The day after(2)
「どうせ、私はアルトのおまけです!」
 美月がフロアの中心で絶叫したとき、直樹は喫茶アルトの出口で客の足止め工作をやっていた。
「とりあえず私が石を投げてくるから、なおはお客さんの足止めしてて。入ってきたら、コーヒーの代わりに温めた醤油出してやるって言えばいいから」
 美月と良夜がフロアの中心でお見合いをやり始めたとき、外から中を覗いていた貴美は言うだけ言い、命じるだけ命じて、さっさと一人で中へと入っていったからだ。彼女曰く、この調子じゃ明日の朝までにらめっこをしている、と言うことらしい。確かにそう言う空気は直樹の目から見て取れた。
 それは解るし、こう言うのは最後までやっちゃった方が後々良いような気がするのは直樹も同じだ。しかし……
「直樹……腹減った」
「飯、まだか……」
「ご飯食べさせてくれないと、直樹ちゃんを食べちゃうぞ?」
 並んでいる客はすでに十人を下らず、その誰もが空腹を覚え始める時間帯。一部からは不穏当な言葉までもが飛び出してきて、入り口付近は騒然とした空気に包まれて来る。そして、直樹にその空気を押さえ込めるほどの強さがあるわけもなく、彼の脳裏に『そろそろ無理かも……』的な感情がわき起こってくる。
「待て!」
 その空気を低く威厳のある声が切り裂く。それは客の口から漏れていた不平をかき消し、息を飲ませるに十分の迫力を持つ。その場にいた全員の視線が一瞬だけ固まり、声の主を探した。その先には……
『待てぇい 皆の衆』
 そう書かれたメモ帳を掲げ、はらはらと涙を落としている河東彩音を横に従えた二条陽その人が居た。今日も元気に女装姿の彼は満面のほほえみを浮かべて優雅に足を進める。それはまるで花道を行く主演女優……じゃなくて主演俳優だ。そして、再びページをめくれば、そこにはすでに用意されている文面。
『空腹は辛い それは解る
 しかし ここはあえて待つべき』
「……ご自分はさっき学食でおにぎり食べた癖――うひゃっ!?」
 ボソッとつぶやいた彩音の脇腹を左手でつまみ上げながら、右手一本で前の方のページを開く。やっぱりそこにも用意されている文字があった。
『彩音ちゃん うるさい』
 良く使っているのか、そのページだけはやけにヨレヨレ。それを彩音の顔に押しつけながら、陽は彩音の脇腹をもみほぐし続ける。続けられるほどにウヒャウヒャと悲鳴なんだか嬌声なんだか解らない声が大きくなって、彩音は窒息寸前だ。
(何しに出てきたんだ? この人……)
 直樹を筆頭にアルトの前に集まった十数人の心と視線が一つになった。が、そこは演劇部で主役級を張る逸材、いくら注目されてもへのカッパ。彩音が轟沈するまで脇腹を揉み続けた。
 で。
『楽しく待とう
 具体的に言うと賭けよう』
 数分の後……恥も外聞もなく地面にへたり込む彩音の隣で、こう書かれたページを陽は高々と掲げるのだった。
『浅間くんが三島さんに振られて破局
 三島さんが浅間くんに振られて破局
 有耶無耶の内に破局
 何となくカップル成立
 感極まってラブシーン』
 おーっと沸き起こる歓声、一部からは拍手までもが沸き起こって不平の空気は台風一過のごとくに晴れ上がる。もはや、誰一人として自分の空腹を覚えている物は居ない。これにて直樹も一安心――
「って、賭けちゃうんですか!?」
『うん』
 慌てて詰め寄る直樹を頭一つ分高いところから見下ろし、笑顔で大きく首肯。その笑顔はどこまでも上品で一見するだけではまるでどこかのお嬢様然とした雰囲気を感じさせる。が、やってることは悪趣味そのもの。直樹はここに来て、なんて面倒な人が出てきたんだろう? と自分をほったらかしにし店内へと入っていったきり出てこない貴美を軽く恨んだ。
