良夜と美月の休日(+アルト付き)(1)
「休んじゃって良いんですか?」
専門学校を卒業し、貴美がアルトで働き始めるまでの一ヶ月の間、ほとんど休みを取っていない美月に祖父が『来週から土曜日は休んでください』と言ったのは、貴美が働き始めて一週間ほどたったある朝食の時だった。
「ええ、吉田さんもかまわないとおっしゃってますので」
喫茶アルトは基本的に大学がない日は暇である。暇な上に新人バイトが思った以上に使えるとなれば、可愛い孫娘に休みを与えたくなるのは祖父として当然の話である。そう言うわけで、土曜日が美月、日曜日が貴美の休日と言うことになった。和明に休みがないのを美月は多少気にしたが『美月さんが私より美味しく煎れられるようになったら、休ませて貰いますね』の一言で話が終わってしまった。
「それじゃ、久しぶりにぬいぐるみでも買いに行きましょうか」
この前買いに行ったのは『住んだことのない土地への里帰り』というわけ判らんことをやった春休みのこと。そろそろ、新しい子を家族に迎え入れたい。それにぬいぐるみが並んでいるお店を散策するだけで、心が癒される。
「あっ、そう言えば……」
彼女は作者すら忘れ去っていた伏線を思い出した。
「へぇ?明日の土曜日ですか?暇ですよ」
良夜はいつものように男同士の色気のない昼食を喫茶アルトで取っていた。『毎日、男同士で喫茶店ってのも、わびしいよなぁ〜』と直樹に言ったら、聞いてたアルトのストローが、手の甲に直立した経験がある。貫通するのも時間の問題かも知れない。
「それじゃ、買い物に付き合ってくれますか? この前、約束した」
約束……美月さんと約束したことなんてあったっけな? 食事をしていた手を止め視線を宙に舞わせると、同じように食事をしていた手が止まっている直樹の視線がぶつかった。もちろん、二人の約束など知らない直樹は慌てて首を振って、視線をはずした。
「あの……もしかして、忘れてます?」
もしかしなくても忘れてます、などとは言えない。言えないけど、いくら考えても出てこない。
「良夜、良夜、私、甘い物が食べたいわ」
耳元で取引を要求している悪魔に小さくうなずく以外、良夜に選択肢はなかった。最近、周りの連中にたかられまくっているような気がする。早めにアルバイトを始めなければ本気で破産だ。
「初対面の日に私と良く似たぬいぐるみを買いに行くって約束、してたわよ」
取引の成立を確認したアルトが、耳元で小さく囁いた。誰にも聞こえないのだから、大きな声で言えばいいのだが、その辺は様式美という奴である。耳元で大声出されても迷惑だし。
「あぁ、思い出した」
「やっぱり、忘れてました?」
ポンと大きく手を叩いた良夜の顔を、美月は苦笑混じりにのぞき込んだ。一ヶ月近くも前の話だから忘れていても仕方がない、とでも思ったのだろうか、その顔は大して怒っているようには見えない。
「ごめんなさい、綺麗さっぱり忘れてました」
「良いこと?良夜。もてたかったら、女性の言ったことと顔は忘れてはいけないわ」
軽く頭を下げる良夜の耳元で偉そうにアルトがもてる秘訣を教えてくれた。そして最後に『だから、彼女居ない歴=年齢なのよ』と余計な一言を付け加える。ちなみに彼は高校二年の時に出席した中学の同窓会で、女子の顔の三分の二を忘れていた。
「では、午前中はお掃除とお洗濯をするので、お昼過ぎに良夜さんのアパートの前で良いですか?」
おもちゃ屋もファンシーショップも歩いていける範囲にはない。車を持っているのは美月なので、彼女が迎えに行く方が効率的ではある。しかし、その美月の申し出を良夜は丁重に断った。手間を取らせたくないと言う理由ももちろんあった。しかし、それだけでもなかった。アルトが良夜の頸動脈に針を押し付け『私もついて行くから、迎えに来なさい』と命じているからである。どこのアサシンだ、こいつは?
