ウェイトレスと妖精(3)
涙を浮かべた貴美が良夜に詰め寄ってから三十分ほどの時間が過ぎた。この時、良夜は明かりの消えた部屋の中、自分のベッドに背を向け、コタツに当たっていた。
貴美には「水道のパッキンが壊れかけている」という事でなんとか押し通して、問題なし。貴美としても何でも良いから『科学的』な理由で安心させて欲しいという心情だったのだろう。顔を引きつらせ、早口で説明する良夜の下手っぴな嘘を「なーんだ、良かった」と(表面上は)素直に受け入れた。
そして、貴美は直樹に手を引かれ、自室へと帰って行った。ベッドの上で高いびきの美月をほったらかして……
そう言うわけでただいま良夜は、目の前にアルト、背後に美月(爆睡中)の布陣でコタツの前に陣取っていた。背後に美月が居るのは解る。彼女は良夜のベッドを占領しているのだから。しかも、その身は下着姿らしい。確認したわけではないが、彼女が来ていた喫茶アルトの制服は彼の視野の片隅で床に丸まっている。その彼女を見ないためには彼女を背後に置いておくより方法はない。
問題は――
「なんで、お前はストローを構えてそこにいる?」
そこ、とは良夜の座るコタツの上。良夜が部屋を出た時には下着姿だったのだが、いつの間にやらいつものゴスロリドレスに着込んで、彼女はそこに座っていた。まあ、それは問題ない。素っ裸みたいな格好でいられるよりよっぽど良い。問題は彼女が今その身にまとっている雰囲気にある。ギュッと強くストローを握った右手、引き絞った弓の如くに力をため込んでいる羽と足、その全てに獲物を狙う肉食動物のような緊張感にあふれている。
「……狩りでも始める気か?」
「そうね、良夜が妙な気を起こしたら、すぐにでも刈り取ってあげるわ。貴方の命を」
その緊張感は良夜が身じろぎするたび、ピクンと反応を示す。わずかに視線をそらしただけでも、その凶刃が良夜のどこかに突き刺さりそうな雰囲気。だから、彼はアルトの小さな体から目をそらせずにいた。
カッチンカッチン……壁にぶら下げられた時計の音と、スースーという美月の気持ちよさそうな寝息、月と星の淡い光、そして一触即発の不穏な空気だけが部屋を支配する。
「……寝たらどうだ?」
「そうね、良夜が寝たら寝るわ」
彼女はそう言う。しかし、良夜が寝ようとするたび――コタツの天板から視線を外し横になろうとするたび、彼女の体に緊張感が走るのだ。眠れるはずがない。いや、そもそも命を刈り取るとか言ってる性悪妖精と同室で眠れる奴が居るだろうか? もし居たとしたら、良夜はその人間を尊敬してやまない事だろう。
「お前が先に寝ろ」
「私が寝たら、行動を起こす気ね?」
いくら寝ろと言っても、彼女は緊張感を伴う笑顔で良夜の顔を見上げるばかり。それはまるで獲物を前にし、狩りへと向かう悦びにふるえるハンターそのものだ。
かくして、二人はコタツの上と前、上下三十センチほどの空間を作ってにらみ合っていた。
「行動とは?」
「そうね、最初の一手は、まず、振り向く事かしら?」
クイッとアルトの顎が動き、良夜の方を、正確を期すならば彼の背後を指し示す。その背後にあるのはベッド、そしてその上には無防備と言うにふさわしい姿で眠る美月。
「次は?」
「ベッドに潜り込むのね……このド変態ッ!」
「誰がするかっ!!!」
断言の言葉と共に、アルトのストローがピッと良夜の額に向けて突き出される。そして、キレる良夜。キレた心は大音量の声へと変換され、狭い部屋に響き渡った。
「うるさいッ! りょーやん!!」
お隣さんから帰ってくるのは鋭い怒声。虫の居所がよっぽど悪いのか、いつもよりもボリュームが大きめ。二つの大声が部屋の中で交差し、スリーピングビューティをたたき起こした……良夜の死角で。
ガッ!? ガシャンッ!
堅くて鋭く尖った何かが良夜の後頭部にめり込む。それが彼自身が買った目覚まし時計であり、背後で目覚めた眠り姫が投げつけた物だ。そう気づくのに、良夜は数瞬の時間を必要とし、それが彼に与えられる事はなかった。
「うるさいです〜」
与えられるよりも先に、寝惚け声が彼の耳に届いたからだ。反射的に振り返り見れば、ずれたブラから覗くうす桃色の乳首とそれを頂点にしたあまりにも控えめすぎるふくらみが……じゃなくて、七割方目を閉じた眼で良夜を見つめ、代わりに見事なフォロースローを見せている美月の姿があった。
唖然。完璧に停止した思考の中、ベッドの上で美月が崩れ眠りの中へと落ちていくのを見つめる事しか、良夜にはできなかった。背後で死神のストローが振り上げられている事も知らずに。
「何を見てるか!? このド変態!!!」
ザクッ!!
