The Day After(完)
ほっぺたを引っぱたかれて小一時間、アルトが窓から帰って三十分少々が過ぎた時間を良夜はベッドの上で迎えた。一応、考えはまとまったような気がするし、やらなきゃいけないことも解っている。まず第一に貴美からの連絡を待つこと。そして、連絡があったらアルトに出向いて美月に謝る。その後は……
「野となれ山となれ……だなぁ……」
考えているうちに入るのか入らないのかは解らないが、これ以上のことは考えつかないというのが良夜の本音だ。ついさっきまで意識していなかった女性に、今更好きだとか言い出すのもおかしいと言うか、不誠実だというか……まあ、そんなところだ。それと同時に美月のことを良く考えてみれば、嫌いなんて事はないし、付き合ってくれるのならばそれに増したる幸せはない。
「……昨日、店に行って、ケーキ食った後なら、普通に言えたのかなぁ……」
もし昨日雨が降ってなくて、アルトに行ってケーキを二人、たぶんアルトも居るだろうから、三人だろうか? そのメンツで食べた後だったら……と、愚にもつかないことを考えてしまう。想像の答えはつぶやきとは全く逆。確実に言えない、と言うか、言うとか言わないとかすら考えが及ばなかったに違いない。そして、そのままの関係で今日も過ごして、明日も過ごしていただろう。
ゴロンともう一度寝返りを打ち、視線を見慣れた天井からすぐ横の壁へと動かす。天井と同じような壁紙が貼られた壁、これもずいぶんと目になじんできた。あらゆるものがこの一年でなじんできている。それは美月にアルトを含めた三人の関係も同じ。なじんできているものを変えるにはきっかけと勢いがいる。
「きっかけか……」
もう一度つぶやき、ゆっくりと良夜は目を閉じた。閉じたまぶたの裏側に美月とその肩に乗っているアルトの姿が浮かぶ。
その閉じた目を開かせる携帯電話の電子メロディ。
『りょーやん? 美月さんが呼んでる。裏から事務室に来て』
無造作に電話を取った良夜、彼に告げられた言葉は貴美の過不足ないシンプルな言葉だった。
良夜がその電話を受ける少し前、アルトは予定に反してずいぶんと早く喫茶アルトにまで帰り着いていた。常連の女子大生を見つけその後ろ髪にぶら下がって帰ってきたからだ。
「ありがとう、助かったわ……デブ」
一般女子大生としては平均的な胸を一瞥、ちょっと悔しそうな表情で吐き捨てる。そして、彼女がドアベルを鳴らすとすぐにフロアの中へと舞いあがった。キョロキョロと周りを見渡すと、眼下では直樹一人が慣れない仕事に右往左往の真っ最中。
「貴美……客を引っぱたくのもどうかと思うけど、客にフロアを任しちゃうのもどうかと思うわよ」
はぁと大げさにため息をつき、アルトは改めてフロアの様子を見下ろした。
手間取る直樹にあっちこっちからヤジとも声援ともつかない声がかけられ、そのたびに直樹はぺこぺこと米つきバッタのように頭を下げる。そして、それが面白いのか客達はさらにその声を大きくし、また直樹が顔を赤らめて頭を下げる。そんな悪循環が展開されていた。ひいき目に見て開店休業よりかはマシ、と言ったところだろうか? 客に不満が少ないようなのがわずかばかりの救いだ。
この様子だと美月と貴美は事務室だろう。もし、まだメソメソ泣いていたら、思いっきり髪を二回引っ張ってやろう。そう決めてアルトは、羽を事務室へと向けて羽ばたかせた。
トントンと数回見知らぬ人の頭を踏み台にキッチンの片隅から通路に滑り込み、そこから事務室へ。アルトがドアの前までたどり着くと、丁度中から貴美が一人だけで出てくるところだった。貴美の頭の横をすぅっと滑空し、閉められる直前のドアをすり抜ける。紙一重ですり抜けたドアに安堵のため息を漏らすと、そこにいたのは妙にすっきりとした表情の美月だった。
「あら……案外、早く泣きやんだのね?」