 しかし、陽は言うに及ばず待っていた連中も賭ける気満々、ここで直樹が下手に止めようとすればその不満の矛先が自分に向くのは目に見えている。
(もういいや……どうとでもなっちゃえ……)
 気持ちよく晴れ上がった小春日和の空を見上げ、直樹は現実からほんの少しだけ逸れたところを見つめるのだった。
 その隣では十数人の学生たちが陽の周りに集まって、良夜と美月の行く末について真剣に語り合っていた……主な議題は掛け率なんだけど。

「どうせ、私のことなんてどうでも良いって思ってるんです!」
「誰がそう言うことを言ったんですか!? だったら、美月さんだって連絡してくれればいいじゃないですか!?」
「忘れてました! どーもすみませんねっ!!!」
 さて、話は喫茶アルトのフロアに戻る。まだまだ続くよ、どこまでも的な空気を醸し出している二人の口論は、行ったり来たりを繰り返しながら堂々巡りの迷宮に突っ込んでいた。ちなみに『連絡してくれたら良かった』『忘れてた』のやりとりは三回目だ。フロアにいる人間でそれを数えていないのは、口角泡とばしながら口げんかを続ける二人だけ。
 本日の店内はすでに開店休業状態。入り口では直樹が客を入れさせないようにしているし、中にいる客は美月の剣幕に声を上げることも出来ないって言うのだから、営業のやりようがない。
「店長、良いん?」
 営業人格を機能停止にして、貴美もストゥールに腰を下ろした。店が開店業状態になっている原因の七割方は貴美にあるのだが、口調と表情はまるで他人事のよう。ストゥールの上で足を組むとカウンターの向こうにいる和明に向かって、軽くため息をついて見せた。
「まあ……良いんじゃないんですか……一日くらいは」
「太っ腹やねぇ〜」
 空のパイプを口にくわえ、和明は視線をフロアの中央へと向ける。それにつられるようにして、貴美の視線もフロア中央大喧嘩真っ最中の美月と良夜へと向く。
「美月さん、男性と喧嘩なんて生まれて初めてでしょうから」
「えっ? そうなん?」
「このあたりには美月さんと同じくらいの方、と言うのはあまりいませんから……」
 そこまで言われて貴美もああと声を上げた。このあたりに住んでいるのはほとんどが大学生だ。ほかにも講師や教授なんかが一部住んでいるにはいるが、小中学生などはほとんど見ることがない。そもそも、小学校はともかく、中学校すら通うのに自転車がなければ無理というお土地柄。
「……美月さんは中学生になる頃にはここの手伝いをしてましてね……私も孫娘が一緒に働いてくれるというのは嬉しくて……つい」
 友達と遊んでいなければならない時期に、美月はここでお冷ややおしぼりを楽しそうに運ぶ少女だったのだろう、それは貴美にも容易に想像が出来る。そして、和明はその頃を思い出しているのか、老いた横顔にはわずかばかりに後悔の色を残しながらも懐かしさにあふれた物だった。
 貴美は和明の言葉に『そっか』とだけ答えると、美月と良夜の喧嘩から視線を離した。良夜は良夜で男子校出身の女慣れしてない男で、美月は美月で中学生の頃から喫茶店でふらふらしてたって言うんじゃ、こうなるのもある意味必然なのだろう。そして、お友達から恋人へと発展するにはこの手の儀式がたぶん必要なのだと思う……少々やり過ぎてるような気もするけど。
「コーヒー、飲みます?」
「良いん? 客に出してないのに、ウェイトレスが飲んでて」