「はい、判りました。それでしたら、お昼は食べずにいらしてください。何かごちそうしますから」
そちらの方はありがたく受け入れられた。
『喫茶店でお茶して、一緒に買い物って……デートみたいよね?』美月と初めて出会った日の朝、アルトが言っていた言葉を思い出した。しかも、今度は相手はリカちゃん人形じゃない。これでリカちゃん人形がついて来なきゃ……と思った良夜の視線が、リカちゃん人形と交わった。
「今、凄く失礼なことを考えてるわね?良夜」
リカちゃん人形は勘が鋭かった。
さて、その夜のこと。いつものように夕食とおざなりな勉強を終わらせた良夜は、パソコンでネットの世界を渡り歩いていた。お気に入りのネットコミックも更新されていたし、高校時代の悪友からのメールも来ていた。割と充実したひととき。そんな時間を打ち破る、けたたましく叩かれるドアの音。
「警察よ、開けなさい!」
ガックリと両肩から力が抜ける思いを感じながら、良夜はのそのそと立ち上がると堅く鍵をかけていたドアを開いた。
「なんのようだ?タカミーズ」
「やっほー、りょーやん。おっじゃまぁ〜」
「あはは……お邪魔します」
ビールの缶がつまったビニール袋を両手に持ちタチの悪い笑みを浮かべた貴美と、その横でつまみらしき物が入った袋を持ち体裁の悪そうな笑みを浮かべた直樹が立っていた。良夜はそれだけで全てを把握した。ゆっくりと直樹に視線を向け『喋りやがったな?』とテレパシーを送った。そのテレパシーに直樹も『ごめんなさい、喋っちゃいました』のテレパシーを送り返してきた。男同士の友情が起こした奇跡である。
「はいはい、人の男にガンくれない。金取るよ」
貴美はズカズカと大股で部屋に侵入すると、小さなガラステーブルの前に腰を下ろした。そして、そのテーブルを手のひらでペチペチと叩き、良夜にそこに座るように命じた。その顔は終始笑いっぱなし。全身から立ちこめる『私は楽しくて仕方ありません』と言う感情を全く隠そうともしてない。
「直樹……恨むぞ」
「可能な限り早く連れて帰りますから……」
それがかなり難しめの提案だと言うことは言ってる当人が一番理解している。貴美を直樹が止められるのであれば、貴美はこの場にいないし、そもそも、同棲もしていない。
もちろん、良夜も直樹のそこの言葉を当てにはしていない。明日は土曜日で、貴美が持参したビールは二ダースを超えている。しかもそれは五百ミリ缶、一人、四リッターがノルマ。潰す気満々である、この女。くどいようだがお酒は二十歳を超えてから。この物語のまねをしてお巡りさんや救急車にご迷惑をかける十八歳が居ても、作者は一切関知しない。
「つまみがイマイチ足りなくてね、回鍋肉と青椒牛肉絲作ってきたんだけど、食べる?」
ニコニコと相変わらずタチの悪い笑みを浮かべた貴美が、タッパーに入れた料理をテーブルの上に並べる。三人前にしてはかなり多いその量と本題から入らない辺りに、時間をたっぷりかけて全部喋らせる気なのがよく解る。
「美味そうだな。余った分は、明日にでも食べるよ」
「これくらいなら一晩のつまみに消えちゃうよ?」
「いやいや、吉田さんの料理は美味しいからさ、そんなに急いで食べるのは持ったないよ」
「お世辞でも嬉しいかな? でも、気にしないで良いよ。時間はたっぷりあるもの」
字面だけ見ていると、仲の良い恋人同士の会話に聞こえるかも知れない。しかし、お互い言外に『帰れ』と『帰らない』の気持ちをたっぷり込めた言葉の応酬。それは、この場を作り出した直樹をおびえさせるのに十分だった。
「とりあえず、さっさと始めましょう?」
さっさと始めれば、さっさと終わるに違いない。直樹の思惑はしごくシンプルだった。しかし、そう思う頭の片隅で『さっさと始めても、終わる時間は同じなんだから、より酔わされるだけかも』という危険な予感もあった。
「そうね、さっさと始めましょう。りょーやん、いつまで突っ立っての? 遠慮しないで座れば?」
遠慮するのはお前だ、と心の中で呟きながら貴美の正面に腰を落ち着ける。そして、憮然とした表情で缶ビールを一本取ると、乾杯もせずにグビグビとその少し苦い液体を喉の奥へと流し込んだ。
「ふぅ……にっがぁ〜」
未だ、数えるほどしか飲んだことのないビールは、ただ苦いだけでたいして美味いと感じるものでもなかった。これを美味いと感じられるときが来るのだろうか? 同じ苦いものなら、ブラックコーヒーの方が良いかな? と思ったとき、あの傍若無人な妖精の笑顔が浮かんだ。
「ビールなんて、美味しいのは最初の一口だけ。後は惰性と酔うために飲む物よ」
大人の一言なのか、ダメ人間の一言なのか……ダメな大人の一言だな。花も恥じらう十八の娘が、こんなことを言っても良いのだろうか? とフレアスカートであぐらを掻いて缶ビールラッパ飲みの貴美を見て良夜は思った。
「……吉田さん、自分が未成年だって忘れてるでしょ? おばさん、泣いてましたよ」
「そう言えば、同棲なんて、良く親が認めたよな。普通、怒るぞ」
