良い夜(3)
 ただの『夜』が『深夜』へと名前を変える頃、良夜は美月の体を背負ってアパートの階段をゆっくりと下りていた。
 たらふく酒を飲んでダッシュを決めた美月は、良い感じでぐでんぐでん。とても自分の足で歩けるような様子ではなかったので、良夜は彼女を背負ってアルトにまで送り届けることにした。
 ――訳だが。
「ふぃ〜良い気持ちです〜りょーやさん、もっと速く歩きましょ〜」
 視野の中に少々荒れた指先が滑り込み階下の踊り場を指さし、背後から賑やかな声が聞こえた。
「ちゃんと捕まっててくださいって――」
 伸ばしていた手が首に巻き付き、肘の上に良夜のあごが乗っかり、肘の両側が絶妙な位置で頸動脈を締め上げる。いわゆる、裸締めという状態。腕が細い分、良夜の首にジャストフィットだ。
「――って、動脈がしまってるっ!!」
「良夜さんは贅沢ですねぇ……」
「俺か? 俺が贅沢なの?!」
 ジタバタと良夜に暴れられ美月の腕から力が抜けるも、その口調はまるで我が儘な弟をたしなめる姉のよう。その理不尽さに良夜は軽く目眩を覚えた。
 美月が辛そうな様子だったのは最初の方だけだった。彼女は良夜に背負われた途端、何故か異常なほど元気になった。何が楽しいのか判らないがケラケラと笑いっぱなし。良夜がふらつけば「貧弱な坊やですぅ〜」と言って見たり、良夜の髪を引っ張ったり、手を離してみたりと、「美味しそうなミミガーですぅ〜」と言って耳に噛みついたり、傍若無人の限りを繰り広げていた。
「りょーやー!! おちたらーーー!! 死ぬわよっ!!」
 その様子をアルトは、一人、離れたところから暖かく見守っていた。そこは階下の手すりの上。そこは万が一にでも良夜達が落ち崩れても巻き添えを食らわない位置。そこに腰を下ろし、アルトは両手で口にラッパを作って大声で役に立たない声援を良夜に送っていた。
 良夜の苦労はアルトにとって、完璧なる他人事のようだ。
「……覚えてろ」
 美月を無事喫茶アルトまで送り届けたらあいつをぶっ殺そう。良夜はそう固く決心した。
 そんな調子で、良夜は普段なら数分で駆け下りる階段に三十分以上の時間を浪費。降りきる頃には既に疲労困憊になっていた。かなう物なら、この場でさよならを言って部屋に帰ってさっさと眠ってしまいたいところだが、そうも行かない。
「紳士の癖に軟弱ね? それじゃ、世間の荒波の中で生きていけないわよ」
 転ぶ心配がなくなったと判断したのだろう。道路にまで良夜が降りると、アルトは自分で飛ぶことを止め、彼の頭に腰を下ろしていた。
「フィットネスは現代人のたしなみよ。少しは体を鍛えなさい」
 ちょこんと腰掛け、良夜の頭をちょんちょんと小さなかかとで蹴りながら言葉を続ける。
「お前……完璧に他人事扱いしてた癖に、良く言うよな」
「あら、完璧に他人事よ?」
「はぁ……さいでっか……」
「さいですわ。ほら、さっさと歩きなさい。立ち止まってても店は近くに来てくれないわよ」
 いつもの他愛ないアルトと良夜の口喧嘩。普段から、美月は三人きりになったとき、良夜がアルトと口論をし出すと「良夜さんがアルトの言ってることを教えてくれない」と少々拗ねてしまう。そして、今夜の彼女は良い感じに出来上がっていた。
 肩の上に乗っていた美月のあごが不意に遠ざかり、代わりに両手が両肩をギュッと握りしめる。
「良夜さん……」
 少し遠い位置から静かに呼びかけられる声に良夜が「はい?」と返事をした、まさにその瞬間だった。
「私もアルトのお話が聞きたいですっ!」
 落ちる直前にまで反り返っていた美月の背中が跳ね上がり、そのまま良夜の後頭部に叩きつけられる!
 ぐわぁちぃん!
