ウェイトレスと妖精(完)
その日のデートは良夜にとって、非常に辛い物になっていた。
なんと言っても前日徹夜で足下はふらふら、立っている地面がせり上がってくるような浮遊感にさいなまれていたのだから当然だ。しかも美月の顔を見ていると、昨夜見た白い胸元が幻影のようにちらつく始末。それは頭から追い出そうとすればするほど、はっきりとした物へと成長しゆく。その幻想に顔を真っ赤にさせられれば、美月は「どうかしました?」と心配そうな顔をして良夜の顔を覗き込み、覗き込まれるとさらに胸元を思い出すという悪循環を繰り返す。
「ヤバイかも……」
揺れる頭の中でそう呟いてみても眠気も幻想も収まりはしない。霞む頭で隣に立つ美月を見れば、彼女はファンシーショップの片隅に並べられたぬいぐるみをあーでもないこーでもないと言いながら、持ち上げたり、片付けたりするばかり。このパターンに突っ込むと軽く一時間は悩み続けるのが通例。しかも、付いてきている人間の事を頭から忘れてしまうと言うおまけ付き。特に文句を言う気もないが、出来る事なら早めに終わらせて欲しい。それが良夜の偽らざる感想だ。
トンと棚の一つに背中を預け、ふわぁと大きな欠伸をいくつも漏らす。止まれと思えば思うほどに欠伸は連発され、揺れる地面はその震度を増してゆく。
「ヤバ……」
もう一度呟いたつもりの言葉、それが音になったか否か、それを良夜は確かめる事が出来なかった。
「りょう……さん……りょうや……さん……良夜さんっ!!」
遙か彼方から自分を呼ぶ声。それすら心地良い子守歌。あと少しだけぬらせて欲しい……と思う頭の片隅で、ここはどこだか、思い出せと理性が弱々しい声を上げる。その声に、はっ! と顔を上げれば、そこには斜め下から彼の顔を覗き込む美月の顔があった。どこか怒っているようにも、心配しているように見える不思議な表情に良夜は呆然と見入ってしまい、同時に一瞬だけ、自分がどこで何をしているのかと言う事すら忘れてしまう。
「あれ……?」
「あれ? じゃないですよ。もう……立ったまま死んでるのかと思いました」
「殺さないでくれません? ふわぁ……ごめん、なんか……寝ちゃってた……」
意識が飛んでいたのはどのくらいだろうか? そんな事を考えながら周りを見渡せば、売り物の時計がすでに一時を少し回った時間を指しているのが見えた。意識が飛ぶ直前に見た時は十一時少し前だったような気がするから、ざっと二時間以上も熟睡していた計算。言い訳のしようもなく大失態だ。
「もう……良夜さん、昨日、寝てないんですか?」
怒ると言うよりも呆れている、そんな表現がまさにぴったりとはまる美月の表情に、良夜はごまかすような苦笑いを浮かべた。ひとまず、機嫌は損ねていないような雰囲気に安堵のため息が漏れる。
が、そうは問屋が卸さない
「何してたんですか? 昨日」
何気なく発せられた言葉に、良夜の肩がびくんと盛大に跳ね上がった。その跳ね上がった肩が美月に不信感を植え付け、彼女の大きな瞳を細くする。
「良夜さん?」
もう一度発せられる言葉は先ほどよりも一オクターブの音程と数度の温度が低い代物。手に持っていた大きな妖精のぬいぐるみをギュッと胸に抱き寄せ、美月は良夜の顔をじぃっと見上げる。不信感たっぷりの視線で。全く本当に天地神明に誓って何もしてないのだが、それは良夜の繊細――ヘタレ――な心に無用のプレッシャーを掛けるには十分すぎる物だ。何もしてないけど、何かを見ちゃったのは事実な訳だし……と、思えばまたもや顔が火照ってくる。と、言うか実際に顔を真っ赤にしていたのだろう。
不穏な空を気感じたのか、美月はズイッともう一歩踏みだす。二人の間は彼女の持つ一抱えもあるような大きなぬいぐるみが一つあるだけ。美月の吐息すら感じられる距離に、寝不足その他で良い具合に茹だった頭がボーとしていく。
「良夜さぁん……昨日の夜、もしかして――」
「なっ何もしてませんって!」
「一晩中アルトとお話ししてましたねっ!? 私も一晩中お話ししたかったですっ!!」
遮る良夜の言葉は無視ぶっちぎり。美月は確信めいた口調で断言すると、「良夜さんだけずるい!」と言葉を続けた。
美月の言ってる事は正鵠を得た物であり、実際良夜は一晩中アルトとお話をしていた。が、その原因はぐーぐー気持ち良さそうに寝てた美月自身にもある訳で……でも、そちら側に話が流れるんなら、そっちに流れたままで良いや。ある意味、危機を脱した良夜はがっくりと肩を落とす。その姿を違う意味に取ったのか、美月はハッと息を飲んだ。