 まるで客など居ないかのような台詞に貴美は苦笑い。しかし、貴美はストゥールから立ち上がるとウェッジウッドのカップが鎮座する食器棚へと足を向けた。そこから貴美お気に入りのカップとソーサを二客取り出せば、和明も小さな笑顔を浮かべて水の入ったケトルを小さなコンロに乗せる。完璧に暇な土日祝日の行動だ。
「お客さんはお客さんで楽しんでるようですから……ほら」
 パイプで指し示される先には表で足止めを受け持っているはずの青年が客の周りを回って、何かぼそぼそと相談しあっている姿があった。客も直樹も互いに美月と良夜の方をちらちらと伺っているのだから、あまり程度の良いことをしているとは思えない。
「……なおの奴、何してんよ?」
 両手にカップを持ったまま直樹へと視線を向ける。彼には外で客の足止めを命じていたはずだし、実際、あれから客は一人も入ってきていない。外から眺めているギャラリーは増えているようだが……
 不思議に思いつつ眺め続ければ、直樹と貴美の視線がぶつかり合った。あっと息を飲む直樹ににこっと優しく笑いかける貴美。本人としては『さっさと来ないと折檻しちゃる』の気持ちをたっぷりと込めているつもりなのだが……直樹にもそれは届いた模様、この辺はつきあい十数年に及ぶ歴史の深さだな、と自画自賛。
 出来るだけ喧嘩の真っ最中な二人に気づかれないよう、コソコソという擬音がぴったりな足取りで直樹は貴美のそばへと駆け寄ってきた。
「……殺気丸出しの顔で睨まなくても良いですから」
「私は優しく微笑んでたつもり何やけど?」
「嘘だ……絶対に嘘だ……来なかったら殺すつもりだったくせに……」
「大丈夫、九割殺しで勘弁しておくから。で、なにしてん?」
 ぶすっとふくれた顔で差し出すのは、さっきまで表にいた連中で作った掛け率表。その横には一口五百円で話に乗っている奴の名前とそいつらが何口乗っているかが一覧として書かれていた。
「……ひなちゃん? やり出したの」
「良く解りますね……」
「字、ひなちゃんのだもん。良くやるわ……で、なんでなおが?」
 ぺらぺらとそのページをめくれば、圧倒的に賭けてる奴が多いのは『良夜が美月に降られて破局』、続いて『なし崩し的に破局』で、『美月が良夜に振られて破局』は大穴、『カップル成立』はドブって所だ。当てに来てると言うよりもやっかみの方が強そうな雰囲気が美月の人気の高さを物語っている。
「入ってきたら温めた醤油飲ませるって言ったの、吉田さんじゃないですか……」
「あっ、なるほど……なおは温めた醤油が飲みたいんだ?」
「飲みたくないですよ……じゃぁ、僕、行きますから」
 返せとばかりに伸ばす手からひょいとノートを逃がす。絵柄としては背の高いいじめっ子がちびのいじめられっ子の私物を取り上げてるような感じ……と言うか、そのもの。
「まち、私も一口乗るから」
「乗るんですか……やっぱり……で、賭けるのは? 『感極まってラブシーン』?」
 彼女の性格を知り尽くした彼氏がため息を一つ。大穴ねらいは貴美の持ち味、ドブを上回るブラックホールな掛け率に心惹かれるところだが、いくら何でもそれはないだろう。賭けるのは『カップル成立』、掛け率は十倍を少し超えたところ。財布から取り出すのは燦然と輝く諭吉さん一名。
「二十口」
「……普段ケチなくせ……」
 普段からケチやってるからこそ、こう言うとき大胆に使える物。それが貴美の金の使い方。ぶつぶつと文句を言う恋人をほったらかしに、貴美はノートの一ページに『吉田貴美20』の文字を書く……その瞬間だった。
 パンッ!!!
