The day after(3)
 アルトを肩に乗せ、良夜が喫茶アルトのフロアから出てくると、それまで賭で盛り上がっていた学生たちは蜘蛛の子を散らすかのようにその場から逃げ去っていった。ただ二人、ニコニコといつもの調子で笑っている陽とその陽にひっついていた所為でタイミングを逃してしまった彩音の二人だけを除いて。
 その陽の右手がコツンと良夜の頭を軽く叩いた。
「いたっ……」
『女の子泣かしちゃ駄目』
 そう書かれたメモ帳が良夜の顔の前に突き出される。良夜もそんなことは十分に承知しているのだろう、クシュンと頭をうなだれると「ああ……」と蚊の鳴くような小さな声で返事を告げた。そして、足を止めずに二人の間を抜けていこうとする良夜の胸ポケットに一枚の紙切れが陽の手によってねじ込まれた。
「えっ……?」
 突っ込まれた紙を手に取ってみれば、それは良夜と美月の行く末に金をかける悪趣味な掛け率表……『美月が振る』『良夜が振る』、どちらにしても破局がワンツーフィニッシュの人気。
「ちっ……」
 苦々しく舌打ちをして、握りつぶそうとする良夜の手、それをアルトが「待ちなさい」と止めた。
「何だよ……」
「裏、何か書いてるわ」
 えっ? と皺だらけになった紙をひっくり返す。そこには……
『一番と二番が来たら ド赤字
 がんばれ バカ 私のために』
 罫線だけが引かれたシンプルなメモ帳に陽の丁寧な文字が走る。それを一瞥し、良夜は再びくしゃっと丸めてポケットにねじ込んだ。その時「チッ」と小さな舌打ちをもう一度したが、それはさっきと少し意味合いが違う。
「お節介な友達が多いわね」
「うるさい」
 小春日和と言うよりも本格的な春を思わせる二月半ばの陽光、それに照らし出される国道を、良夜は頭を掻きながらアパートへと歩き始めた。少しだけ冷えた頭と軽くなった足取りで。

 その頃、貴美はスンスンとしゃくりをあげる美月を事務室兼用の倉庫に引っ張り込んでいた。
「座り」
 わざとぶっきらぼうな口調で命じると、美月は半ば夢遊病者か催眠術にでも掛かったかのような感じで事務机に歩いた。そして、どすんと崩れ落ちるように座り込むと、うわっと声を上げて泣き始める。
「コーヒー、たぶん、店長が煎れてるから貰ってくるよ」
 パタンとドアを閉めても聞こえる美月の泣き声に、貴美はばりばりと頭を掻いた。お友達から恋人になる儀式みたいな物、と考えていたがちょっぴりやり過ぎたかも……と思わない部分もなくはない。
「……まだ、大丈夫……かな?」
 独り言は自分自身に言い聞かせるような口調、それをつぶやいて貴美はフロアへと帰った。
 貴美がフロアに戻るとそこはおおむねいつもの調子に戻っていた。後を任された直樹がウェイターの代わりをやりつつ、和明は珍しく……と言うか貴美が働き始めて初めてキッチンに入って料理を作る。色気という物が全く足りていないが、一応はランチタイムの体裁だけは整っていた。
「店長、コーヒー、余ってる?」
「新しいの、煎れ直しましょうか?」
「手が空いてんなら」
