メリークリスマスの戦場(2)
喫茶アルトのケーキは全て、旧市街地にあるケーキショップ『ひさか』が任されている。この『ひさか』というケーキショップ、少数先鋭が経営方針でスタッフはオーナーパテシエのオッサンが一人とその一人娘と愛弟子が二人に売り子専門の奥さんが一人、計五人で店を運営している。作る人間が少ないのだから、クリスマスケーキなんて物は予約分でほぼ完売してしまう。
ひさかは『ケーキショップ』だ。ケーキが売れればそれで良い。しかし、引き替え喫茶アルトの最大の売り物はコーヒーであり、最近では美月の作る軽食だ。だから、ほとんど利益のない外注ケーキだけを購入そのままお帰り……なんて客ばかりでは商売あがったり。だから、予約分以上のクリスマスケーキを注文し、それをカットケーキにし、グリルした骨付きチキンとサンドイッチ、そしてコーヒーをセットにした『クリスマスイブ限定メニュー』を展開していた。
そう言うわけだから、『ひさか本店では当日売りしないのに、それを仕入れている喫茶アルトでは当日売りをする』と言う奇妙なねじれ現象が毎年発生する。
ひさかまで出掛けるのがおっくうと言う学生客はもちろん、ひさかでケーキを予約し損なった客までもが喫茶アルトに攻め込んでくると言うのが、喫茶アルト例年のクリスマスイブ風景。外では予約分のケーキが引き渡され、中ではクリスマス限定メニューが提供され、喫茶アルトは内も外も客でごった返す、と言うのも喫茶アルトクリスマス恒例の風景だ。
しかも、去年までの美月は『本業』は学生で『副業』が喫茶店のウェイトレスだった。上には手慣れたバイトウェイトレスが二人いた。相手は年上で大学生で、キャリアも美月より二年上。だから、一番偉い人和明、その次がバイトウェイトレス二人組で、美月は一番の下っ端、と言うヒエラルキー。忙しいクリスマスにもちゃんと参加していたのだが、そこはそれ、言われるままに働いてればいいだけの下っ端バイトと自分が働かさなければならないフロアチーフ、責任と仕事量の桁が一つ違ってくる。
「チキンの第三陣、上がりました! サンドイッチの在庫! 残ってますか?!」
フロアチーフを自称する美月であったが、今朝は朝からキッチンに籠もりっぱなし。昨日のうちに下ごしらえをしたチキンをグリルで焼き、焼いてる合間にサンドイッチを量産していく。昼のランチ客を迎え入れるくらいから、美月はほとんど半狂乱になって飛ぶように売れていくチキンとサンドイッチを作り続けていた。
「判りました……浅間くーん! 外でチキン待ってる人、何人いますか?!」
美月の言葉に返事をするのは、顔に営業スマイルをべったりと貼り付けた吉田貴美。彼女は一応、前の店でフロアチーフという役職に就き、フリーターやバイト学生をあごで使う立場にいた。その経験もあって、口調も態度も余裕のあるところを見せてはいるのだが、流石にそれもこの忙しさでは限界。見る人が――例えば直樹とかが見れば、彼女が珍しく焦っていることに気付くだろう。
そんな彼女がキッチンの勝手口から顔を出して、外の様子をうかがい見る。そこには、良夜達が作った臨時販売場所にたむろしている長蛇の列、彼らが待っているのは美月が焼き上げようとしているチキンだ。
「ふぇっ!? お客さん、待ってますか?!」
「まあ……待ちっぱなし?」
「ふぇぇぇぇぇぇ〜〜〜〜おかーさんに電話してくださいぃぃぃぃぃ」
半狂乱に半泣き、それでも手が止まらないのはプロ意識のなせる業なのか、それとも無我夢中になっているだけなのか……
「……あかん、なお、呼んでこ……」
どちらにしても、キッチンにもう一人の人間が必要なのは自明の理。貴美はフロアを任せる人間を調達すべく、半開きになったままの勝手口から外に出て行った。
「慌てても、お客さんは捌けませんよ」
「修行が足りないわね……真雪だったら、ここで『飽きた』って昼寝を始める余裕を見せる所よ」
