喫茶アルト―EarlyDays―(2)
 気がついたときには“ここ”にいた。“ここ”にほかの誰かが居る様子はなく、実際、方々探し回ってみたが誰もいなかった。だから、“ここ”は自分の物だと彼女は思った。彼女にとって世界とは“ここ”と“ここ”の大きな窓から見える空間だけであり、それが彼女の全てだった。だから、程なく彼女はこう思うようになっていた。
「ここは絶対に守らなきゃいけない」

 和明がついうっかり「俺に気があるの?」と尋ねた日から、二年ちょっとが過ぎた。彼女も高校を卒業し、季節は梅雨が終わって死ぬほど暑い夏。この頃も和明はロダンで働いていたし、真雪もまた……
「すぴー……すぴー……」
 暑いという理由だけで短髪にしちゃった頭が準備時間のフロアに転がっていた。それを見下ろし、彼はほぼ日課になったため息をつく。
 真雪もまた、あの頃と変わらず、毎日のようにここに昼寝をしにやってきていた。どうしてか? 答えは簡単、就職も進学もしてないから。平たく言うと今の彼女は無職って奴。当人的には『家事手伝い』って事にしているのだが、本当に家の事を手伝っているのならば、ここで寝てたりはしてないのだろう。しかも、高校時代は同級生で同じく生徒会に参加していた明菜が迎えに来ていたのだが、彼女はまじめに就職し、まじめにOLをしているので迎えには来ない。おかげさまで、ランチ終了からディナー開始までフロアは真雪の寝室だ。
 いい加減にしろよなと心の底から思うが、やっぱり、彼女の相手をしてたらいつまで経っても仕事がはけないので、彼女を無視して仕事するのが彼の日課になっていた。
 しかし、今日は少々普段と勝手が違っていた。
「あっ……忘れてた」
 心地よさそうな寝顔を立てていた真雪がむくりと顔を起こし、眠たそうな声を上げる。
「どうした? 職安にでも行く気になったか?」
 三つ向こうのテーブルの下をモップで拭きながら、振り向きもせず、顔も上げずに投げ返す言葉はひどく投げやりな物。面倒くさいと前身で表現する背中に、驚くべき言葉が返ってきた。
「かずくん、お店、買わない?」
「……はい?」
 突拍子もない言葉に床を拭く手が止まり、上げるつもりのなかった顔も思わず上がる。振り向き見れば、彼女は昨今短くなる一方のスカートに手を突っ込み、なにやら取り出そうとしていた。
「えっとね……あったあった……友達が不動産屋さんで受付してるのね。それで良い物件あったら、教えてって言ってたら、昨日、手紙が来たの」
 こともなくそう言う真雪にため息一つ。和明はずるずるとモップを引きずり、彼女のもとへと歩み寄る。そして、椅子に座ったまま、くしゃくしゃになった手紙を伸ばそうとしている真雪に言った。
「あのな、黒さ――」
「真雪、もしくはゆきちゃん。黒雪姫、スノーブラックでも良いよ?」
 黒沢と続ける言葉が真雪の睨み付けるような瞳と不機嫌そうな声、ついでに膨れた頬で制される。つきあい始めたような感じになってから早一年半、そろそろ二年。名前で呼ぶように言われてもついつい出てくるのは苗字の方。そのたびに彼女はこんな態度を取っていた。
「……真雪ね、真雪、真雪……と、あのね、真雪さん。いくら爪に火をともす勢いで金を貯めてるとはいえ、まだ、店を持つほどの金なんてないの。掘っ立て小屋みたいな店でも作りたいの? 建物だけあっても営業はできないんだぞ?」
「ううん、土地付き一戸建ての洋館、大きさはここより大きいよ? 戦前、どこかのお偉い華族さんが別宅として建てた建物なんだけど、今では、誰も住んでないの」
「はぁ……いったい、俺にどれだけの負債を背負わせたいんだ? 自慢じゃないけど、担保になるような物や保証人の当てなんないから……俺」
 ぶっきらぼうな言葉、頭ごなしで否定はしている物の、興味がないと言えば嘘になる。多少小さくても持てれば……と思いながら、彼は彼女が出した図面をチラリと一瞥し、そして、絶望的な気分になる。一階のフロアは一度に四−五十人ほどの人が食事を取れそうな空間。そのフロアの南面には大きな窓が取り付けられて、眺めと日射しは最高に違いない事が想像できる。ついでに二階には夫婦二人に子供の二−三人が暮らしても十分な広さの部屋、さらには内風呂完備。完璧である。チラッと見ただけでも、彼が思い描いていた店、そのものの図面であると言っても過言ではないだろう。
