ウェイトレスと妖精(2)
美月が貴美に呼ばれ良夜の部屋に攻め込んできて二時間が経過した頃、良夜は一人、缶ビールを一本片手にドアの外に突っ立っていた。冷たい晩冬の風は酔った体から容赦なく体温を奪い去ってゆく。身も寒ければ、心も寒い。
「あれ……良夜くん?」
ぼんやり半ば居眠りし書けていた意識をこっち側へと引き戻したのは、お隣に住む青年の声だった。良夜はその声の主に「よっ」と軽く声をかけると、手に握った缶を軽く掲げた。
「どっ……あっ、吉田さんが何か……やっちゃいました?」
彼が小首をかしげたのはほんの一瞬だけ。ほぼ的確に理由を察した直樹は、恐る恐る良夜の顔をのぞき込むような感じでそう言った。
「たいしたことじゃないよ……缶ビール五本を一気飲み。美月さんにも同じだけ飲ませて、二人仲良くストリップを始めただけだから……今は多分寝てんじゃないのか?」
あの後、なぜか貴美は美月を引っ張り込んで酒盛りを始めた。それも駆けつけ三本、一気飲み。普段からペースの速い女だが、今日はある種鬼気迫る勢いの飲み方だった。それに美月も巻き込まれ、二人は良夜を置き去りに浴びるほどに酒を飲み始めた。普段ならなかなか酔ったところを見せない貴美なのだが、今日は訳が違っていた。一番に酔っぱらったかと思うと、いつもの脱ぎ癖を披露し始めた美月を、止めるどころか、逆に煽るわ、自分も脱ぎ出すわ……
「みっ見たんですかっ!?」
「見てねーよ! その前に吉田さんに追い出された……今は多分、寝てる」
服を脱ぎ始めるほどに酔っぱらっているのに、なぜかいざ、自分が脱ぎ始めると良夜が居る事を思い出して、出て行けという始末。そこに美月までもが「吉田さんの大きな胸が見たいんですかっ! 裏切り者!!」と言い出せば、良夜は部屋に居座れるはずもない。しかも、直樹には言ってないがその尻馬にアルトまでもが乗ってきたのだから、どうしようもない。哀れ彼は寒風吹きすさぶ廊下で、なんと小一時間も一人でビールを飲んでいたのだ。
そこまでの説明――アルトを除いて――を聞くと、直樹はため息を漏らした。それは安堵のようにもあきらめのようにも取れる代物。どちらだろうか? と良夜が悩んでいると、彼の唇がゆっくりと動き始めた。
「……ああ……吉田さん、もしかして、ホラー映画とか、見ちゃってませんか?」
ああといった感じで直樹は廊下の薄暗い天井へと視線を巡らせる。
「あっ……ああ、見た……稲川淳二の怪談」
「吉田さん……怖い映画とか見ると、悪酔いして忘れようとするんですよ……しないと眠れなくなるから」
彼が言うには、貴美は酒を浴びるほど呑んで潰れて寝なければ、ベッドに入った時、その番組とか映画の事を思い出して眠れなくなるらしい。しかも、忘れるために呑んでいるのだから普段よりもテンションを上げてくるし、周りの人間にも呑ませようとする。その結果、ひどい目に遭うのはいつも回り。直樹は貴美がこの手を開発してからというもの、貴美にホラー映画を見せる事を止めた。
「……そう言う事はあらかじめ教えておいてくれよな……」
「そっそうですけど、こういう事を教えたら怒るんですよ……」
二人が仲良くこぼしたため息は、冷たい夜風に舞い上がり、月夜の空へと消えていく。ため息をついたところで事態が好転するはずもなく、二人は女の園と化した部屋の前から、隣の部屋へと移動した。
「ともかく……今夜はそっちで寝かせて貰うぞ……」
「どうぞ……」
春間近なはずなのに、去りゆく二人の背中には秋の哀愁が漂っていた……
「ただいま帰りました」
「おじゃましまぁす……っと」
