年賀状
 新年元旦の喫茶アルトは閑散としていた。
 メインの客層が大学生であり、その大学生は帰省していたり何処かに遊びに行ったりで、大学周辺に近付いたりはほとんどしないからだ。もっとも、それは夏休みなどでも同じ事だが、お盆には帰省しないという学生もお正月には帰省をするし、二ヶ月以上もある夏休みに比べ全部でひと月程度しかない冬休みは帰省も旅行も一極集中、帰るときは一斉に帰るし、遊びに行くときは一斉に遊びに行ってしまう。そういう事情もあって、暇さ具合はお盆前後よりも一段と厳しい物になっていた。
 こちらに残っている学生達もいくらかはいるのだが、そのほとんどが大晦日を飲んで騒いでたって言うような状態。今頃は死屍累々の討ち死に姿をさらけ出しているに違いないだろう。
 そう言うわけで、今日の喫茶アルトには常連の良夜や直樹はおろか、学生バイトの貴美すら来ては居ない。なんだかんだと理由を付けてお盆には帰省をしなかった三人も、年末――良夜は二十六日からタカミーズは二十七日から、実家へと帰省した。こっちに戻ってくるのは週末か週明けになるらしい。
 だから、店内は元旦早々閑古鳥の大合唱すらないほどに静まりかえっていた。
 店長和明は何が楽しいのかは知らないが、朝からずっとパイプを磨いているだけだし、美月は美月でカウンターに突っ伏して寝正月を決め込んでいる。和明の方はいつもと同じようなものだが、美月に至っては自室から持ってきたクッションを枕代わりにするほどの念の入れよう。やる気という物はもはや皆無、年始早々、喫茶アルトは開店休業状態。
「だれてるわねぇ……」
 暇そうな二人以外、誰もいないフロアをアルトは食器棚の上にちょこんと正座をして見下ろしていた。
 今日の彼女を包んでいるのはいつものゴスロリ風ドレスではなく、白地に薄桃色の桜が舞い散る振袖。何十年も前に和明の妻、真雪がどこからともなく調達してきた生地で作った逸品だ。生地はちゃんとした反物から取った高級な友禅染らしいが、詳しいことはアルトもあまり知らない。興味がない……というわけでは決してなく、むしろ、色々と真雪に尋ねてみたのだが「話をしてると自分も欲しくなる」という判るような判らないような理由が付けられ、それ以上語っては貰えなかった。
 そんなお気に入りの一張羅だが、これを身につけるのは年に一度の元旦だけと決めていた。と言うのも、まず、着付けるのにすさまじく手間暇が掛かる。今日も寒いフロアの中、小一時間以上の時間が掛かってしまった。ちゃんと襦袢や着物用の下着まで用意されたそれを着るという作業になれていない所為だ。それに、硬くて重たい和服は着ていると肩が凝ってしまう。こんなものを毎日着ていたら、肩こりで大変なことになってしまうに違いない……と思う。
 だれきった空気の中、和装のアルトだけはピンと背筋を伸ばして正座をしていた。下手にだれてしまうと着物の裾が捲れてしまいそうになるからだ。もちろん、ちゃんと下着は着けているのだが、それはそこ、ミニスカートは履けても着物の裾がはだけるのは恥ずかしい乙女心という奴。この辺の堅苦しさも彼女が普段から着物を着る気になれない遠因となっていた。
 しかし、それもそろそろ限界。
 開店から数時間、来客は見事にゼロ。元々人生の大半を食っちゃ寝に費やしている妖精さんのこと、いくら身も心も引き締まる和装姿とはいえ、我慢の限界が近付いていた。
「ふわぁ〜〜ねむ……」
 両手を大きく伸ばして欠伸を一つ。着替えてから寝るか、それとも誰も見る人間が居ないことを良いことにこのまま寝てしまうか。前者がベストだが着替えを引っ張り出してくるのも面倒くさい。だったら、このまま寝ちゃえばいいのだが、それは彼女のプライドが許さない……わけだが、このまま悩んでいたら、否応もなく後者への坂道を転がり落ちてしまうだろう。
 どうしようかしら……と悩む頭はすでに夢現。コックリコックリと前後左右に船を漕ぐ。
 そんなアルトの耳に響き渡るのは、耳慣れたドアベルのから〜んと言う乾いた音。
「! ねっ寝てないわよっ!? 私は起きてるわっ!!」
