ウェイトレスと妖精(4)
 貴美の営業人格がそのオートモードの活動を停止したのは、美月と良夜が出かけてから二時間ほどの時間が過ぎた頃だった。貴美のオートモードの存在は喫茶アルトの関係者や常連客には周知の事実であり、貴美が半分以上寝ながら働いているというのは喫茶アルトの名物にもなっている。また、貴美がオートモードに突入しているかしてないかを当てるという、くだらないゲームまでも存在していたりする。
 かくも有名なオートモードであるが、一つ、大きく誤解されている事がある。
 それは貴美が自分でオートモードを使っている、と思われている事だ。
 本当は貴美とてオートモードで働く気などさらさらない。オートモードで大きなミスをした事は一度もないが、これから先もないとは限らない。カップの一つや二つくらい割るのは平気だが、それで誰かに怪我でもさせたら非常に面倒くさい。それに一応上司の美月も危ないと言っては彼女に自制を求めている。そう言うわけで、彼女は決して自分からオートモードに突入しているわけではない。むしろ、本人としてはやらないように心がけているくらい。ただ、気がついたら二−三時間分の記憶がすっぽりと抜け落ちていたりするだけの事。だったら、夜更かしだの深酒だの止めちまえば良いのだが、そこはそれ、色々と忙しい大学生。判っちゃいるけど止められないという奴だ。
 そう、それはこの日も同じだった。
「あっ……」
 パチンと貴美の頭の中で何かのスイッチがつながる音が響く。すると、モノトーンだった空間に鮮やかな色彩がよみがえってきた。木目を生かしたカウンターの分厚い天板、そこへ今まさに空のカップを置こうとしている自身の白い指先、色彩は確かにそこで存在していたのに、彼女の心と意識がそれを全く認識出来ないほどに拡散していた。その意識と心が再び形をなしていくと同時に貴美の表情がばつの悪い物へと変わっていく。
「……あちゃ、また、やってたか……」
「やってたようですね。おはようございます」
 独りごちた貴美に聞こえたのは、今の今まで意識の視野から完全に逸脱していた老人の声。彼女が「えっ?」と顔を上げれば、そこには見慣れた老店長の微笑みがあった。
「毎度、惚れ惚れしますね。吉田さんのおーともーどは」
 他の誰かが言えば、嫌味にしか聞こえない台詞だ。しかし、それが皺が深く刻まれた顔に柔和な笑みで言われると、なぜか嫌味の香りを全く感じさせない。貴美はごまかすような苦笑いを浮かべると、「ごめん」と一言だけで素直に謝った。
「良いんですよ。昨夜は美月さんがお邪魔してしまっていたようですから」
「まあ……お邪魔してたのは私んちじゃなくて、りょーやんの部屋の方なんだけど――ってこういう事、保護者に言う物じゃないかな? 心配するような事はなかったよ」
 マズッたかな? と頭の片隅で思うが……ぶっちゃけ、昨日の夜、一晩中聞き耳を立てていたのだから、あの二人に何もなかった事は貴美自身が一番よく知っている。霊の、じゃなくて例の騒ぎで眠れなくなってしまった貴美にとって、隣から何か声がするかもっ!? 的な想像は恐怖心を和らげるのに丁度良い娯楽だった。もっともその「娯楽」がなければ、もうちょっと早めに寝付けていたかも知れないと言う事は否定しきれない。
「信用してますから」
「りょーやんを?」
「疑っているというわけではありませんが、そう言う時の男性というのは色々ありますから」
「じゃぁ、美月さん?」
「お酒が入ってる時のあの方を信用できると思います?」
 磨き終えたパイプを咥え微笑む和明がそう言えば、貴美の顔は本人すら理解できるほどにきょとんした顔になっていた。
「じゃぁ……誰?」
「さあ、誰でしょうね?」
 尋ねる貴美に和明は意味深に微笑み、視線を貴美の顔からカウンターからは死角になる窓際隅っこへとむける。貴美の頭の中は疑問だらけ。しかしその疑問を口に出すよりも先に、和明が「はい」と一本のマドラーを手渡した。
「……えっ?」
 そうつぶやいてヒンヤリとしたガラス製の棒へと視線を落とす。アルコールのたぐいは全て裏メニューになっている喫茶アルトでマドラーが使われる事は滅多にない。一年近く働いている貴美すらそれを見たのは数回程度だ。
「えっ? と言われましても……欲しいといったのは吉田さんですよ?」
 言ったっけ? と考える事数秒……オートモードにはオートモードから通常モードに復帰した時、オートモードでやってた事をど忘れするというバグがある。ちょっと考えればすぐに思い出すので問題はないのだが……
