海だ!(番外編)『お姉さまと呼ばせて』(6)
 英明学園第一校舎二階の一室は変な部屋だった。そこには何故かマネキンが古いセーラー服を着て妙なポーズを取っていたり、隅っこには漫研が書いた同人誌が山積みになっていたり、挙げ句の果てには古い冷蔵庫(フリーザー付き2ドア)とシンクとカセットコンロまであったりする。とても学校の一室とは思えない部屋、そこは栄えある英明学園生徒会室だ。大昔『英明の黒雪姫』と恐れられながらも愛され会長に率いられ、『四人の小悪魔』と呼ばれた伝説の生徒会が無茶苦茶やった結果、ここは一種の治外法権を所持し続けていた。
 彼女――河東彩音もこの部屋に初めて通された時は、その噂以上の荒れ具合に度肝を抜かれたものだ。が、まあ、それから早半年、すっかりその場の空気にも馴染み始めている。
 ただ一つの事を除いて……
 彩音の目の前には山積みの書類、新学期と言う事で各部から提出された予算の申し込み書と昨年の実績、今年の活動予定を纏めたレポートがサンシャイン60かくやと言うほどに積み上げられていた。これの中身を軽くチェックし、コピーを取って、予算会議までに人数分の小冊子にまとめ上げる事が彩音に課せられた任務だ。チェックと言っても必要事項に抜けがないかとか、書式が守られているかだとか、そう言う程度なので頭空っぽにして手だけ動かしていれば、時間と共に書類が減っていく程度の作業。
 それは良いのだが……と、彩音は書類のビルから横へ一メートルほど動かしてみた。小さな冷蔵庫とカセットコンロ、そしてシンクが設置された通称『流し』と呼ばれる一角。そこではポニーテールの眼鏡がカチャカチャと小さな音を立てて紅茶を煎れていた。
(……あの人はいつ仕事を始めるのでしょう?)
 そのポニーテールの眼鏡とは、生徒会室の主である生徒会長、桑島瑠依子[くわしまるいこ]その人だ。
「……お嬢、考えたら負けよ」
 ぼんやりと瑠依子の“仕事っぷり”を彩音が眺めていると、背後からかけられる声があった。背が高く髪もばっさりと短く切りそろえた、スカートよりもズボンが似合いそうな副会長、名を西上千恵[にしがみちえ]と言う。彼女の席にも大量の書類が山積み。彼女はそれをさっきまで一生懸命目を通していたのだが、瑠依子が手伝う事などついぞなかった。
 副会長の千恵だけではない。会計も書記も……女子生徒だけで構成された生徒会室の中で、書類と格闘してないのは会長当人だけだ。本当に徹頭徹尾、今日の彼女は働いていない。彩音もほぼ毎日生徒会室に顔を出しているが、瑠依子が仕事をしている確率は二割五分くらい。朝も放課後も一番に来てるのに、やっているのは他のメンバーに紅茶を煎れたり、お菓子を段取りしたとまるで喫茶店のウェイトレスみたいな真似ばかりをしている。
 しかも、彼女が煎れた紅茶は美味しい。特に、ミルクティにたっぷりの蜂蜜を入れたキャンプリックティが非常に美味しい。それを頂くのが小さな楽しみにも、なっているもちょっぴり悔しい。
「会長が美味しい紅茶を煎れて、スタッフが心地良く仕事を出来るようにするのがうちの伝統だからね。伝統は守らなきゃ」
 少し大振りのマグカップが積み上げられた書類の横に、コースターを伴って置かれる。白無地のマグカップとコルクを埋め込んだコースターは彩音がここに手伝いに来た時、最初の仕事として近くの百円ショップで購入してきたものだ。新しいスタッフが自分のカップとコースターを最初に調達してくるのも、生徒会での伝統らしい。作ったのは前出の『英明の黒雪姫と四人の小悪魔達』だ。どのような人だったのかは知らないが、彼女の親兄弟旦那子孫に一度で良いから、彩音は会ってみたくなった。
「良い? 上の人間がするべきなのは出来る人間を集めて、良い仕事をする環境を作って上げる事なのよ。そして、下の人間が成功したら手放しでほめて、失敗したら一緒に責任を取って上げる。これが正しい上司のあり方なの……あっ! また、私、良い事言っちゃった!? みんな! 尊敬して!」
 マグカップの乗ったトレイを手にして、瑠依子は大仰な仕草の大演説を執り行う。しかし、それを聞いているのは彩音ただ一人。他の三人の面子は黙々と自分の仕事をこなすために手を動かしていた。
「……私の仲間はお嬢だけか……はぁ……おじょぉ〜〜〜」
