良い夜(2)
 良夜はその部屋にある物全てに理解が出来なかった。
 外は肌寒いほどだというのに全力で運転をし続けるエアコンも、半分ほどに減っている一升瓶も、直樹の頭を小突き続けている酔いどれ淑女二人も、出汁だけで満たされている鍋も……何もかも理解できない。
「冷静に見つめてないで助けてくれませんか……」
 そして、その二人に小突かれながらなんとも言えない顔をしている素面の直樹も、何もかもが理解できない。
「なあ、今夜の趣旨って何だっけ?」
 良夜は座ることも忘れ、呆然と小さな言葉を呟いた。自分の誕生日で呼びつけられた、と言う記憶があるのだが、それは夢だったのかも知れない。
「もちろん、喫茶アルトウェイトレス親睦会なんですよ!」
「ええ、なおの頭品評会っしょ?」
「……僕が帰ってきた時にはこの状況だったんです……」
 三者三様に好き放題言われ、良夜はさめざめと心の中で涙を流した。
「流石に……惨いわね」
「お願いだから、同情しないでくれ……」
 頭の上から降り注ぐ妖精の言葉に、良夜の涙は更に激しさを増した。

「味見してたらぁ〜止まらなくなっちゃいましたぁ〜」
 美月は空になった鍋をちょんちょんとお箸で叩きながら、ケラケラと上機嫌で笑い転げていた。
 別に二人とも最初から良夜や直樹を置き去りにして飲み始めるつもりはなかった。と、当人達は主張している。ただ、鍋の出汁を作るために、和明が持たせてくれた日本酒を開けたら、凄く良い香りがしたので一口だけ味見をしてみたらしい。
 そして気がついたら、一升瓶の重さが半分になっていた。
「……急性アルコール中毒になって死にますよ」
 話を聞き終えた後、一滴も飲んでいないというのに、良夜は二日酔いのような頭痛を覚えていた。
「直樹、食った?」
「食べてませんよ。僕だってさっき帰ってきたばっかりなんですから」
「……私も食べてないわよ」
 良夜は空いた席――直樹の向かいに腰をおろし、もう一度、鍋の中を覗き込んだ。
 おそらくは醤油出汁のちゃんこ鍋か寄せ鍋、近くに寄ってみてもやっぱり具材は何もない。それどころか、目に付くところに具材らしき物は、てんこ盛りにされた白菜だけ。他には空の器が二つ三つ。
「……なあ、俺と直樹の食い扶持は?」
 出汁だけで満たされた鍋と酔いどれ淑女二人の顔を順番に見つめ、良夜は恐る恐る質問を口にした。
「大丈夫! 愛するなおとオマケのりょーやんのために具材は残してんよ!」
「えっとぉ〜一応、主役のために残してますよ?」
 真っ赤な顔をしてポンと胸を叩く二人の淑女。そして、二人はキョロキョロと回りを見渡し始めた。
「吉田さぁん、そっちに鳥さん、置いてませんでした?」
「えぇ〜鳥なんて全部入れちゃったよ! 美月さんこそ、そっちにつみれと肉団子置いてなかった?」
「つみれは出汁が出るので一番最初に入れるのが礼儀なんですよ、知ってましたか?」
 二人の会話は笑顔のまま止まり、カタカタと冷風を吐き出すエアコンの音とコトコトと沸騰する鍋の音だけが空間を支配する。誰もが結論を察するも、誰もが自分の口でそれを言うことを憚っていた。
「要するに今夜の晩ご飯は白菜鍋ね……」
 たっぷり五分の沈黙の後、頭の上のアルトが仕方なく結論の言葉を発した。
「……ヘルシーだな……今夜の晩飯」
 てんこ盛りになった白菜に視線を移し、良夜とアルトはほぼ同時に大きなため息をついた。
 良夜にとって、それはアルトの言葉を受けただけの台詞。しかし、アルトの言葉など聞こえない戦犯二人にとって、それは嫌すぎる沈黙を打ち破る言葉。
「やっ、やだな、りょーやん、冷蔵庫の中に何かあるって……たぶん」
「そうですねぇ、冷蔵庫があるんですから、大丈夫ですよぉ」
 二人はピーンと弾かれるように立ち上がると、慌てた様子で大きめの冷蔵庫に取り憑き、ごそごそとその中身を漁り始めた。しかし、その手には日本酒がなみなみと注がれたグラスが一つずつ。余り期待できないなと良夜は二人の背中を眺め、白菜鍋への覚悟を完了させた。
「はぁ……お前、時々、晩飯がなかったりする?」
「流石にそう言うことはないですよ。吉田さん、普段は僕が帰ってくるまで勉強してますから」