良夜の後頭部で破滅の音が響いた。
そして、翌日。土曜日。寒くはあったが、良い天気。ただいまの時間、朝七時少し過ぎ。
「いっ……一睡も出来なかった……」
「良夜が寝ないから、私も眠れなかったわ……」
ちゅんちゅんと雀が愛らしい声で鳴き、悶々とした夜をまんじりともせずに過ごした良夜とアルトはくらくらと痛む頭を抱えて泣いた。
「起きてろとは言ってないからな……俺は」
「途中で寝たら負けだと思ったの……」
気恥ずかしそうにそう言うアルトを、良夜はバカだと思った、かなり本気で。
美月は毎朝起きると、ベッドの隅っこに腰を下ろして三十分ほどぼーっとしている。血圧が低いのか、それとも単に寝汚いなだけなのか、それは本人含めて誰も知らない。だが、こうしないと彼女の頭が働き始めないという事だけは疑いの余地がない。だから、彼女はそれを今日もやっていた。
「……思いっきり、胸が出っぱなし」
それをいちいち教えてくれるアルトに、良夜は――
「感謝してる?」
「殺意を抱いてる」
もちろん振り向いてはいないので、それを確認するすべはない。彼に出来る事と言えば、部屋に転がっている空き缶の数を数えたり、テーブルの上に置き去りにされているゴミを指で弄ったりする事……と、昨日の夜に見てしまった美月の胸元を想像する事くらい。闇夜に浮かび上がった白い胸元は、健全な青年(童貞)には刺激が強すぎる代物だ。おかげで頭痛の鐘が鳴り響いているというのに、目だけは異常に冴えてどうしようもない。
「一つ聞きたいの、いいかしら?」
「ああ?」
「……私の裸を見た時は……どうだった?」
言われてみれば、良夜がアルトの素っ裸を見た回数は少なくない。ざっと思い返しただけでも三−四回はある。サイズ的にも凹凸及びくびれのなさ、あらゆる面で幼女というか幼女向け人形の裸と言った趣の裸体を、良夜ははっきりと思い出す事が出来た。
「……正直に言っても怒らないか?」
「多分、怒るわ」
ストローをヒュンと振るアルトに、良夜は「最低だな、お前」とだけ告げた。そして、再び、テーブルの上のゴミを指先で丸め、転がし始めた。
「また、その癖……子供っぽいわよ?」
この癖を嫌うアルトが、まるで母親のような顔をしてふくれる。しかし、止めようと思ってもこの状況では止められるわけもなく、それ察しているのか、アルトもそれ以上の文句を言う事はなかった。
ゆっくりと、ゆっくり過ぎるほどゆっくり時間が流れる。背後で行われていた美月の日課は終わったのだろうか? 背後では衣擦れの音がガサガサと響き始める。ここに来て良夜は、どうして部屋の外に出ていなかったのだろう? と深い自責の念を覚えた。もっとも、彼に逃げ出す暇が与えられなかったのも事実。気がついた時には美月は胸を放り出したまま起き上がっていたし、美月が起き上がれば彼に身動きが取れる事などないのだから。
不可避の事故とは言え、この状況に良夜は深く反省せざるを得ない。深く反省をし続ける良夜の横で、美月の白い足が行ったり来たり。気配から、美月が脱ぎ散らかしていたアルトの制服を拾いに行き、そして、それを身につけている事だけは理解できる。どうして平然と着替えが出来るのか、良夜には全く理解できない。
「良夜、視線はここ。一ミリでもずらしたら、その目玉、ストローでえぐってやるから」
彼女が指さすは、コタツの上の小さなゴミ。それをストローでチョイチョイと突きながら、彼女は瞬きすら忘れて良夜の顔を見つめ続けている。もちろん、全身に狩りへと向かうネコ科動物の緊張感を維持したまま。
「おはようございまふぅ……あれ、良夜さんがどうして私の部屋……じゃないですね? あれ?」
幾分皺は目立つが普段通りの服装に着替え終えた美月が、ずーっとテーブルの上のゴミを凝視し続けていた良夜の顔をのぞき込んだ。きょとんとした表情と蝶ネクタイまでピッと締められた胸元に、良夜の唇から安堵八割に失意二割のため息が一つこぼれ落ちる。
「貴方も最低よ、良夜」
その二割を敏感に察したアルトが良夜の指先をガンッと蹴っ飛ばす。蹴っ飛ばしたアルトを指先で軽く弾き、良夜は自身の顔をのぞき込む美月の顔へと視線を動かした。
「おはよう……えっと……どこまで覚えてるんですか?」
「えっと……吉田さんと呑んでて…………――」
額に指をやり目を閉じる。そんな姿で美月は悩み始めた。うーんと言ううなり声を上げて数秒の沈黙。彼女は大きな黒い瞳をパッと開くと、はっきりと断言した。