そして続く言葉は――
「やっぱり! 来週の金曜日は私も良夜さんのおうちで沢山お話しさせて貰いますからね!」
「また泊まる気ですか?」
「寝ないから泊まるうちには入りませんっ!」
「勘弁して下さい……」
「ああ! また、良夜さんだけアルトとお話しするんですか!? ひどいっ!」
少なからず来店している客から向けられる視線は『なんだよ? このはた迷惑なバカップル』的な意味合い。そんな視線に晒されているとも気づかない二人、その二人の口論ともじゃれ合いのよう会話は堂々巡りへと突入していく。その堂々巡りを中断させたのは、良夜の胸ポケットにねじ込まれていた携帯電話だった。
「あっ……ちょっと待って……」
ブルブルと振動する携帯を取り出し、その二つ折りを開いて見る。そこに浮かぶのは喫茶アルトの文字。
「お店……何かあったのでしょうか?」
少し心配になったのか、やいのやいのと騒いでいた美月も神妙な面持ちで彼の携帯電話を覗き込んだ。その美月に「さあ?」とだけ答え、良夜は電話を耳に押しつけた。
「もしもし?」
『あっ、りょーやん? もしかして、ホテル?』
聞こえてきたのは吉田貴美の脳天気かつ理不尽なお言葉。その言葉に良夜が「馬鹿」とだけ答えると、彼女は電話の向こう側で『根性無し』と言葉を続けた。
「用事がないんなら切るぞ」
『ううん、ある。ねえ、りょーやん、私に隠し事ない?』
貴美の口調は僅かではあるが、確実な真剣さを帯びた物だった。その言葉に、良夜は「えっ?」と息を飲む。
隠し事……隠し事……貴美に対して生活の全てを打ち明けているわけでもなければ、その義理も義務もない。だから、言ってない事は多々ある。だが、ことさら『隠し事』と言われるような事は、少なくとも良夜がすぐに思いつく事の中に存在していない、はず。しかし、貴美の口調はどこかまじめで、ある種の確信にも似た何かを感じさせた。何かあったっけ? と考える時間が彼を数秒の沈黙へと誘う。
良夜が黙れば貴美も黙る。電話を挟んだ二人の間に沈黙のひとときが流れ、それは良夜の「ないけど……」という遠慮がちな声が発せられるまで続いた。
『本当に?』
「本当だって」
『本当に本当?』
「くどいな……昨日の晩飯のおかずでも聞きたいのか?」
『晩ご飯じゃないオカズなら聞きたい』
「マジで馬鹿か?」
『本当に隠し事はないんやね?』
「ないって。別に」
『じゃぁ……――』
くだらない会話に、良夜がいい加減電話を切ってやろうかと思い始めた頃、貴美の言葉が一端途切れる。電話の向こう側から伝わってくるのは貴美が息を整えているような気配だった。そして、貴美は落ち着いた小さな声で言った。
『アルトって誰よ? 妖精って何?』
話は一時間ほど前にさかのぼる。その時、『勝手に水の流れ出す水道』という怪奇現象を目の当たりにした貴美は、気絶の縁から見事に生還していた。そして、生還した彼女の第一声は――
「辞める!」
この一言だった。しかも目的語は『バイトを』ではなく『大学を』だ。
「ちょっちょっと! 何を考えてるんですか?!」
「だって、幽霊居るんだよ!? こっこんな所にいたら、絶対に呪われちゃうじゃんか!!」
突拍子もない言葉に直樹はギョッとするも、貴美は「いやだ、辞める」と言い出した言葉を撤回する事はなかった。
「そんなに怖いんですか?」
「怖いなんて物じゃないよ! 辞める! 私は大学辞めて実家に帰る!!」
彼女の怯え方は常軌を逸したというにふさわしい有様。まるで闇をおそれる子供のように貴美は、彼女を膝に抱く恋人の体にギュッとしがみついて震えた。その姿は付き合いの長い直樹といえども初めてなのか、彼女を抱きしめたままおろおろと定まらぬ視線で周りを見渡し、どこかの誰かに助けを求めるだけ。
しかも、和明のごまかしの言葉が最悪だった。
「水道のパッキンが壊れていまして……」
「……それ、りょーやんの言い訳と一緒……」
シーンと静まりかえる喫茶アルト店内。客の全く居ない土曜日だから元々静かだったのだが、この時の沈黙は耳が痛くなるほど。
珍しくしまったとばかりに口元を押さえる和明、彼の顔を、次の言葉を待つ貴美と事の成り行きにこそ恐怖を覚える直樹とが無言のままに見つめつづける。
