良夜と美月の休日(アルト付き)(2)
 十二時間ほど前の話。
「美月さん、なお達と何を話してたの?随分楽しそうだったけど」
 金曜日のランチタイム、それももうすぐ終わりに近付く時間。戦場のようだったキッチンも落ち着き、二人のウェイトレスが雑談をする余裕もそろそろ出てくる。アルト新人アルバイトにして喫茶店バイト歴三年の分際でコーヒーと紅茶に対する拘りを全く持たない女吉田貴美は、名目上直接の上司である三島美月に声をかけた。
「あぁ、話してたのは直樹君とじゃなくて、良夜さんの方ですよ。明日、買い物に付き合っていただこうと思いまして」
 美月は『恋人と他の女性(=自分)が話してるのは気になるのかな?』と思いながら、素直に答えた。実際にはその推察はあまり正しくはない。『なおとりょーやんが知ってるのに、私だけが知らない事があるのは嫌』というしごくシンプルな理由から発せられただけの言葉である。面白そうな話ならば一枚噛んでおく必要があるし、あまり面白くない話でも後で二人をからかう口実くらいにはなるかも知れない。からかう口実にすらならなかったとしても、知的好奇心は満たされる。
 そして、今回の話は『面白そうな話』だった。
「買い物?重い荷物でもあるの?」
 これが理由ならあまり面白い話にはならない。だったら、とりあえず『りょーやんが美月さんとデートした』でからかってやろう。土曜日の夜にでも、りょーやんの部屋を襲って事の顛末を肴に一杯……等と貴美が立てた剣呑な計画を、美月の一言が大幅に変更させた。
「いいえ、ぬいぐるみなんですよ」
 ぬいぐるみ、その一言は美月にとっては大した意味はなかった。ただ、明日の買い物が楽しみでつい零れてしまっただけの失言に過ぎない。しかし、貴美にとって、その言葉は大きな意味を持っていた。『りょーやんがぬいぐるみ』それだけで、吹き出してしまう。
「へっ、へぇ……りょーやんにぬいぐるみ探しを付き合って貰うんだ?」
 吹き出してしまいそうになる口を強靱な意志の力で押さえつけ平静を装う。三年間の接客業で鍛えた営業用人格を使えば、そんなに難しいことでは、ないこともないか……貴美はこらえきれない笑いに唇を引きつらせて耐えた。こんなに必死になるのはちょっと思い出せないくらい前の話かも知れない。
「ええ……どうかしました? 随分と面白い顔をしてますけど」
「ぷっぷっ……あぁ、なんでもない、なんでもない。なんで、りょーやんとぬいぐるみなんか買いに行くの?」
 そこでふと、美月はどこまで話すべきなのだろうか? と言う問題に直面した。貴美達にアルトの話はしても良いのだろうか? うーん……と数秒悩み、アルトの話はせずに、つじつまの合う話をでっち上げることに決定した。
「えっとぉ……良夜さんにもぬいぐるみ集めの趣味がありまして!」
 はち切れんばかりの笑顔で彼女はそう言いきった。

「と、言うことがありましたが、何か問題がありました?」
 ヅキヅキと疼く頭痛は、昨夜飲み過ぎた酒の所為か、それともこの脳天気なボケねーちゃんの所為か……
 ここは喫茶アルト、いつもの席。違う事と言えば、制服姿ではなく、白い清楚なワンピースに身を包んだ美月が向かいの席に座って、良夜と同じ食事をしている所くらい。
 良夜は約束通り美月にごちそうになった昼食を取り終え、食後のコーヒーを飲みながら、昨夜飲み過ぎた理由を話していた。そこから話はさかのぼり、美月が貴美に全てを喋ったところへと行き着いたわけだ。
「いや……まあ、あると言えばあるし……終わった話っちゃー終わった話なんですけどね……」
 痛む頭を抱え、未だ脳天気にニコニコと、見る者全てを和ませる笑みを浮かべる美月を見る。その顔に悪気とか謝意という言葉は一切見あたらない。
 昨夜の飲み会は日付が変わった後も一時間ほど続き、三人で十二リットルのビールを全て空ける結果となった。
「災難だったわね、良夜……同情はしないけど、憐れんであげるわ」
