海だ!番外編:お姉さまと呼ばせて(7)
 本土は未だに梅雨だというのに、沖縄は一足先に真夏の様相。カッと照りつける太陽が白い砂浜をより白く熱し、エメラルドグリーンの水面には色とりどりの水着が咲き乱れていた。
「夏休み前にこんな所で遊んじゃうと、夏休みがつまらなくなるねぇ〜」
「これに比べたら近所の海なんて海じゃないよ!」
 ワイワイガヤガヤ……夏休み前の平日ともあって海辺の人では少々少なめ。そこを占領しているのは修学旅行などで来ている学生達がメインだ。そのメインの中に二つの高校があった。一つは英明学園、そしてもう一つが藤川高校。
 そして、賑やかなりし浜辺で二組四人の学生達は出会ってしまった。
「……おねっ……えっ?! あれ?!」
「……彩音……ちゃん?」
 方やダークブルーの控えめなワンピース姿。ウェストはやけに細いのに胸元だけは人一倍、後に『生涯で一番痩せてた頃』と語られる時期だった河東彩音だ。彼女が、素敵なスタイルのご婦人が色黒の同級生――種島聖子を伴って突っ立っていた。
 方や花柄のやけに派手なトランクスと肩に引っかけたバスタオル一枚と言う出で立ち。胸元は当然真っ平らで喉には大きめののど仏、どこからどう見ても立派な男な二条陽。彼もまた男友達――野上武と共に呆然と立ちすくんでいた。
「……おね……様……男?」
 彼女、河東彩音はその一言だけを発すると、顔から血の気をなくし、そのまま真後ろへとひっくり返っていった。途端に周囲は騒然溶かす。養護教諭が飛んできたり、男二人組にあらぬ疑いが掛けられたりと、上を下への大騒ぎ。あれよあれよという間に、彩音は陽達の目の前から消え去り、賑やかな空気を取りもどした浜辺には二人の男がぽつんと取り残されてしまった。
「悪い……」
 武は言い訳のように呟いた。嫌がる陽を半ば無理矢理海辺へと連れてきたのは武だったからだ。その呟きを陽は入道雲がわき上がる空を見つめながら、耳にしていた。不思議と悲しみも後悔もあの入道雲ほどわき上がって来やしない。ただ――
「おい? 二条?!」
 大きな入道雲が視野の中で複雑な形に歪んでいく事と、頬を伝う暖かい物の感触……そして、タオル越しに両肩を握る友人の手の平がやけに不快だった。
 三泊四日の修学旅行、その三日目は波乱含みで始まったばかり。

 さて、話は出発前日にさかのぼる。朝一番、ホームルームで担任の能田加奈子が告げた一言にクラスは騒然となった。
「修学旅行先、どうも英明と被ってるらしい……」
 沈鬱な表情で辺りを見渡し、加奈子はひときわ大きな溜息をついた。彼女の目の前に広がるのは、妙に浮き足立ち始めた男子とその男子を冷たく侮蔑の感情がたっぷりとこもった視線で見守る女子達の姿だった。
「女あまりの英明……」
「春だ! 初夏だけど春だ!!」
「ばっかじゃない?」
「英明の娘だってうちの男子なんて相手しないって」
 独り身の男子にとっては元女子校で今でも男子よりも女子が圧倒的に多い英明は好奇心そそられる対象であり、女子としては他校の女子にへらへら鼻の下を伸ばされては面白いはずがない。教室内は途端にざわめき初め、そのざわめきが加奈子の表情をより一層険しくさせる。
「男子、問題を起こしたら海に沈めて魚礁か珊瑚の苗代にしてやるから……なっ!」
 ばんっ!
 なっ! の声に合わせて、彼女の右手が唸りを上げて黒板を力一杯叩く。引っぱたかれた黒板は大きく身を震わせ、その懐に抱えていたチョークや黒板消しを冷たい床の上へと投げ捨てた。
 大きな音とその余韻が消え去れば、室内には耳が痛くなるような沈黙が訪れる。
 沈黙の中、彼らは一様に思った。
(また振られたな、加奈子ちゃん)
 そして、その想像は概ね正解。夏休みまでは持つだろうと思ってたのにこのざまで、彼女の不機嫌は修学旅行前後で最悪の所に位置していた。
 と、そんな小ネタはさておく。緊張感を孕んだ沈黙の中、誰もが加奈子の八つ当たりを恐れながらもどこで話を引っ張り出させようかと悩んでいると言うのに、陽だけはまるっきり違う事に思いをはせていた。すなわち――
 喜ぶべきか? 悲しむべきか?