そんなキッチンから少しだけ離れたカウンター……暇でも忙しくても、最近はコーヒーを煎れることしか仕事をしてない老人と、コーヒーを飲む以外の仕事は気分次第という妖精さん、二人の周りだけはいつもと同じ空気が流れていた。
「と、言うわけで、浅間くん、ここ、一人で頑張って」
「無茶言うな。後、営業人格も止めろ」
暇で寒さに震えるのが唯一のお仕事、と言う幸せな時間はわずか二時間で終了した。代わってやって来たのは、寒さの中、寒さを感じる暇もないほどの慌ただしさ。どこにこんな人間が存在しているのだろうか? 思わずそんなことを考えてしまうような人数が臨時販売所の前に集まってきた。
それを裁くのは新米どころか、まともに喫茶アルトで働くのは本日が二度目という良夜と初めての直樹の男二人組。それでもなんとかめげずに働けていたのは、直樹の方が過去二回、高校一年と二年のクリスマスとバレンタインに貴美がバイトしていた喫茶店の手伝いに駆り出された経験があったからだ。
(高校三年のクリスマスとバレンタインは、貴美は普通に働いていたが、おつむの出来が貴美に比べて今一つな直樹は真面目に受験勉強をやっていた)
「浅間くん、高々レジ打つくらい一人で出来るよ。浅間くんはやれば出来る子だから」
「無理だって! こっちも忙しいんだから――ああ、ブッシュドノエルはこっちです。三千五百円」
「そうですよ、こっちも忙しいんですから……チキン、もうすぐです。ごめんなさい」
……まあ、言って聞くような人間じゃないことは二人とも十分に知っていたし、今回もその通りだった。
「これは私のオトコっ!!!」
それまでニコニコと営業スマイルで笑っていたウェイトレスが素の表情に戻ってそう叫んだのだから、良夜と直樹だけではなく列をなして待っていた客達までもが凍り付いた。先ほどまでの喧噪は嘘のように消え去り、冷たい風だけが喫茶アルトの駐車場に静かすぎるBGMとして存在していた。
「……あは、じゃあ、浅間くん。後、よろしく。皆さん、寒い中お待たせしています。チキンもすぐに運びますから」
慌てて取り繕いつつも、直樹の首根っこを確保し続ける貴美、その顔に十人以上の視線が突き刺さる。
『手遅れだって』
今、見知らぬ人間達の心が一つになった。
こうして、それまでケーキを売る係だった良夜はチキンの販売も押し付けられ、たった一人で臨時販売所を任されることになった。繰り返しになるが、良夜が喫茶店で働くのはこれが二回目。学祭のときも一応は手伝ったものの、配達オンリーだったことを考えれば回数に入れることが出来ない。
だから当然、手際は悪く、列は短くなるどころか長くなる一方、ざっと常時二桁の人間は並んで待っている。待ちきれなくなった最後尾がさっさと帰ってしまえばいい……というのが良夜の偽らざる本音だ。しかし、彼らは喫茶アルトの店舗の方へと流れることはあっても帰ることはない。むしろ、行列を見た人間が野次馬根性丸出しで並び始める始末。
「えっと……チョコケーキの大きい方が四千円で……ああっと! お客さんは入金済みですね、ごめんなさい」
手際の悪さが焦りを生み、焦りがミスを生み、ミスが更に手際を悪くさせる。その悪循環の螺旋は途切れることなく、良夜の足を引っ張り続ける。
「ほら、シャンとしなさい! レジ打ちとおつりの計算は私がするから、良夜は注文を聞く! いつまで経っても終わらないわよ!!」
聞き慣れたソプラノの声が良夜の耳を厳しくも優しく撫で、視野の隅っこには薄く透けたトンボのような羽が二対流れる。
『アルト! 助かった!』
良夜は掛け値なしに心の中で、いな、実際にそう絶叫する一歩手前になるまで、良夜はその声に喜んだ。
――彼女の姿を見るまでは。
カクンとあごが落ち、それまで忙しく動いていた良夜の手が止まる。
「まっ!!」
『丸い!』と口からあふれ出そうになる言葉を、両手で塞いで押しとどめる。塞ぐために手を叩きつけた口の周りがジンジンと痛い。
それくらい、この時のアルトは丸かった……着ぶくれで。