 だからこその絶望感。
「……黒さ――、ああ、真雪ね、真雪、真雪……と、真雪さん?」
「三回も四回も呼ばなくて良いよ……なぁに? かずくん」
 一瞬だけ不機嫌な表情を見せた後、彼女は打って変わって、芝居がかった猫なで声を出す。
「俺に銀行強盗でもやれ……と?」
 彼は極力落ち着いた声で、きょとんと彼を見上げる娘に語りかけた。小さな紙に書かれた簡単な図面、それを見ただけでも判るほどの「理想のお店」、理想と夢そのものの建物なのだから、絶対に高い。値段の高さも完璧に決まっている。相場で言えば、今、通帳の中に入っているお金が倍になって、頭金が用意できると言ったところだろう。手持ちのお金で分割払いにしたら、払い終わる頃はよぼよぼの老人になってる事請け合い。そんな気分で言い放った言葉を彼女はさらりと受け流した。
「それが安いの。毎日顔合わせてるのだもの。かずくんの財布の中身くらい、大体想像着くよ。細かい数字は判らないんだけど、大体、このくらいなんだって」
 チッチッチッと指を揺らして、したり顔で彼女は言う。そしてスカートの中からもう一枚の紙を取り出し見せる。その金額はあり得ないほどに安い。月賦どころか、本体だけなら手持ちの資金でもなんとか買えるほどの安さ。
「……おい、なんだ……この値段? ただ同然じゃないか……まさか、幽霊屋敷とか言うんじゃないんだろうな?」
「うん、そうだよ」
 真雪がコックンと大きく頷き、思わず笑ってしまっていた和明の顔が真雪の返事にピシッと固まる。手からモップがこぼれ落ち、床の上でカッターンと鈍い音を立てた。
「戦後、何人もの人がこの建物を買ったんだけど、みんながみんな、夜中に食器が割れるとか、寝てたら体中を刺されるような痛みが走るとか言い出して、一年と待たずに出て行っちゃったの。不動産屋さんも気持ち悪いし、税金だけは毎年しっかりかかっちゃうから、貰ってくれるんなら、事務手数料だけで譲ってくれるって……かずくん、聞いてる?」
 固まった和明を置き去りに真雪はつらつらと事の事情を説明し初め、そして、終える。終えたときも和明の思考は完璧に止まったままだった。
「おーい、かずくぅん、聞いてるの? 聞いてないんなら、ゆきちゃん寝ちゃうよ? 寝ちゃったら、簡単には起きないよ? じゃぁ、お休み」
 ぽてんと真雪はテーブルの上に突っ伏して、気持ちよさそうな寝息を立て始め――させてなる物か、と和明は我に返った。彼女が眠るテーブルに力一杯手を叩き付け、彼女の意識をこっち側へと引き戻す。そして、上げる声はその細めの体のどこから出ているのかと思うような大声、絶叫だった。
「起きろ! 寝るな! お前、俺に幽霊屋敷押しつけるつもりか!?」
「ふにぃ……別にかずくんに押しつける気はないよ? 二人のあ・い・の・す。結婚したら、ここの二階はめくるめく肉欲の世界になるんだよ〜」
「……生々しい事言うな、女が……お前、幽霊屋敷に住みたいわけ? しかも、体中が刺されるような痛みって……怖い物知らずもたいがいにしろよ……」
「かずくぅん……もしかして、幽霊とか信じちゃってるのぉ? 駄目だなぁ〜これからの時代は科学と技術と理論の時代だよ? 精神主義は玉音放送で終わっちゃったの」
 呆れる和明に上機嫌の真雪、和明は呆れて物が言えなくなり、真雪はそれでも彼が何かを答えるのを待つ、片手で図面をひらひらとさせながら。図面と真雪のにこにこ顔を見つめる事きっちり三十秒。彼の中で物欲がむくむくとわき起こる事を感じつつの三十秒が過ぎる。そして、その物欲が『幽霊屋敷』の四文字を超えた三十一秒目、彼は口を開いた。
「……判った、ひとまず、次の日曜日に見に行こう。話はそれからだよ」
「わぁ〜い、逢い引き逢い引き〜」
「それは違う」