 二人が冷蔵庫を漁る音をBGMに良夜と直樹は、出汁だけの鍋を囲んで苦笑いと杯を重ね始めた。貴美達が飲みかけにしていた一升瓶、アルトが言うには和明が美月に持たせた代物らしい。それをグイッと冷や酒のままでいただく。つまみはとりあえず、白菜だけの鍋。
 美月と貴美が言ったとおり、二人の飲む酒は口当たりが良くていくらでも喉に入っていく。アルトが言うには結構高級な代物らしい。言われてみれば良夜も高級そうな気がしてくる。
 良夜は直樹と共に杯を重ねながら、アルトが鍋の中にストローを突っ込んでかき混ぜるのを眺めていた。
「あら、白菜鍋も出汁がしみてて、中々、美味しいわよ? っと……肉みっけ」
 小指の先ほどの肉もアルトにとっては、顔ほどもある巨大なお肉となる。ストローの中程にまで鶏肉のひとかけらを押し込み囓る姿は、漫画に出てくる肉そのもの。それを大きく口を開いて、ガブッと横から囓り、かみ切ると言うよりも引きちぎる。
 淑女を自称する妖精には不似合いな食いっぷりだが、美味そうと言えばこれ以上に美味そうに見える食い方もない。
「肉……食いたいなぁ……」
 良夜の無意識のつぶやきに、直樹は苦笑いを浮かべた。
「冷蔵庫、空っぽじゃないですから、何か出て来ま――」
「お待ったせ〜」
「やっぱり、鍋のシメはこれですよっ!」
 まるで直樹の言葉を待ちわびたように貴美が持ってき物は――
 ――大量の中華そばだった。
「……食べる? 三回回ってワンって言わなくてもあげるわよ、今回だけは」
 アルトがちょっぴり申し訳なさそうに差し出す最後のひとかけらを、良夜は思わず受け取りそうになった。

 かくして、良夜の誕生日は白菜しか入ってないラーメンと日本酒という珍妙な代物になった。
 大量のラーメンが適当に鍋に突っ込まれ、カセットコンロの火力が一気に跳ね上がる。良い具合に鶏肉だのつみれだの肉団子だのからしみ出した出汁が、ラーメンに染みこんでゆく。それはいやが上にも良夜の空腹をさいなむ。
 そして、それが非常に悔しい。
「なんだかんだ言って、食い意地が張ってるのよね、良夜って」
 物欲しそうな顔をしてる、とアルトに言われ、良夜は苦笑いを浮かべながら貴美に自分のグラスを差し出した。
 そのグラスに一升瓶から酒が注ぎ込まれる。一応、良夜にも酌をする辺り、彼女も少しは祝う気があるように良夜にも思えた。
「んじゃ、りょーやんがめでたく童貞のまま十九を迎えたことを祝して、かんぱーい!!」
 ――のはやっぱり幻想だったようだった。満面の笑みで言い切る貴美に良夜はガックリとうなだれ「余計な修飾語をつけんな」と言う言葉だけをなんとか呟いた。
 グラスが一所でぶつかり合い、楽しげな笑い声が広いとは言えない部屋の中に響く。
「この調子じゃ来年もその修飾語は取れそうにないわね」
 小生意気に言うアルトの頭を軽く小突き、出汁に絡んだラーメンを取り皿に取った。良い感じに煮込まれた中華そばは少々柔らかいが、色々な具材の味がしみてて非常に美味しい。
「本体が食べたかったわね」
 それは良夜も同じ思い。ラーメンをあてに酒を飲みながら、良夜はアルトの言葉に小さくうなずいて見せた。
 プレゼントもなければ、つまみは白菜だけのラーメン。しかし、美月、貴美、直樹の三人と妖精は和明が提供してくれた日本酒を煽り、口々に良夜の誕生日を祝う言葉を彼に与えてくれた。
 まあ、色々と問題点は多々あるが友達に誕生日を祝って貰ってるのだから、今年の誕生日は当りかな……と、良夜は回りで楽しげに酒を酌み交わす友人達を順番に見つめ、酒以外の理由で顔が紅くなる自分を認識した。
 その視線が最後に美月へと達したとき……あれっと良夜は軽く首をひねった。
「美月さんが脱いでない……」
 美月は頬こそ紅くなっている物の、喫茶アルトの制服をきちんと着たまま。前回、貴美が泣きを入れるほどだった強固な脱ぎ癖は未だに披露されてい。
「ムッツリ……」
「りょーやん、私はりょーやんを見損なった! そんなに美月さんの小さな乳が見たかったんねっ!?」
 あからさまに軽蔑の視線を送るアルトとびしっと指さしで罵倒する貴美、二人の視線が非常に痛い。