 普段よりも大きな音に聞こえたドアベルに、アルトの体が大きく跳ね上がった。誰に聞かれてるわけでもないのに、言い訳を並べ立ててキョロキョロと周りを見渡す。そして、その見渡した視野の隅っこでは美月が同じように跳ね起きていた。
「寝てませんよ!? 仕事中だというのに寝たりはしませんっ!」
 同レベル。
 嫌な言葉がアルトの頭をよぎる。
「コホン……今年最初のお客さんかしら?」
 ことさら居住いを正して視線を開いたばかりのドアへと移すと、そこには郵便局のバイト学生の姿。もちろん、彼が仕事をサボってコーヒーを飲みに来た不心得者でないことは、彼の手から和明の手へと渡る年賀状の分厚い束を見ればあきらかだ。
 なんだ……と飛び起きてしまったことを後悔すると同時に、届けられた年賀状への好奇心が頭をもたげる。
 分厚い年賀状の束は、大学生活を喫茶アルトで過ごしていった元学生達からの物が大部分。もちろん、現在進行形で過ごしている学生からの年賀状もあるだろう。大多数は一方的な知り合いでしか無く、アルトの名前などあろうはずもないのだが、それでも懐かしい名前――と顔が一致しない人物も多数なのだが――を年賀状で見れば心が温まる。
「良い暇つぶしよね」
 小さく呟くと、アルトは正座で痺れかけた足を伸ばし、トンっと優雅にフロアの中へと舞い降りていった。
 ――いつもの調子で飛んだおかげで、振袖の裾が襦袢もろとも顔まで捲れ上がって、茶巾包みになったのはトップシークレット。

「お祖父さん……お祖父さん……お祖父さん……ここからここまで全部お祖父さんので、私……お祖父さん、お祖父さん……お店、お祖父さん……むぅ、お祖父さんのばっかりですね」
 早速仕分けをし始めた美月ではあったが、その手が進み未整理の山が小さくなっていくが毎、その顔に不満の色が濃くなっていた。その理由は『三島和明様』宛が美月の十数倍にも及んでいるからだ。貴美と直樹からも年賀状が一通ずつ来ていたのだが、そのどちらも『三島和明様・美月様』の連名で、しかも和明が先。こと、OBを含めた大学の関係者に限定すれば、ほぼ百パーセントが和明単独か和明・美月連名で和明が先という宛名になっている。
「和明の方が目上なんだから仕方ないじゃない」
 馬鹿馬鹿しいわねとばかりに言葉を続けるアルト、彼女の言葉など聞こえるはずもない美月は更に不機嫌そうな様子で年賀状の仕分けを続けた。
 淡々と、そして不機嫌に仕分けを続けていた美月の手が止まった。マジマジと穴が開くほどに見つめられているのは、彼女が見付けた一枚の年賀状。
「むぅ……良夜さんまでお祖父さんの名前を先に書いてます……」
 裏切られたとでも言いたそうに、美月はその年賀状をペチッとカウンターの上に叩きつけた……のはアルトのすぐ横、数センチの場所。はがきが作った小さな風が、アルトの美しい金髪を一房、宙に舞い上がらせる。
「あっ……危ないわね、気をつけ――」
 気をつけなさいと言葉を紡ごうとした唇が、その形のままで固まる。
『三島和明様・美月様・その他一名』
 アルトはこめかみをピクピクと痙攣させながら、美月の置いたはがきの上に乗っかり、その上を丹念に見渡していった。どこにも彼女の名前は見あたらない。それどころか、裏面、本文中にまで『その他一名によろしく』とある。一応、他にも『いつも美味しいコーヒーをありがとうございます』とか『今年もよろしく』とか、プリンター印字ではない手書きの文字で色々と書かれているのだが、いまの彼女の目にそんな物は映らない。まあ、映ったところで彼女の怒りを和らげる効果など、一切期待できないのだが。
「ふふふ……殺す……殺すわ……やって良いネタと悪いネタがあるって事を教えてあげるわよ」
 勤めて冷静な口調だが、ストローを握る手には力がこもり、プルプルと軽く痙攣を始める。
 今すぐ全力でストローを『奴』の体にぶちたててしまいたいところなのだが、『奴』の実家はここから遠く離れたところだ。とてもではないが、行ける距離ではない。だから変わりに、本文最後にある『浅間良夜』の文字の上にザクザクとストローを突き立て始めた。その目は親の敵を見る目そっくり。