 つー訳で日曜日、ロダンのすぐそばにある駅から汽車に乗って二十分は問題ないのだが、その駅から目的地までは歩いて三十分。炎天下の中、未舗装の細い道、しかも坂道、と三重苦の道を二人はとぼとぼと歩いていた。
「駄目、やっぱ、これ、止めよう? 死んじゃう……死んじゃうから……」
 最初に根を上げたのは真雪の方だった。と言うか、彼女は五分の時点でぐだぐだと文句を言い始めていた。名前に雪とつけられてるだけあって、彼女は暑いのが苦手らしい……と言っても、寒さにことさら強いと言うわけでないのだから、要するにわがままなだけだ。
「だったら、この辺で待ってる? 俺、一人で見てくるから」
「なんにもないじゃんかぁ! 周り、全部、田んぼと川だけ! ねえ、かずくぅん、こんなところでお店しても誰も来ないよぉ……止めよ? 今回は縁がなかったんだよぉ……」
「もう少ししたら、この辺りに大きな国道が付いて、さらには大学まで出来るって言ったの、真雪じゃなかった?」
「言ったけど……やーだ! こんなに遠くまで歩くのやーなの! お店だって、駅の前にちっこい八百屋が一軒あっただけだしぃ〜こんなところで生活なんて出来ないよぉ〜」
 疲れたとか、しんどいとか、もう死んじゃう……と言ってる割に、手にしたハンドバッグをぐるぐると回すわ、地団駄を踏むわと不平不満を全身で言い表す。きっと着ている服がよそ行きのちょっと良いワンピースでなく、また、足元が山土丸出しの未舗装でなければ子供のように寝っ転がってだだをこねているところだろう。
「それだけ元気なら、あと十分や十五分、歩けるよ……地団駄踏む足、前に出したらいいの」
「かずくんの意地悪、悪魔、鬼、鬼畜〜〜〜」
 誰も通らない田舎道を一組のアベックは賑々しく歩く。真夏の真っ昼間、野良仕事をしている人もなく、誰にも見られない事が唯一の救い。必要以上に疲れるお散歩は当初の予定を大きく超えて、四十五分ほど。逢い引きと言うよりも何かの苦行のような時間もいつかは終わる。
「あっ……」
 表通りから川に向かって細い道を入れば、その深い渓谷のすぐ手前に一軒の洋館が見え始める。それを最初に見つけ、小さな声を上げたのは真雪の方だった。さんざん疲れただの、しんどいだの、今すぐ引き返そうだの、ハイヤー呼んでだの、言いたい放題だった彼女がぱっと顔を上げる。そして、肉体はもとより精神的に疲労困憊で、足を動かす事さえ面倒になっていた和明を置き去りに、だっと駆けだした。
「……ホント、子供……」
 和明の呟きも消えぬうち、彼女は建物の裏っ側へと消えていく。取り残されるのは和明ただ一人、真雪ほどの元気も残っていない彼は汗のにじんだ額に手をやりながら、建物を見上げた。
 薄いブラウンの外壁は落ち着いた色、どこかしらロダンにも似ているが、建物自体の大きさは五割り増しほどはある。ずいぶん長く無人だったそうなのだが、外側から見える部分に痛んだ様子もなく、ちょっと手を加えれば十分に店として使えるだろう。周りは全部田んぼと川いう立地条件に多少の不安感も抱くが、それとて本当に国道と大学が出来るのならば、学生相手の商売をやれば十分に成り立つ。問題は例の幽霊騒ぎくらいか……
 などと考えているうち、裏から大きな声が彼を呼ぶ。
「かずくぅん! ちょっと来て!!」
 元気の良い呼び声が彼の顔を苦笑にさせる。あれがさっきまで死ぬだの生きるだの言っていた人間の態度だろうか? 何を見つけたのかは知らないが、あの調子なら「縁がなかった」との言葉すらもう忘れているだろう。そんな事を思いながら、彼はまぶしい日射しの下をゆっくりと建物の裏へと歩いた。

『ねえ、これ見て! 大きな窓だよ。中から山の風景が見えてとっても素敵じゃないかな?』
 大きな窓の向こう側で見知らぬ女性が歓声を上げ、やはり見知らぬ男性がそれに頷いていた。彼女はそれを苦々しく見つめていた。また“ここ”を彼女から奪いに来た人間達、何度追い返しても忘れた頃にまたやってくる。しかも、今度の二人はもの凄くうるさそうだ。さて、どうやって追い出してやろうか……と彼女は考える。
 考える事数分、思いつくのはいつもの手段。
「先手必勝、奇襲攻撃、これね!」