タカミーズの部屋も良夜の部屋と同じ間取りなのだが、一人暮らしと二人暮らしの差から家具が少々多く、その分居住スペースは狭め。部屋中央にはコタツではなくホットカーペットと夏場も使ってたガラステーブルが一つ置かれていた。良夜はそのガラステーブルに座ると小さな衣装タンスに背中をもたれさせた。
「良夜くん、ご飯、食べました?」
「食ったよ」
答えるだけ答えて開けるのは、タカミーズの冷蔵庫。貴美が良夜の部屋のビールを十本、全部あけたのだからここのビールも少しは飲んでも良いかな……と思ったのだが、入っていたのは発泡酒ばかり。発泡酒はあまり好きじゃないんだけど、と思いながらも良夜は素直にそれを一本取り出した。
プルタブに指をかけると、すぐにプシュッと言う心地良い音が響く。それを一気に煽って人心地。冷え切った体に発泡酒はきついが、それでも座れるところにたどり着いたという事に、良夜の心は幾分和んだ。
「しかし、あの人の恐がりは――直樹、お前、いつから料理できるようになった?」
「病的でしょ? 僕だっていつまでも吉田さんに作ってもらうばかりじゃないんです」
そう答える直樹の右手にはインスタントラーメン、左手には鍋……ではなくフライパン。キャベツやら肉やらを炒めて具を作るつもりと言うのならば、そのフライパンにいきなり水を入れたりはしないだろう。
「直樹、初手から間違えてる……」
「えっ……駄目ですか? お水の分量、ちゃんと計ったんですけど……」
底の浅いフライパン一杯に水を張るバカ、彼はきょとんとした顔で良夜の顔を不思議そうに見つめる。どこまで生活能力がないのかと良夜は発泡酒を飲みながら唖然となった。焼きそばじゃないんだから……それ。
「作ってやるよ……それと、吉田さんに二−三回料理教えてもらっとけ」
缶ビールをテーブルの上に置き、どっこいしょとやる気なさそうに立ち上がる。鍋のありかは……と、さすが同じレイアウトの部屋に住んでいるだけの事はある。良夜が片付けているのと同じ場所だ。ついでに冷凍庫から冷凍餃子も取り出して……
「あっ、そんなにいいですよ。ラーメンだけで」
「俺も食うんだよ。一人で食う気か? お前」
良夜の言葉に直樹は「あっ」と恐縮する。立って見ているだけではやりにくいだけだし、と良夜は直樹を彼がさっきまで座っていたところに座らせた。ラーメン鉢とか出させようかとも思ったが、なんだか落っことしてしまいそうな予感がするのでそれは止めておく。
取り立てて会話もない時間がしばらくの間――冷水がコンロの上でお湯に変わる程度の間、続いた。
「きゃぁぁぁぁぁ!!!」
そのちょっとした沈黙と闇夜を切り裂く女の悲鳴!
「吉田さんっ!?」
それに気づいたのは手持ちぶさたな様子で座っていた直樹だった。彼は反射的に飛び上がると、声のした方、すなわち良夜の部屋に向かって飛び出していた。
「おっ……おい!」
そして、それに良夜もならい飛び出す……その前に、ガスのチェック、出掛ける時は忘れずに。
良夜達が部屋に飛び込んだのは、悲鳴が聞こえてわずか十数秒後の事だった。そこで彼らを最初に出迎えたのは、弱い人間ならそれだけで酔っぱらってしまうようなアルコールの香りとユニットバスから漏れ出す淡い光。そして、その淡い光に照らし出された一組の白い素足。
「貴美さん!?」
見ただけで貴美だと気がついたのか、美月もいる事が頭からすっ飛んでいるのか……直樹はその足を見ただけで我が恋人であると断言、バタバタと空き缶転がる床をユニットバスへと近づいていく。それに良夜もつられてゆけば、そこで彼の目に白い下着姿でひっくり返った貴美の艶姿が飛び込んできた。
(やばっ!?)