それはそれで安心なのだが、どこか物足りない。そんな微妙な気持ちでアルトは美月の肩へと着地を決めた。そして、肩に掛かる髪を腕に巻き付けると、優しく一度だけ引っ張る。
一瞬だけ美月はえっ? と大きな目をさらに大きく見開いたが、すぐにその手がアルトのものだと気づいた。
「……アルト?」
小さな声で呼びかけ、アルトの引っ張った髪にそっと触れる。その手がアルトの頭もいっしょに優しく撫でると、アルトは心地よさそうに目を閉じた。
「そうよ、ただいま」
もう一度引っ張られる髪に美月は小さく「んっ」とだけ答えるとしばらくの間、自分の髪とアルトの頭をなで続けた。何も言わない美月の顔を見上げ、アルトは美月の次の言葉を待ち続ける。
「アルトは良夜さんのこと、好き?」
不意にかけられる言葉にアルトは返事をすることも忘れ、美月のやけに穏やかな表情を肩口からのぞき込んだ。その表情は何かを吹っ切ったかのように見え、普段の子供っぽい表情とは少し違うようにも見えた。
「好きか嫌いかで聞かれたら好きよ、もちろん。バカをからかうと楽しいもの」
口では即答できることも、YesとNoの単純な二択に押しつぶすのは難しい。単純に答えるのならば一度だけ引っ張ればいい。しかし、美月の言う好きとアルトの言う好きとは違う、それは伝わらない。毎度の事ながらそれがアルトにはもどかしく、きっと美月ももどかしく思っているに違いない。
しばらくの逡巡。それに美月も付き合い、二人の間に静かな時の流れが舞い降りる。そしてアルトは一分ほどの沈黙の後、やや弱い力で美月の髪を二度引っ張った。
「嫌い?」
アルトの答えに美月は少々怪訝そうな口調と表情をして見せた。一応、アルトとしてはそうならないように心がけて髪を引っ張ったつもりなのだが、美月には伝わっていないようだ。アルトはその美月の様子に苦笑いを浮かべ、もう一度美月の髪を二度引っ張った。
とたんに悩み始める不出来なおつむ。美月はうーんっとことさら悩み始め、さっきまでとは違う雰囲気でまたもや一分ほど沈黙した。
「……凄く悩むくらい少しだけ好き?」
「日本語として変よ、それ」
もう一回苦笑いを浮かべ、美月のほっぺたを髪の上からポンポンと軽く叩く。
「もぅ、違うんですか? 教えてくれたらいいのに……」
「男と女の関係は、YesとNoの二つだけじゃないのよ。もうちょっと大人になりなさい」
ふてくされる美月の横顔にチュッと軽く口づけ。そこは丁度、美月が貴美に引っぱたかれたところ。心なしか、まだ少しだけ熱を帯びているような感じがした。
「むっ……アルト、ほっぺたにキスしてごまかしてない?」
さらにふくれる美月に髪を一度だけ引っ張るお返事。するとさらに美月はふくれてしまって、アルトは思わずぷっと吹き出してしまった。ぱたぱたと楽しそうに動く羽や腕が美月の横顔を撫でれば、美月にもアルトが笑っていることは伝わってしまって……
良夜が来た時、美月のご機嫌は少々悪くなっていた。
「……さすがにちょっぴり悪かったと思ってるわ」
良夜がアルトと入れ違いに事務室へと入ってきた時、美月は仏頂面のふくれ顔で事務机の前に座っていた。アルトはアルトですれ違いざまに何か詫びを入れていくしと、良夜が部屋で立てた計画はのっけから大きくけつまずいてしまった。
「えっ……ッと、アルトの奴、また、何かしました?」
「いえ……あの……アルトに良夜さんは好き? って聞いたら……答えてくれなくて……良夜さんはアルトのこと、好きですか?」
ふくれ面をごまかすように美月は少しうつむいたまま、良夜にそう尋ねた。それに良夜は「ああ」と少しだけ言いよどむと、トンとグレイの壁に背中をもたれさせた。
「手の掛かる妹……かな? アルトはたぶん怒るだろうけど……」
「あはっ、確かに怒るでしょうね……妹、ですか……」
美月はうつむいたまま、ぶつぶつと口の中で『妹』というフレーズを何度も繰り返す。その横顔は長い黒髪に隠れて見えにくいが、どこか嬉しそうに微笑んでいた。