 本気で憐れむアルトの顔を恨めしそうににらみつけ、深煎り粗挽き豆多め二日酔い用特製ビターブレンドに口を付ける。温めに煎れられたそれを一気に飲み干すと、強烈な苦みが酒でぼけた頭を強制的に始動させ始めるような気がする。
「もしかして、話さない方が良かったですか?」
「出来れば、話さないで欲しかったですね……」
 今更言ったところでどうしようもないのだが、言わずには居られない。
「でも、吉田さんは普通に働いてますよね?」
 確かに美月が言うとおりである。貴美は良夜よりも一足先に起き、半徹夜で出来た隈を化粧で隠して働く姿は、普段以上にきびきびとしている。飲んだ量は三人の中で一番多いはずなのに……侮れない女だ、未成年の癖に。なお、直樹は自室で未だ屍をさらしている。実は、二番に飲んだのは良夜ではなく直樹だった。『飲んだ』と言うよりも、良夜と貴美に『飲まされた』という方が正しい。
「確かに凄いわ、素直に感心するわね」
 あのアルトまで褒めているのだから、凄い者である。ただし、褒め言葉の前には『二日酔いにしては』という言葉が付く。
「ところで、行くところは決まって居るんですか?」
 良夜の問いに美月は小さなハンドバッグから小さく丁寧に折りたたまれた一枚のチラシを取り出した。それを良夜に手渡し、それが先日開店したばかりのおもちゃ屋のチラシであることを説明した。
「ここ、見てください」
 彼女の指が指し示す所には、ぬいぐるみコーナーが充実している旨のことがかかれている。書いてあることが本当なら、かなりの規模の店で、ぬいぐるみの種類も多そう。美月の期待はいやが上にも高まる。良夜はと言えば、ついでにゲームの新作でも物色するかな〜と、こちらもそれなりに期待感を持っている。もっとも、まだ、バイトをしていない身ではあまり高い物を買うのは難しいのだが。
「それじゃ、行きましょうか?吉田さんの働きっぷりを見ていても仕方ありませんし」
 良夜がそう言って立ち上がると、アルトはトントンと軽やかなステップを踏み良夜の肩へと飛び乗り、美月もそれに続いて席を立った。
「ありがとうございました」
 席を立った二人(と妖精一匹)に、貴美の元気の良い営業用の声が届けられる。普段ならば、自分が言う言葉を言われる側の立場に立った美月は、それを少し気恥ずかしい気分で受け止めた。だから誤魔化すかのように「判らないことがあったらお祖父さんに聞いて下さいね」と告げた。
 二人――アルトを含めると三人――はそのまま店を出るつもりだった。しかし、『がんばれよ』と何気なく肩を叩いた良夜の手に、貴美が『わっ!』と過剰に反応した物だから、二人は思わず足を止めて振り返ってしまった。
 それはまるで、夜道で痴漢にあったような態度だった。何処かの会社では肩を叩いたらセクハラになるそうだが、まさか、この女がそんなことを言い出したりはしないよな……喋るセクハラ女王の癖に。
「えっ……あれ、りょーやんに美月さん、いつの間に来たの? 美月さん、今日は休みだったよね? あれ、買い物は?」
 貴美の顔に張り付いていた営業用スマイルは消え失せ、いつものタカミーズの片割れとしての表情になる。
「いつの間にって……一時間くらいいたぞ、いつもの席に」
 貴美の間抜けな質問に、良夜が代表して答える。良夜は普段から客だが、今日は美月も客として喫茶アルトを訪れていた。祖父の『お客様として来て判ることもありますから』という言葉を実行してみたからだ。だから、今日、お冷やを持ってきたのも、食事を持ってきたのも、食後のコーヒーを持ってきたのも、全部貴美。
「ごめん、また、脊髄反射と条件反射だけで働いてたみたい」
 説明を聞いた貴美は、ぺろっと舌を出してごめんごめんと頭をかいて誤魔化している。疲れたときに出る癖らしい。
『あり得ない』
 三人はついさっきまで、半分寝ながら働いていた貴美の顔を見つめ、そして、その働きぶりを思い出して呟いた。
「かっ、和明が居るから、大丈夫よ……多分」
 そのアルトの言葉が、美月と良夜、最後の希望。

 二度目になる美月の妖精アルト号(命名良夜。センスのなさは相変わらず)。やっぱりこの車に乗るのは男としてかなりきつい物がある。
