ウェイトレスと妖精(1)
 美月と付き合いだしてから良夜は週に二度のバイト休みを閉店時間過ぎ、美月の仕事が終わるまで喫茶アルトで時間をつぶすようになっていた。美月の言った『仕事が終わるのを待っていて欲しい』というのを実践しているのだ。とはいえ、実際の所、美月はキッチンからほとんど出てこないし、貴美も仕事が忙しくなればほとんどこっちには来なくなる。ずっと居るのは小うるさい妖精が一匹だけっていうのだから、自分がここにいる意義を見失ってしまいそうだ。しかも――
「お疲れ様でしたぁ」
「お疲れ」
 きんきんに冷え切った空気の中、仕事を終えた美月と貴美、ウェイトレス二人がアルトの裏口で互いに頭を下げあった。そして上がった頭のうち、黒髪の方が良夜へと向き直る。告げられるのはここ一月で十回目ほどになるお言葉だ。
「それじゃ、良夜さん、ちゃんと送っていってあげてくださいね」
「あっ……はい」
 ぽりぽりと頭を掻きながら、良夜は、一応まじめに答えた。その頭の中では、なんで彼女に別の女の人を送る事を頼まれなきゃいけないのだろう? と言う毎度の疑問が浮かび上がり、その疑問が微妙で複雑な表情を彼の顔に貼り付ける。
 確かに美月は家で働いているわけだし、彼女が帰る場所はフロアから階段を一つ上ったところにある自室だ。階段から足を踏み外す以外の危険なんて物は存在しない。それに引き替え、貴美はここから十分ほど歩いた先にあるアパートに帰るわけで、時間は九時を少し回ったところ、ボディーガードがいればそれに越した事はない。何より、良夜の部屋は貴美の部屋の隣だ。男なら送るのが当たり前だろう。そう言う理屈は十分に理解できるが、何か釈然としない物を感じるのは、相手が貴美だからだろう。
「んじゃ、帰ろうか?」
 そんなこんなで次からここに残るのを止めちゃおうかなぁ〜と思い続けてひと月ちょっと、良夜は今夜も貴美と肩を並べて帰宅の途についていた。いや、『肩を並べて』という表現はおかしい。なぜなら、貴美は良夜との間に必ず一人前の空間、直樹が入ればすっぽりと収まるくらいの間隔、それを作って彼女は歩いているからだ。
「りょーやんに襲われたらヤバイじゃん?」
「……襲わないって……誰がそんなことするかよ」
「男は狼だかんねぇ〜」
 いつも通りの軽い口調で、貴美はへらへらと笑いながらそう言った。二人の間に横たわる空間は縮まりもせず、広がりもしない。二人はつかず離れずの間合いをとり続けた……なんだか、昔、付き合ってたけど今は別々の相手と付き合ってる訳ありカップルみたいな雰囲気だなと、良夜の脳裏に愚にもつかない話が思い浮かんでくる。
 蒼ざめた月とその隙間を埋める星明かり、そして街灯に照らされた空気は、二週間前の暖冬を忘れてしまったよう。そんな空気の中、交わされる会話はやっぱり愚にもつかない話ばかり。ホワイトデーには何を返しただとか、直樹から何を貰っただとか、帰省はいつするんだとか……内容などあってなきが如くの話に小さな華を咲かせながら、二人は峠を越える国道からアパートの階段へと歩を進めた。
「じゃぁね。お休み」
 人一人分の間合いを維持したまま自室の前へと着くと、貴美は軽い調子で手を振り、それを礼の代わりとする。ついでと言えばついで、ボディーガードと言うよりも単に同じ方を向いて帰ってきただけ、そんな事に礼を言われるというのも気恥ずかしい。良夜はそんな事を思い浮かべながら、「ああ」とだけ手を振り替えし、隣にある自室の鍵を開いた。
 玄関と言うよりも『靴置き場』という趣の場所に電気を付ければ、すぐに全体が明るくなる狭い我が家。かかとを踏みつぶして靴を脱ぎ捨てると、揃えもせずに部屋の中へと入る。
 晩飯もアルトで食べちまった所為で、今日、やらなければならない事と言えば、風呂を洗って入るくらい。良夜は寝る直前に入るタイプなので、風呂を沸かすには少々早い時間。中途半端に余った時間、一番にテレビのスイッチを入れてしまうのは現代っ子のサガみたいな物。