「せめてその他一名『様』にしなさい!!」
 ザクザクとストローを突き立てる有意義な時間は、唐突に終わりを告げた。アルトの怒りが収まった……というわけではなく、彼女のストローに刺されていた年賀状が、美月の手によってひょいと取り上げられたからだ。
「むぅ……むむむぅ……」
 口をへの字に曲げ、真剣な顔をし始めた美月。そして、その年賀状をカウンターの上に置くと、おもむろにこう言った。
「いっけなーい! 私、良夜さん達の年賀状、アパートの方に送っちゃいました!!」
「いまから出しても、着くのは浅間さん達がこっちに帰ったくらいになりますよ」
 バタバタと慌てて駆け出す美月とそれに静かな口調で答える和明の二人に、アルトの毒気も抜かれた気分。一生懸命、良夜の名前を突いていた所為で乱れに乱れた着物の裾や袖口を整え、アルトは美月がほったらかしにしていった年賀状へと手を伸ばした。そして、その中から適当に数枚を抜き出しては、着物の裾を気にしつつ、はがきの上をテクテクと歩いて眺めていく。
 そこにある名前達、古くは和明・真雪夫妻に赤貧の生活を助けて貰った苦学生から、一昨年までアルバイトをしていた女子大生等々、良く覚えている人からあまり覚えていない人……名前を見るたび、その頃の店の様子と大学周辺の様子が昨日のことのように思い起こされる。
「あら、この子、結婚したのね…………時間って無情だわ。見事な中年に成り下がってる……こっちはこっちで、あの頃からデブだったのに、いまは凄いことになってるわ……年賀状に写真を着けるのは止めた方が良いわね、劣化具合を後世に残すだけだもの」
 等々……一枚一枚捲るたびにあの時、あの頃の喫茶アルトが目に浮かんでくる。呟く言葉はいつもの通りに綺麗とは言えない物ばかりだが、彼女の顔に浮かぶ表情のほうは明るく、そして優しい笑顔になっていた。
「おや……」
 そんな感じで年賀状をめくっていたアルトに、同じく年賀状を老眼鏡越しに読んでいた和明の声が聞こえた。
「これはこれは……貴女宛ですよ、アルト」
「私宛? 良夜が心を入れ替えて、『可愛い妖精アルト様』宛にでも出してきたのかしら?」
 未整理のはがき達の上に和明が新しい一枚を重ねる。苗字に見覚えはないが、名前の方には見覚えのある文字……
「……あの子から……」
 ちょうど十年前……小雪の舞い散る卒業式にお別れした女子大生の名前。この手のことは卒業前にしないでって頼んでおいたはず……だって、毎年、この年賀状を待ってしまいそうになるから。
「もう……しないで言っていたのに……」
 口調とは裏腹に胸のあたりがジンッと暖かく、そして切なく痛んだ。
『アルトへ 娘がどうしてもとせがむので、一度だけ、年賀状を送ります』
 そんな文面で始まる年賀状が視野の中で歪んでゆく。振袖の袖でそれをぬぐい取り、もう一度、アルトは文面へと視線を走らせた。ちょっとした近況と娘が大きくなったこと、その娘にアルトの話をしていたことなどが、丁寧な、あの頃と同じ筆跡で書かれていた。
 そして、最後にその娘が覚えたてのひらがなで書き記した一文が、そっと添えられていた。
『ようせいさんへ。おかしばっかりたべてると、おなかをこわしすよ』
 ピキッ。アルトの小さな頭の中で何かの割れるような音が響き渡った。
「あのアーパーデブ娘ぇぇぇぇぇぇ!!!」

 それから二週間後。アルトに『アーパーデブ娘』と呼ばれる女性の家に、一通の封書が届いた。彼女の学生時代における恥ずかしい過去がびっしり、便せん十数枚にワープロ打ちで出力された特製レポート(代筆浅間良夜)だ。
「……元気そうで何よりね……でも、これは見なかったことにして……」
「まま、よーせいさんからお返事こないの?」
「よーせいさんは字がとっても下手ッピだから、お手紙は書かないの」
 無邪気に尋ねる娘に隠れ、彼女は自分の恥ずかしい過去が書き連ねられた便せんをクシャッと握りつぶすのだった。

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