直樹が親の話を出してきたのは、良夜にとって好都合だった。少なくとも、この話をしている間は良夜のあの話が出ることはない。そうこうしているうちに貴美か直樹を潰してしまえば、この飲み会もめでたく終わる。印象としては直樹の方が弱そうだ、さっさと飲ませて潰してしまえ。良夜の灰色の頭脳が一瞬で今宵の戦略を立てた。
「あぁ、それはすご――」
「あっ、今日はその件で来てる訳じゃないから、その話はしないよ」
策略を立てた男と、その策略に乗ろうとした男は、その策略を真っ向から力業でたたきつぶした女の顔を呆然と見つめた。取り付く島がないったりゃありゃしない。
叩き潰した女は、ぱくぱくと口を動かす男二人をよそ目に、ビールをグビグビとその喉に流し込んだ。そして、持参していた割り箸で、持参の回鍋肉を一口食べ、一息つくと本日の本題をゆっくりと口に乗せた。
「今日来たのは、まあ、りょーやんも判ってるとは思うけど、明日、美月さんとデートだって?」
ほら来た。問題は直樹がどこまで話しているか、だ。昼間の会話をもう一度思い返し、直樹に与えた情報を整理する。あまり多くはない――一緒に買い物に行く。その前に昼食をごちそうになる――この二点だけだっけ?もう一度、考え直してみる。うん、間違いない。
「そんなんじゃないよ。買い物の荷物持ち、そのお礼にお昼をアルトで食わせて貰う。それだけだよ」
直樹に与えられた情報と矛盾しない言葉を一瞬で考え出し、なるべく『デート』という言葉から遠い文章を制作し、よどみなく口から出力する。よどみなく出力できたかどうかは、自分では判らない。しかし、違和感はないはずだ。彼は小さく心の中でガッツポーズを作った。これで貴美が『なーんだ』と言って、興味を失えば話は終了だ。
が、甘かった。
「えっ、嘘、美月さんが、りょーやんと明日おもちゃ屋とファンシーショップを巡ってぬいぐるみを選ぶ、って言ってたよ? それも、りょーやんが見立てるんだって?」
「プーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」
口に含んでいたビールが鼻に逆流し、黄色く泡立つ鼻水に変わった。そっちか!? そっちが情報流出源か!! どこまで話した? って言うか、全部話してやがりますか? あのボケねーちゃん!! 彼の灰色の頭脳はあらぬ方向からの攻撃に、その機能をフリーズさせた。
「えっ、そうだったんですか?」
直樹は自分に与えられた情報から、今良夜が言ったような状況を想像していた。だから、自分達の部屋でその話をしたときも『デートって感じじゃないんじゃないんですか?』などと言っていた。が、状況は直樹が思ってた以上に『デート』に近い代物。最初からそうと知っていれば、もう少し強硬に貴美を引き留めたかも知れない。
「そうそう、美月さん、ぬいぐるみ集めが趣味なんだって。で、りょーやんが選んでくれるって、凄く嬉しそうだったわよ」
「らしい趣味ですよね。でも、どうして良夜君が選ぶんですか?」
その言葉はほとんど反射的にこぼれ落ちた言葉だった。しかし、この場において致命的な失言でもあった。その事にすぐ気がついた直樹は、しまったとばかりに唇を小さな手で押さえた。
「うんうん、私もその辺がちょーっと不思議なの。だから、りょーやんに詳しく聞きたいと思ったんよ。なおも知りたいよね?」
しかし、もう遅かった。訂正の言葉が思いつきもしないうちに、貴美は直樹の失言を盾として使い始めた。これで、直樹がいくら『帰りましょう』と言ったところで、貴美は『なおも知りたがってたじゃない』と言いだして聞かないだろう。それは経験上、直樹自身が一番よく知っている。
『ごめんなさい、良夜君』
直樹は心の中で良夜に手を合わせた。
直樹の失言をニヤニヤと笑いながら盾にする貴美を見て、直樹が使い物にならなくなったことを良夜は思い知った。どうしよう……どうしようもねえな。結論はしごくあっさりと出た。しかし、全て話すのなら、アルトの話までしなければならない。それは出来るだけ止めておきたい。別にタカミーズを信用していないわけではないが、広めていい話だとは思えないからである。
そして、良夜は一つの決断を下した。それは――
『俺が潰れちまおう』
ある意味男らしいが、ある意味最高に情けない決定であった。手に持っていた缶ビール、そこには未だ全容量の八割程度が残っていたのだが、それを一気に煽り、貴美が用意した料理をバクバクと食う。
「あっ、酒に逃げた!」
良夜の意図に真っ先に気づいた貴美が非難の声を上げるが、そんな物は無視。都合の良いことに酒はアホほど用意されている。しかも、ただ酒。浴びるほど飲んで、潰れてやる。良夜のヘタレな意志は強かった。
「まあ、アレだ。今夜はたっぷり飲もうぜ!」
良夜に恐いものはなかった。
「もう、喋る気がないからって、自分から酔いつぶれようとすることないじゃない」
良夜のピッチにつられるように、ピッチを上げていく貴美。これはこれで面白いか、と思う。基本的に面白ければそれでいい女だった。
そんな二人を直樹は呆れたように見つめながら、チビチビと相変わらず舐めるようにビールを飲んでいた。
「良夜君は明日デートだし、吉田さんもアルバイトでしたよね。大丈夫なのかな……」