喫茶アルト―EarlyDays―(完)
「ヨシ、それじゃ、この店の名前もアルトにしちゃおう! そうだね、レストランアルト……なんか今ひとつ……じゃぁ、喫茶アルト、うん、喫茶アルト! 我ながら良い名前ッ!」
 これが喫茶アルト誕生の瞬間……と言ってもすぐに営業が始められるわけではない。一階に大きなフロアがあっても、キッチンなんかは普通の家庭用よりも少し大きな程度と言ったところだし、電気やガス水道の類は一切つながっていない。いくら学校の生徒会室に水道を引き込むような女でも真雪が工事を出来るわけでなし、和明は業者の手配やらなんやらで色々と忙しい日々を送っていた。
 そんな日々、トコトコと今にして思えば安っぽい音を立ててオート三輪が未舗装の坂道を青息吐息で上がる。青い空の下、熱気をたっぷりと含んだ風を頬に受け車を運転しているのは、ロダンで材料の仕入れもやっている和明。特に店を持ちたいと相談してからと言うもの、その頻度が上がっているような気がする。
「良かったね、おっちゃんから車、借りられて」
「往復の燃料代が結構良い値段するんだけどね……割り勘にしたって電車代より高い」
 そして、その隣にはすっかり婚約者気分が板に付いている真雪が短く切りそろえた髪をやっぱり熱気をはらんだ風に気持ちよさそうになびかせていた。
「それでもこの坂を歩いて上がるよりずっと楽だよ……ねえ、かずくん、お金貯まったら車も買おうね」
「……それどころか、俺は借金が返せるかどうかの方が心配だよ。真雪の意見を入れてたら、予算の上限、越えそうじゃないか?」
「大丈夫だよ、きっとうまくいく。私ね、駄目なときの事は考えない事にしてるの」
 苦り切った和明の声を耳だけで聞きながら、彼女は答える。楽天的な言葉が二十一世紀の今よりも心持ち高く思える空へと吸い込まれるように消えていくのを、和明はとりたてて気にもせずに聞いた。
「代わりにうまくいくときの事は沢山考えてるよ。きっと、大きな学校が出来て、太い道が付いて、私たちのお店はその道路ぶちあるの。授業が終わった後の学生が沢山来て、かずくんの煎れるコーヒーと私の煎れる紅茶をみんなが飲んで……お店はそこそこ繁盛して、私はそれをちょっと離れたところから居眠りがてらに見てるの。その中には私たちの子供や、ずっと先には孫やひ孫も居て、そして、私が死んだら、学生が授業をサボって私のお葬式に来てくれるんだよ」
「……良くそこまで先の話を楽天的に決められるね、しかも葬式まで……」
 車窓から流れる風景を眺めながら、彼女は想像よりも確固とした物を感じさせる口調でかたる。それに和明があきれ顔と口調で語りかけると彼女は『えへへ』と顔ごと視線を和明に向けて笑った。
「きっと全部叶うよ。何もかもうまくいく。疑った事なんてないもん」
 良く言えば無邪気、悪く言えば考えなしな笑み。それを呆れるやら、逆に感心するやら、複雑な感情を内心に抱きながら彼は、車を絶賛改装中の店へと向けて運転し続けた。そして、彼は感じていた。不思議と彼女が笑って言い切るとそうなるような気がしてくる事を……
「ならない方に賭けるよ、俺は……」
 ただ、それを素直に認められるほど、当時の彼は成熟していなかった。その隣でやっぱり彼女はお気楽に言いはなった。
「駄目でも良いじゃない。駄目なら二人そろって借金背負っての夜逃げ人生。退屈だけはしないよ、死ぬまで、絶対」
 うだるような暑い昼下がり、峠の道をオート三輪はトコトコと上り続ける。夏の日射しよりも明るい声と明るい人生計画を乗せて……
 そして、喫茶アルトが開店するのはこの日からちょうど一年後、やっぱり暑い暑いうだるような日だった。