 響き渡る破裂音、顔を上げればそこには目に涙を浮かべた美月と、その美月にほっぺたを叩かれて唖然としている良夜の姿……と、ついでに拳を握っている本命に賭けた連中。
「なお! 後任せた!」
「まっ、任せたって…………修正液買って来いって事かな?」
 貴美が投げ出したボールペンとそれで書かれた文字を見ながら、直樹はフロアの中央へと駆け寄る貴美の背中を見送った。

 良夜は最初、自分が何を言ってしまったのか、それを理解していなかった。ただ、何度も同じような会話を続けている内、彼の頭も良い具合に茹だってきて、ほとんど脊髄反射と条件反射で言葉を紡いでいるような状態だった。だから、自分の左の頬に鈍い痛みが走り、美月の目から大粒の涙が落ちるのを見る瞬間まで、自分の失言って物に気がついて居なかった。そして、思い出す、自分が数秒前に言った言葉を……それは、自身が少し前に美月に言われてキレてしまった一言を、彼我逆にしただけの言葉。
「美月さんだって、俺のこと、翻訳係にしか思ってないんでしょ!」
 この言葉を告げたとき、それまでポンポンと帰ってきていた美月の反論……になってない反論もあったのだが、ともかく途切れずに返ってきていた反論の言葉が途切れた。そして、次の瞬間には美月の右手が良夜の左頬の上ではじけていた。それを思い返し、良夜はしまったとほぞを噛む。
「あっ……ごっ――」
 その言葉も半ば反射的な物だったが、それが最後まで発せられることはなかった。
 パンッ!!
 二発目の破裂音は美月の頬で奏でられ、奏でたのは美月と同じ格好をしているウェイトレス、吉田貴美の右手。
「ウェイトレスがフロアで客ひっぱたいてどーすんよ!?」
 先ほどまでの見物モードが一転、貴美は美月の胸ぐらを掴みかからんばかりの勢いで食ってかかっていた。てか、さっきまでの口げんかと平手打ちにどれくらいの差があるのか、良夜には全く解らない。まあ……貴美の訳のわからない理論は頭を冷やすにちょうど良いと言えばちょうど良いのだが……
「だって……良夜さんが……」
「だってもクソもないん! こっち来な! それと、りょーやん!」
 スンスンとしゃくりをあげる美月、彼女の手を無理矢理握ると貴美は良夜の方をキッと睨み付けた。
「あっ……はい」
 その気合いというか殺気というかその辺の感情に良夜は思わず姿勢を正す。
「あんたも一端帰り! 美月さんが落ち着いたらこっちから連絡する。それと、今日のバイトは休みな、良い!?」
「えっ……でも――」
「私がやれ言ったら、返事ははいだけ!」
「はっ……はい」
「勝手にバイトなんぞ行ってみい……明日から温めた醤油と雑巾挟んだパンしか食わせないから!」
 思わず言われたとおりに返事をしてしまうへたれ男十九歳。良夜が返事をすると貴美はぷいっとそっぽを向いて、美月の手を引き、無理矢理キッチンから倉庫兼事務室へと続く通路へと姿を消す。その時、最後の一瞬だけ見えた美月の横顔が、良夜には申し訳なさそうにほんの少しだけ上下に揺れたように思えた。
 貴美と美月の姿が消えると、フロアは今までの喧噪が嘘のように静まりかえった。まあ、盛んにしゃべっていた二人の内、片方が居なくなって片方が黙っているのだから、当たり前と言えば当たり前だ。
 ああ、と小さくため息を吐くと良夜は右手を頭に当ててポリッとそこを掻いた。振り上げた手の降ろし場所がないというか……そして、ふと我に戻ってみれば自分は注目の的。当たり前の小市民を自認する良夜にとって、ここは非常に居心地の悪い空間になっていた。
「帰っか……」
 言い訳のようにつぶやいて、ドアへと足を向ける。
 その良夜の肩にトンと着地を決める妖精、アルト。彼女は良夜が美月にひっぱたかれた横顔をストローで突っつくと、いやみったらしい笑顔で良夜の顔をのぞき込んだ。
「はぁい、良夜。女に横っ面ひっぱたかれた気分はいかがしら?」
 ものすごく嬉しそうな笑顔で――
「ゲップ……食べ過ぎたかも……」
 人様の食事で満たされたお腹を相撲取りよろしく叩きながら。

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