「買う買うって、金出すの、俺だよ。中も見てみないと……床とかずぶずぶに腐ってたらどうするんだ?」
「見なくても大丈夫だよ〜あっ、ねえ、ねえ、かずくん、かずくん。こっち側の壁も窓にしちゃおう? 裏と同じ大きな窓。お客さんが来るのが見えてるから、ドアのところで出迎えられるよ?」
 真雪は表を軽く見て回っただけで、もはや買う気満々、今すぐ帰って、不動産屋に行こうと言い出す始末。その真雪をなだめ、そして当人自身もその気を強くしながら、不動産屋から預かった鍵で玄関のドアを開く。
「ねえ、ねえ、このドアにロダンと同じドアベルつけようよ。好きなんだ〜あの音」
「はいはい、そう言う計画は買ってからにしましょうね」
 分厚いドアを和明が押して開き、真雪が先に入る。一歩だけ室内に足を踏み入れると、彼女は肩越しに和明を見返り、笑い顔で舌をペロッと出した。
「もう、また意地悪――」
「死ねっ! この泥棒!!」
 楽しげな会話が甲高い声が遮る。声の元へと二人が顔を向ければ、高めの天井間近猛スピード……と言うほどでもなく、むしろ待つのがおっくうなほどののんびり加減で落ちてくる物体があった。
 待つ事数秒。やーっとこさ、手元へと届いたそれを、ひょい……と、手を伸ばして彼女はとっつかまえる。
「なんか、落ちてきた」
「……なんかって……何?」
「こら〜〜〜離せ〜〜離しなさい! せっせめて、足は止めて! 頭の血が上っちゃうから!」
 じたばたと彼女の中で暴れる“それ”、小さなトンボのような羽を一対二枚持つ、真っ裸の少女だった。その少女が真雪に両足を持たれ、宙づりになっていた。その少女(?)を握った拳を和明に突き出し、真雪は子供のような笑みを浮かべて言った。
「かずくん……新種のトンボだよ」
「……なんだか判らないけど、トンボじゃない事だけは判る」
「じゃぁ、何?」
「……えっと……」
 と悩む事数秒、妙にちっこいからだと透き通ったトンボのような羽、小憎たらしそうな顔とその上を覆う金髪はどこかの何かで見た記憶があった。それが載っていた雑誌には確か、こう書かれていたような気がする。
「……妖精?」
「うわっ! かずくん、ろまんてぃすと〜」
「うっ、うるさいな、お客さんが忘れて帰った絵本に書いてたんだよ。こういう絵」
「でも、妖精っぽいね、うん、妖精って事にしちゃおう」
 玄関の内と外、二人はドアの枠を挟んであれやこれやと話を続ける。
「あの……ちょっと、仲が良いのは良いんだけど、私はいつまでこうやって宙づりになってたらいいのかしら?」
 手の中にあるちっこい妖精(仮)のことを忘れ去って。
「あっ、忘れてた。ちっちゃいから」
「ふん! デブのデカ女に言われる筋合いじゃないわよっ!」
 手の中の少女が吐き捨てるように言ったときの事だった。それを店の外で見守っていた和明の耳に、ピシッと何かが割れる音が聞こえた……ような気がした。そして、うつむき、手の中のちっちゃい生き物を見ていた顔がゆっくりと上がる。上がった顔は笑っていた。しかし、壮絶としか言いようのない笑みだった。
「かずくん、回れ右」
 冷たい声で彼女は言う、でも、やっぱり笑顔だった。和明は素直に後ろを向く。何となく怖かったから。
 真雪は別に太っているわけではない。ただ、胸が人一倍大きいだけ。そして、この頃の日本人女性にとって、胸が大きい事は喜ばしい事ではなく、ともすればコンプレックスにもなり得る事だった。特に清楚たる事を強要されるお嬢様学校では、大きすぎる胸というのは全く自慢にならない話。
 だから、真雪はそれを地味に気に病んでいた。
「いたぁぁぁぁぁい!! いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいぃぃぃぃぃぃ!!!!! 裂けちゃう!! 裂けちゃう!!! 特に膜的な何かが裂けちゃう!!!!」
「誰がデブ? 誰が牛? 誰の胸があんパン? 誰が妖怪乳だけ女? 誰の胸が三十になったら垂れる胸?」
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさあぁぁぁぁぁい!!!」
 悲痛な叫びと淡々とした声が背後から聞こえる。ついでにメリメリという破滅的な音も……それら全てが和明には怖く、助ける事の出来ない小さな少女に対し、心の中でわびていた。