 そして彼女はよよと泣き崩れ、彩音の背中にガッシと縋り付いた。だーれも本気にしちゃいないのだが、彩音だけは妙に一々納得し、そのたびに手を止めてしまう。
「瑠依子、お嬢の邪魔するんなら帰れ!」
 そして、副会長の手により無理矢理引きずられていく……ここまでが毎日の恒例行事になっていた。
(思ってたのと、ずいぶん、違いますわね……)
 結局、瑠依子は千恵に引きずられ自分の席へと着席。どうしても、絶対に生徒会長の決裁が必要な書類を相手にポンポンと流れるような手つきで判子を押し始めた……その判子を押すテンポがやけにアップビート過ぎなのは気のせいと言う事にしておこう、彩音は心の中で深くそう思った。
「ごめんね、お嬢、みんな。アレ、口ばっかでさ」
 瑠依子を無理矢理座らせると、千恵は彩音を初めとした真面目に書類と格闘し続けていたメンバーに軽く頭を下げた。その千恵の言葉に瑠依子が「アレとか言うな!」となにやらクレームを付けるが、それを千恵は「うるさい!」と一喝。それにメンバー達がクスクスと笑い声を上げる。女性ばかりのかしましい生徒会、思っていたのと大幅に違うが、入ってみたのも悪くないと言うのが、彩音の率直な感想だった。
 でも……
「お嬢。これ、お願い」
 彩音の少し前に入ったという書記の同級生が彼女の前に一枚の書類を置く。
「お嬢、これ、どうなってる?」
 その書類を受け取ると、今度は会計の三年が彩音に声を掛ける。
「あの……仕事は良いのですが……お嬢と呼ぶのは……ちょっと……」
 彩音は手渡される書類や尋ねられた事に答えを返しながら、僅かに眉をひそめた。
 彩音は生徒会を手伝い始めてからと言う物、名前で呼ばれた事がない。誰もが彼女の事をお嬢と呼ぶ。それどころか、その呼び名はクラスにまでも浸透し――させたのは聖子だ――そこでもお嬢呼ばわりされている。
 そう言うのも、初めて手伝いに来た時、瑠依子がメンバーに彩音を「今日から手伝ってくれる事になったお嬢」と紹介したからだ。もちろん、彩音は「お嬢様などではありません」と主張したものだが、誰も聞き入れることなく、今に至っている。
「一度、刷り込まれちゃうとね」
 実質的に生徒会を取り仕切っている千恵ですらこの調子、苦笑いを浮かべながらも彼女を『お嬢』と呼び続ける。そうなれば、名付け親の瑠依子はもちろん、他の二人も同様に彩音の事をお嬢としか呼ばない。
「お母さんがお華の先生をしているだけですわ。家も広くて古いばかりですし……」
「本物のお嬢は自分の事をお嬢だと思ってない物なのよ……ってね。あっ、これ、お嬢に任す」
 ブツブツと口の中だけで文句を言う彩音に、流より子は書類の山の中から発掘したファイルをぽーんと投げて渡した。それは狙い違わず、彩音の前で山と化している書類の上にぴたりと着地。僅かにその山を階段状に変形させる物の、崩れさせる事はな意。むしろ彩音が手を伸ばしたら崩れそう。
「何ですか? これ……」
 今にも崩れそうな山へと恐る恐る手を伸ばして取ってみれば、それは――
「修学旅行の行き先アンケート。人数分コピーしたら、クラスに回して、帰ってきたら集計して先生の所に出しておいて」
 瑠依子が言うとおり、それは修学旅行先を決めるアンケートだった。候補地は沖縄、京阪神、九州、北海道の四つ。そこでどんな事をしたいか? 等を決めるための用紙の原案だ。彩音はペラペラとそれをめくりながら、あれ? 小さく首をかしげた。
「東京は……入ってませんのね?」
 そこに首都東京の名前がない。彩音の頭の中では高校の修学旅行と言えば、東京で東京タワーに行ったり、東京じゃないのに東京の名を冠した某テーマパークに行ったりするものだと思っていた。事実、彩音の通う英明学園でも去年は東京だったはずだ。
「あはは、去年、ちょーっと、私らが無茶しちゃって……」
「……私らぁ? 『ら?』」
 ちょっぴりばつが悪そうに瑠依子が頭を掻くと、その隣では千恵の拳がプルプル震え初める。その直後、彼女の手の中でボールペンがバキ! と乾いた音を立てて真っ二つに折れた。そして張り上げられる怒鳴り声に、生徒会室の窓ガラスは揺れる。
「私“ら”、じゃなくて、あんただ!! あんた!! あんたが目茶苦茶したから、英明だっていったら都内じゃホテルが取れなくなってるのよ!!」