「ああ、思い出した。ありがとう」
 渡されたマドラーを持って貴美が向かったのは、窓際隅のいつもの席だ。そこにいるのは、ミートソースのパスタを目の前にぼんやりとしている高見直樹。
「お待たせしました」
 慇懃な口調で挨拶を一つ、そして貴美はテーブルの上に置かれた粉チーズの容器を取り上げた。
「あれ、起きたんですか?」
「……起きてましたよ? ずーっと」
「オートだったくせに」
 嫌みったらしくつぶやく恋人の頭に持っていた粉チーズの容器を叩きつける。五センチほどの円筒形をした容器、アルミ製の底で直樹のあまたを殴れば、彼は無言で悶絶して果てた。ざまー見ろと内心舌を出すも、その表情は取り澄ましたまま。
「ウェイトレスが客を殴りますか? 普通」
「殴ったなんて……固まってるチーズを砕こうとしただけですよ?」
 そう言って貴美が微笑むと、直樹はふてくされる気分も隠さず、ブスッとふくれる。その頭を二−三度撫でながら、貴美はさっきまで凶器として使われていた容器の中にマドラーを突っ込んだ。狙うは中で固まって出なくなった粉チーズ、それを無造作にマドラーで突いて崩す。
「結構ガチガチ……」
 呟きながら容器の中に何度もマドラーをねじ込む。賞味期限が切れるまでにはまだずいぶんの時間がある。が、あまり使ってない席のあまり使わない粉チーズは堅く固まってしまって、いくら振っても出てこない。これを崩すためのマドラーだった。
「捨てたら、どうです?」
「このテーブル以外なら捨ててる」
「……食べるの、僕と良夜くんだけですからね……この席なら」
 言わんとしている事を的確に理解して貰えて貴美も嬉しい。
 チーズが痛んでいる様子はないのだが、ここまで堅くなってるのなら捨てた方が良いかな? とも思う。しかし、やり始めた以上、やり遂げないと負けた気分になる。粉チーズごときに貴美は負けたくなかった。
「おりゃっ!」
 気合い一閃! 堅かったチーズは突き崩される。うん、勝った気分。ついでに底までもがズボッと抜けたが、この勝利の些細な犠牲という事で目を閉じる。
「使う?」
 上から出すよりも下から出した方が早くなった粉チーズ、それを直樹に見せながら、貴美はにっこりと微笑んだ。
「空になってますよ、それ」
 微笑んだ貴美の言葉に直樹はただ嘆息するだけ。それがどういう不幸な事態を招いているかと言う事を思いもしないで……

 貴美が粉チーズの底を抜いた時、その真下では妖精のアルトちゃんが気持ちよさそうに熟睡を決め込んでいた。良夜達を送り出す前から寝ていたのだが、さすがに完徹開けともあり、彼女はそれからたっぷり二時間、お昼十二時を回ったこの時間もテーブルの上に丸まり静かな寝息を立てていた。
 そこに落ちてくるは堅いアルミの板。それは貴美の全力とも言える力に突き落とされ、かなりの勢いでアルトの上半身にヒットした。
「いたっ!」
 悲痛な叫び声と共に体を起こせば、残りわずかな粉チーズが追い打ちをかける。
「ぎゃっ!?」
 二度目の悲鳴。どこかのコントのような仕打ちを受け、アルトは惚けたような表情でキョロキョロと周りを見渡した。そして、自分の身に起きた不幸な事件を理解するのに、彼女はきっちり一分の時間をかけた。粉チーズを頭から被ったままで……
「なんてことするのよっ!」
 ようやく理解完了。やった本人に向けてストローをピシッ! と指し示し、アルトは大声を上げる。聞こえない事は十分に理解しているが言わずには居られない乙女心。
「全く、美月が居ないから安心して寝てたのに……」
 ぶつくさと不平を垂らして、もう一度我が身へと視線を落とす。頭の上から手足は言うに及ばず、ドレスの中まで粉チーズだらけ。それは彼女をげんなりさせるに十分な被害。服を脱いでシャワーでも浴びなきゃどうしようもないかも知れない。そんな事を思いながら羽を軽く羽ばたかせる。
 ふわりと羽についていたのとテーブルの上に落ちていた粉チーズが舞い上がると、頭上から「あれ?」という声が響いた。
「どうかしました?」
 再び聞こえたのは直樹の不思議そうな声。その声が向けられているのは、アルトの方へと視線を落とす貴美だ。
「えっ……うん、今、チーズが舞わなかった?」
「私の羽の所為ね。気にしないで良いわよ」
「気のせいじゃないんですか?」
 貴美の言葉に直樹とアルトがほぼ同時に答えるも、貴美に聞こえているのは直樹の声だけ。貴美は納得できないとでも言いたげな顔を見せる。その顔を見上げながら、アルトはもう一度羽を動かして見せた。当たり前のようにもう一度舞い上がる粉チーズ。