「じゃぁ……美月さんはどうなんですか?」
「私ですか?」
良夜に声をかけられると、美月はうつむいていた顔を上げ良夜の顔へと視線を向ける。そして、数秒の沈黙の後――
「姉ですね。子供の頃からずっと一緒でしたから」
彼女はそう答えると、座っていた事務椅子から立ち上がり、壁にもたれたままの良夜へと近づいた。そして、ほんの少しだけ低いところから良夜の顔をまっすぐに見つめる。
「最近、仕事のほとんど、私が任されちゃってて……なんだか、私が店長さんみたいなんですよ」
見上げる視線から良夜は目をそらすことが出来ず、吸い込まれたかのように黒曜石のような瞳を見つめた。
「それでですね、考えちゃうんです。私」
「何を?」
「将来とか」
「将来……」
告げられる言葉を良夜が反芻すると、美月はこくりと小さくうなずいて見せた。
正直、良夜は将来なんてものを考えたことがない。適当に大学を卒業して、どこかの会社に就職して……そんなありきたりなサラリーマン生活を想像しているだけ。なのに普段から子供っぽい言動が目につく美月が考えていると言うのが、どうにもしっくり来ず、間の抜けたような表情になることを良夜は自覚してた。
「……意外だって顔に書いてますよ?」
プイッとそっぽを向いた顔、その頬が風船のようにふくらむ。それもやっぱり二十歳過ぎた自称『立派な社会人』の仕草には見えなくて、良夜はやっぱり子供っぽいなと思ってしまう。
「あっ……あはは、ごめんなさい」
「良いんですよ。そんなに立派な人生設計じゃないですから」
良夜の顔へと視線が戻れば、ふくれていた頬もしぼんでいた。そして、美月は彼女の小さな夢を良夜に語り始めた。
「私、子供の頃から漠然と、アルトと私、それから……素敵な旦那様と一緒にこのお店をしたいって思ってたんです。お祖父さんもいつまでも元気で美味しいコーヒーを煎れてくれて、私が料理作って、アルトが時々歌って、そして素敵な旦那様があの隅っこの席で仕事が終わるのを待っててくれるんです……最近はその素敵な旦那様が良夜さんだったらいいなって」
美月はそこまで話をすると、一度言葉を切った。そして、一度、大きく深呼吸をした。
「でも、私、もしかしたら、良夜さんがアルトとお話しできるから、良夜さんだったらいいって思ってるのかも……だから、良夜さんにあんな事言われちゃった時、図星を突かれたような気がして、それをごまかすために叩いちゃったのかも知れません」
楽しげな夢のお話は終わり、美月の続ける言葉はまるで罪の告白のような物へと変わった。それは聞いている方までもが辛くなって来るような物。それでも、美月は苦い胃液でもはき出すかのように言い切り、良夜もその告白を静かに聞き遂げた。そして、荒れた手が良夜の頬へと優しく伸びる。
「痛かった……ですか?」
撫でられる頬に痛みはもうなく、良夜はゆっくりとかぶりを振った。
「それでもやっぱり、良夜さんが良いかなって……わがままなんです、私」
告白が終わると、美月は静かに微笑んだ。そして、良夜の言葉を待つかのように静かに瞳を閉じた。
閉じた瞳を見つめ、良夜は自分の左頬を撫でる手のひらに左手を重ねる。そして、良夜も自分の考えていたことを紡ぎ始めた。
「美月さんのこと、アルトの……出来の悪い妹の友達みたいに思ってたんです……だから、考えてみたこともなくて……でも、嫌いなんて事はなくて……えっと……付き合ってくれるんなら凄く嬉しい……です」
つぎはぎだらけの言葉はモザイクみたいで、どこまでも締まらない。その締まらない言葉を最後まで言い切る頃には、彼の頬の上で美月の手に重ねられていた手にはべったりと汗がにじみ出ていた。
そして、ゆっくりと開かれる美月の瞳……その目がじっと良夜の顔を見上げると、良夜は美月の手の下にある頬に火が着くのを感じた。