先日買ったばかりの化繊の安いコート、それが『どうしてここまで膨れることが出来るのだろうか?』と思うほどに膨れあがり、ぴっちりと閉じられたボタンは今にも弾け飛ばんばかり。首にはマフラーが三本、手は指先が芋虫のようになるまでに何枚も重ねられている。そしてトドメは赤い目出し帽。
「……見つめないで欲しいわね、ロリコン」
目出し帽の不審妖精が恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……判った」
触れないのが優しさなんだろう……多分、これはウケねらいではないのだから。
途中参加のアルトのおかげもあって、長蛇になっていた列も少しずつではあるが確実にその長さが減り始めて来た。同時にキッチンでは貴美が美月のアシスタントに入り、美月の半狂乱にも落ち着きが見え始めている様子。直樹は直樹でほぼ二年ぶりだというのに思いの外、上手にフロアの客を捌き、あと三時間少々で喫茶アルトクリスマスの戦場も彼らの勝利に終わる……かに見えた。
この日の良夜は昼に一度、食事休憩で一時間ほど抜けただけで、後は夕方近く、日が落ちるまで外でずっと働きづめだった。その上、和明が時折様子を見にがてら、温かいコーヒーを差入れしてくれている。そんなのだから、ある生理的欲求が彼の中で首をもたげるのも無理からぬ話だった。
踊るようにつま先でレジを叩くアルト、その後頭部を指先で軽く突き、耳元へと呼び寄せる。呟く言葉はたった一つ、それを端的に、そして他の誰にも聞こえない音量で発する。
「……便所」
「! 我慢は?!」
「……今までしてた」
良夜は小一時間以上前からずっとトイレを我慢していた。もちろん、ただ、黙って我慢していたわけではない。隙を見付けてはチラチラとフロアへと視線を送り続け、フロアに貴美が帰ってくるか、フロアの直樹の手が空くか、もしくは和明がコーヒーを持って覗きに来るか、その三つの内、どれか一つでも実現すれば、この場の担当を代わって貰うつもりだったのだ。しかし、これが見事にどれも起こらない。貴美はキッチンから出てこないし、直樹はひっきりなしにフロアを行ったり来たり、手が空くどころか、和明までもがカウンターの中からフロアーに出て来て、客への対応をしている。
誰かの手が仕事が終わり次第代わって貰おうと思っていたら、自分の限界の方が先にやってきた。
「後五人よ、死ぬ気で我慢しなさい!」
耳元でひときわ大きく叫ばれる言葉、それを聞きながら『我慢し続けて死ぬのと、我慢しきれなくなって死ぬしか無くなるの、どっちが早いかな……』と良夜は頭の片隅で思っていた。
さて、人間の我慢というのは本人が思っている上に長続きする物だ。彼の我慢は彼が思っている以上に、その底は深かった。また、このせっぱ詰まった状況が彼に新しい力を目覚めさせたのかも知れない。先ほどまでの手際の悪さは消え失せ、滞る事もなく目の前に居並ぶ客達をばっさばっさと切り捨て行けるようになってきた。
「後四人!」
「三人!」
アルトがそうカウントダウンしてくれるのも、彼の底を更に深くしてくれるものになっていた……わけなのだが。
「後一人だから」
「後一人……」
「後一人だと思ってたのよねぇ……」
後一人が中々消えない。ジッとブッシュドノエルとメイプルシフォンの箱を見比べる彼女……いや、長い髪を結い上げたジャンパースカート姿の人が彼女ではなく『彼』であることを良夜は知っている。
二条陽二十歳。普段から女装をし続けているという変人さんで、先月の学祭で直樹の後塵を拝したお人だ。
「あっ……あの……どうかしましたか?」
ヤバイよ、漏れちゃうよ、破裂するから! 頭の中でそんな言葉がリフレインを続ける。それを極力顔に出さないようにしながら、良夜はおずおずとした口調でそう尋ねた。
『悩んでる。どっちが美味しい?』
声に出したわけではない。小さなメモ帳に几帳面そうな丁寧な文字でそう書くと、彼はそれを顔の横に掲げ良夜に見せつけた。
「どっちも美味しいから……早めにして欲しいなぁ……って思ってたりなんかするわけで……出来れば」