とっさにそうは思ったものの、目の前にこれだけの美人が裸同然に転がっていれば、目をそらす事も出来なくなるのは男のサガ。介抱する直樹の肩越しに、良夜はグランドキャニオンもかくやと言うような胸の谷間、きゅっと引き締まった腰回りとその中央に穿たれたおへそやら、それはもう、全身くまなく見ちゃうわけで……
「むっつり」
びっくっぅぅぅぅ!!! 耳元でささやかれた言葉に、良夜の心臓は口から飛び出んが勢い。ドキドキと早鐘のように鼓動が早くなったのは、思わぬ裸体を見てしまったためか、はたまた、アルトにそれを見られたせいか? どちらにしても、一刻も早くこの場を離れなければ、身の破滅。自身の肩口を浮遊するアルトをひっつかまえると、良夜はそのまま表へ飛び出した。
「あら、もう良いの? それとも私の方が良い?」
アルトの体を握りしめると、なぜか彼女の着ている下着からじわっと水がにじみ出す。よく見れば髪も顔も羽も、全身がずぶ濡れだ。
「お前、何した?」
「何って……何かしようとしたのは良夜じゃないの? 気絶してる貴美相手に」
「するか!」
「本当かしらね……これだから童貞は嫌だわ」
「心配してただけだ! それより、何があったんだよ!?」
「怒鳴ってごまかすなんて……」
フンッと鼻で笑うアルトを見ていると、その体を握りしめる良夜の手に力がこもってゆく。かなうものなら、このまま握りつぶしてしまいたいところ……なのだが。
「美月にチクるわよ」
さらっとした表情で言い切るアルト。どうやってチクるのか、それは想像も付かない。しかし、こいつがやると言えばどうとでもやりそうな気がする……最悪、自白せざるを得ない状況に追い込まれるかも的な予感が沸々と沸き起こる。
「……で、お前は何もしてないのか?」
パッとアルトの体を手の中から解放、彼女が頭の上へと舞い上がるのを眺める。
「何もしてないわよ、ただ……」
「ただ?」
「ただ、私が水を飲んでたら、トイレから出てきた貴美が悲鳴を上げて気絶しちゃったの」
「えっ?」
思わぬ答えに良夜の口から間の抜けた声がこぼれ落ちた。
ビールをたらふく飲んでアカペラを熱唱していたのは貴美と美月の二人だけではなかった。美月の長い髪にぶら下がって良夜宅を訪れていた妖精のアルトも同じくらい、いや体重比で考えれば二人以上に飲んで酔って騒いでいた。そして、良夜が直樹と表で話をしていた頃には、他の二人同様、上下の下着だけという艶姿で、貴美の胸の上に寝転がっていた。ゆっくりと大きく上下する胸は、カップや棚や湯たんぽと言ったベッドと呼ぶには堅い寝床になれている身には不相応なほどに寝心地が良い。ちょっとと言わぬ悔しさを感じるが、それでもこの心地の良さを捨てきれない。アルトは悔しさを心の棚に片付け込み、貴美の柔らかい胸の上で心地良い眠りがもたらす、幸せな夢に包まれていた。
「ンふっ……トイレ……」
しかし、お酒を飲んだらある種の生理的欲求が体の内側から沸き起こるのは自然の摂理。良夜がタカミーズの部屋へと向かって少しした頃に、貴美はアルトが自分の胸をベッドにしている事も知らず、潜り込んでいたこたつの中からむっくりと体を起こした。
そうなると胸の上で寝ていた小さな妖精さんは床に向かって真っ逆さま。何が起きたかすら理解する暇もなく、落ちる途中にあるおコタの角に頭をぶつけ、ぎゃっと車にひかれたカエルのような声を上げてのたうち回った。
「なんて事するのよぉ……」
普段の勢いのない力なき呟きは貴美の耳には届かない。アルトはまるで夢遊病者のようにトイレへと向かう貴美を恨みがましい視線で見送りながら、こぶの出来た頭を何度もさすった。
「全くぅ……」