 クールで知的、そう評される千恵だったが事、瑠依子が絡むとその沸点は異様に低下する。その下がった沸点のままに彼女は大爆発。再び、窓が割れるかと思うような大声を上げ、すぐ近くでへらへらと笑っている瑠依子力一杯怒鳴りつけた。
「ちょっと羽目を外しすぎただけじゃない……そんなにポンポン怒らないでよ」
「ちょっと?! ちょっとだ!? アキバのメイドさんと友達になってメイドのふく借りてメイド喫茶で紅茶出したり! しかも、相手は現バー! 現バー相手にメイド喫茶で紅茶出したのはあんたくらいだ!」
「げっ……現バーと言いますと、現代国語の樋口先生……?」
 綾音の顔から血の気が引き、口調が凍り付く。それもそのはず、現代国語の婆、略して現バー。何でも『お嬢様学校』だった頃の英明女学院のOBで非常に口うるさい年配の講師だ。他の教師が笑って許す事も、彼女に掛かると大目玉に発展しかねない。真面目で通っている彩音すら、小論文の再提出でかなり酷い目に合わせられている相手だ。その現バー……いや、樋口先生にメイド喫茶でウェイトレスをしているところを見つかった……その言葉を意味するところを彩音はほぼ正しく理解した。
「ネズミの国では他校の生徒を逆ナンしようとするし! 富士山の展望台から投石しようとするわ! 宿屋じゃ百物語初めて集団パニック起こさせるし!! 保護者扱いの私がどれだけ先生に頭下げて回ったと思ってるの!? 見捨てて強制送還の上に退学にさせりゃよかった!!!」
「正直、悪かったと思ってる。とっても反省してるよ……もっとばれないようにするべきだったって」
「だから、あんたは生徒会長の自覚があるのかと聞いてる! 教師の間でなんて呼ばれてるか知ってる!? 二代目悪姫[あっき]瑠璃姫[るりひめ]だぞ!? あんたが黒雪姫と同レベルなら私らも四人の小悪魔として英明の歴史に名を刻むのかっ!?」
 もはや我慢ならんと千恵は立ち立ち上がり、瑠依子の頭を抱えてガンガンと乱暴に彼女の机の上へと叩きつけた。そのたび舞い上がる書類、それらが作り出すは美しい花々、それを呆然と見あげ、彩音は誰が掃除をするのだろう? と他人事のように考えた。
「下馬評じゃ、沖縄有利らしいよ……水着、新しいの買わなきゃね」
 クラスこそ違うが同級生の書記がそっと耳打ちをすると、彩音はもう一度自分の手の中へとやって来たアンケート用紙へと視線を落とした。海、海水浴にダイビングの体験学習……どちらかというと海よりも山の方が好きなのだけど……
 彩音は心の中で呟きながら、信州への投票を決めていた。

 さて、英明学園で修学旅行先が決まろうとしていた頃、お隣の藤川高校でも同様に修学旅行の行き先が決まろうとしていた。
「と……言うわけで今年の修学旅行先は――」
 藤川高校二年B組、平たく言うと二条陽の担任という非常に心休まらぬポジションにすえられたのは、能田加奈子女史だった。彼女の声を聞きながら、刀クラス一番の問題児二条陽は退屈そうに外を眺めていた。正直、興味ない……と言うのが彼の実感だ。彼が今一番気に掛けているのは、気になる女性、河東彩音との関係だった。
 日曜日の翌日の月曜日、彼は深く反省していた。
「……お前、まだ黙ってるのか?」
 後ろの席から声を掛けられると、陽はコクンと小さく頷くだけの返事を返した。話しかけてきたのは武だ。一年から二年へと上がる時、クラス替えはあったのだが武とはまたもや同じクラスになっていた。
 彼は陽が頷いた事に気付いたのか、再び、低く小さな声で話しかける。
「根性なし……」
 耳を澄まさなければ聞こえないような声に、陽は視線半分ほどを与えた。残念な事に陽の位置から真後ろに座る武の事をうかがう事は出来ないが、どうせ底意地の悪い顔をしているに違いない。
 その言葉に陽は視線を机に落とすと、メモ帳に一文だけ書いて後ろ手に握って回した。
『Not 根性なし ただ忘れてるだけ』
 そう。陽はデートの前日には『明日こそは言おう!』と心がけるのだが、当日になるとその決意をコロッと忘れているのだ。いつものくせで女物の服に着替え、いつものくせでお化粧して、いつものくせで筆談をして、いつものように楽しく一日を過ごして帰宅する。そして、帰ってきた途端、いつも通りに過ごしていた事を思い出して深く反省する。これが毎度のパターンと化し、半年以上も続いていた。
「……意識的に忘れてるだけだろう?」
『ど忘れ! 悪意はない!』
「嘘こけ。美人だましやがって、悪党」