「気がついたら、良夜さんの顔を見てました」
悪気をはじめとした負の感情を一切感じさせない表情、満面のほほえみを浮かべて美月は断言する。それは良夜とアルトの全身を脱力させるに十分な破壊力を持っていた。
「はあ……ともかく、外で呑むのは止めて下さい。取り返しの付かない事になりますから、絶対」
「はぁい」
明るい返事はアルトのそれと同じ匂いを感じさせ、良夜を不安の底へとたたき込む。
だいたい、この人は警戒心足りなさすぎ……そもそも、店長だって孫娘が外泊してるんだから、ちょっとくらいは連絡するなり、顔を出すなりすりゃ良いだろうに。美月も店長も自分の事をかかしか何かだと――
「さて、それじゃ、出掛けましょうか? あっ……一度、家に帰らないと」
三島家の人々へとクレーム沸き起こる頭脳が一瞬、停止する。停止した頭脳もそのままに、良夜は惚けたような表情で「はい?」とどこか嬉しそうな顔をしている美月へと視線を向けた。
「ですから……――良夜さん、今日、何曜日ですか?」
さっきとはちょっぴり違う種類の笑みが美月の顔に浮かび上がる。ヤバッと思った時にはすでに遅し。
「ああ、無理無理。休みモードだから、曜日が良く解ってないわよ」
びくんっ!? と良夜の体が跳ね上がる。
すでに春休み、学校はお休みで良夜の生活リズムはバイトの休みを中心に回っているわけで、彼にとって日付とは「次のバイト休みまで何日か?」という意味しか持たない。しかも、そのバイトはカレンダー通りに休ませてくれるわけではないスーパーでのお仕事。今日のように完徹開けともなれば、彼の頭に曜日の感覚など残っていようはずがない。
「次の土曜日、ぬいぐるみ、買いに行くの、付き合ってくれる約束でしたよねぇ?」
「……美月、こんなのが良いわけ? 考え直した方が良いわよ? 絶対に苦労するから」
ジクジクと二人そろって虐められる良夜、寝不足で頭も痛いし、今日は厄日だ……彼は土曜日の朝一番からそう確信した。
なお、彼の名誉のために言っておくと、自分は自分の曜日が解らなくなっちゃう癖をちゃんと自覚して居る。だから、携帯電話のアラームを待ち合わせ時間十五分前にきちんとセットしていた。こういう状況にならなかったら、美月との待ち合わせに遅刻はしていなかったはずだ。まあ……あまり自慢できる話ではないのだが。
美月が着替えをするため、喫茶アルトにいったん戻った時、そこにはいつもの風体で仕事をしている貴美の姿があった。
「おはようさん」
「おはようございます」
軽く声をかければ、いつものように彼女の完璧なる営業人格が完璧に応対する。しかし、その対応には違和感。具体的にどこがどうとは言えないのだが……当たらずとも遠からずな表現で許して貰うならば、いつもよりも他人行儀が一割り増しといった感じだろうか?
「また、オートか……」
条件反射と脊髄反射だけで働く「吉田貴美のオートモード」は、喫茶アルト常連客ならば誰でも知っている事だ。疲れていたり、寝不足だったりすると、彼女は半分以上寝ながら働く。それでおおむね問題なく働けるというのだから、彼女はかなりおかしいと言うもっぱらの評価。
感心半分に呆れが半分、何とも言えない気分でいつもの席に着けば、そこに直樹の姿はない。
「タカミーズも眠れなかったのかしらね?」
「そんな所か……」
かく言う良夜もアルトも美月の車でここに来るまで、ずーっと欠伸が出っぱなし。油断すれば熟睡してしまいそう。と言ってる間に、アルトはテーブルの上にころんと丸まり、もぞもぞと体を数回芋虫のように動かした。
「……お前、来ないのか?」
「馬に蹴られたくないもの……と言うのは建前、眠たくて……」
ふわぁ〜っと大きく背伸びを一発、彼女はすぐに目を閉じると、無防備な寝姿を良夜の前に晒し始める。よっぽど眠たかったのだろう。彼女がスースーと心地よさそうな寝息を立て始めたのは、それからわずか数秒の事だった。
「うらやましい……とか言ったら駄目なんだろうな」
その呟きは大きなため息に混じって、客の少ないフロアの中へと消えていく。
そして十数分後、喫茶アルトの制服から私服のワンピースと着替え終わった美月と共に、良夜は喫茶アルトを後にした。そして話はオートで働き続ける貴美と窓際隅っこのテーブルをベッドに眠り続けるアルトを中心に回り始める。