海だ!(番外編)『お姉さまと呼ばせて』(2)
 陽が別荘に帰ってきたのは彼がパチンコ屋に飛び出して四時間ほどが経過した頃だった。新台入替えで導入された機種は彼が地元でたっぷりと打ちまくっていた機種。こういう田舎の島だと新しい台が導入されるのも町中に比べてちょっと遅いのだろう。おかげさまで僅か三時間ほどではあったが、彼の胸にはお菓子やインスタント麺なんかで一杯になった大きな紙袋が燦然と輝いていた。
 ここまでの大勝、普段の彼なら閉店間際ギリギリまで荒稼ぎしてしまうところだが、今の主目的はバカンス。いくら何でも日長一日パチンコって言うのもないだろう。そんな判断の下、彼はそろそろ天頂へとさしかかり始めた日差しの中、別荘のドアに手をかけた。
(みんな海に行ってたらどうしよう……)
 新台入替えの甘美な言葉と大勝に浮かれていた頭の片隅が冷静に戻る。もちろん鍵なんて預かっちゃいない。鍵をかけられた状態で他の面子が出掛けていたら、彼はこの場で会紙袋を抱えたまま、炎天下の中でのお留守番だ。
 カチ……
 恐る恐るノブに手をかけるとドアが小さな音を立てて開く。それと同時に彼のルージュを塗った唇から小さな溜息も零れた……のもつかの間だった。
「――こうしてわたくしとお姉さまは知り合いました」
 玄関から直に繋がるダイニングから、彩音の澄んだ声が聞こえ、陽はそれに息を飲んだ。
「へぇ〜ひなちゃん、意外と男らしい」
「格好いいですよねぇ〜白馬のお姫様みたいです」
「白馬のお姫様とか、ないから……」
 貴美が、美月が、そして良夜までもが楽しそうに会話している声が聞こえれば、何を話していたかを考える必要はない。彼の顔が一気に熱くなり、耳たぶまで血液が駆け回る音が聞こえた。
 ガシャ!
 我知らずの内に大きな紙袋が落ちれば、まずは聞き役に回っていた四人の顔が陽の方へと向く。二人の男はあちゃ〜と同時に天を仰ぎ見、茶髪の女性はにやぁ〜とそこ意地悪そうな笑顔を浮かべ、黒髪の女性はごく平然と「お帰りなさい」と言ってのけた。
 そして最後、丁度玄関に背を向けていた女性、愛すべき恋人河東彩音の首がギリギリとさび付いたネジを無理矢理ドライバーでねじ回すようにゆっくりとこちらを向いた。
 羞恥に赤く染まっていた顔から一気に血の気が引き、陽の顔を呆然と魂が抜けたように見つめる。
 秒針がきっちり二回時を刻んだ。
「もっ――!」
 綾音の顔が引きつり、口が開こうとする。それよりも早く、陽のしなやかな体はぽーんと落ちた紙袋を飛び越える。まるでネコ科の肉食動物のように彼のしなやかな体が彩音に肉薄し、細い指先が彩音の脇腹を捕えた。彼女の脇をグニグニといつもよりも乱暴に摘み上げる。
「恥ずかしいから言っちゃダメ!!!」
「うひゃっ!? あひゃひゃひゃひゃひゃ!!! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!!!」
 絶叫。陽は自分が女装していることも忘れ、彩音は彼の野太い声に引くことも忘れる。そして、二人ともそこにギャラリーが居ることも忘れ、ある意味幸せそうにじゃれ合っていた。
『取り乱した 忘れて』
 たっぷり三十分が経過した。綾音の顔がチアノーゼで真っ青になるまで脇腹をもみほぐした青年は、うなだれた頭の上にメモ帳を掲げた。頭の上で広げられたメモ帳は、赤い髪の上でいつもよりも一層まぶしく白を際だたせる。
 静まりかえる部屋の中、酸欠状態の彩音だけがぜーぜーと洗い呼吸音を響かせる。しばしの沈黙、それを破ったのはやっぱりと言うべきだろう、吉田貴美だった。
 彼女の手が彼女の前に置かれたグラスに伸びた。中のアイスコーヒーは全て飲干され、そこには元は氷だった液体が僅かに残っている。それを手に取りクイッと一息に飲干し、彼女はグラスをテーブルの上に戻した。
「ここまで来たらしゃべっちゃえばいいじゃん?」
 へらへらとしたいつもの笑みを浮かべ、貴美はテーブルに溜まった水滴を指先で遊びながら言った。
『良くない!』
 陽の手がテーブルを叩き、あらかじめ書かれてたメモ帳を叩きつける。あまりにも強い勢いに置かれたグラスは大きく跳ね上がり、顔を般若のように赤くした陽に誰もが抗しきれないプレッシャーを感じた。ただ一人、貴美だけを除いて。
「なんで?」