「ひとまずはこのくらいでしょうか……だらだらとしゃべっても長くなるばかりですから」
 真雪が夢見ていた店内風景そのもの中で老人は年若い友人とその隣に座った孫娘へと視線を向ける。新月の夜を思わせる濡れ羽色の髪も二重のまぶたも余り高くない鼻も、ついでに体つきも清華に似たもので、真雪に似ているところはあまりないと言われる孫。それでも、最近になって彼女が時々無邪気に笑う様はあの頃の真雪に似てきているように思えてきた。おそらくは和明と真雪が知り合った頃と美月が同じ歳になってきたからだろう。
「うーん、たっぷり聞いちゃいましたね。それでお祖母さんの夢は叶ったんですよね。お葬式に大学のお兄さんやお姉さん達が沢山いらしてたの、覚えてますよ」
「叶った物もあればそうでないのも……そうですね、今日などを見ると叶ってないかも知れませんね?」
 老人は話を聞き入る二人の店員とそのおつきしか居ない店内をぐるっと見渡し、彼らに微笑みかけると、彼らもまた少しだけ笑みを浮かべる。長期休暇ではいつもの事、閑散としたフロアを見ていると、ロダンで掃除をしていた頃の事を思い出してしまう。よそ見をしていれば、フロアの隅でテーブルに突っ伏して昼寝をしていた真雪が今でもそこにいるような気がしてならない。
「それで、結局、この三人の女の人はどうしたん?」
 わずかに大昔へと思いをはせていた老人を、少女を卒業しつつも未だ大人の女性とは呼べない……ちょうどあの頃の真雪やその友人達と同じ年代の貴美の声が今へと引き戻す。
「実は私も良くは知らないのですよ。任せろと言われて、私も忙しさにかまけて任せっきりにしてましたら、高校時代の生徒会仲間を呼び寄せていて。聞いてもはぐらかされてばかりで……結局、彼女たちがそれぞれ辞めるまで、理由らしい理由は聞けませんでしたね」
 老人はシワが深く刻まれた顔をわずかに苦笑して答える。答えた声に貴美は「そっか」とだけ返すと、彼女は立ち上がった。向かう先はカウンターの向こう側、和明の背後に並ぶ食器棚の前。ガラス製の扉を開いて、白磁の華奢なカップ達の前に握っていた写真立てをコトッと置いた。
 それを見つめながらうんうんと数回頷いたかと思うと、彼女はくるっとカウンターの方へと振り向き直して言う。
「結構、良い感じじゃない?」
 軽い口調と共に立てた親指だけで写真立てを彼女は指さす。すれば、美月と直樹も異口同音。苦笑いをしているのは和明ただひとりだった。
「若い頃の写真と並んで立つのはどうにも……」
 深いシワの中で老人は苦笑いを浮かべ、写真立ての中の自分に顔を向ける。若造だった頃の自分と老いた自分、得た物も失った物も沢山ある気もするし、全く変わらず何十年も無駄に時間を重ねてきただけのような気もする。それを写真の中の自分と余り変わらない若者達に見比べられるのは気恥ずかしい。
「どちらもかっこいいと思いますよ?」
「おっ、なおがお世辞言った」
「お世辞じゃないですって」
「私は今の方が良いかな? なんか、まだガキっぽい……まあ、見た目だけならなおの方がもっとガキっぽいけど。美月さんは?」
「私は若い方ですかねぇ……新鮮ですよね。物心ついたときにはお祖父さんはお爺さんでしたからぁ〜」
 案の定、と言うべきだろう。三人の若者は並べられた二つの顔を見比べてあれやこれやと会話に花を咲かせる。それを老人はいつもよりも幾分苦めの笑みで見つめる。ゆっくりと流れゆく時間、賑々しい会話は聞こえているがどこかしら静かにも感じられる時間を、老人は照れ笑いとも苦笑いとも取りかねる、自身でもそのどちらともつけがたい笑みを浮かべながら、白いハンカチでパイプを吹く事に費やす。
 から〜ん
 何十年と変わらず来客を教え続けるドアベルが、若者達の会話と老人の手慰みを止める。最初に動いたのは美月だった。彼女はトンと軽やかにストゥールから下りると、パタパタと足音を立ててドアのそばへと駆け寄る。そうなるとお冷やの用意をするのは貴美の仕事、彼女も席を立ちキッチンへと消える。それを見送り、老人も同じく磨いていたパイプをケースに片付け、ネルの段取りを始めた。いつもと変わらぬ接客の手順。年末も押し迫ったこの忙しい時期にのんびりコーヒーを飲みに来る暇人はどこの誰だろうと老人はわずかな好奇心がわき起こるのを感じながら、慣れ親しんだ手順をゆっくりとこなす。
「あなた、美月さん? ずいぶんと大きくなって……」
「ふぇ? えっと……あの、どちら様……ですか?」
 取り残される形になった直樹を斜め前に置き、ネルをドリッパーに仕掛けようとしていた手がふと止まる。記憶の底から表層へと浮かび上がってきたばかりの声、多少張りが失われているような気もするが、確かに聞き覚えのある声だった。
「お祖父さんにお客さんですよ?」
「お久しぶりです……」
 美月に連れられカウンターまで来たのは、ずいぶんと懐かしく、そしてつい今し方まで思い出していた顔……の数十年後。肩口も前髪も計ったように真っ直ぐに切りそろえられた黒髪、ぺこりと一度だけ頭を下げて、そこから顔を上げずに上目遣いで人を見る癖、あの頃と全く変わらず、ただシワだけが増えた上品な老女。脳裏の片隅を先ほどから占領していた女性の名前を彼は呼ぶ。
「もしかして……高槻明菜さん?」
「はい、苗字が変わってずいぶんと経ちましたが……」
 控えめなと言うよりもはっきりと地味だと言えるコートを脱ぎながら、そっと顔を上げて彼女は答える。
「そうでしたね……コーヒーで良いですか?」
「はい」と答えながら、彼女はコートをふわりと隣のストゥールの上に置く。そのコートから漂う香が老人の顔に刻まれたシワをわずかばかりに深くした。

