが、デザインとしては家電臭い最近の電話機よりもこちらの方が落ち着くとは、美月談。
「毎度ありがとうございます。喫茶アルト、吉田です」
纏め終えた伝票を片隅に追いやり、ひょいと受話器を取り上げる。何度も言い慣れた言葉は、よどみなく彼女の唇から生まれ落ちていき、決して滞ることはない。そして、二言三言、電話口の向こうにいる人物と言葉を交わすと、彼女は受話器の口元を押さえて、背後を振り返る。そして、少しだけ大きな声で言った。
「店長、お電話」
カウンターの内側にいる和明に声を掛ける。彼がのんびりと出てくるのを待ったら、彼に受話器を渡して、再び、雑事。優秀な脊髄に仕事をさせながら、意識を来週提出のレポートの内容へと飛ばす。その隣で和明が先ほどの貴美と同じく、受話器の向こう側の人と言葉を交わしていた……かと思うと、すぐに彼は受話器を保留の形で置くと、キッチンへと引っ込んだ。
そして、出てくるのは喫茶アルトの貧乳……じゃなくて、黒髪の方、三島美月嬢だ。
美月が受話器を持ち上げて話を始めるのを横目で見て、貴美は「ああ……」と思った。なんとなくではあるが、美月が次に取る行動が読めたので、その対応のために座っていた椅子を少しだけ、レジより、すなわち美月よりに移す。
「はあ、ハイ……ふぇ……ふえぇぇぇぇぇぇ!!??」
案の定、美月の間の抜けた大声が静かだった店内に響き渡る。間抜け面で大声を上げる美月の頭を一つはたいて、貴美は言った。
「大声、出すな」
さて、その日の営業終了後のお話。メインの電気を落とし、客席頭上のペンダントライトだけが明かりを放つ店内で、美月は不機嫌さを隠しもしない表情で、貴美と共に売れ残りのショートケーキを突いていた。
「だから、なんで私に振るんですかね? お祖父さんは……」
勿論、不機嫌なのは昼間の電話が原因だ。
「でも、勝手に決められても嫌でしょ?」
苺のミルフィーユを突きながら、貴美は美月の膨らんだ頬へと視線を向ける。
昼間の電話相手は美月が卒業した調理師学校からの物だった。それも就職担当の教師からだ。さらに言うと――
「それもそうですけど……お世話になった先生なんですよ。もう、無碍にも断れません……」
ため息一つで怒っていた顔が落胆の顔へと早変わり。かくんと首をうつむけたまま、ホジホジと生クリームをフォークでほじっては口に運び始めた。
ようするに、美月が在学中、非常にお世話になったイタリアンの先生が今年は進路の担当をやっているらしい。で、その先生が直々に電話を掛けてきた物だから、面接もせずに突っぱねるというわけにも行きづらい。和明が蹴ってくれれば話も終わったのだろうが、その和明は「美月さんと話しあってください」と言ったらしい。そうなったら、相手は手加減をしない。教え子のために昔の教え子に与えた恩をかさに売り込む、売り込む。
「それで、結局……?」
詳しい電話の内容を美月が話し終えると、貴美はミルフィーユを解体する手を止めて尋ねた。
「他のスタッフとも話しあって、後日、お返事します……と」
そう答えて、美月はため息を一つ。くれぐれも雇う方向で話しあうように。出来るだけ早急に面接の日取りを決めてくれとは、電話の主。言葉を紡ぐ美月の口調に明るさは全くと言っていない。
「なるほどねぇ……って、他のスタッフなんて……私だけじゃん」
「後、アルト」
貴美の言葉に美月が顔を上げて答える。それに「ああ……」と、貴美は小さな相づちを打つ。確かに彼女もスタッフの一人と言えるかも知れない。が、そのアルトの、良夜経由でのお言葉は素っ気ない物だったそうだ。
「好きにしたら? だ、そうです……」
美月がため息混じりに教えると、貴美も同じくため息が一つ。ミルフィーユのパイ生地を口に運んで、ゆっくりと咀嚼、飲み込むと貴美は口を開いた。
「まあ、私も基本は好きにしたら、なんだけど……人を入れるのは、考えた方が良いと思うんよねぇ……私ももう三年だしさ。店長と二人でお店って、しんどいでしょ?」
砂糖もミルクもたっぷり入れたコーヒーで喉を潤し、彼女は言った。工学部の三年にもなれば専門的な授業も増えて、ランチタイムに滑り込みというのはしんどいことも考えられる。今でもけっこうギリギリなのだから。そこを考えると、未経験でも良いからランチタイムに入れるスタッフを増やして、そいつを暇なうちに鍛えるというプランが貴美の脳裏で立てられていく。
「目が回りますよ……けど、その場合、必要なのはフロアスタッフですけど、今回はキッチンスタッフなんですよねぇ……」