 貴美の返事に和明は小さく頷き、コンロの前からネルの前へと移動した。そして、慣れた手つきで二杯分のコーヒーを煎れ始めた。貴美はそれを確認すると、視線をカウンターの上へと戻す。そこに並んだ二つのカップ、それは空のまま貴美を待ち続けていた。その隣にはコーヒーが注がれたサーバーが一つ。そこから貴美はカップにコーヒーを移すと、いつものように砂糖とミルクをたっぷりと足した。飲み頃を少しオーバーする程度に冷えたコーヒーは、いつもよりも苦みが強く、珍しく貴美に美味しくないと感じさせる
「十分くらいかな……」
 小さくつぶやき、視線を腕時計へ。ランチタイムはほぼ終わり、普段ならばそろそろ午後の授業を考える時間だが、今日はもう試験とあって昼からはオフ。丁度良いと言えば丁度良いタイミングだ。
「三島さんをほっとくんなら、手伝ってください」
 そう言ったのは、なし崩し的に遅いランチタイムを手伝わされている直樹だった。彼は貴美がストゥールでくつろぎ始めると、キッチンにオーダーを通すよりも先に彼女の元へと駆け寄ってきた。
「今は放置タイムなだけ、すぐに行くよ」
「三島さん、どんな調子なんですか?」
「泣いてる。まあ、しばらく泣かしときゃ落ち着くっしょ」
 心配そうに見上げる直樹の頭をポンと叩く。叩き心地と撫で心地の良い頭なのだが、ここを叩かれると直樹は非常に嫌がる。当然、今日も恨みがましい視線で貴美を見上げ、抵抗の意を表していた。
「大丈夫、ドブに投げ込んだ諭吉さんは仲間を連れて帰ってくっから」
「誰もそれを心配してるわけじゃないです。それと……撫でるの、止めてください」
「取ったら、おごるよ。だから、悪いけど店長と二人で店、回してて。なんとかなるよね?」
 ハイハイと返事をする直樹、その頭をもう一度軽く叩いて送り出す。送り出した背中を見送りながら、余っていたコーヒーを飲み干し、視線を再びキッチンへ……和明が新しいコーヒーを丁度煎れ負えようとしているところだった。
「さてと……責任は取るか……」

 そもそも、美月に「良夜にチョコレートを上げたら?」と提案したのは貴美だった。
 バレンタインデーは外注のチョコレートやケーキしか売れない。外注の物を売ってるだけでは仕事をした気分にならないし、どうせ自分には渡す相手も居ないからつまらない。そうぼやく美月に、貴美は軽い気持ちで「じゃぁ、りょーやんに上げたら?」と言った。当初こそ、照れてしまうと言って及び腰だった美月だが、貴美の「貰ったらりょーやんも喜ぶよ」の一言で折れた。彼女はそれじゃ……と、チョコレートケーキをワンホール余分に注文した。良夜一人で食べるにはどう考えても大きすぎるサイズは二人で食べるため。折角だから、二人で食べたい……と言うことらしい。良夜がランチを食べに来たら直樹には他の席に行って貰う。キッチンの方はランチの下ごしらえを普段よりも入念にしておけば、和明と貴美に任せても大丈夫等々……そう言う計画までも彼女は立てて、当日を待っていた。
 が、良夜は当日来なかった。しかも、その理由は雨が降っているからってだけ。
 妙に盛り上がってしまった分、その落胆も大きい。そして、落胆が怒りに変わるのに大した時間は必要ではなかった。ランチが終わる頃には怒りに代わり始め、ランチ終了後も一縷の望みにかけていたが、それすらかなわぬとなった営業終了時には怒りが激怒に取って代わられていた。
 このとき、貴美は『電話で呼べば?』と心中で思っていた……が、それを美月に伝えることはなかった。なぜか?
