海だ!(番外編)『お姉さまと呼ばせて』(4)
さて、陽と彩音の初デート本番の日がやってきた……と言っても、当事者の片割れ、河東彩音は「少し他よりも大事な女友達とのお出かけ」程度にしか思っていない、はずだった。
天候快晴、気温低め、待ち合わせはいつも彩音が電車に乗る駅のプラットフォーム、待ち合わせ時間はお昼少し過ぎの十三時。彩音はそれよりもかなり早めの十二時三十分にプラットフォームへと上がった。少し早めなのは、陽が十三時に間に合わせるためは十二時四十四分着の電車で来るはずだからだ。これの次は十三時を越えてしまう。間違いないだろうというのが彩音の計算だ。
年末最後の日曜日、師走とあってか日曜日の昼間だというのにプラットフォームにはちらほらと他の乗客の姿も見えた。彩音は十二月の冷たい風に吹かれ、視線を細い腕に巻いた腕時計へと落とす。
「まだ少しありますわね……」
今年買ったばかりのコートは千鳥格子の少しシックな感じ。大人っぽい感じが過ぎてどうかとも思ったが、自分よりも頭一つ大きく、いつも落ち着いている陽と一緒ならこれが良いような気がした。
もう一度彩音は腕時計へと視線を落とす。アナログの数えるように刻む針は一周の僅か半分しか進んでいない。
「はぁ……」
小さな溜息が薄くリップを塗った唇から零れ、白い息の固まりとして澄んだ冬空へと消えていく。
今日の彩音は落ち着きをなくしていた。訂正、落ち着きをなくしていたのは冬休み直前、今日の予定が立ったその日からずっとだ。その予定だって映画を見て、喫茶店でお茶をして、ウィンドウショッピングでブティックを冷やかす程度。ありふれたお出かけだ。なのに彼女の心は妙に落ち着きをなくす。
三度、彼女は腕時計へと視線を落とした。二度目から針が進んだのは僅か三十五度、彼女がここに着いてから一分程度の時間しか経っていない計算、待ち合わせの時間まで後三十分弱、電車が着くまででも十五分はある。
「うひゃっ!?」
びくん! もう一度溜息をつこうとした彩音の口から上がったのは、悲鳴とも嬌声とも付かぬ間抜けな声だった。それを上げさせたのは――
「おっ……お姉さま?」
背後から彼女の脇腹をポフッと両手で挟んでいる陽だった。彩音の顔を驚きが彩ると、彼はニコッと満足したように微笑みを浮かべた。そして、胸ポケットからメモ帳を取り出すと、彩音の鼻先に突き出す。
『すきあり』
「すっ、隙……ですか? きっ、気をつけ――うひゃっ!?」
ムニュ! あまり多くはない脇腹のお肉を陽が少し強めにつまむと、彩音の口からはより一層大きく間抜けな声が零れた。
「なっ! 何ですか〜〜〜!!」
悲鳴というか、半ば怒声のような声を彩音が上げると陽はパッと手を離し、『すきあり』と書いていたメモ帳をめくり、新しい一文を書き込んだ。
『ただのボケ 真面目に受け答えしちゃダメ』
「あっ、はい……気をつけます」
妙にかしこまってしまう彩音に陽はもう一度微笑み、メモ帳の新しいページにペンを走らせた。
『やっぱり真面目 カルく行こう』
「はい」
彩音が大きく返事を返すと、そこに電車が滑り込んでくる。本来ならば陽が乗っていたはずの列車だ。その下り列車を見送り、彩音は「あれ?」と小首を捻った。
「あっ……あの、一体いつから?」
『十二時十三分着』
「そっ? そんなに早くに!?」
思わず彩音の口があんぐりと開けば、陽は「してやったり」とばかりに大きく頷く。“彼女”が言うには、一時の待ち合わせにしておけばそこから逆算して電車が着く前に彩音が来るだろうことは容易に予想が付く。だからこそ、早い電車に乗って彼女が来るのを待っていた……と言う事らしい。
『計算通り』
「……あの、お姉さまって……」
意外と茶目っ気があるというか、悪く言うと子供っぽい……? 思いついた言葉は言っちゃうと失礼だろうか? 彩音は危うく言いそうになった言葉を飲み込み、続きを待つ陽に「何でもありません」とあやふやにごまかした。
『言いたいことは言わないと体に悪い』
「でも……傷つけたり……」