 二者択一。沖縄旅行を彩音と一緒……修学旅行なのだから観光地を巡るくらいしかできないのだが、それでも楽しい物になるのは間違いないだろう。が、沖縄と言えば海、水着姿でばったり鉢合わせとなれば身の破滅。さてどうした物か……
 等と悩んでるうちに時間は流れ、気がつけば沖縄本土に陽は居た。
『いつの間に?』
「訳判らんねー事言ってないで、バス、出るぜ?」
 武の声に呼ばれ、陽はまぶしい太陽を手のひさしで避けながらバスへとスカートを翻した。
 ひめゆりの塔だの平和祈念公園だの、高校二年生的には非常につまらないコースを初日に全て終わらせれば、二日目は楽しい観光旅行。守礼門から首里城を抜けて、お昼は豚肉フルコース、トロピカルフルーツだのサーターアンダギーだの美味しい物が目白押し。最近、色々と食欲少なめの陽も、この時ばかりは久しぶりにラッフィングール復活とばかりに食い倒れを満喫していた。
 しかし、不思議と英明学園の生徒達とはすれ違いもしない。陽は観光地に着くたび、そこに止まっているバスをチラチラと見ていたのだが、そこに英明学園がチャーターしているらしきバスを見つけられずにいた。
「聞いてないのか? 予定」
『聞いてない 種なしさんとも連絡取れなかった』
 携帯電話から送ったメールは返事なし。英明は携帯持ち込み禁止だから、家に置いてきているのかも知れない。彩音に至ってはパソコンも携帯も持ち合わせていないという最近珍しいタイプ。電話をしない(出来ない)陽に彩音と連絡を取る術は事実上無かったりする。
 陽はそれを思い起こしながら、抱えた紙袋の中から出来たてのちんすこうをもう一つ取り出し、パクッと口に運んだ。
「まあ、沖縄って言っても広いからな……本島だけとも限らないし」
 陽の紙袋から武もちんすこうを一つ奪うと、それをペットボトルの茶と一緒に口内へと流し込む。
 二人はプラプラと那覇の街をぶらついていた。夕食までのひととき、自由時間を散策兼買い食いで潰していれば、市内には明らかに本土から来たのであろう修学旅行学生達のグループが目につく。しかし、その中にも彩音が通う英明学園の制服を見る事はない。
「西表とか……他の島に行ってんじゃね?」
 武の言葉は陽にも納得の出来る話だった。事実、藤川の一部グループも島巡りのコースを選択している。そちらを選べば、初日の『お勉強コース』以外は全く接点がなくなる。
「でもまあ、良かったじゃないか? 明日の海水浴、たっぷり泳げるぜ? 沖縄まで来て泳がなかったら嘘だよな」
『そだね』
 とは返事をした物の、陽の心はやっぱり二律背反だった。彩音との沖縄旅行が消えた事を残念がるか? 沖縄の蒼い海で泳げる事を喜ぶべきか?
「二条君、野上君、相変わらず仲良いね。ご飯、時間だよ?」
 ぼんやりと考えにふけっていた陽を少女らしい甲高い声が、こちらの世界へと引き戻す。
「明日は三園さんに付き合うって、なんてたって海だからな。ビキニ?」
 武は彼女の顔を見かけると、ポンと陽の肩を叩いて彼女へと近付いた。
「あはは、まぁね。結構、キてるよ?」
「マジで? そりゃ楽しみ」
「あはっ、ただ見は行けないな、野上君。ちんすこうちょーだい!」
「わりぃ、最後の一個食っちゃった」
「じゃぁ、見せたげない」
「金取れるようなスタイルかよ!」
 ケラケラと楽しげな会話、それを陽は一歩だけ下がったところで聞きながら、ホテルへと足を進めた。どことなく寂しい思いを心の隅っこに覚えながら……
「あっ、二条君も明日、海でしょ? 楽しみだね!」
 不意に彼女は振り向き、零れるような笑顔を陽に向けた。夕焼けの中にまぶしく光る笑顔、愛らしいと呼ぶにふさわしい笑みがそこにあった。
 しかし、陽はほんの一瞬だけ足取りを止めると、一言だけ書いたメモを見せた。
『そうでもない』

 そして、話は冒頭小一時間後へと戻る。
 ぼんやり……陽は海水浴客で賑やかな浜辺の隅っこに腰を下ろし、流れる雲を見あげていた。歓声も潮騒も風の音も何もかもが妙に遠くから、現実感を失って聞こえる。
 この間、遅れ声で駆けつけてきた加奈子にきわめて軽く事情を説明し、何となく一緒に居づらくなった武と別れつげ、あふれていた涙をバスタオルと塩水でざぶざぶと洗い終え――と、雑事を終わらせた時には、彩音がどこにいるのかすら判らない状況になっていた。
 だから、することもなく、陽は空を見あげていた。