『恥ずかしい』
「良いじゃん? りょーやんみたいに客一杯のフロアで大喧嘩して、引っぱたかれて、挙げ句の果てには賭の対象ってのよりかはかなりマシっしょ?」
 ポン! と音を立てて良夜と美月の顔が赤くなるが、それは大勢に全く影響を与えずじまい。二人は口々にボソボソとなにやら抗議の意思表明を行う。そのちょっぴり情けない姿に陽も毒気が抜かれたのか、うーんと数秒ほど首をかしげて――
『似たり寄ったり』
 たっぷりと悩んだ果てに陽はこう書かれたメモ帳を貴美に見せた。
 にやり……貴美の表情が底意地悪く歪み、ゆっくりとテーブルの上で腕を組む。
「ひなちゃん、夜は長いよ? 女部屋は特に……」
 キタナ! 陽は再び女装中であることも忘れ、大声を上げかけた。慌てて口をむぐっと閉じる陽の反応に、貴美は組んだ両手の上に顎を置き、にこりと冷たくも美しい笑顔を浮かべてみせる。
『よっちゃんいか 汚い』
「なんとでも〜……誰がよっちゃんいかだ? 誰が」

「恥ずかしい……なんて言うから、貴美が喜ぶのよ……もちろん、私も。バーカ」
 このシリーズ、完璧に忘れかけられている妖精が人知れず呟く。
 と、言うわけでここからは陽と彩音、二人が貴美達に語ったお話である。

 こぢんまりとした無人駅のプラットフォームを生まれたばかりの太陽が東側から照らしていた。蒸し暑かった日差しも今は昔のお話、初冬から冬本番へと移りゆく空が広がる。澄んだ空気の下、二両編成の列車が滑り込んだ。未だ早朝という時間とそれが下り列車と言うこともあって中はがらがら。乗っているのは女子高生ただ一人。濃紺のブレザーに顎の辺りまで巻いたマフラーを秋風に揺らす女子高生……は男子高校生、赤毛の女形、二条陽だった。彼は車掌に定期券を見せると静かな足取りで駅を後にする。
 そしてきっちり十五分が経過した。
 彼が降りた時にはまばらだった乗客も何時しかずいぶんと増えた。増えた人混みを縫い、彼は再び無人駅のプラットフォームに帰ってくる。右手には大きなベーグルのサンドイッチ、肩からさげた鞄もこの駅に着いた時に比べるとずいぶん大きくなっているようだ。
 再び電車が、今度は“上り”電車がプラットフォームへと滑り込んでくる。大きく堅いベーグルのサンドイッチもその頃には見事全てが陽の胃袋の中だ。
 二両編成の前側真ん中のドア、そこに彼のお目当ての女性が居る。大勢の乗客に囲まれ、ドア横の手すりにしがみついている本物の女子高生。顔をうつむけ、ひたすらに手すりにしがみついていた彼女は、陽の顔を見つけるとそのうつむけていた顔をパッと明るくさせる。それがまるで迷子の子犬が飼い主を見つけたようで、陽はいつもそれをほほえましく思っていた。
 同じく電車に乗ろうとする人よりも一足先に潜り込み、彼女が握りしめる手すりを掴む。そして、彼女と人波の間に立ち、他の乗客達が行き過ぎるのを待つ。
 後は彼女の学校の最寄り駅に着くまで、お互い特に会話もすることなく、電車に揺られ続ける……これがここしばらくの陽の日課になっていた。
 彩音は後に「人生で二番目に幸せな時期」とこの頃のことを述懐した。陽もそれに真っ向から反論を伸べることはない。ただ、百パーセント素直に受け入れられるわけでもなかった。
 そう言うのも陽が通う藤川高校は綾音の家と彩音の通う英明学園との間に存在している。駅で言うと六つほど英明学園の手前だ。それは藤川高校を受験し見事に砕け散った彩音もよく知っている。
 だから、彼女はその駅に近付くと露骨に顔色を曇らせる。
 毎朝出会う時の表情を「迷子の子犬が飼い主を見つけたような顔」とするなら、この時の顔は「置いて出掛けられそうになっている室内犬」と言ったような顔になってしまう。一方的な罪悪感を与えられること甚だしい。
 そのたびに陽は彩音を落ち着かせるように、彼女の頭を胸(パッド入り)に押しつけ、電車がその駅を通り過ぎるのを待つようになっていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 蚊の鳴くような声、何ヶ月もしょっちゅう痴漢に遭っていれば仕方のない話だが、陽の現状はそれを思えるほど暇ではなかった。妙に柔らかい体、シャンプーか何かは知らないが妙に甘い良い香り。色々と反応しない十六歳が居るだろうか? 
