海だ!(番外編)『お姉さまと呼ばせて』(3)
 十二月もそろそろ終わり、短い割にイベント盛りだくさんな冬休みももうすぐってこの時期。種島聖子は一つの疑念を抱いて高校生活を送っていた。
 聖子は未だ人もまばらな教室に入ると、自分の席へと視線を動かした。無人の席から一つ後ろ、本命はそこ。廊下側の隅っこ、何となくキャラクター付けで席が決められたような席には彼女の親友、河東彩音が座っていた。ここしばらくの彩音は様子がおかしい。人よりも早く登校しては、くそ真面目にも予習復習をやっている。不真面目と言うほどではないが、人並の真面目しか持っていないはずの彼女にしては珍しい行動。それがひと月もふた月となれば誰だって不信感を抱いて当然だ。
「おはよう、彩音。早いね?」
 学生鞄はぽーんと机の放り投げるが、小脇に抱えたボストンバッグには愛用のデジカメが入ってるのでそっと置く。ちなみに学生鞄の中身はほとんど空。試験前以外に教科書を持って帰らないのが彼女の生き様だ。
「……おはようございます。お行儀、悪いですわよ?」
 一瞬だけ教科書から視線を上げて呟かれた言葉は、鞄をほっぽり出したことなのか、背もたれをまたいで座るいつものポーズに対してなのか。母親のような口調を聖子はヒラヒラと右手を適当に振って見事にスルー。彩音もその態度にはぁと軽い溜息だけをつき、それ以上のことは言わない。この辺りのやりとりは半ば定型化した挨拶のような物だ。
「女同士、女同士ってね。それより、最近、ずっと早いじゃん?」
 ノートに落としていた視線を上げ、聖子は綾音の顔をじっと覗き込んむ。それだけで彩音の視線は落ち着きなくキョロキョロと周囲を見渡し始める。この辺りは照れ屋のあがり症面目躍如と言うところだ。
 さらに見つめる。穴が開くほどに見つめる。
 じぃ〜〜〜〜〜〜
 効果音が聞こえてきそうなほど強く見つめ始めると、彩音はその居たたまれない空気から逃れるように顔ごとそっぽを向いた。しかし、それでも聖子は視線を離しはしない。端正で少し狐を思わせるシャープな横顔を見つめ続ける。
「……わたくしの顔に何か付いてますか?」
 緩慢で何処か投げやりな手つきで、彩音はノートと教科書を閉じた。ペラペラとめくれる教科書はそのページ数が読めるほど。聖子はその教科書が机の下に隠れきるまで待つと、恭しく持って回った口調で言葉を紡いだ。
「日干し煉瓦の仮面」
「はぁ? 日干し……煉瓦?」
 照れていたことも忘れたのか、彩音はきょとんとした顔で聖子の顔を見つめ返す。鳩が豆鉄砲という言葉がぴったり来る表情に聖子は少し吹き出しそうになるのをこらえながらそのオチを言った。
「脆くて壊れやすい鉄仮面の出来損ない」
「……良くそう言うくだらない冗談を思いつきますわね……」
「こういう事、考えるのが上手な奴が一人居てね。その影響かな? んで、日干し煉瓦の仮面の奥には何が隠れてるのかなぁ……男?」
 そっぽを向いた彩音の顔に手を伸ばし、聖子は柔らかで滑らかなほっぺを軽く撫でる。プニプニと柔らかくきめ細かな肌は日焼けしちゃっている聖子自身の頬とはずいぶん違って触り心地が良い。
「触らないでくれませんか? それと、わたくし、男の方は嫌いですから」
 僅かに聖子の指を払うような仕草を見せると、彩音は少しだけ語気を強めた。特に“嫌い”に至っては何ヶ月か前に聞いた時よりもはっきりと嫌悪感を含むアクセントが感じられる。
「彩音の男嫌いもついに行き着くところまで行き着いたって感じね……女に走らないでよ? 私――えっ!?」