陽のメモ帳に彩音は僅かに顔をうつむけながら、呟くような声で言葉を返す。言いたいことや聞きたいこと……陽に伝えたいことも聞きたいことも沢山ある。例えばいつもの筆談、と思いながら彩音は陽の姿を改めて見直した。
暖かそうなセーターとストーンウォッシュのジーパンにブルゾン、そして首深くに巻いたマフラー、かなりボーイッシュな服装を上手に着こなす陽、その声はどんなに綺麗なのだろう? と彩音は思う。なのに、陽はいつも筆談で声なんか聞いたことはない。
『どうしたの?』
「いっ、いいえ……――ひゃっ!」
言いよどみ、彩音の顔が僅かに俯く。その俯いた彼女の右脇腹を陽の手がムギュッと摘み上げた。反射的に彩音の顔が跳ね上がり、陽の顔を驚きの表情と共に見つめるような形になった。
『顔を上げて胸を張ろう その方が美人』
いつの間に用意していたのか、陽はメモ帳のページを開いて彩音に見せた。見せるページを後押しするかのように“彼女”は彩音の問い返す視線に自信を込めて胸を張り、大きく頷いて見せた。
ぽんっ。軽く背中を叩き、陽はもう一度メモ帳の同じページを見せる。
『顔を上げて胸を張ろう その方が美人』
「……でも……」と彩音はもう一度言葉を濁す。美人なんて彼女は今まで一度も言われた事がない。両親くらいには言われた事があるがこれは親の欲目という奴だろうと思うし、友達――例えば健康的に日焼けした写真部の友人なんかの方がよっぽど美人だと思う。
ぽーんともう一度陽は彩音の背中を叩く。
『行こう お腹空いた ご飯』
プラットフォームに滑り込んでくる上り電車、そのドアが開くと陽は彩音の体を中に押し込む。彩音は「ちょっと」と小さな抵抗をしてみせるが、それもお構いなし。少し強引なところに彩音は目を丸くした。
(思ってた感じと少し違う人なのかも……)
彩音は心の中でそう呟いた。しかし、それは決して嫌な違い方ではないように思えた。
電車に乗って新市街へ。最近出来たばかりのシネコンが今日の目的地だ。最初にファーストフードのお店で軽くお昼をすませ、目的の映画が始まるのを待つ。陽が今日のために選んだ映画は何の取り柄もない少女がちょっとした切っ掛けで大きく変わっていく、いわゆるシンデレラストーリーという奴だ。陽は脚本演出芝居共に平凡と少々物足りなさを訴えていたが、彩音にはあこがれる物が確かにあった。
「辛口ではないのですか?」
『少し』
シネコンから出ると、二人は数分歩いたところにある喫茶店に入った。ここも陽が美味しいと評判なのを聞きつけて選んだお店。“彼女”はそこにはいるとカッとケーキを二つとアイスコーヒーを、彩音自身は一つと紅茶を注文した……しかし、“彼女”は意外とよく食べる人だなぁ……と彩音は内心変なところで感心していた。
日曜の夕方前、店内には彩音達同様にシネコンから出てきたカップルや家族連れで喫茶店は大盛況。落ち着いた雰囲気を演出しようとする店の努力は認めるが、それもあまり功を奏しては居なかった。
『でも 彩音ちゃんが楽しかったのならOK』
「ええ、すごく……」
陽がメモ帳を見せると彩音は大きく頷いた。
『あこがれる?』
「ええ、やはりあこがれます。あんなチャンスなど、中々ありませんから……」
彩音の言葉に陽が『そっか』と筆談で答えると、映画のお話はひとまず終わり。二人は評判通りのケーキに舌鼓をうちながら、お互いの学校の事や日頃の話など……小さな話題にいくつも華を咲かせ続けた。
その後も概ね予定通り。大通りにあるブティックなんかを冷やかしてみたり、CDショップで陽が新しいCDを買ったり、本屋に立ち寄ってみたりと、気の赴くままに街を散策した。
今日一日で彩音の中で陽の評価はずいぶんと変わった。何よりもよく食べる人……まあ、一緒に食事をするなんて初めてなのだから、食べる人なのか食べない人なのか、知るよしもなかったのだが、それでも見た目から想像する以上に食べる人なのは間違いがない。
映画を見る前にファーストフードに入ってハンバーグとポテトジュースのセット。出てかからもケーキを二つ、それからも屋台でクレープを食べて……見ているだけで彩音はお腹いっぱい。
もっとも、この日の陽はか・な・り・我慢していた居たのだが、それを彩音が知るのはずいぶん後のお話。