「じゃあ、そう言って断れば? ああ、でも、平日、美月さんが倒れたらお店、開けられないってのも考え物だと思うんよねぇ……店長のぎっくり腰、癖になってるし……」
貴美が話をそこまで進めると、美月は「ウーン」と腕組みをして考え込んでしまった。その美月に対し、貴美は最後に一つだけ言葉を重ねた。
「今の内に新しいのを入れてくれれば、春までにはしっかり鍛えるよ」
そう言うと美月は「ウーン……」とだけやっぱり返し、その日の経営会議は終わった。
さて数日が経過する。時は同じく、営業終了後のお茶会の場。昼間、日を改めて掛かってきた電話を受けた美月の表情は暗かった。そして、彼女は開口一番、どんよりと俯いたまま、消え入るような声で言った。
「キッチンスタッフとフロアスタッフ、二人、押し付けられちゃいました……」
そのお言葉に貴美が嘆息したことは言うまでもない。
良夜がこの話を聞いたのは二月、去年は食い損ねたバレンタインのケーキを出して貰っている時のことだった。その時こそは「へぇ〜」と軽く聞き流していた物だ。しかし、今日授業終了後のお茶請けの話題として、アルトから「二人雇うかもしれない」という話を聞くと多少は興味という物を覚えざるを得なかった。
「急に二人も雇って、大丈夫なのか?」
「好きにすりゃ良いのよ。ダメなら最終的には和明がどうにかするわ」
あっさりと言い切ったのは、この話の相談を持ちかけられたアルトだ。彼女はソーサを腰掛け、カップを背もたれにし、さして興味もなさそうに言葉を続けた。
「最終的にダメなら、貴美をクビにして、美月の給料をなくしちゃえばいいのよ」
「何気に酷いな……」
アルトの傍若無人なプランを耳を傾けながら、彼はカップを手にとった。フワッと香るブラックコーヒーの芳ばしい香りを胸に吸い込む。そして、少なめの一口を口に含み、飲み込む。温かな液体の固まりが喉から食道へと下っていく様をゆっくりと楽しむと、アルトが彼を見上げるソーサーへとカップを戻した。
チンッと小さくも澄んだ音がカップとソーサーの間で奏でられる。その音と共にアルトの言葉を直樹に伝えると、彼は苦い笑みを浮かべた。
「吉田さん、首にされても困りますけどねぇ……」
まあ、彼の場合、生活の面倒を貴美に見て貰っている立派なヒモなので彼女の収入が減るのは困るのだろう。などと良夜が言ったら、顔色を変えて反論してきた。曰く――
「ちゃんと、僕だってバイト料は家に入れてます!」
らしい。もっとも、貯まりに貯まった借金の返済は遅々として進んでないことを良夜は知っている。趣味に金をかけ過ぎなのだ。この間もマフラーを新調したとかどうとかで、随分と近所迷惑な音を立てていた。後、臨時税金、いわゆる罰金。
「それに二人って決まった訳じゃないのよ? 相手の手前、二人と面接することは決めたけど、会ってみてダメなら断っても良いって話よ」
再び、自身のカップを背もたれにしたアルトが良夜を見上げてそう言うと、彼は美月だったら、断るかな? となんとなく想像をした。基本的には優しい女性だが、自身の仕事を取られることを極端に嫌う。そんな美月が自分一人で回せている職場に他人を入れるとは、思いにくい。それに経営に関してはシビアな部分もある。
「よその人には冷たいのよ、意外と」
「景気、悪いのに断られる方はたまりませんね」
良夜が直樹にアルトの話を伝えると、彼は余り真剣味のない表情で答えた。来年は我が身なのだが、実感がないのは良夜も同じ。
「良夜の場合、最悪、ここの奴隷待遇ってのが残ってる……ああ、二人入れたら、それすらないかも……」
そういうアルトの額を「うるさいよ」と軽く彼女の額をこづく。その指先をアルトはペチンとストローの先端で叩くと、ペロッと舌を見せた。
「それで、面接っていつなんだ?」
「ですから、今日ですよ」
良夜が何気なく尋ねると、貴美から一連の話を聞いていた直樹が答えた。良夜が不思議だったのは、なぜかアルトが「あら」とびっくりしていたことだ。余り興味がなく、聞いていなかったらしい。
「夕方、お店が落ち着いたくらいに来るそうです」
直樹の言葉を聞いて、良夜はテーブルの上に置かれた自分の携帯をパカッと開いた。ピロンと言う小さな音がすると、アルトがじろっと何か言いたげな視線を向けたが、それは無視して、ディスプレイのデジタル時計に視線を落とす。時間は五時を少し回った所、もうすぐかなと思うと同時に、自身がバイトに出掛ける時間も近い。用事の終わった携帯電話をパタンと閉じると、再びピロンッと小さな電子音が鳴り、アルトがまたもや不機嫌そうな目で彼を見上げた。やっぱり、それはマルっと無視。アルトの背もたれをひょいと持ち上げると、中に残っていたコーヒーを一息に飲み干した。