「いっやぁぁぁぁぁ、絶対に辞める!! 幽霊が居るんだっ! アパートにも幽霊がぁぁぁ!! 呪われる! 呪われてひからびて死んじゃう!!」
緊張感あふれる沈黙は貴美の叫び声によって打ち破られた。彼女は自分でも何を言ってるのか判らないような叫び声を上げながら、直樹の体にギュッとしがみつく……つもりだったのだが、しがみついたのは体ではなく、彼の小さな頭。しがみついていると言うよりも、完璧なるヘッドロックとでも言うべき有様。やっている事は普段のじゃれ合いによく似ているが、今日のは手加減をしているどころか、火事場の馬鹿力並の力が加えられるのだから、直樹にも溜まった物ではない。
「苦しい! 苦しいですってっ!!」
哀れ直樹は貴美の大きな胸と細くもしなやかな腕で頭を挟み込まれて悶絶する羽目に。じたばたともがき苦しんでも彼女の腕からは力が抜けず、逆により強くなるほど。彼女の腕から力が抜けるのは、彼女の肩に和明の節くれ立った手がポンと置かれるまで待つ必要があった。その間約五分。実は、貴美の暴れっぷりは和明をして、手出しをしたら殺されるのではないのだろうか? と言う不安を与える代物だったのだ。
「落ち着いて下さい。そんなに怖がらなくても大丈夫ですから……」
「だっ……だって……」
「落ち着かないと、高見君が死んでしまいますよ?」
言われて見れば直樹の首には貴美の細い腕が巻き付き、彼女が持つ限りの力で締め上げられている真っ最中。その顔には死相が浮かび上がり、すでにあがく事すら出来なくなっている。
「あっ……ごめん、なお」
貴美がパッと手を離せば直樹はゲホゲホと何度も咳き込み、恋人の顔に批判の涙目を向けた。その視線からプイッとそっぽを向いて無視すれば、直樹は極小さな声で「付き合い方、考え直そう……」と呟く。
「……でも、絶対幽霊が居るから……せめて、お払いとかしようよ……」
口調と表情は未だおびえの色を深く残したままだというのに、その右手だけは別の生き物でも宿っているかのように直樹のみぞおちへと吸い込まれていく。ぐぼっ! と鈍い音を響かせると、彼は苦悶の表情を浮かべながら、体を二つに折った。
「……あの、店内での暴力行為はちょっと……」
「良いから! ねっ、今すぐ、お寺さんとか呼ぼっ! 裏高野とか拝み屋とかっ!!」
彼女の冷静な部分は「何言ってんだ?」的な警告を発する。しかし、そんな冷静な声は彼女の中で恐慌状態になっている脆い部分には届きはしない。そして、彼女は脆い部分が命じるままに、直樹の頭にしがみつきながら少しヒステリックな声を上げた。
「そう言うのは実在、しないと思いますし、必要はありませんよ」
床に座ったままあたふたし続ける貴美を、和明はやんわりとした口調で制し、彼は言葉を続ける。
「居るのは妖精ですから」
彼がそう言うと、貴美はおろかさっきまで体を二つ折りにしてうめいていた直樹までもが、きょとんとした顔になった。そして、その表情がだんだんと陰っていき、仕舞いには――
「……呆けてませんから。まだ」
和明がこう言ってしまうような視線を彼に投げかける始末。その視線に和明はほんの少しだけ苦笑い。
「だっだって……ね? なお」
「えっ……まあ……幽霊だなんだって言ってた人も似たり寄った――ぎゃっ!?」
本当に今日の直樹は余計な事ばっかり言う。本当にマゾなのではないのか? と思いつつ、その細めの脇腹に右拳をたたき込む。
「他ではどうだか知りませんが、この店には居るんですよ。妖精が……」
和明は柔和な笑顔で言葉をつづり続けた。この店には昔から妖精が住んでいる事、たまにその妖精を見る事が出来る人がいる事、その「妖精を見えるひと」が良夜である事、そして、自分も三十年ほど前には見えていた事……
語られる話はにわかに信じられる物ではないが、同時に「冗談でしょ?」と笑い飛ばせるような雰囲気でもない。なぜなら、老店長の穏やかな笑みの向こう側に、貴美はほんの僅かな寂しさという物に気づいてしまったから。それは隣で聞いている直樹も同じなのだろう。ぺたんと床に座ったまま、真剣な面持ちで彼の言葉に耳を傾けている。
「多分、今はこの辺りにいますよ」
最後に和明は自分の左肩を指差した。多分、そこに触れてみろ……と言っているのだろう。笑い飛ばす気にはなれないが、やっぱり頭から信じる事も出来ない。どうしよ……と直樹の方に貴美が顔を向けると、彼も貴美の方へと視線を向けていた。