 貴美はさっさとこの二人がつきあい出せばいいと思っていたからだ。
 貴美の目から見ればこの二人、一緒に出掛けることもしょっちゅうだし、時々、営業終了後の喫茶アルトで会っていたりもする。なのに、つきあっているそぶりを見せないどころか、どうにもお友達で固定してしまいそうな勢い。だったら、これも一つのきっかけ、ほっとけ。
 と、まあ、こんな感じで貴美は放置した。
「余計なお世話なのか、縁結びの神様だったのか、それはこれから次第かしら?」
 事の顛末を一通りアルトから聞き終えると、良夜は貴美の本当に余計なお世話、ありがた迷惑な心遣いに頭痛を覚えた。だいたい、二人で出掛けているのも夜のアルトで会ってるのも、全てはこの妖精が原因で美月とデートとか逢い引きとか言う話ではない。だから、別に……別に……
「別に美月のことはどうとも思ってない?」
「……と言うわけでもない……と思う」
 パソコンデッキの前に腰を下ろし、良夜は液晶モニタをかかとで蹴ってリズムを取るアルトから視線をそらして答えた。良夜が視線をそらしても、アルトはコンコンとかかとでモニタを蹴飛ばし続ける。その音がやけに耳につき、かんに障る。
「でも考えたことがなかった訳ね……その責任の一端は私にあるわ……美しさは罪」
「最後の一言は余計だ」
 大仰しくポーズを取ってみせるアルトに、良夜はいつもの調子……とは行かぬが、軽いつっこみを与える。すると、彼女は小さな笑みを浮かべ、居住まいを正した。そしてピッとストローで良夜の顔を指し示す。
「でもね……貴方は男で私は女で美月も女で、私のことは美月には見えないの。解ってる?」
「……解ってる」
「美月の言う『アルトのおまけ』と、貴方の言う『アルトのおまけ』とでは意味が違うわ」
「それも……解ってる」
 アルトの言葉はまるで子供に勉強を、それも基礎中の基礎を教える家庭教師のような口調だ。その言葉に反論の余地もなく、逆ギレする元気もない。いちいちもっともな話にばりばりと頭を掻くことしか、彼には出来なかった。
「解ってるのなら良いわ、後は好きになさい」
 トンッとモニタの上から飛び降り、彼女はそのすぐ裏にある腰窓へと飛び移る。クレッセントキーにストローを引っかけ器用にあけると、全身の力を使って窓を五センチほど開いた。
「おっ、おい……」
「帰るの。まさかと思うけど、女の事を考えるときに別の女にいて欲しいとかってふざけたこと言うんじゃないんでしょうね?」
 体ごと振り返り、サッシと窓ガラスを掴む。その表情は小馬鹿にしているとも呆れているとも取れて、何とも腹の立つ物だ。
「あっ……いや、そうじゃないけど……帰れるのか?」
「小一時間もあれば帰れるわ。送って欲しいけど、このタイミングで店に来たら貴美に殺されるわよ」
 じゃあねと一言付け加えると、アルトは良夜の方を向いたままフワッと頭から窓の外へと体を投げ出した。まるで高飛び込みの選手のよう。ギョッと良夜が慌てて窓に近づくと、クルンッと体を空中で一回転、一気に一階と二階の間まで落下した勢いを殺し、力強く羽ばたく小さな妖精の姿が見えた。
「危ないことするよな……あいつ……それとお節介なのはお前も同じだ」
 安堵のため息を漏らし、良夜は窓際からベッドの上に倒れ込んだ。改めて一人になるとひっぱたかれた頬がジンジンと熱い。その痛みが考えなければならないことを思い出させる。それは今日これまでのこととこれからのこと。
「……考えたこと、なかったよな……」
 良夜にとって美月は何というか……手の掛かる妹の友達というのが一番近いような気がする。彼女を紹介したのもアルトだし、出掛けるときはいつもアルトが一緒。むしろ「美月はアルトと出掛けている」という意識の方が強かった。
 しかし――
『私のことは美月には見えないの。解ってる?』
 ついさっき、アルトの言った言葉を思い返しながら、寝返りを打つ。見上げるアイボリーの天井もそろそろ一年、いい加減これにも見慣れて来た。そして、美月と知り合ってもうすぐ一年。
「三ヶ月、何もなかったらお友達……って誰が言ったんだっけ?」
 つぶやいた言葉を「ネガティブだな」とつぶやき返し、良夜は頭の中からかき消した。

「ネガティブやね」
 予定通り十分少々の時間をカウンターとコーヒーでつぶし、貴美は美月の待つ事務所に戻ってきていた。戻った彼女を出迎えたのは泣きやみこそしているが、どんよりとした雲を頭の上にのせた美月の姿だった。どうやら彼女はひとしきり泣いた後、冷静に自分のやってしまったことを思い出している模様。そして、やってしまったことの大きさ――貴美からすればたかだかほっぺを引っぱたいた『程度』でしかないのだが――に後悔しきり。涙の溜まった事務机に視線を落としては、もう会ってくれないとか、お店にも来てくれないとか……その辺のネガティブな台詞をつぶやき続けていた。