 古いブラウン管テレビの上に置かれていたリモコン、それを手にとってピッと一操作。すぐに明るくなる画面はこのテレビがまだまだ現役であると言い張っているようだ。
『それでですね、私はふと振り返ってみたんですよ。どーもおかしい。何かの気配を感じるんですよ』
 時季外れの怪談を語るのは、この道数十年のベテラン芸人だ。この人の語り口を聞いているだけで薄ら寒い物を感じるのは、日本人の条件反射と言っていいだろう。ただでさえ外は寒かったのに、この時期にこの人間をテレビに出すのは憲法で禁止にすべきだ、と良夜はまじめに思う。
 それでも他のチャンネルは、ほとんどがつまらなく興味もあまりないニュースばかり、数瞬の躊躇こそあったが良夜はチャンネルを変える事もなく、パソコンデッキの前に腰を下ろした。取り立ててやりたい事もないが、とりあえずパソコンの電源を入れてしまうのも現代っ子の習性だ。
 起動し終わるまでの数分を怪談話で盛り上がっているテレビ画面でつぶす。照明が落とされ薄暗くなったスタジオの中、特徴的な早口で怪談話は語り続けられる。それは今まさに絶頂を迎える直前と言った雰囲気だ。
 ゴクッと良夜の喉を唾の固まりが落ちていく。
『その時です。閉じていたはずのドアが――』
 ばんっ!
「うえっ!?」
『――と大きな音を立てて開いたのです。でも、そこには誰もいなくて……――』
 どきどきと早鐘のようになる心臓と椅子の上から滑り落ちかける体、そこから良夜が復活した時、玄関には吉田貴美が突っ立っていた。その大きな鳶色の目に涙を浮かべ、肩で息をして。
 貴美が部屋に飛び込んできた理由、そんな物は大した物ではなかった。単純に――
「いっ稲川○二なんよ!? そんな物を見ちゃったら、一人で部屋にいられるわけないじゃん!!」
 これだけ。良夜と同じタイミングでテレビを付けたら、良夜と同じ番組が掛かっていた。それが怖くなって最寄り友人の部屋に飛び込んできたというのだ。あまりのくだらなさに良夜の頭が痛くなる。
「恐がりだって話は聞いてたけど……稲○淳二の顔を見ただけでふるえるほどビビルか……普通」
「あっ、あれは駄目! もう、あのおっさんの声と顔はジェイ○ンと同じにしか見えないからっ!」
 開け放したままのドアノブを握りしめ、貴美は良夜が初めて見る怯えきった顔でそう言い放った。膝からは今にも力が抜け、冷たい床に崩れ落ちそうなほど。ほとんどドアノブを支えにしてようやく立っているといった雰囲気だ。噂には聞いていたが、確かに貴美の恐がりはある種病的な物がある。
「帰れって……言っても帰らないんだろう? 直樹が帰ってくるまでここにいて良いよ」
 あきらめ口調で視線を貴美からテレビ経由でパソコンの起動画面へと良夜は戻した。そんな事よりも、寒風吹き込むドアをさっさと閉めて貰う方が先決だ。しかし、冷たい風は良夜の顔がモニターへと移っても彼の背中に容赦なく刃を突き立て、一向に弱まる気配を見せない。
「吉田さん?」
「テレビ消して!」
 もう一度振り向きかけた言葉、それに返されたのは悲鳴に近い声だった。普段から想像もつかぬほどに狼狽しきり、貴美はぎゅっとドアノブを握りしめ、テレビが消えるまで一歩も動かないと全身で主張していた。その姿は、妙な噂をばらまかれたり、酒の一気飲みをやらされたり、恋愛事情を賭け事の対象にされたあげく、それで損したからって八つ当たりをされたり、さんざんな目に遭わせていただいてる良夜にとって、それはとても溜飲の下がる物だった。
「自分で消せば? リモコン、そこ」
 ニヤッと冷たく笑うと、良夜はテレビの上に置きっぱなしになっているリモコンへと顎をしゃくった。テレビの中ではもう初老と呼んで良い芸能人が怪談を話し続けているし、リモコンを取りに行こうと思えばそれを直視せざるを得ない事は、火を見るよりも明らか。病的な恐がりにはちょいと酷かなと思……わないか、別に。貴美だし。
「りょーやん、消してよ!」