出来ればと言う言葉はとってつけたような言葉だ。はっきり言って、悩むくらいなら両方買ってとっとと帰って欲しい。
『誰もいない』
ちらりと背後を伺い見た陽が、再びメモ帳を顔の横に掲げる。もちろん、彼に良夜の都合なんて物は判るはずがないのだから、後ろに誰もいないんだから、もうちょっとくらい悩ませてくれたって良いじゃない、とその端正な女顔にははっきりと書かれている。首に巻いたマフラーにあごを埋めた美人に恨みったらしい視線で見られると、こっちが悪くなくても悪いことをしたような気になってくる。
「……相手、男よ。忘れないで。後、アレが限界なのも忘れない方が良いわね」
アルトに言われなくても判っている、両方とも忘れていない。しかし、目の前の女装男にそれを言うわけにも行かない。一応客だし……こんなの、客じゃないって……
「こっこっちにも色々と……ああ……もう……良いよ、好きにして」
父よ、母よ、息子はここでお漏らしした挙げ句、世を儚んで自殺するかも知れません。恨むんなら、この妙な女装ねーちゃんじゃなくてにーちゃんを恨んでください。それから、俺の部屋のパソコンは中身を確かめずにたたき壊してください。中身を見られたら死んでも死にきれません。
思わず遺書の下書きを頭の中でしてしまう良夜、彼はここまで追い詰められていた。
「顔に出てるわよ……」
アルトにいわれまでもなく、そんなことは本人がもっともよく知っている。先ほどから、下腹部を針で刺されるような痛みがずっと走りっぱなしだ。それも内側から。多分、額には冷や汗でも流れていることだろう。
そして、アルトにも判るものが陽に伝わらないはずがなかった。
『おトイレ?』
三度掲げられたメモ帳に良夜は力の限り頷いた。もはや、彼の我慢と羞恥の心は底がつきた。
『見てるからトイレにGO』
それまで妙な女装にーちゃんだと思っていた彼の顔が、この一瞬、四枚目のメモ帳を掲げた瞬間だけは女神様に見えてしまった。男なのに……
一時は死をも覚悟した良夜だったが、なんとか、すんでの所でトイレに駆け込むことが出来た。ここまで我慢できたのは奇跡だ。甚だ安っぽくあまりにも俗物的すぎる奇跡だ。
そして、全ての不浄を体から流し出した良夜が見た物、それは――
『三千六百円』
メモ帳による筆談で売り子をしている二条陽、その人だった。
「客に売り子をやらせるな!」
それを呆然と見守る良夜の後頭部に、貴美の鉄拳が炸裂した。
色々と問題多々あれど、喫茶アルトのクリスマスイブは一応無事に終了の時を迎えた。
ひさかから仕入れたケーキは、美月が打ち上げように一つキープしていたものを除いて全て完売。一応、明日も本番、クリスマス当日が残ってはいるのだが、こっちの方は例年あまり忙しくはならないらしい。ひさかの方が通常営業に戻ってしまうからだ。それは良夜や直樹はもちろん、途中から何故か最後まで手伝っていた陽とその彼女河東彩音――かわとうあやね――までも参加した打ち上げパーティで供せられることとなった。
「りょーやんの所為で分け前が減ったじゃんか……」
と、軽く不満を垂れる甘いもの好きの腐女子も一人居たものだが、喫茶アルトのささやかなクリスマスパーティは概ね穏やかに始まった。
「皆さん、カップは回りましたか? では、お声を揃えて――」
本日、一番働いた美月がホットコーヒーの注がれたカップを右手に掲げて宣言をする。あの言葉を……
「メリークリスマス!!」
一同の声が重なり合い、喫茶アルトのフロアに木霊する。その瞬間、喫茶アルトの面々の顔に驚愕の表情が浮かび上がった。
その中に聞き覚えのない魅力的なバッソ・プロフォンド――厳かで重厚感溢れる男らしい声があったのだ。
「いっ、今のだれっ!?」
誰もがただ息を呑む中、最初に我に戻った貴美が面々の意見を集約した声を上げる。
『さあ、誰でしょう?』
メモ帳を掲げニコニコする陽の横で、「だからその格好のときは喋らないでって言ってるのに……」と涙を流している彩音の姿があった。