「一つだけ……アルトのこと、どう思ってますか?」
「アルトは……やっぱり妹かな……口の悪い妹ってあんな感じだと思う……刺すし」
姉貴しかいない良夜には妹というのはピンと来ないが、高校時代の友人の妹が丁度あんな感じだった。兄が一言言えば十倍くらいになって返ってくる感じ。男同士の友人とも恋人ともちょっと違う関係は、弟や妹を持たない良夜には少しうらやましかった。
そんなことを思い出しながら良夜が言うと、美月は少しだけ年上ぶった視線で良夜の顔を見上げて微笑む。
「良夜さんが刺されるようなことを言うから悪いんですよ?」
「無条件にアルトの味方をするの、止めてくださいって」
「あはっ、私はいつもアルトの味方なんです。大事なお姉さんですから」
そこで美月は再び言葉を切る。一瞬だけ逸れる視線、頬に重ねられていた手のひらは、いつの間にか良夜の汗が滲む手を握りしめていた。そして――
「それでも良かったら……お付き合いください」
ゆっくりと一言一言を区切るように言葉は紡がれてゆく。それはわずか数秒の時間、しかし、良夜にはやけに長く感じた。そして、全ての言葉を紡ぎ終わり、彼女は右手で良夜の左手を掴んだまま、彼の答えを静かに待った。
大きく息を吸う……そして、吐く。
「嬉しいです」
返す言葉は至極ありきたりで単純な言葉だった。それも頭を掻きながらの答えだから、格好がつかないったらありゃしない。そんな返事でも美月は満面の笑みを浮かべ「はい」と大きくうなずいて見せた。
そして、何度目かの沈黙が訪れた。お互いにお互いの顔を見ながらの沈黙、居心地の悪さはすでにどこにもなく、むしろこのままずっとでも――
「……お腹、空きませんか?」
「えっと……このタイミングで言うことなんですか?」
なんかもう、どこまで行っても美月は美月なんだなという思いに、良夜のこうべがかっくりと落ちる。まあ……それも良いところだよなと、何となく納得しておく。
「だって、もう、ランチタイム終わっちゃってますよ?」
「そりゃそうですけど……じゃぁ、食事、一緒にします?」
それに言われてみれば、良夜も食事はまだ出来が落ち着いてみれば腹が減っているような気がする。
「はい! あっ……良夜さん、ちょっと……」
事務室を出ようとした良夜、その手を握ったままだった美月が軽く手を引っ張った。反射的に良夜が体を少し傾けると、その頬に唇が……
「えっ?」
「あはっ……アルト、良くするでしょ? だから……」
やった当人自体が顔を真っ赤にしてしまえば、やられた方はそれ以上に赤くなる。結局二人はしばらくの間、事務室で見つめ合うことになった。
こうして、二人の関係はほんの少しだが、確実に昨日までとは違う物に変わって行く事になった。それは桜のつぼみが春へと向け、大きくふくらんでいくのにも似た幸せな予感とともに。
「ロリが年上で妥協したわ」
どこかに行ったふりして、きっちり覗いてたアルトとの関係は……たぶん、あまり変わらない。
おまけ
「えへへ……ほっぺにキスしちゃいました」
事務室から出てきた美月に、貴美が「どうなった?」と聞いたところ、彼女はあっさりと隠すこともなく教えてしまった。さすがに顔を真っ赤にしてはいたが。
「美月さん!」
それを聞いて血相を変える貴美、彼女は美月の口を慌てて塞ぐと不審人物よろしく、周りをキョロキョロと見渡し始めた。そして、視線がキッチンとフロアの境でニコニコと手を振っている陽とぶつかった。その彼の手に掲げられているのは――
『聞いた』
あまりにもシンプルなこの一言だった。
「だぁぁぁぁぁ、美月さん!」
「はっ! はい!」
ガッシと両肩を掴んで、貴美は迫力満点の勢いで迫った。その勢いにのんきな美月の背筋もピンッ! と伸びる。
「……パンの耳、ちょうだい!」
貴美がドブに投げ込んだ諭吉さんはブラックホールへと流れていったのだった。