 適当かつ冗談めかして口調の言葉が最後まで紡ぎ終わることなく凍り付く。凍り付かせたのは、「日干し煉瓦の仮面」が剥がれ落ちた綾音の顔。それがポンと音を立てて真っ赤に茹だり上がっているのだ。
「ま……マジで、女に走ったの?」
「い……いえ、あの……走ったとか、そう言うわけではなく、素敵だと言いますか、あこがれていると言いますか……」
 うつむけた真っ赤な顔でゴニョゴニョとなにがしらの言い訳を彩音は述べているようだが、その反応は『私は女の子に惚れちゃいました』といってるも同然だ。
「……マジで? ちょっと! 女子クラだからってレズに走って良いのはオタクの腐った脳みその中だけだよ!? んなの男子校出身は全部ホモって思ってる腐女子と一緒だから!! てか、私ら、みんな、男好きだよ!?」
「……あの、物凄い本音が……」
 コホン……彩音に突っ込まれ、今度は聖子の方が顔を赤くする番。気がつけば椅子と泣き別れをしていたお尻を再び下ろすと、聖子は大袈裟な仕草で居住まいを正した。
「ごめん……つい……クリスマス前でちょっとせっぱ詰まり気味で……」
「電車通学すれば嫌でも男性とお近づきになれますわよ」
「……痴漢はお断り。で、どういう人? 彩音が好きになった人って……」
 そっぽを向いて唇をとがらす彩音に、聖子はペンペンとかしわ手を打ちながら下手に出た。
 そこから先の話は思っていた以上に簡単だった。そう言うのも彩音にも何処か「自慢したい」という感情があったのだろう。あまり上手ではない語り口ながらぽつりぽつりと電車の中で知り合った『お姉さま』の自慢話をし始めた。曰く、「凛とした立ち振る舞いが素敵」「目標にしたい」「とても優しい」等々……具体例はほとんどないが、あまり出来の良くない後輩が先輩を自慢しているようでほほえましい。
 と、笑っていられるのもここまでだった。
「でも、わたくし、お名前を聞くのが精一杯で……ほとんどお話も出来なく……」
「まあ、彩音らしいっちゃー彩音らしいけどね。あっ、そう言えば、その人の名前は?」
「知らない人だと思いますが……二条、二条陽さんです」
 名前を言うだけで心がときめくのか、彩音は大きな胸に掌を押しつけるような仕草をして言った。しかし、その仕草を聖子に見ている暇など存在し得なかった。
『種なし性子 やりたい放題』
 フラッシュバックする中学の苦すぎる記憶。次の瞬間、聖子の体は主の命もなく立ち上がり、大声を上げていた。
「えっ……えぇぇぇぇぇぇ!!! あの二条陽!!!!???」
 この瞬間、思わず大声を上げてしまったまさにこの瞬間。この彩音と陽の恋物語に登場する女子高生Aでしかなかった聖子は、この物語の主要登場人物に格上げされた。

 それから数日後の日曜日、陽のメールアドレスを色々なつてを頼りに聞き出し、聖子は彼を近くのファミレスに呼び出していた。正直、陽を食い物屋に呼び出すのは非常に嫌だったのだが、他に適切な場所もない。彼が何をするか判らないというか、良く解っているというか……って奴だからだ。
「二条! あんた、さっきからフリードリンク、何倍飲んだ!?」
 陽は店に入るとドリンクバーだけを注文し、何度も何度も何度も何度も……もう、嫌になるくらいドリンクバーと席を往復していた。席からドリンクバーまで十五秒、グラスに飲み物を注ぐのに十秒、帰ってくるのにまた十五秒、飲むのに二十秒。一分で一杯のペースは決して乱れることなく、延々と続く。一緒の席に座っているのが苦痛なくらいに恥ずかしい。
『ジュースは消化が良いから』
「見てるだけでお腹、ちゃっぷんちゃっぷんよ!? 私! もう良いから座って!」