 そして、貴美は壁に据え付けられたエアコンを指さした。そこからは冷風が吹き出し、部屋は涼しいを通り過ごして寒いくらい。
「今夜はエアコンをガンガンに利かせてるからね、少なくとも暑いって――って、えぇぇぇ!?」
 自画自賛しようとする貴美の正面で、美月は堂々とブラウスのボタンに指をかけ始めた。
「ちょっと!! 今日は暑くないっしょっ!?」
「ふにぃ……りょーやさんが見たいのなら、仕方ないかと……」
「見たいなんて言ってないからっ!」
 慌てる良夜に少しだけ残念そうな顔を見せ、美月はうーんと紅く染まった頬に冷や酒の入ったグラスを押し付け悩み始めた。そして数秒後。彼女はラーメンを取り皿に取っていた直樹へと視線を向け、「直樹くんは?」とにっこり微笑んだ。
「なんで僕が見たがるんですかっ!」
「うーんっとですね、たまには小さいのも良いものかと……」
 そう言いながら、美月はワイシャツとベストに包まれた胸元をマジマジと見つめながら、それを自分の手でぺたぺたと触れる。
「美月さんが自分で小さいって言ったぞ」
「酔って頭のろれつが回ってないだけよ。お代わり」
 良夜は軽く驚いたが、アルトは特に気にもしない様子。マイペースに杯を空け、空けた杯をズイッと良夜に差し出した。
「ああ、なおは大きいのじゃないと反応しないから」
「そんなことはありません!!!」
「……ほぉ、反応するんだ……死ねっ!」
 直樹が反射的に答えた次の瞬間、その後頭部に貴美の容赦のない肘がたたき込まれた。直樹の後頭部垂直に叩き下ろされる肘、それは顔面がテーブルを貫いてしまうかと思われるほどの勢い。
「自業自得ね」
「ああ、自業自得だ」
 ガンガンと何度も上下に動く肘を見つめ、良夜とアルトは酒を飲み干しながら呟いた。
「なお、終いには泣かすよ?」
 終いも最初も、直樹は既に半泣き。だと言うのに、貴美の肘は何度もガンガンと直樹の後頭部を直撃し続ける。そのたびに額と鼻が取り皿ごとテーブルに激突。恋人同士のじゃれ合いと言うには、余りにも激しすぎる肘の動きと殺意の固まり。
 貴美の肘が直樹の後頭部を直撃するたび、ガラステーブルは大きく揺れ、その上の鍋がズルッズルッとカセットコンロの上でずれてゆく。
 良夜は暴れる鍋をテーブルからおろし、一人、ズルズルとラーメンを啜り始めた。少し柔らかくなってきているが、色々な具材の出汁を吸ったラーメンは非常に美味しい。つい、酒も進んでしまう。
「……冷静ね」
「この位のアドリブが利かないと、この面子とは付き合えないからな」
 伸びたラーメンを啜りながら、良夜は『意外と被害が少なかったな……』と軽く安堵しようとしていた……訳だが、良夜は自分の人生を甘く見ていた。
「良夜さん、やっぱり見ますか?」
 フニフニとぼけた表情で、美月は自分の胸元を引っ張りながら、一人ソバを啜る良夜の顔を覗き込んだ。
「……見ませんって……」
 見たくない……と言えば当然嘘になる。しかし、アルトは言うに及ばず、貴美は直樹への折檻を止め、直樹は貴美の肘の下から、全員が良夜の答えに注目。こんな状況で『はい、見たいです』と言えるほど、良夜の神経は太くない。
 全員が固唾を呑んで見守る中、『見ますか?』『見ません』のやりとりが数回続いた。
 いい加減にして欲しい、良夜がそう思い始めた頃、唐突に美月が立ち上がった。
「小さいから見たくないんですねっ!」
 そう言って、美月は脱兎の如く部屋の中から飛び出していった。
「だぁもう! なんだろうな!? あの酔っぱらい!」
 それを追って部屋を飛び出る良夜。その背中に『そのまま、アルトまで送っていって〜』って言う貴美ののんきな声が聞こえた。
「判ったって! ああ、今日の被害は少ないと思ってたのに!」
「甘いのよ、良夜……人生に対する認識が」
 アルトは全てを悟りきった口調。彼女を頭に乗せ、良夜は慌てて美月の後を追い、部屋から飛び出した。そして、そこで彼が見た物は――
「……走ったら気持ち悪くなりましたぁ……」
 顔を青くし、階段の踊り場でしゃがみ込む美月の姿だった。

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