二人はこくんと小さく頷きあうと、意を決したように立ち上がった。そして、恐る恐る和明が指差すところへと自分たちの人差し指を近づける。
すると指先に小さな刺激が走った。デコピンでもされたみたいな感じで指先を弾かれた……とでも言うのが一番近い感覚だろうか? それは痛いと言うほどでもないが、驚くには十分な刺激だった。
「ひゃっ!?」
「あっ……今、何か触りました?」
貴美は突き出していた指を慌てて引っ込めった。しかし、隣では直樹が目を大きく見開き、指先に触れる何かへと意識を集中させて居る真っ最中。意外と直樹はこう言うのにも強い方。恐がりな事を自覚している貴美にとって、直樹のこう言うところは素直にうらやましいと思う。
「なんだか……柔らかい物が乗ってる感じがします……ね?」
「多分、座っているのだと思いますよ」
和明の説明を聞きながら、直樹はこくんともう一度頷いた。老店長の説明によると、この妖精はリカちゃん人形くらいのサイズだから、直樹の指は丁度良いイス代わりになっているのかも知れない。直樹はそのイス代わりにされてるであろう指先へと左手を伸ばした。
「あっ、居ますね……多分……ここが頭かな?」
直樹の左手が彼の右人差し指上空十センチを行ったり来たり。リカちゃん人形がそこに座っているとしたら、確かに頭を撫でているような感じ……
「って……なお、その妖精って一応、女じゃなかったっけ?」
「……あの、これくらいで妬かれても非常に困るんですが……」
苦笑いを浮かべる直樹の頭を一発殴り上げておく。
「吉田さんも触れてみてはどうですか?」
「大丈夫ですよ、噛みつきませ――」
和明の言葉に直樹が続こうとするも、その言葉は最後まで形になる事はならず、代わりに「イタッ!」と小さな悲鳴を上げた。そして、涙目になって頭を撫でてた指を引っ込める。
「クス……そう言う事を言うとやりたくなるタイプですよ。彼女は」
小さく笑う和明につられ、貴美と直樹もつい笑ってしまう。もしかしたら、このアルトという妖精はちょっと自分に似てるところがあるのかも知れない。そう思えば、こびり付いていた恐怖心もゆっくりと収まっていき、代わりに好奇心が頭をもたげる。
「触ってみようか……な? って……なおが指引っ込めたら、どこにいるか判らないじゃんか……」
踏ん切りを付けるために呟いた台詞も、直樹が噛まれた――おそらく――指を撫でてるおかげで台無し。差し出そうとした手の行き先を直樹の頭に変えて、一発はたき倒す。
と、その時だった。
トン。
「えっ?」
右肩に僅かな重み、そして髪を撫でる小さな小さな何か……
「居ますよ、そこに」
和明の言葉を待つまでもない。彼女がそこに降り立ったと言う事は、貴美の皮膚が一番良く解っている。
「えっと……アルト、だっけ? とりあえず……よろしく……って、私の事は良く知ってんよね?」
そう言えば、この店で働いてる時、こんな感じを何回も感じた事があったっけ……今まで特に気にしていなかった感覚を思い出せば、もはや、この店に妖精が居るのは疑いの余地と恐怖心など微塵も残っていなかった。
一通りの説明を聞くのにたっぷり小一時間、良夜と美月は貴美の話にそこがファンシーショップの中だと言う事とついでに我も忘れ、聞き入ってしまう。
『と、言うわけで一年も仲間はずれにしててくれてありがとう……帰ってきたら覚えてろ』
話が終わると、貴美は冷たく低い声を発し一方的に電話を叩ききった。
その切れた電話を片手に呆然とたたずむ良夜と、その顔を心配そうな面持ちで見上げる美月、二人の額には一筋の冷や汗が流れ落ちていた。
「吉田さん……怒ってますか?」
神妙な面持ちの問いに、良夜はこくんと頷く。
「りっ良夜さんですからね! 吉田さん達に黙っていようって言ったの!」
「おっ俺ですか? 美月さんだって、今更説明するのも〜とかって言ってたじゃないですかっ!」
「うわぁ〜良夜さん、私の所為にするんですか?!」
「美月さんじゃないですか! 最初に言い出したのっ!」
カップルの醜い争いは、やっぱりそこがよそ様のお店だと言う事を忘却の彼方へと追いやった上で始まる。そして、やっぱり――
『なんだよ? このはた迷惑なバカップル』
と言う視線を少なくない客から浴びる事になるのだが、その視線に気づく余裕すら二人にはなかった。それが幸運な事かどうかは判らないのだけど……