「三島家の女って三代続けて、胸が不幸だったんやね」
 ここまで聞いて貴美がぽつりと言った。
「誰の胸が不幸な胸なんですか?」
 喫茶アルト三代目、胸が不幸なフロアチーフが静かに切れた。

 閑話休題。
 真雪の折檻は終わったものの、彼女のご機嫌は斜めを越えて天地逆さま。ぶっすーと膨れたまま、小さな少女にハンドバッグから小さなハンカチを投げつけた。
「淑女が裸でうろうろしない。人の恋人に貧相な裸、見せてるんじゃないわよ。露出狂?」
「別に……今まで誰も私の事なんて、見えてなかったもの。誰も見えないんだから、別に裸でもなんでも良いじゃない……」
 そして、危うく股裂けになりそうになっていた彼女のご機嫌も最悪、真雪に負けず劣らずに膨れたまま、投げつけられたハンカチを体に巻き付け始める。そして、巻き終えると、コホンと咳払いを一つ。窓枠にちょこんと着地を決めると、握りしめていた針のような物をピシッと二人にめがけて突き出した。
「ともかく、ここは私の物なの! 勝手に入ってきて、物色してるんじゃないわよ! この泥棒!!」
「あっ、お邪魔します」
 少女が大声で怒鳴りつけると、不機嫌だった真雪はころりと表情を変え、ぺこっと素直に頭を下げて見せる。すれば少女もつられるように頭を下げて――
「あっ、いらっしゃいませ」
 と言った。
「ぷっ……」
 それに和明が思わず吹き出せば、少女はギッ! 金色の瞳を細めて睨み付ける。されど、羞恥で真っ赤になった顔に迫力があるとはお世辞にも言えず、むしろ、恥ずかしがっている子供のようで微笑ましい。真雪の方も機嫌はすっかり直って、和明と一緒ににやにやと人の悪い笑みを浮かべて、彼女を見つめていた。
「もっもう……しょうがないじゃない。初めてなんだから……誰かと話をするなんて……」
 そっぽを向いて彼女がポツリポツリと話し始める。今までにも何人もここを買おうとした人、もしくは実際に買った人がいるのだが、彼女の事に気がついたのは和明と真雪が初めて。だから調子が狂ってしまっているらしい。そして、そう言う人たちを追い出すために彼女がやっていた事、それが夜中に食器をたたき割ったり、寝ている人を手にしている針で刺してみたり、蹴っ飛ばしてみたり……それらの全てが幽霊騒ぎの元凶だった。
 のだが……
「お前……寂しいんだろう?」
 ぴくん! と少女の肩が跳ね上がり、体に巻き付けたハンカチがずるっと一センチほどずり落ちる。それを直しながら、彼女はフンッ! とだけ言って何も答えない。しかし、それは素直に答えるよりも雄弁に彼女の答えを二人に教えていた。
 和明と真雪の視線が交わり、軽く肩をすくめ合う。そして、真雪はそっぽを向いたままの小さな頭を人差し指で軽く小突く。コツンと小さな音を立てて、彼女のおでこは分厚いガラスにごっつんこ。
「痛いわね……何するのよ……?」
 窓ガラスに額を押しつけたまま、彼女は言う。先ほどまでの勢いはなく、声も控えめ。それだけを言い終えると、彼女は顔だけではなく、体ごと窓ガラスに向けて、黙りこくる。
 誰も言葉を発しない。窓から差し込むまぶしい日射しを三人はたっぷりと浴びながら、誰もが言葉を選ぼうとしていた。そして、最初に言葉を選び終えたのは真雪だった。
 彼女はもう一度金髪の後ろ頭をピンッとデコピンの要領ではじく。それは先ほどよりも強い勢いで彼女の額を窓ガラスに叩き付け、先ほどよりも大きな音を立てさせる。
「いたっ! いっ今のは本気で――」
 振り向き怒鳴りつける目には小さな涙、しかし、怒鳴り声は最後まで形になる事はなく、真雪の軽い調子の言葉によって遮られる。
「ヨシ、私たち、家族になろうか?」
「……また、突拍子もない事を……」
「だって、しょうがないじゃない? ここはこの子の家だし、私たちもここが欲しい。だったら、私たち三人が家族になるのが一番でしょ?」
「第一、俺はまだ真雪と家族になった覚えはないよ……」
「時間の問題じゃない? それにここを買い取れたらすぐにでも家族になれるよ。青年実業家様だもん」
 ぽんぽんと真雪と和明の間で言葉が行き交う。その真下、いくつも頭上を言葉が行き交っている事にも気づかずに、小さな少女の顔がゆっくりと幾通りにも変わっていく。
 まずは呆然、あんぐりと小さな口が大きく開き、顔のサイズの割には大きな瞳がパチパチと何度も瞬きを繰り返す。何度も瞬きを繰り返すうち、与えられた言葉の意味をようやく辞書的に解釈し終える。そこにいたってようやく言葉を租借する作業に入ったのか、彼女は目をギュッと閉じ、ついでに口も閉じたままぶつぶつと中で「家族、家族……」と繰り返す。
「ねえ、かずくん、この子、どうしたのかな?」
 ころころと何度も変わる表情、小首をかしげたり、なにやらぶつぶつ独り言を繰り返したりと挙動不審な事この上ない。そんな彼女の前で軽く手を振りながら、真雪は和明の顔を見上げて尋ねた。
「……嫌なんじゃないか?」
 和明が真雪に答えるやいなや、少女はとっさに叫んでいた。
「嫌なわけないじゃない!!!」
 こうして、小さな妖精(たぶん)の少女は真雪と和明の家族になった。