くらくらと痛む頭を抱えながら、アルトはため息を一つこぼす。そして、こたつ布団からあまり使用されてる様子のないシンクに向かって飛び上がった。酒を飲んだら沸き起こってくるもう一つの欲求を満たすために。
ふらふらと力なく翼を動かし、目指す目的地はワンプッシュ式の蛇口の上。普通の人間なら軽く押すだけで良い蛇口もアルトの寸法では、全身の体重を使わなければならない。普段はそうでもないのだが、寝起き、二日酔い、頭ぶつけたの三重苦ではちょっぴり面倒くさい作業。しかし、そうも言っては居られない。意を決して、少し高い位置から勢いを付けて急降下、全身の力を使って水道のレバーを踏みしめれば、流れ出る水流がステンレスのシンクを叩き始める。その水流に手を突っ込んで水をひとすくい。滝のように流れ落ちる水流から濡れないように飲むには少々のこつが必要だが、慣れてるから大丈夫。水道の水が美味しいのは田舎の特権、アルコールで渇いた喉に心地良い。
「きゃぁぁぁぁ!!!」
酔い覚ましのお水はどうしてこんなに美味しいのだろうか? アルトがそんな事を思いながら水を飲んでいると、大音響の悲鳴が彼女の鼓膜をふるわせた。その振動は鼓膜から全身へと広がり、彼女の頭を滝のように流れ落ちる水流の中へと突っ込ませる。強すぎる水流は彼女の頭をステンレスのシンクへと叩きつけ、額に激痛を与えた。そして、そのまま彼女の後頭部は滝壺の中へ。頭と言わず背中と言わず羽と言わず、体中がびしょびしょ。その冷たさに残っていた酒も吹っ飛ぶ勢い。
「何よ、素っ頓狂な声出して」
滝のような水流からアルトが這い出した時、彼女が見たのは彼女自身の方へと指を突き出した貴美の姿だった。顔からは血の気が引き、膝はガクガクと小刻みに震え続ける。それはまるで幽霊でも見た見たような表情。その恐怖に引きつる表情と差された指に、アルトはン? と首を背後へと巡らせて見た。しかし、そこにはただ流れ落ちる水やシンク、壁ががあるだけで、悲鳴を上げなきゃいけないような物はなんにもない。
「何よ、何も――」
「みっ……水……さっき、出てなかったのに……どうして……」
震える指が指していたのは、アルトの背後で流水をはき出し続ける水道だったのだ。貴美はそれをまっすぐに見据えながら、震える唇でそれだけを言い残すと、そのまま、糸が切れたかのように貴美はユニットバスの床へと崩れ落ちた。
「……そりゃ、夜中にいきなり水が流れ出したら驚くわよね」
崩れ落ちた貴美を見つめ、アルトはびしょ濡れになった金髪を掻き上げた。
「と、言う事。私が悪い訳じゃないわ」
「……間が悪い」
よく考えてみれば、今までこの手の遭遇がなかった事が運に恵まれていただけの事で、あっても全く不思議ではない。アルトは良夜としょっちゅう一緒にいるのだから。が、何も今日、この日でなくても良かろうに……と、良夜は世の中の理不尽な巡り合わせを恨まずには居られなかった。
そして、部屋の中からどたばたと近づいてくる誰かの足音。それはすぐに良夜のすぐ後、もたれかけていたドアをぶっ壊すほどの勢いで押し開いた。
「りょーやん!!」
飛び出してきたのは下着の上から、直樹が着ていたパーカーを一枚羽織った吉田貴美嬢十九歳、足下は裸足。その手は良夜の両肩をがっしりと掴み、真剣なまなざしが彼の顔をまっすぐに見つめる。
「引っ越した方が良いよ!! ここ、幽霊いるからっ!!!」
「誰が幽霊よ! 妖精! 私は妖精なのっ!!」
幽霊! お化け! と貴美が連呼すれば、アルトが妖精! といちいち訂正を加える。まるで口げんかをしているかのよう。とんでもなくこんがらがる話に、良夜の頭痛はより一層加速していく……
その頃、誰からも忘れ去られていた三島美月さん。
「むにゃぁ……あるとぉ、駄目ですよぉ……りょーやさんの頭を刺したらぁ〜」
良夜のベッドの上、良夜の布団をギュッと抱きしめ、幸せな夢の中にいた。