 時はお昼過ぎ、ちゃんと昼飯を食ったはずだからもう食わないだろうと思っていた聖子は甘かった。満ちると言うことを知らぬ陽はパッカンパッカン、ミルクのみ人形のようにジュースを胃袋の中へと流し込んでいく。それに聖子はひたすら頭を抱えるだけ……
 数十杯のジュースを飲干し、陽はようやく聖子の前に腰を下ろした。その本日も相変わらずの女装っぷり。長めのスカートに暖かそうなタートルネックのセーターが嫌になるほどよく似合う。その姿に聖子は「はぁ」と大きな溜息を漏らした。
『人の顔を見てタメ息 ちょっと失礼』
 そして、中二の頃から始めた筆談。彩音は何処までこいつの本性を知っているのだろう? それを考えると頭が痛い。
「二条……河東彩音って知ってるよね?」
『知らない』
 軽く額を抑えながら聖子が言うと、陽は即答でメモ帳を掲げた。一秒も考えもせず、あらかじめ書いていたページを見せる手際の良さ。あまりにも完璧な即答に聖子は我知らぬうちにぽかーんと口を大きく開けた間抜け面を見せていた。
『初耳の名前 だれ?』
「ああ……ちょっと待って……気を落ち着ける……」
 不思議そうに小首をかしげる陽を、左手で制し、聖子はコーラの注がれたグラスへと右手を伸ばした。氷で薄まり、少し気の抜けたコーラはあまり美味しくはないが、それでも冷たい感触が良い具合に茹だり始めた頭脳を冷やす。考えること十秒、グラスの中が氷だけになる頃、聖子は芝居が掛かった仕草で口を開いた。
「もしかして、二条……あんた、毎朝電車の中で庇ってる女子高生の名前、聞いてないの?」
『聞いてない』
 掲げられるメモ帳に聖子は頭を抱えた。二の句どころか一の句すらも出てきやしない。
「はぁ……彩音らしいわ……」
 疲れ切った気分で今すぐ帰りたい。額とテーブルの間で左手をつっかえ棒にして、気を落ち着ける。しかし、いつまで経っても気が落ち着くことはなくて、逆に偏頭痛が酷くなっていく。
 その頭にぽーんと小さな何かがぶつけられ、彼女の目の下へと転がり込んだ。
『もしかして その子? あやねちゃんって』
 開いてみればこんな一文。中学の頃からやっている筆談だが、卒業してからはどうもその芸が細かくなってきているようだ。聖子は開いた紙をその手でくしゃっと握りつぶすと、顔を上げて「うん、そう」とだけ短く答えた。
『どんな字?』
「あっ……彩りに音楽の音って書いて彩音。私のクラスメイト」
 聖子がそう言うと陽は小さなペンをメモ帳の上でカタカタと音を立て始めた。顎をセーターの襟元に深く沈めてするその仕草は、一見すると何か真面目に考えているように見える。が、しかし、大抵の場合ろくでもないことを考えていることが多い。
『一緒に藤川落ちた仲?』
「傷つくぞ? ……その通りだけど」
 陽がにっこり微笑み差し出すメモ帳にがっくりと聖子はうなだれ、か細い声で呟いた。そして、聖子は額をテーブルに押しつけたまま、だれにも聞こえない程度の大きさで付け加えた。
「やっぱり……」と。
『名前 教えるために呼んだ?』
 うなだれた顔を上げると目にはそんなメモ書きをテーブルの上に置いている陽の笑顔があった。
「違うわよ……あのさ……二条、冬休み、暇?」
『わりと』
 にこにこ顔の陽に比べ、聖子のテンションは下がる一方。何度目かになるのも数えることすら億劫になるほどの溜息をつき、陽の顔を見あげた。
「あのさ……彩音が一度冬休みに会いたいんだって……本人が連絡したがってたけど、あの子、携帯もパソコンも持ってな――」
『OK』