他にも少し子供っぽいところもあって、時々彩音を驚かせる。朝の待ち合わせも『彩音ちゃんが驚くと思って』やった事らしい。それと脇腹をつまむんだり、もうちょっとお肉があった方が良いというのは辞めて欲しい。
そして何より――
冬至前後の早い日暮れが街を包む頃、彩音は陽に送られ自宅の前にまで帰っていた。新興住宅地の街路は明かりも多く、二人の足下には長い影が伸びていた。
『彩音ちゃん』
「はい?」
ここまで結構です、彩音がそう言うと陽は小さく微笑み、街灯の明かりにメモ帳を突き出した。
『切っ掛けは目の前 俯いてると見えない』
唐突な走り書きに彩音は「えっ?」と言葉を詰まらせ、“彼女”の持つメモ帳を凝視した。その顔ににっこりと微笑み、陽はページをめくる。
『彩音ちゃんは美人 見せないのは勿体ない』
「でも……」
『あたしが保証 足りない?』
「いっ、いえ!」
捲られあらかじめ文字の書かれていたページに彩音は慌てて首を振った。その仕草に陽はもう一度優しい笑みを浮かべ、彩音の背中をポンと一つ叩いた。
そして、未だにきょとんとしたままの彩音にクルッと背を向け、後ろ手にヒラヒラと手を振った。
「あっ、あの! 今日はありがとうございました!」
去りゆく背中にそんな言葉をかければ、陽はもう一度だけ彩音の方を振り向き、大きく手を振った。
今日一日で彩音の陽に対する評価はずいぶん変わった。
よく食べる人、子供っぽいところもある人、そして、少しだけ自分の背を押してくれる人。与えられた言葉をもう一度かみしめ、彩音は陽に対する気持ちを少し強めた。
『切っ掛けは目の前』
そして新学期が始まる。旧年最後の日曜日から半月、彩音は相変わらず三つほど早い電車に乗り、悪い悪いとは思いつつも陽に庇われるような格好で登校していた。そんなあるある日の事……
「ねえ、暇ならちょっと手伝ってくれないかな?」
誰もいない教室、苦手な数学の教科書と参考書を開いていた彩音は、見知らぬ上級生からそう声をかけられた。少し大きな眼鏡をかけた真面目そうな上級生……よく思い出してみれば、二学期頭に選ばれた新しい生徒会長だ。
「えっ……わたくし?」
「大した仕事じゃないからさ。ちょっとプリントを仕分けするだけ」
軽い調子で言う彼女の顔を彩音は不審そうな顔で見あげた。その頭の中にあるのは一つの疑問、それすなわち――
『どうしてわたくしに仰るのでしょう?』
これだ。
誰もいない教室、外からはグラウンドで朝練に汗を流す運動部員達の声が聞こえる。そんな僅かな沈黙の後、彼女は綾音の顔を見下ろして言った。
「用事もないのにこんな時間に学校に出てくるの、ちょっとレアだもん」
「……あの、わたくし、何か言いましたか?」
聞きもしないことを絶妙のタイミングで答える会長を彩音はやっぱり不思議そうな顔で見あげた。大きな眼鏡の奥に大きな瞳、少しつり目で狐みたいと言われる彩音には羨ましい。
「顔に書いてる」
ピッと綾音の顔を指先がまっすぐに捕えた。そして、彼女は悪戯な笑みを浮かべて見せる。少し前も「日干し煉瓦の仮面」と言われたし、自分は思っていることが顔に出やすいタチなのだろうか? と彩音は少しだけ反省をした。
「で、プリントの仕分けだの、予算の計算だの、各部の書類編集だの、地味で忙しい割に良いことは、内申書が誤差分くらい良くなるだけと言うお得な生徒会、手伝ってくれないかな?」
「あの……でも、わたくしは……――」
「あっ、嫌って言うんなら無理強いはなしない。やる気のない人にいて貰っても邪魔だし」
返事を言いよどむ彩音に、会長はぴしゃりと言い切る。先ほどまで冗談のような口調で冗談のようなことを言っていたのが嘘のよう。彼女は綾音の顔に真剣な眼差しを送り、彼女の返事を待った。
誘われた彩音の中に最初に浮かんだ言葉は『出来ません』の一言だった。自分に生徒会なんかの仕事が勤まるはずもない。そんな仕事、やったことがないからだ。しかし、会長が先に『無理強いはしない』と言ってくれたせいで、逆に彼女には考える時間が与えられた。
「……あの……そう言うこと、全然、経験ありませんが……それでも……?」