 風が雲の形を変え、そこにある事を証明し続ける空。どこまでも晴れ渡り、美しくもあるが、それを見あげて『いつまで見ても飽きない』と言えるほどに陽は枯れていない。はっきり言えば、かなり飽きてきている。飽きているのだが、何をするのも億劫としか思えない。
 だから、陽はこうして座っている。
 水に浸かる事もしないで小一時間。じりじりと日に焼かれた肩口や背中も、そろそろ痛くなってきたような気がし始めるほどの時間が過ぎた。そんな頃、背後からあまり聞きたくはない声が聞こえた。
「二条君……ここにいたんだ?」
 聞き慣れては居たが、最近聞いていない声。それにつられるように陽が視線を動かすと、そこには先ほどと同じビキニを着けた聖子が立っていた。
「……種なしさん?」
「……切れるぞ?」
 陽が小さな声で言うと、彼女はことさら不機嫌な表情を見せながら陽のすぐ隣に腰を下ろした。その浅黒く日焼けした横顔には、うっすらと汗が滲み、彼女が短いとは言えない時間を浜辺で費やした事を、陽に教えていた。
「何?」
「うん……彩音、バスで寝てるから。心配してるだろうと思って……さ、一応。先生には熱射病って事にしてあるから……お昼は食べられると……思う」
 ぽつりぽつり、五月雨がトタン屋根を叩くように聖子は言葉を重ねる。その言葉を耳にしながら、陽は聖子が見つめる水平線へと視線を向けた。空の青と海の青が交わる一本の直線。そこでは、海の上に雲が浮かび、ヨットのセールが空へと突き出す。
「そう」
 二人の視線はお互いに絡み合うことなく、水平線の彼方へと消えていく。
 短くはない沈黙が続く。しかし、静寂は訪れることなく、海水浴客のざわめきと潮騒と風の音が乗り過ごした電車のようにその場を彩っていた。
「行く」
 その賑やかな沈黙を破ったのは陽の方だった。特に聖子の何がいけないというわけでもなければ、用事を思い出したわけでもない。ただ今は誰かと一緒に居たくはなかった。
「あっ……ちょっと待って」
「何?」
 立ち上がりかけた腰を、再び熱い砂浜の上に降ろし、陽は聖子の方へと視線を向けた。二人の視線はここに来てようやく交わった。撮影旅行で良く焼けた小麦色の頬、新月の夜空のように黒い瞳、良く見れば可愛い顔をしている……と思った時、陽は心の隅っこで苦笑いを浮かべた。
「あのさ、付き合って上げようか?」
 その苦笑いを察せられたかのような台詞に陽の思考がきっちり一秒だけ止まった。そして、陽はその一秒後にこう答えていた。
「いらない」
「……彩音、男嫌いだし……さ? 私で良いじゃん? 妥協しときな? 意外とプロポーション良いし、顔もまあ……そこそこでしょ? お買い得物件だと思うんだけど?」
 聖子は取り繕うようにペラペラと言葉を重ね始めた。それを陽は黙って聞き終えると、ただ静かに微笑んで首を左右に振るだけだった。
「……彩音の事……好き……なの?」
 聖子は言葉を慎重に選びながら、陽の顔を覗き込んだ。その覗き込む額を陽はペチンと平手で叩く。
「……種なしさんと違う」
「……この期におよんでまだ種なしって言うか? あんたは……」
 叩かれた額を抑え、聖子は恨みがましい視線で陽を見あげた。
「種なしさんとは種なしさんが結婚するまで種なしさんって呼び続けて、結婚式のスピーチで『種なしさんじゃなくなって良かったね』って言える友達でいたい」
 その視線を僅かに高いところから見下ろし、陽は珍しく……本当に台詞以外でこんなに長々としゃべったのはいつぶりだろう? と思えるような台詞をつづった。つづればつづるほどに聖子の顔色は険しくなっていく。
「だから、付き合っていらない」
「……ぜってぇ、あんたなんて結婚式に呼ぶかっ!! あっちに彩音が居るから!! 土下座して告白してこい!! そして、振られて世を儚んで死んじまえ、このオカマ!!!!」
 絶叫のような怒鳴り声に陽は、ははっと小さな声を上げて笑う。そして、すっと砂浜の上から立ち上がると、聖子の頭を二つ三つ叩き、その場を後にした。ただ一言――
「ありがとう。あたしは良い友達を持った」
 それだけを言い残して。
「……このオカマ……男……」
 そのか細い声は陽の耳に届く事はなかった。

 去りゆく後ろ姿を眺め、聖子はもう一度呟いた。
「……オカマが女装してなきゃ、格好いいじゃんか……馬鹿」