「最後にお会いしたのは真雪、いえ、奥様のお葬式でしたでしょうか? もう、十年近く経ちましたね……」
「真雪で良いですよ……あのときはバタバタとしてまして……ご挨拶をしたという記憶もろくにありません」
 カウンターの隅の席に彼女は一人で座っていた。若者達は気を回したのか、目に付く所には居ない。二人きりのフロア、喫茶アルトで働いて貰ったのは、開店からほんの数年ほどだったかと思う。見合い結婚を機会に店は辞めた。真雪とは時々連絡も取っていたようなのだが、和明にその機会はあまりなかった。
「あっという間でしたからね……」
 そう言う老女の年齢は確か真雪と同い年で和明よりかは三つくらい下だったはず。もっともこの歳になれば三つや四つは誤差のような物だ。背後の写真、右から三番目OL風のスーツを着続けていた女性はその面影を残しながらも、すっかり老女と呼ぶにふさわしい姿。その姿を、まるで性別だけを変えて映す鏡のように、写真の中では青年だった老人は見つめる。
 ケトルに入れた水が沸騰するまでのわずかな時間、老女は細めた視線で辺りを見渡す。特に真後ろ……トイレから出て来たところすぐにある席で視線を一度止めたのち、彼女は和明の方へと向き直った。
「そのお写真、あの日の写真ですね……」
「ええ、孫と若い子が倉庫で見つけたようで……おかげで若気の至りという奴を説明させられて……」
 ゆったりとした時間、ゆったりとした口調。彼女はこんなしゃべり方をする女性だっただろうかと老人は思う。そして、自分自身があの頃とは全く違う、デスマス口調でしゃべっている事を思い出し、内心苦笑を浮かべた。
「そうですか……私も……思いがけないところで真雪さんの名前を見かけて……それで」
「そうですか……」
 真雪の名前を見かける場所など限られている。同窓会の名簿か……もう一つくらいの物。コートに残る香がそれを紙に書かれた名前ではなく、そこに刻まれた名前である事を教えていた。
 それをかき消すように老人は香の強いブレンドでコーヒーを煎れ始める。沸かし立てのお湯をそっと優しくネルの中へ……静かに、ゆっくりと……
「一つ、聞いても良いですか?」
「……あの頃は煎れてる最中に話しかけると、ずいぶん、不機嫌になられてたのに……」
 尋ねた言葉に老女はふと微笑み、頬杖をついて和明を見上げる。見上げられたろう店主もネルの向こうに彼女を見下ろし、笑みを浮かべる。
「慣れ、ですよ。気がつけば半世紀も経ってしまいました」
「そうですね……あの頃は毎日がお祭りのようで……」
「私は今でもですよ……もっとも、十年もした頃にはとばっちりを受けない方法を覚えましたし、二十年も経てば上手に見物する方法も学習できますよ」
 サーバの中にきっちり一杯分のコーヒーが溜まり、それをカップに移す。二人の視線がカップの上で交わり、最後の一滴がポタリと落ちて、カップの中で小さな波紋を作るのを見つめた。
「それで?」
「えっ?」
 カップの湖面を見つめていた明菜の顔が上がり、和明の顔を見上げる。その言葉に、和明の言葉が一瞬だけ詰まった。しかし、すぐに思い出した彼は煎れ立てのコーヒーと共に店晒しになっていた質問を彼女の前に置いた。
「たいしたことじゃありませんよ……ただ、どうしてうちで働いていたのかと、ね。孫達に聞かれまして……どこかの会社にお勤めだったと聞いてますが」
「……お教えしてませんでしたか? その答えもたいした物ではありません。真雪に言われましたの、今、退屈でしょ? って。給料が減った分は退屈しない日々で補うから、おいでって……」
 少しだけトーンの下がった口調、落ち着いたと言うよりもどこか冷たさを感じる口調、はっきりと思い出せるあの頃の口調で彼女は言った。そして、言い終わるとまた熱いコーヒーを舐めるようにゆっくりと飲み始める。
「それはそれは……凄い口説き文句もあった物ですね」
「結婚が決まったときも……」