「それじゃ、良夜さん、また、この子を抱いてて下さい」
 押し付けられるたぬいぐるみ、彼女のつぶらな瞳と良夜の目があった。ご無沙汰してますピアノさん……ソプラノさんだっけ?思わず手渡されたぬいぐるみにお辞儀をしてしまう良夜。相変わらず、フカフカな抱き心地と寸胴なスタイルでいらっしゃる。
「って、美月さん、別に持って行かなくても……お店に置いてきたらダメなんですか?」
 手渡されたぬいぐるみ(正しくはソプラノちゃん)を美月の胸に押し返す。
「うーん……」
 と、美月は顎に手を当て小首をかしげる。数秒後、堂々とした態度で言い切った。
「ダメですよ」
 その言葉は物理的力を持ち、良夜の二日酔いな頭を直撃した。ダメだ、ここで倒れては! 良夜はそんな思いで必死に崩れ落ちようとする膝に力を込めた……というのは少し大げさ。
「どっ、どーして?」
「落ち着くんですよ、お隣にぬいぐるみがあると」
 膝の上にぬいぐるみがあると俺の方が落ち着かない。良夜の心はそんな気持ちで一杯だった。とりあえず、なんか理由をつけて置きに行かせなければならない。
「あぁ……あっ、今日はほら、アルトも居ますから。きっとなくても落ち着きますよ」
「あっ、そうですね」
 ポンと一つ手を叩くと、美月は良夜から受け取ったぬいぐるみを抱いて店の中へと走っていた。美月が小柄な上に、ぬいぐるみがバカが付くほど大きいのだから、それを抱いて走る姿は年上には見えない。時々、外見だけではなく、中身も二十歳に見えないときがあるのだが。
「良かったわね、今日はソプラノちゃんを抱っこしないで車に乗れるわよ」
「代わりにお前を抱っこしててやろうか?」
「そうね、お姫様抱っこならしても良いわよ」
「それは身長が百五十センチを超えてからって言ったろう?」
「良夜、そう言うことは、一度でも百五十センチ以上の女をお姫様抱っこしてから言う物よ?抱っこどころか、腰に手を回したこともない癖に……」
「あるぞ。ちゃんと――」
「運動会のフォークダンスでって言ったら……泣いてあげるわ」
 肩の上から良夜の目を真っ直ぐに見つめるアルトの目。良夜はその目からプイッと視線を切り、美月が消えた喫茶アルトのドアへと顔を向けた。
「さぁて、美月さん、遅いなぁ〜」
「……」
 あからさまに話題を逸らす良夜のこめかみをアルトの小さな手がポンポンと優しく叩いた。そして、大きな目に涙を浮かべうんうんと何度もうなずく。笑いたければ笑えばいいさ。と言うか、お願いだから笑ってくれ。
 と、アルトといつもの様に漫才をし、折角のデートっぽいことが始まるというのに心に深い傷を負った直後、ようやく、美月がアルトのドアから出て来た。
「お待たせしました、まいりましょう」
 向かうおもちゃ屋の場所は、ここから旧市街を抜けた反対側の郊外にある。良夜はこの辺りの地理に明るいわけではないが、二十キロ弱と言ったところ。渋滞していなければ一時間は掛からないだろう。買い物に行くには少々長い距離だが、ドライブを楽しむには少し物足りないかな、良夜は助手席に座ってそんなことを考えていた。
 さて、そのころの喫茶アルト。
「店長、なんで、りょーやんの席にこんな物が置かれて居るんですか?」
 良夜達を見送り、少しは酔いが覚めてきた貴美はその席に置かれた物を前にして途方に暮れていた。
「あぁ、美月さんのぬいぐるみですよ。そこにはどなたも座りませんから、そのままにしておいてください」
 しかし……と貴美は思う。このぬいぐるみの首から下げられた『代理』と書かれた手書き札、誰の『代理』なのだろうか? と。

 喫茶アルトの前にある二車線の国道は、旧市街地に入る頃に一車線へと減少する。この辺りがいつも混むのだと美月は教えてくれた。この混む道を真っ直ぐ突っ切るか、旧市街地を大きく迂回する道を通るか、どちらが早く着くかは道の混み具合次第。今日の美月は突っ切る方が早いと考えたのだが、その当ては外れてしまったようだ。
「うーん、こうなると長くなっちゃうんですよね……」