 あの後、聖子は彩音を宿へではなくバスへと連れ帰って帰っていた。他の面々は皆海へと向かい、付き添ってくれた養護教員にも無理を言って出て行って貰った。
 二人きりになったバスの中、二人は隣り合う席に腰を下ろしていた。そして、彩音は聖子の顔から視線を逸らし、動かない車窓へと視線を向けていた。
「ご存じ……だったのですか?」
「……あれの女装は中学の頃からだったけど……一応、男子として扱われてたから」
「どうして教えてくれなかったのですか?」
 彩音の視線が聖子の方へと向き直り、聖子の顔を静かに見つめる。少しきつめの視線には靜かでありながらもはっきりとした力を感じる。それは二人が知り合って――藤川高校の合否発表で二人仲良く肩を落としていた瞬間以来、初めてのものだ。その視線が聖子の胸に突き刺さり、聖子の視線を彩音が見ていた方へと誘う。その強烈な誘惑を断ち切り、聖子は彩音の顔を見つめ続けた。
「言いそびれちゃった……んじゃないよ」
 聖子の言葉に「えっ?」という言葉と共に、彩音の目からすっと力が抜けたような気がした。
「あはは……二条の事、ちょっと好きかなって思ってさ……男と女になったら、ほら、付き合うとか色々あるじゃん? だから、私が二条に言うなっていっておいたの。二条の事、怒らないでやって……こんな風になっちゃったけど、さ?」
 そして、少しだけ話しやすくなった雰囲気を感じながら、聖子の口からは自分が思っても、否、考えずにもいた言葉がすらすらと突いて出た。
「たっ……種なしさんって言われてたのに?」
「……あんたまで種なしって言うな!」
「もっ申し訳ありません!」
 聖子の罵声に彩音はバネ仕掛けの人形のように飛び上がり、ぺこぺこと何度も頭を下げた。いつの間には詫びる方と詫びられる方が逆転した車内に二人は声を上げて笑いあった。
「ウソ……あんな人生ノリと酔狂とその場の勢いだけで生きてる馬鹿なんか好きにならない……」
「おねえ――いえ、二条さんはそれだけの方じゃないと思います……そう言う部分も多分にありますが」
「じゃぁ、賭けようか? これから――」
 聖子はバスの中での事を思い出し、大きな入道雲に向かって大きな溜息をこぼした。それは陽がつい先ほどまで眺めていた物と同じである事を彼女は知らない。
「よっ……種島。貧乏くじ、引いたな?」
「……うるさい、野上。死んじゃえ」
 頭の上から掛けられた言葉に、聖子は膝の間に顔を突っ込みながら答えた。
「夏休み……」
「何?」
 ぼんやりとした口調。武の言葉はまるで独り言のように遠いところから聞こえる。また、聖子も埋めた膝の間から顔を上げる事はない。
「また、撮影旅行、行くのか?」
「…………行く」
 その会話はまるで遠い電話のようだ。かろうじて聞こえる言葉をお互いが耳をそばだてて聞いているよう。
「そっか……一緒に行ってやろうか?」
 聖子はその言葉に返事をする事なかった。
 ただ、二週間後……彼女は彩音と陽経由で武に撮影旅行のスケジュールだけは伝えた。
 もっとも、そのスケジュールの半分以上がサッカー部の試合とかち合い、大揉めに揉めちゃったのは、ご愛敬。

 さて、結果を言うならば、この後、陽は本当に土下座をやった。しかも、民宿の部屋などではなく、浜辺に生えたシュロの木の根元で。ただでさえ目立つ事が苦手な彩音はその衆人環視の中の最低な告白に、本日二度目の卒倒を仕掛けたほどだった。
「あの……わっ、わたくし、おっお付き合いとか、よっ、良く判り、判りません! でっででも、こっ、これからも一緒に……電車、電車に乗って……あのっ、えっと……でも、ただ……あの」
「彩音ちゃん、深呼吸して、落ち着こう?」
「うひゃっ!?」
 脇腹を摘まれた彩音が素っ頓狂な声を上げ、いつもと同じようにジタバタともがく苦しむ。そして、綾音は言われたままに大きく深呼吸をして、一つだけ条件を付けた。
「これからもお姉さまと呼んでも良いですか?」
 オカマと百合気質の変人カップルはこの時、完成を見た。

「結局、彩音が陽のどこが良くて付き合ってるのか……良く解らなかったけど……蓼食う虫も好き好きって奴よね……」
 語り疲れ、聞き疲れ、それぞれにもはや出掛ける気もなくした六人を良夜の頭から見下ろし、アルトはその感想を呟いた。そして、彼女は呟いた。
「蓼と虫の見本市……」

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