「……やっぱり、舞ってる」
「吉田さん……」
 直樹が恋人に向ける視線は、心の病を患っているかわいそうな人へ向けるそれとほぼ同じ。当たり前のように貴美はその向けられた視線にムッとし、恋人の頭を一発こづき上げる。
「さっさとスパゲッティでも食べて、さっさと帰って寝なよ!」
「自分が居ろっていつも言ってるくせに……」
「なお……帰ったら覚えてろ」
「おっ、脅すんですか!?」
 始まる喧嘩に付き合うつもりなどアルトには毛頭ない。二人の意識がこぼれた粉チーズから逸れると、アルトは体を大きくたわませ、一気に宙へと舞い上がる。目指す場所はキッチンの棚、その裏には彼女の着替えが隠し込まれている。そこで着替えの段取りをして、シンクで優雅にシャワーを浴びよう。そんな計画を立て、アルトはタカミーズの口論が続くテーブルを後にした。チーズの粉を鱗粉のように振りまきながら。
 そして、数分後、喫茶アルトのキッチンには貴美の悲痛な悲鳴が響き渡っていた。

 それは半日ほど前と全く同じ状況だった。違いと言えばアルトが下着だけでもかろうじて身につけていたのか、それとも貧相な裸体を晒していたのかと言うところ、それだけだ。
 計画通り、棚の裏で着替えを確保したアルトは、鼻歌交じりにキッチンのシンクへと飛んできていた。ここの水道も良夜の部屋について居る奴と同じくワンプッシュ式。本当はトイレの手洗いでシャワーを浴びたいところだった。あそこなら近くにハンドウォーマーがあって非常に便利なのだが、あいにくトイレの水道は普通のひねるタイプ、アルト独力では水を出す事が出来ない。そもそも、ドアを開けられない。
「あちらを立てればこちらが立たず、ね」
 シンクのそばでドレスを脱ぎながら独り言を呟く。脱ぎ終わったドレスをパン! と一度大きく振るい、そこにたっぷりと溜まった粉チーズを払い落とす。そしてそれを丁寧にたたむと、昨夜同様、蛇口の上で体を翻し力一杯取っ手を踏み下ろした。
 一気に流れ始めるきれいな水流……と、響き渡る貴美の悲鳴。
「また!! 水が勝手にっ!!! いやぁぁぁ、おばけぇぇぇぇぇぇ!!!」
 ひとしきり悲鳴を上げ、貴美はパタンと背後に倒れていく。
 貴美はついさっきまであの席で直樹とじゃれていた。そのはずなのにものの数分も経たぬうちにキッチンへと帰ってきて、帰ってきた瞬間にアルトが水道のハンドルを踏み下ろした、とそう言う事なのだろう。そこにどういういきさつがあったのかは知らないが、まあ、美月が居なくてキッチンでの仕事もやっている貴美なのだから、彼女がいつここに帰ってきてもおかしくはない。
 おかしくはないのだが、何もこのタイミングでなくても良いだろうに……アルトはそんな事を思いながら、貴美の元へと飛び立った。そして、ひっくり返った貴美の額の辺りに滞空、見下ろす顔は恐怖のあまりに白目を剥いている間抜け面、美人も台無し。
「この娘の恐がりってホント病的よね……」
 トンと貴美の額に着地を決めて、そこを二−三度蹴っ飛ばしてみれば、貴美は「うーん」といううなり声を上げる。頭を打ったような様子もないし、血の滲んでいるところもない。とりあえずほっといても死にゃしないだろう。アルトはそう結論づけると、再びシンクへと向かった。当初の予定通り、シャワーを浴びるため。
「……あの空飛ぶ迷惑め……」
 彼女と入れ違いに入ってきた和明が呟く。その小さな呟きはあまりにも小さく、気絶している貴美はもちろん、彼女を介抱している直樹にも聞こえはしなかっただろう。聞こえていたのは、何年も前からさんざん言われ続けてきてきたアルト本人ただ一人だ。
「あら……」
 背後から届く言葉に一瞬だけ羽が止まり、彼女は「懐かしい台詞ね」とだけ、聞こえない声で返事をする。昔――和明が彼女の姿を見る事が出来た頃――はしょっちゅう、それこそ毎日のように言われていた台詞だ。それを彼女は昨日の事のように思い出す。
「で、その程度の台詞じゃこたえないのもあの頃から一緒」
 ヒラッと後ろ手に一度手を振り、アルトはシンクへと向かった。彼女にとって、今優先すべきなのは気持ちいいシャワーを浴びる事だ。
 なのに――
「水道、出しっぱなしですね」
 嫌みったらしく和明が水道の蛇口を閉めた。アルトがシャワーを浴びてる最中に。
「大人げないわね……老人のくせに」
 中途半端に濡れた体をもてあまし、アルトはその場から立ち去る和明へと恨みの線を向けるのだった。

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