 いつもはのんきな美月も、流石に渋滞に巻き込まれてしまえば、ほんの少しだけその笑顔が曇ってしまう。細い顎をハンドルの上にのせて、先ほどからほとんど動かない前の車を見つめてため息をついた。
「仕方ないですよ。道が混むのは誰の責任でもないんですから」
 その良夜の言葉、実は美月に向かって言った言葉ではなかった。それは良夜と窓の間で、流れる風景を楽しんでいたアルトに向いた言った物である。渋滞に巻き込まれ、流れる風景が止まってからと言うもの、アルトの機嫌は一秒ごとに悪くなって行ってる。まっ、渋滞に巻き込まれてご機嫌な人間など、世界中捜しても誰一人いるわけないのだが。
「良夜、飽きたわ……」
 その言葉をすでに十回は聞いた。普段から代わり映えのしない山の風景を飽きずに見て過ごしてるんだ、代わり映えのしない消費者金融の看板も飽きずに見ていろ。
「んぅ……試しにこちらの道に入ってみましょう」
 路地より少し太いといったその道は、車同士の対抗が一杯一杯という感じ。美月はそこに迷うことなく車を滑り込ませた。
「知ってる道なんですか?」
「いいえ、全然知りませんよ」
 もちろん、良夜も知らない。しかし、美月は自信満々に車を走らせ、見飽きた消費者金融の看板以外の風景が見え始めたアルトもご機嫌。ちょっぴり不安なのは良夜だけ。なんだか疎外感を感じる。
「大丈夫なんですか?知らない道に入って……」
「大丈夫ですよ。大体、こっちの方向で合ってるはずですから」
 目の前への道を指し閉め留守月はやけに自信たっぷりだが、良夜は美月の『大体』と『はず』の言葉に不安が大きくなる。
「相変わらず、気の小さい男ね。すべての道はローマに通ずって言葉、知らないのかしら?」
 ローマには通じててもおもちゃ屋には通じてないかも知れない道を、美月はずんずんと車で入っていく。その表情に全くの不安もとまどいもない。ある意味大物。良夜とは大違い。
 久しぶりに徐行以上の速度で車を走らせているのが気持ちいいのか、FMラジオから流れる一昔前の流行歌を美月が口ずさみ始めた。その歌声にアルトも合わせ始めると、車の中はちょっとしたカラオケボックス。
「良夜さん、この歌、歌えます?」
「うーん、聞いたことはあるけど……」
「あっ、私が歌えるわ」
「アルトが歌えるそうですよ」
 曲が終わり新しい曲が始まるたびに、そんな会話が繰り返される。アルトだけが歌ったり、美月とアルトの合唱を良夜だけが楽しんだり……渋滞に巻き込まれていたときの雰囲気は、ラジオから三曲目が流れる頃には、嘘のように消え去っていた。
「こういう知らない道に入るのって、楽しくないですか?」
「確かに楽しいですね。所で、確か方向はあっちでしたよね?」
 先ほど美月が指で示した方向に向かう道を指さす。しかし、美月は違う道へと入っていった。
「ええ、私もそうだと思うんですけど、その道は一方通行ですから」
 それは良夜にも判っている。だから、この方向に行くしかないのも判っているが、しかし……
「反対方向に走っているわね」
 三人で歌っている間にすっかり機嫌を良くしたアルトが、良夜の思っていることを歌うように代弁してくれた。もっとも、代弁してくれたところで、聞こえるのは良夜だけなのだから、意味は全くない。
「あっ、良夜さん、判りましたよ」
 相変わらず反対方向へと車を走らせ続ける美月が、ポンと一つ手を叩いた……ハンドルから手を離して。
「美月さん、ハンドル……って、何が判ったんですか?」
 ハンドルから離した手をのんびりと元の位置に戻した美月は、良夜の方へと顔を向けいつもの穏和な明るい笑みを浮かべてこういった。
「はい、この道をこっちに曲がると……」
 その言葉通りに道を曲がると……
「元の場所に出て来てしまうんですよね!」
 そこには見慣れた消費者金融の看板があった。
「仕方ないわね、また、カラオケ大会でも始めましょうか?」
 渋滞に巻き込まれてもアルトの機嫌が悪くならなくなった、それだけがこの寄り道の収穫。

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