「あら、もう、行くの? そろそろ来るから、見て行けば?」
「俺はお前みたいに物見高い性格じゃないの――じゃぁな、直樹、アルト。また明日」
テーブルの周りにいる二人に声を掛けて、良夜は立ち上がった。アルトの言う通り、興味がないと言えばウソになる。美月とも付き合ってるわけだし、ここの常連客だから顔を合わせることも多いだろう。そうは言っても、良夜に何らの決定権があるわけでなし、付き合いやすい人だと良いなと思うくらいだ。
店を出る前にキッチンをチラッと覗いて、「帰ります」とだけ声を掛ける。それに美月は忙しければ、「また」とだけ返事を返し、暇なら少しだけ立ち話をして見送られるのが、良夜の日課になっていた。今日の処は面接の都合もあるだろう、洗い物をしていた彼女は――
「はーい、また、明日です〜」
顔も上げずに答えて、見送りの言葉にした。仕事中であるし、時間的にも放課後の小ピークで出て行った食器達が、帰ってくる時間帯でもあるから、七割方が簡素な見送りになるのも仕方のないことだ。それについてとやかく言う気は毛頭ない。しかし……
「なんか、料理してるよりも食器洗ってる時間の方が長い気がするな……」
美月の職場を覗くと言えば、この時間帯が多いからだというのが一番の理由だと思う。貴美やアルトによると、ランチタイムの美月は黒髪を振り乱して料理をしているらしい。あの長い髪を振り乱してたら大変なことになるんじゃないのだろうか、と言ったら、比喩表現だと馬鹿にされた。そんな所やら、美月のひび割れした指先を思い出すに、良夜はキッチンスタッフも入れた方が良いのではないか、と言う気がし始める。
「ありがとうございました」
貴美の声を背中で受けて、彼は店外に足を踏み出した。国道をてくてくと歩く青年の背中を二月の風が押す。それは未だに冷たく、去年の末に奮発したレザーコートが手放せる日はまだまだ遠そうだ。
峠を少し越えて、ようやくアパートまで半分といった所、慣れた道だが何処に行くのもスクーターという生活をしていると面倒だと思う。それでも初めて見た時は気の遠くなるように感じた坂道を、徒歩で上がったり下ったりせずに済むようになっただけ、マシだなと思い返す。そうでなければ、きっと……――
「ぜぇ……ぜぇ……」
アパートの少し手前、呼吸器系の病でも患ってんじゃないかと思うような呼吸音が聞こえた。チラッと見れば、右手に大きなカバンと左手に分厚いダッフルコートを抱えた女性がチアノーゼになっていた。
『ああ、毎日歩いてたら、きっとこうなるな……』と、良夜は頭の片隅で思った。それと同時に、やっぱり、駅から歩いてきた人なのだろうか? と思う。この辺りで済んでる人間は最低でも自転車を利用しているからだ。
身長は貴美と美月の間くらいだろうか……? 女性にしては比較的高めな上に頭の上で藍色の髪をポニーテールにしているせいで、余計に背が高く感じる。その女性は大きな眼鏡の向こう側にそれに負けず劣らずの大きな瞳に涙をたっぷりと湛えながら、良夜の顔を見上げて、尋ねた。
「あっ、あの……この、この辺りに、アルトって……喫茶店、ないですか?」
「ああ、アルトならこの峠を越えた所ですよ」
指先だけを背後に向けて、そう答える。答えた瞬間、彼女のただでさえ悪かった顔色がさらに悪くなった。具体的に言えば、青から黄色になったと思う。
「……ありがとうございました……」
ぺこりと頭を下げると、髪留めにしている組紐がぺろんと揺れる。その俯いた体勢のまま、彼女はふらふらとおぼつかない足取りで坂を上り始めた。髪の量が多いのか彼女のポニーテールはボリュームが大きめ。その彼女がうつむき加減に歩いているものだから、まるで髪の毛が歩いているようにすら見えた。頑張れ〜と内心で応援の言葉を贈り、青年もまた、自宅へときびすを返す。
そして、思った。
「ああ……人生のフラグを潰すって、こう言うことを言うんだろうなぁ……」
手伝って上げれば良かったか、と思って振り返ってみる。しかし、そこに彼女のポニーテールは峠の向こう側に消えていた。
さて、それから十分弱後、喫茶アルトのドアベルをポニーテールの女性が鳴らしていた。出迎えるウェイトレスにぺこりと頭を下げ、彼女は名乗る。
「あっ、あの、今日、面接の申し込みをしていた時任凪歩(ときとうなぎほ)です」
なお、この時、彼女の胸中に渡来していたのは、へろへろの顔をヘラヘラとした笑みで見下ろし立ち去っていった男への理不尽な怒りであった。
喫茶アルト新人その一、時任凪歩、十九歳、フロアスタッフ。のちに『吉田の奴隷』と呼ばれる存在である。