「ここで終われば話は綺麗なんですけどねぇ……」
 と、数十年後、すっかり老人になってしまった和明は三人の若者の前で、苦笑いを浮かべる。ここから先の話が「小さな妖精の少女」にとっての恥部であり、誰にもこの話をしたがらない、話させない最大の理由だった。
「彼女が居たら、絶対に言えない話ですけど……今は居ませんからね」

 家族となるにいたって、やらなければならない事があった。
 その事実に気づいたのは和明だった。少女に室内を案内して貰ううち、ふと、気づいた彼は目の前を飛ぶ少女に声を掛けた。
「お前、名前は?」
 そう、家族になる前にやらなければならない事、それは自己紹介。ここにいたってもまだ、和明と真雪は彼女の名前を知らないし、彼女にも名前を言ってない。
「名前?」
「俺が三島和明、彼女は黒沢真雪。お前は?」
「私の……名前?」
 和明に尋ねられ、少女の羽がぴたりと止まる。ゆっくりと、さび付いた機械人形のように振り向いた顔は真っ青。小さな額に小さな冷や汗が浮かび、そこから頬、あごへと流れてポタリと床に滴り落ちる。
「ないのか?」
「あっ、あるわよ! あるに決まってるじゃない……あるわよ、あるの……あると思う……あると良いわよね……じゃなかった、あるのよ、うん、あるわよ、あるの、ある、ある、ある……あると、アルト……あっ、アルトよ、アルト、うん、アルト。アルトで良いわ、もう、この際だから」
 右見たり左見たり、上を見たり下を見たりと落ち着く着なく視線を動かしたかと思えば、慌てた風に早口で言葉を並べてる。挙げ句の果てが『もう、この際だから』である。誰が聞いても結論は一つしかなく、彼もそう思った。
「……なかったんだ……名前……」
「あったわよ! あったに決まってるじゃない! ずーーーーーーーーーっと、前から私の名前はアルトよ、アルト!」
 ぽつりと和明が言うと、彼女改めアルトは手にした針のような物を彼に向けて威嚇する。しかし、彼女の顔は真っ赤っか。意外と思ってる事が顔に出やすいタイプなのかも知れない。
 そして、そのやりとりを見ていた真雪が大きな声を上げた。
「ヨシ、それじゃ、この店の名前もアルトにしちゃおう! そうだね、レストランアルト……なんか今ひとつ……じゃぁ、喫茶アルト、うん、喫茶アルト! 我ながら良い名前ッ!」
 これが喫茶アルト誕生の瞬間だった。

「と、まあ……アルトの名前はアルト本人が『もうこの際だから』ででっち上げただけの名前なんですよ、これが……あの、皆さん、どうかしましたか?」
 和明の話が終わったとき、全員が全員、カウンターに突っ伏していた。

前の話   書庫   次の話

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