『旦那さん、どんな人?』
『……普通の木訥な方です。ただ、力強く幸せになろう……と、そうおっしゃってくださったので……』
『あらら、フォーグレムリン、鬼の会計が顔真っ赤にしちゃって……そっか。じゃぁ、もう、退屈はしそうにないね。ここで働く必要もないかな?』
『人手、足りて――』
『忙しい人の時間を奪う見返りを払えるほど、お金持ちじゃないの、喫茶アルトは。そだね、また、退屈しちゃったらいつでもおいで? 私、待ってるから』

「気を遣ってくださったのでしょうね……あの頃は結婚した女が働ける時代ではありませんでしたから……」
「他の仕事はともかく、会計の仕事だけはまじめになさってましたね。もっとも、その分、ウェイトレスの仕事は輪を掛けてさぼるようになりましたが……よくもまああれだけ日長一日眠れる物だと思ってましたよ」
 一口、舐めるようにコーヒーに口をつけ、彼女は懐かしそうに微笑む。その笑みに彼もまた懐かしさを感じながらに微笑み返す。
「ふふ……でも、大抵は寝たふりでしたのよ? 寝たふりをして周りを見てるのがお好きだったようで……ですから、遠慮なく、椅子の脚を蹴飛ばしたり、倒したり出来ましたの……」
 老女ははにかむような笑顔を浮かべる。まるでいたずらを見つかった子供のよう。ずいぶんと優しい笑顔を浮かべるようになったと、それを見つめる老人は思う。それが彼女の歩んできた道が決して不幸せでなかった証明のような気がして、彼には少しうれしかった。
「そうでしたか? その割にはずいぶんと派手に転んでいたようでしたが……」
 和明がそう言うと彼女は「ふふ……」と伏し目がちに微笑み、またコーヒーに口をつける。極度の猫舌で熱いコーヒーを冷ましながら、ちびちびと舐めるように飲む癖は相変わらずのよう。時折、カップ一杯のコーヒーを小一時間も掛けて飲んでいた事もあっただろうか……

『私には働け働けって言って、自分は人の旦那の前で一時間も座り込んでるのね?』
『帳簿もつけ終わりました。消耗品の確認もやりました。税理士さんとも連絡をしましたし、明日の献立も店長と決めましたし、足りない食材の手配は終わりました。今日の仕事は閉店後の掃除だけです……チーフは?』
『うん、順番待ち、残りたったの五人。最後の一人はまだ五分と待ってないよ』
『働いてください』

 こうして彼女がコーヒーを飲んでいるのを見ると、あの頃の事が昨日のように思い起こされる。店員が目立つところに座ってはいけない、そう言って彼女が座るのはいつもカウンターの一番隅の席、今日と同じ場所。今日と同じコーヒーの飲み方。違うのはその隣で無邪気に笑っている女性が居ない事と、互いにあの頃には想像も付かないほど歳を取ってしまった事くらい。
 とりたてて何も話をしない時間、今日の所はさすがに小一時間は掛けなかったが、それでも彼女は三十分ほどコーヒーを舐め続けた。
「ごちそうさま……また、来ます……先日来、急に時間を持て余すようになりましたので……」
 老女はそう言って静かに席を立つ。香り立つコートを肩に引っかけて。
「お待ちしてます」
 老人は立ち去る背中に小さな声を掛ける。彼女はそれに一度だけ店内を振り返り、小さく頭を下げる。

 後に残ったのは、空になったコーヒーカップと彼女のコートがかすかに残した香……線香の独特な香が老人の目に少しだけしみた。
 この日から喫茶アルトにちょっぴり毛色の変わった、上品な老女の常連客が一人加わった。

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