(今のあたしは女、今のあたしは女、今のあたしは女、今のあたしは女……)
 呪文のように言い聞かせる数十分。異性を胸に抱く“男”としての至福と、彩音に信頼されている“お姉さま”としての地獄を味わい尽くす数十分が経過する。
 そして、電車のドアが開き、彼女は陽の胸から解放され、陽は天国と地獄のはざまから解放される。
「ありがとうございました」
 乗客の行き交うプラットフォームの真ん中、耳まで真っ赤にした彩音はぺこぺこと三回頭を下げる。それに『また明日』と書いたメモ帳だけを見せると、陽はクルッと百八十度反転。駆け足一歩手前の速度で反対のプラットフォームへと急ぐ。単線でのすれ違いを行うため、この駅はプラットフォームが二つあり、上りの電車が止まっている時、反対のプラットフォームには下りの電車が待っている。その電車へと向かう陽の足取りは次第に速くなり、車両に乗り込む頃にはダッシュになるのがいつものことだった。。
 その車窓から未だ元のプラットフォームに立っている彩音に向けて手を振り、彼女が駅から居なくなるのを見送る。
 そして、今日もぼろを出さなかったことを神様に感謝……
 出会いの日から数ヶ月、ここまでが陽の日課になっていた。
「しかし、お前もマメだねぇ……カマの癖に」
『Not カマ Yes 女形』
 陽は自分の机の上に座った男子高校生にメモ帳を見せ、その白いな頬を大きく膨らませて見せた。少し芝居がかった抗議のポーズに陽を見下ろす青年は日に焼けた顔を苦笑いに変える。
「朝練、何ヶ月もサボり続けてる奴が女形を自称するな」
 ポンと彼は陽の延ばし始めて肩口にまで伸びた赤毛をポンと軽くげんこつで叩いた。
『たけCはサッカーの朝練?』
「たけCって書くなよ。まあな。もうすぐ新人戦だから」
 彼、野上武はサッカー部に籍を置いていた。そのサッカー部が練習するグランドのすぐ傍では、毎朝演劇部が朝の発声練習を行っている。演劇部はあまり大人数の部でないため、そこに陽が参加しているかどうかは一目瞭然。陽はあの日、彩音と知り合ってからと言う物、全くこの朝練に出席しては居なかった。
「お前が発声練習してると、目茶苦茶笑えるんだよなぁ〜どこから声が出てるんだ? その魔王の声」
 そういう事情があって、グランドで朝練をしているサッカー部や野球部、陸上部等々の部員達の密かな楽しみにもなっていた。
『たけC うるさい』
 ポーズではなく、露骨に唇をとがらせ、陽は武の脇腹をポコンと一つ叩く。そして脇腹を掴もうとしても――
『掴めない』
「鍛えてるからな。筋トレのたまものだぜ?」
 堅く鍛えた腹筋には無駄な贅肉などひとかけらもなく、陽の指先は彼のそのたくましさを確認するだけに止まった。
『たけC 変わった 中学の時はブヨブヨだったのに』
「ンなに太ってねぇ! ちょっと引き締まっただけだ!! さてと、そろそろ授業だな」
 露骨に落胆する陽に対し、武は少しだけ大きな声を出す。そして、トンと軽やかに机から降りると自分の席へと戻ろうとした。
 と、その時。
「ああ、そうだ」
 彼はふと思い立ったように足を止めると、陽の机にトンと右手をついた。陽の顔を斜め上から見下ろす表情が少し真面目な物に変わる。
「中学の時と言えば、覚えてるか? あいつに『ノリと酔狂とその場の勢いだけで生きてたら、そのうちヒドイ目に会う』って言われたの。その通りになってるな」
『最近ちょっと反省気味』
 陽は武の台詞に苦笑いを浮かべながら、メモ帳を見せた。
『ノリと酔狂とその場の勢いがないと 女装登校はできない』
「懲りろよ、お前」
 二人の頭上で予鈴が響き、武は陽とは体格にある自分の席へと戻っていく。その背中を見送りながら、陽自身のことを「ノリと酔狂とその場の勢いだけで生きてる人間」と評した同窓生のことを思い出していた。
(種なしさん……って呼んだら、烈火の如くに怒ってた)
『種なし性子 やりたい放題』
 そんなアホなメモ帳を見せ、泣きながらぶん殴られた懐かしい中学一年の時代に陽はほんの少しだけ思いをはせる。それが河東彩音の現時点での親友であることも知らずに。

 そして、そのまさに同時刻――
「二条……陽さん……です」
 あの日から数ヶ月、毎朝上機嫌で登校していた彩音が、親友の聖子にその上機嫌の理由をようやく話していたことも、陽が知るよしもなかった。

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