『Not 悪党 Yes ど忘れ』
「……お前の脳みそはどういう作りだ?」
『多分 薄桃色』
「物理的に? 内容的に?」
『両方』
「両方かよ!」
 小声とメモ帳が二人の間を何度も行き交い二人の意識の中から年かさの生き遅れた女性の事など綺麗さっぱり消え去っていた。そう、完璧に忘れ去れていた女、担任能田加奈子が二人のすぐ横で静かに見下ろしているなど、ましてや、その眼鏡の奥に怒りの焔をたたえている事など、二人の意識に一ミリたりとて存在していなかった。
「楽しそうだな? 二条、野上、話は聞いてたのか?」
 澄んではいるが……と言うか澄んでいるからこその凄みが利いた声を彼女は陽と武の斜め上からゆっくりと降り掛かってくる。その声に武は頬を引きつらせ、乾いた笑い声を上げているが、陽はそんなに柔ではなかった。
『聞いてた』
 捲るメモ帳、教師相手にも一歩も引かぬ顔で陽はズイッとそれを彼女の前に差し出した。
「ほっほぉ……じゃぁ、何の話をしてた?」
『加奈子先生がまた振られたって話』
 ニッコリ笑顔で見せたメモ帳に加奈子の“大事な何か”が切れる音が響き、彼女は校舎全てに聞こえそうな大声を上げた。
「まだ振られてない!!!」
 その声にクラスメイト背員、恐怖にうちふるえるも陽だけは、このオカマだけは全く意に介す様子もない。それどこか、彼は再びメモ帳へとペンを走らせ、それを彼女めがけてまっすぐに突き出した。
『いつ?』
「夏休み辺りがピンチだな。今の相手はサラリーマ――……二条、素直に謝るか、高校生三年で成人式を迎えるか、どっちが良い?」
『ごめんなさい モテモテの加奈子先生』
 掲げるメモ帳の文面はこんな感じだし、顔は一ミリも下がる様子もなく、ニコニコしっぱなし。これで謝っていると思ってる奴が居たら、そいつと一度ゆっくり話し合ってみたい……と、陽自身が思うような態度だ。
 そのメモ帳を見つめる事数秒、加奈子の押さえたルージュで彩られた唇が静かに動いた。
「二条……」
『はい モテモテの加奈子先生』
「来週までにズッコケ三人組を一巻から最新刊まで全部読んで、読書感想文を書いてこい。来なきゃ、強制的に卒業させてやる」
『ごめんなさい 児童書はカンベン』
 ここに来て急にぺこぺこと深く頭を下げる陽から、加奈子はプイッと視線を切ると、タイトスカートを引きちぎりそうなほどの大股で教壇へと帰った。ただ一言だけを残して――
「勘弁くらい漢字で書け!」
 そして、彼女はくるりと生徒達へと向き直り、大きく咳払いをした。直後、キーンコーン、カーンコーンとチャイムが鳴れば、ホームルームの終了の時間。加奈子は教師としての立場も忘れて、チッと小さな舌打ちの音を響かせた。
「ともかく、修学旅行は七月XX日、沖縄に決まったからな! まだ時間はあるが、まあ、適当に予定でも考えておけ。三泊四日なんてあっという間だぞ」
 加奈子が伝えるべき事を伝え、教室を後にすると、室内はにわかに活気づき始める。それを陽はどこか覚めた表情で見つめていた。
「なんだ? 沖縄、嫌いか?」
 背後からひょっこりと顔を出す武に、陽は一度だけ大きく首を振るとメモ帳にペンを走らせる。
『ゴーヤチャンプルー 豚肉料理 サーターアンダギー Spam料理 どれも興味ある』
「だったら?」
『でも日本中美味しい物はある どこでも同じ
 それに今のあたしは食欲少なめ』
 少しだけ真面目な顔でメモ帳を見せると、武は少しだけ苦笑いを浮かべ、陽の頭をポンポンと軽く叩いた。
「七月までに荷物、下ろしておけよ」
 朝のホームルームから一時間目が始まるまでの僅かな時間。武がトイレへと立つと、陽は一人、騒がしい教室から教室とベランダを区切る窓へと視線を向ける。梅雨前の暖かな日差し……夏休みまでの僅かな時間でずいぶんと重たくなった荷物を下ろす自信を彼は持ち得なかった。

 そして、その日の夕方。英明学園の修学旅行先が、大方の予想通りの場所と日時に決まった。
「会長……修学旅行のアンケート、集計終わりました」
 相変わらず仕事の代わりにウェイトレス一筋の瑠依子に、彩音はまとめ上げた書類を手渡した。
「んっ、お疲れ様。今紅茶煎れるよ……って、やっぱ、沖縄かぁ……」
「ええ、七月XX日から三泊四日ですわ」

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