少しだけの逡巡の後、彩音は口を開く。否定とも肯定とも取れる言葉だったが、彩音としては肯定に近い気持ちで言った言葉。これを否定に取られたのなら、訂正はしないで置こう。彩音はそう思った。しかし、彼女の期待混じりの心配は杞憂に終わった。
格好を崩すと、会長は大きく頷き、冗談めかした口調で言葉を続けた。
「あっ、そっちは大丈夫。日本語が読めて、日本語が書けて、小学校卒業程度の算数が出来たら大抵は片付く仕事だから」
「そんな物……なのですか? 生徒会の仕事は……」
まるで子供のお使いみたいに事もなく言う彼女を、彩音は不思議そうに見あげる。その顔は人懐っこく微笑み、ちょこんと彩音のおでこを軽く突いた。
「人生の問題を片付けるのに、二次方程式はいらないんだよ……」
言われてみればそんな物なのかも知れない……何となく説得力ありそうな言葉に綾音は「はぁ……」と曖昧な返事を返す。
「あっ、私、良いこと言った? 良いこと言ったよね? 尊敬してくれる?」
そんな綾音の態度は意に介していないのか、それとも目に入っていないのかは判らないが、ポンポンといくつか彩音の肩を叩いて格好を崩した。そう言えば、生徒会長選挙の演説でもこんな感じのお調子者っぽい雰囲気でやってたような覚えがある。それが当選の原動力になっていたはずだ。もっとも彩音自身は、四角四面に学校の将来を切々と語った男子生徒に投票していたのは秘密にして置いた方が良いだろう。
「あの……尊敬はしませんが。でしたら、お手伝いさせて……」
「尊敬もしてくれるとありがたいんだけどね。助かるわ。三年のOB、手伝ってくれてたんだけどさ、そろそろ卒業でしょ?」
そう言って、会長は無人の教室を後にしようとする。その背について席を彩音が立つと、彼女はふと彩音の方へと向き直った。そして、改めて綾音の顔をじろじろと見つめ直す。
それに彩音が「何か?」と尋ねると、「あっ」と小さな声を上げてから口を開いた。
「ごめんごめん、聞いてたのと雰囲気が違うなってね」
取り繕うように彼女は彩音の肩をポンポンと二つほど叩く。そして、ばつが悪いように頭を掻き、彼女が聞いた彩音の評価を伝えた。
「引っ込み思案だから多分断るって。三回頼んだら渋々引き受けるだろうって。写真部の……誰だっけ?」
誰だっけ? と彼女は視線を彩音から逸らし、数秒の間思案に暮れたが、結局『色黒の子』まで思い出して思考を打ち切る。もちろん、彩音の頭には毎日のように顔を合わせている女子生徒の顔が思い浮かんだ。
「多分……少し前ならその通りだったと思います。でも……」
「でも?」
でも、と言葉を切った綾音の顔を会長は眼鏡越しの視線で覗き込んだ。その視線から少しだけ気恥ずかしそうに目を逸らすと、彩音は言葉を続ける。
「おね――いえ、尊敬する人が『変わる切っ掛けは目の前にある』と仰っていたので……これを……」
「切っ掛け? でも、むしろその一言が変わる切っ掛けだったんじゃない……あっ、私、また良い事言った? 尊敬して」
子供っぽくはしゃぐ会長に綾音は唖然としながらこう言った。
「尊敬はしませんが……多分、その通りだと思います」
その脳裏に赤毛の素敵な「お姉さま」を思い浮かべながら……
この日から彩音はなし崩し的に生徒会メンバーの一員になり、彼女は周りの人々からこう評価されるようになった。
「少し変わったね」
と。
そして、その頃、もう一人の人物も同じような評価を受けていた。もっとも、こちらの方は事情がちょっと違う。
「お前……何があったんだ?」
藤川高校食堂、古いコンクリ打ちっ放しの建物と働いているのがおばちゃんばかりという事で学食と言うよりも場末の定食やと言った方がぴったりと来る建物の中、彼、野上武は信じられないものを見た。
「二条が……ラッフィンググールが……ラーメン一杯でごちそうさま!?」
それはそこに居る全ての人間を代弁した物であり、誰もが驚きを持ってその事実を受け止めていた。
そう、この頃の二条陽は……
『食欲 ない』
そんなメモ帳を掲げるオカマを藤川高校の生徒達はこう評価した。
「二条が変!」
と。
……微妙に評価が違うのは気にしないでいただきたい。