「とりあえず……飲み? 落ち着くから」
 カップにコーヒーを注いで事務机に置くと、美月はほんのわずかにだけうつむけていた頭の角度を大きくした。そして、両手でカップを包み持ち、一口だけ口をつける。ブラックのままで。
「あっ……にが……」
「ミルク、あるよ?」
 三人前のミルクを入れたミルクサーバー、そこから自分のカップに一人前の五割り増しを入れ、残りを美月の方へ。美月も貴美に習ってミルクを注ぐと、琥珀色に変わったコーヒーに口をつけなおした。座る美月と立ったままの貴美、二人が静かにコーヒーをすする音だけが事務所兼用の倉庫を支配する。奇妙にゆったりとした時間が過ぎてゆく。
「……怒ってますか?」
 その支配を最初に破ったのは、美月の方だった。彼女はうつむき視線を琥珀色の水面に向けたまま、消え入るような声でそうつぶやいた。
「ううん。全然。引っぱたかれたの、私ちゃうし」
 量が半分、温度は飲み頃、そんな感じのコーヒーを一息に飲み干し、貴美はこともなく軽い口調で答えた。そして、事務机に置かれたソーサーとカップ、二つの食器を使ってチンッと言う小さな音を作った。
「でッでも……」
 澄んだ音の余韻を消すのは、美月の言葉だ。彼女は口ごもりながら自分の左頬を押さえた。そこにくっきりと浮かび上がる紅葉は、貴美の平手でつけられたもの。その痛みを思い出したのか、美月はコーヒーを片手に何度もそこをさすっていた。
「まあ……けじめかな……手を出しちゃ駄目だよ。美月さんのキャラじゃないもん」
「吉田さんはキャラなんですか?」
 ボソッと言われた言葉に貴美の顔に思わず苦笑いを浮かんだ。それが何を指しているのか、考えるまでもない。
「知り合ってからつきあい始めるまで十年……ずっとそう言う関係が居心地良いんよ」
「直樹君、かわいそう……」
「なお、Mだから」
「ひどいです〜」
 貴美が声を出して笑えば、美月もつられて笑い出す。二人は一緒に声を出して笑い合った。そしてひとしきり笑い会うと、貴美はふっと息を漏らした。
「んで……どうすんの?」
 単刀直入な言葉が美月に叩きつけられた。それに美月の笑い声が止められるも、貴美はさらに言葉を続ける。
「まあ、りょーやんのキャラ的に……引っぱたかれたことよりもむしろ、美月さんが泣いちゃったことの方を気にするタイプだから、怒ってないよ、たぶん」
 貴美が言葉を続けるごとに、美月の顔は陰鬱なものへと変わる、いや、戻っていく。そして、その目にはまた涙が溜まってきて……
「どんな顔をして……会ったら良いんですか? それに……私、自分の気持ちがわかりません」
 彼女はぽつりぽつりとこぼれ落ちる言葉を小さな声でささやき始めた。それはおおむね、貴美が思っていたとおりの言葉だった。
「……自分がやっちゃったこと、ほとんど告白と同じだって事は理解してんだ?」
 貴美の静かな言葉に美月はこくんと小さく頷く。
「でも、私、引っぱたいちゃったし……どうして叩いちゃったか解りません……気がついたら叩いて泣いてました……」
「何、言われたん?」
「聞いてなかったんですか?」
「最後の声はあまり……たぶん、周りにも聞こえてなかったんじゃないかな?」
 良夜が最後に言った言葉はほとんどつぶやきみたいな感じの言葉だった。その上、直後に響き渡った平手の音があまりにも衝撃的すぎて、彼の言葉を租借できた人間はほとんど居なかっただろう。
「そうですか……」
「言いたくない?」
 再びこくんと上下にあごが動く。それに貴美は「解った」とだけ短く答えた。再び流れる沈黙のひととき。二つのカップはすでに干上がり、サーバーにもそれを満たす褐色の液体は存在しない。
「私……どうしたら良いんでしょ……」
「言われて……嫌いになった?」
 答えにならない答えに、美月は一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐに「いいえ」と答え返した。
「じゃぁ、会って謝りなよ。何言われたんかは知らんし、女泣かせたりょーやんも悪いけど、手、出しちゃ駄目だよ」
「よっ吉田さんが言っちゃ駄目だと……」
「だから、なおはMなんよ」
 再び笑い会う二人。今度はその笑い声を美月の方が打ち切った。
「良夜さん……呼んでください」

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