 半泣きになる貴美に良夜は『ああ、なんて気持ちいいんだろう』と内心ほくそ笑んだ。消す代わりにボリューム上げてやろうかと思うくらい。
 が、貴美相手に良夜が立ち向かうのは十年ほど早かった。
 多少寒くてもいいや、泣かしとけ、と良夜は入り口付近で怯え続ける貴美から三度パソコンの画面へと視線を向ける。別にあそこに突っ立っていたからと言って、危ない事もないだろうし、もちろんテレビ画面から幽霊が出てくるなんて事もない。貴美がビビって夜中に眠れなくなったところで、彼女の日頃を思えばそれも良心を痛めるには少し足りない。
「りょーやぁん」
 遠くから聞こえる情けない声を聞き逃さぬよう、しかし表面上は無視のポーズをとり続けていると、丁度パソコンの起動も終わった。さて、ゲームでもしてやるか? 確か、難しすぎて投げ出しているホラーサスペンスなアクションゲームがあったはず……
 などと考えている合間にも、貴美の情けない声は加速してゆく。りょーやん、りょーやんと、何度も繰り返す声がだんだんと水気を含んだ物へと変わっていく。
 そろそろかな……と思った時だった。
「りょーやぁぁん………………――あのね、美月さん、りょーやんがね、りょーやんがね、りょーやんがひどいんだよ?」
 その情けない半泣き声にあり得ない人の名前が混じるのを、良夜は聞き逃さなかった。
「なにっ!?」
 反射的に叫んで振り向いてみれば、そこには二つ折りの携帯電話でどこかに電話している貴美の姿。芝居なのか本当なのかは良く解らないが、彼女はしゃくりを上げながら、何度も良夜がひどい事をしていると誰か――考えるまでもなく美月――に告げ口をしていた。
「りょーやぁん……消してくれないと、美月さんが来た時、ない事ない事言ってやるからぁ」
「呼んだのかよ!?」
 パタンと携帯電話を閉じる貴美に、良夜は叫び声で尋ねた。その言葉に貴美は携帯をポケットにねじ込みながら、コクンと首を縦に振った。口調こそ弱々しいが、目元と表情には幾ばくかの余裕という物をかいま見る事が出来る。この女には勝てないと、良夜に再認識させるに十分だ。
 そしてすぐ、三階にまで響き渡るすさまじいスリップ音が下の国道から響き渡る。それはまるで交通事故でもやったのではないかと思わせるほどに大きな物、確認してないし、したくもないが、たぶん妖精まみれの軽自動車が良夜達のアパート駐車場に突っ込んできたのだろう。
「……消して」
「覚えてろよ!」
 足をもつれさせながら椅子から立ち上がると、良夜はテレビの上に置いてあったリモコンを取り上げた。そして、やっぱりこんがらがりそうになる指先で、テレビの電源を叩ききる。
 それに貴美が「はぁ」と大きな安堵のため息を一つこぼし大きな胸をなで下ろす。それとほぼ時を同じするタイミングで、階段をパタパタと駆け上がってくる大きな足音が響く。スニーカーやパンプスではなく、スリッパ、それも安物臭漂う音だ。
「良夜さん! いったい何をしたんですかっ!!!」
「良夜! ついに過ちを犯したの!? いつかはやると思ったのよ! この変態!」
 長い黒髪を振り乱し、その先端にアルトをぶら下げ、美月は良夜の部屋へと怒鳴り込んできた。制服の胸元を半分以上開き、愛らしくもあまり必要なさそうなブラジャーを全面に晒すというあられもない姿で……ついでに足下は部屋用のスリッパで、手にはなぜかパンティが握りしめられていた。
「……お風呂入るところやったんやね、彼氏として一言言ったら?」
 テレビも消え、周りに人が増えた事もあって復活した貴美の声、それを聞きながら良夜は美月の艶姿に頭を抱え込んだ。
 貴美の恐がりは間違いないようだ……が、それに触れるのは絶対に止めよう。このとき、良夜は強くそう誓った。しかし、良夜は知らなかった、この恐がりがとんでもない事へと発展する事を……

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