 続く言葉を最後まで言わせず、陽はあらかじめ書かれていたページを使って即答。一ミリ秒として奴は考えていない。聖子はそれを確実に理解し、バン! 拳をテーブルに叩きつけた。
「OK〜じゃない! 女として会うんだよ!? ぼろ出さずに済むと思ってんの!? トイレとかどーすんの!?」
 目と口をまん丸く開き、彼は口元にパッと手を当てた。さも今気がつきましたというような表情だけはしているが、その右手に掲げたメモ帳には『あっ!』と文字。そのあまりにも余裕ありまくりな態度にブチブチと何か大事な物がキレていく音を聞いた。
「あっ、を筆談するな!」
 バン! 彼女の拳が全力の勢いを持ってテーブルに叩きつけられる。空になった二つのグラスがテーブルの上で小さなダンスを踊り、底に残っていた水をテーブルの上にまき散らした。
『種島さん 注目あびてる』
 冷静な陽が指摘をする通り、日曜の昼下がり、賑やかだったはずの店内はシンと静まりかえっていた。その注目に聖子はコホンと一つ二つ咳払いをし、居住まいを正す。
「二条……一つ言って置くけど、あの子はね、本当に良い子なのよ? お父さんが何をしているかは知らないけどお母さんはお茶の先生で、はっきり言って箱入り娘な訳……――」
『良い子なのは知ってる ちょっと照れ屋なのが欠点』
「そう言う子が『あこがれのお姉さまは地声が魔王のオカマでした』なんて知ったらどうするのよ!? しかも、あんたのせいであの子の男嫌い、さらに加速してんのよ!? ちょっとは後先考えた行動してよ!!」
 余裕綽々の態度で筆談を繰り返す陽に、聖子の我慢もついに臨界点を突破。彼女は一気に言いたいこと――ここ数日ずっと考えていたことをまくし立てた。それは再び聖子に食事客の耳目を集めさせるに十分な威力であったが、もはや彼女にそれを意識する余裕はない。
 ぜぇぜぇ……ぽかんとアホのように口を開いてこちらを見つめる陽を聖子はギッと目に力を込めて睨み付けるた。それに呼応するかのように陽はゆっくりと口元に手をやる仕草をして見せる。その仕草だけを見ればそれは先ほどと全く同じ仕草と表情だ。しかし……
 今回の彼は一言だけこう呟いた。
「あっ……マズイ」
「やっと理解しやがったか……それと、ごめん……やっぱ、しゃべらないで。その格好でしゃべられると怖い」
 しかし、マズイとは言っても『お礼をしたいから是非一度お会いしたい』との願いをむげに切り捨てることなど出来るはずもなく、かといって今更『あたしは男』と言い出すことも出来ず。陽と聖子がそのファミレスで額を引っ付けあって話し合うこと小一時間。
 結論。
『ボロ出さないように がんばる トイレは男女共用を探す』
 二人はこの結論に絶望的な気持ちになった……
 訳だが、年も押し迫った年内最後の日曜日、彩音(百合園の住人)と陽(カマ)のデートは執り行われ、滞りなく終わった。もちろん、陽がカマだと言う事もばれなかったし、異常食欲もちゃんと抑えられていた。結果――
「……お姉様ぁ……ああ……」
 ただほんのちょっぴり、彩音の百合園にさらなる華を咲かせたである。大きな問題はない……のではないだろうかと、聖子は思うことにしていた。この言葉と共に。
(知らない、私はもう知らない……二条がモロッコにでも行っちゃえば良いんだ)
 デートから四日、冬休みも終わったというのに、彩音は未だに夢の中。油断をするとぼんやり上の空、寝ても覚めてもお姉さま。聖子はその彩音の前に座り、絶望の淵をさ迷っていた。

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