 生まれ落ちて本日まできっちり十九年、ここまで強烈な頭突きを喰らったのは初めてに違いないって位の強烈な頭突き。ビリヤードの要領で目玉が飛び出ても不思議ではない衝撃に良夜は耐えきれず、顔から冷たいアスファルトの上へとダイブした。
 額と後頭部、パンの代わりに痛みを使ったサンドイッチ、『具』は良夜の脳みそ。その強烈な味に良夜は悲鳴すら上げられない。
「いっ――」
「いったぁぁぁぁ〜〜〜りょーやさんが頭突きをしましたぁ〜」
 突っ伏した顔をなんとか持ち上げ、ようやく良夜が上げようとした悲鳴は背後から音速で飛んできた言葉にかき消された。上げた頭が再びアスファルトへと落下。
「やったのは美月さんです!!」
「良夜さんの頭が硬いからですぅ」
「……自分の言ってること、理解できてますか?!」
「はい、もちろん、判りませんよ!」
 ひときわ元気な返事に、駄目だこの人……と良夜は冷たいアスファルトと美月のお尻に挟まれさめざめと泣き崩れた。
「酔っぱらい相手に会話を試みるなんて、良い度胸してるわね、良夜」
 そして、いつの間にか良夜の頭の上から逃げ出していたアルトは、星明りを背負い、たんこぶの出来た後頭部を見下ろしてそう言った。
(やっぱり、奴を殺そう……)
 ちょっぴり八つ当たりっぽいが、良夜は心の中に芽生えた殺意の芽に水と肥料をたっぷりと与えた。
「……喧嘩なら買うわよ?」
 ストローの感触をたんこぶの上に感じながら、良夜は心の中で言葉を続けた。
(……いつか、隙を見て)
 びっくりするほどヘタレな男だった。

 さて、普段、良夜がアルトを運ぶとき、彼は彼女の羽を摘んだり、肩や頭に乗せると言うことをしている。そう言うとき、特に羽を摘まれたときなど、アルトは決まってこう言っていた。
「紳士が淑女を運ぶときはお姫様抱っこって相場は決まっているのじゃないかしら?」
 自称淑女の小生意気な台詞に対して、良夜はいつもいつもこう言って切り替えしていた。
「身長が百五十センチ以上になったらな」
 身長十七センチ(公称)の妖精相手に百五十センチという難題を課す方も課す方だが、今夜、アルトはこの無理難題を逆手に取ってきた。
「美月は百五十センチ以上の淑女よ。紳士ならお姫様抱っこをすべきね」
 腰の上でキャッキャッとはしゃぐ美月をようやく下ろし終えたとき、アルトはその二人を見下ろしながらそう言った。
「出来るかっ!」
 パタパタと頭の上をホバリングするアルトに向かい、良夜はアスファルトの上に座ったままで短く答え、答えた瞬間「あっ」と口を押さえた。
「つい返事をしちゃうところが良夜の良い所よね、そう言うところ、好きよ?」
 ニンマリと邪悪に笑うアルトから、アスファルトにしゃがんでいた美月へと視線をゆっくりと動かす。その顔にはアルトの言葉を良夜が通訳することを期待しきった表情……どころか、拳を握って息を吹きかけるという古典的強迫のポーズまで取っている。
「……覚えてろ……」
「おのれの不明を呪う事ね、良夜」
 ガックリとうなだれ、良夜はアルトの台詞を美月に説明する。すれば当然――
「私、百五十センチ以上ありますっ! して下さいッ!!」
 酔っぱらい淑女は自己の権利だとでも言うかのように、お姫様抱っこを要求し始めた。
「ここから店までどれだけあると思ってんですか! しかも、ここ、上り坂ですよ!」
「あら、紳士なら自分の言葉は命に替えて守るべきだわ」
「お前は黙ってろ!」
「……ほんと、良夜って『いい人』よね、でも、いい人は余りもてないのよ」
「良夜さん、アルトはなんて言ってるんですか?」
「あっ……ああ、もう!」
 自分にとって不利な発言を自分で通訳させられるこの不条理。しかも、アルトの通訳が忙しくて自分の言いたいことは全く言えない。そして、相手は酔っぱらいと口だけは達者な性悪妖精、良夜は勝ち目というものを探し出すことが出来ず、幾度かのやりとりの後、良夜は結局、自分の言動を守らざるを得なかった。
 肩に腕を回させ、腰と膝を支えて抱き上げ、その胸の上にアルトがペタンと寝転がる。ほんの一瞬だけ、美月の柔らかで女性らしい体に頬が緩んでしまったが、それも最初の一歩を踏み出すまでの話だった。
 足を動かすたびに腰が美月の体重に悲鳴を上げる。大学に入って体育の授業もなくなったし、移動はもっぱらスクーター、バイト先で少々の肉体労働はしているが、良夜の体はお世辞にも鍛えられているとは言えない。
「運動不足なのよ」
「って言ってますよ……アルト……は」
 美月をお姫様抱っこにしながら、自分をののしる言葉を通訳する。なんて理不尽な人生なんだろう、と思いながら、良夜はフラフラしながら峠を登る国道を歩き続けた。
「ほら、良夜、転んだりしたら男として恥じよ」
「良夜さん、頑張って下さいッ!」
 無責任な応援と肌寒い夜風をBGMに車通りも減った国道を峠に向かってゆっくりと歩く。
「なんて言うか……紳士って言うよりも下男って感じよね、良夜」
 がに股の大股、余裕というものを一片も感じさせない歩き方。美月の胸の上でくつろぎ放題なアルトに言われるまでもなく、そんなことは自身が一番に理解していた。
「本当に黙れよ……お前」
「駄目ですよ、良夜さんが居るときだけしかアルトのお話は聞けないんですからぁ〜」
 そんなやりとりを繰り広げながら、良夜は何とかかんとか、峠のてっぺんにまで登り終えた。が、良夜のがんばりもここまで。わずか数百メートルと言った距離だったが、良夜の貧弱な足腰はそこで精根を使い果たした。
「勉強はあんな調子で運動もこんな調子……褒めるところがないわね」
「良夜さんは直樹くんよりも貧弱な坊やさんですねっ!」
 美月を地面に下ろすと良夜は恥も外聞もなく、人通りの全くない歩道にベターっと大の字になった。見上げるのは月の落ちた夜空には満天の星空。冷たい夜風がほどよい酒と過剰な運動に熱せられた体を優しく冷やしてくれる。
「良夜さん、がんばってください! もう、お店、見えてますよっ!」
 ボンヤリと空を眺めていた視野に、美月の長い黒髪と笑顔が滑り込む。その艶やかな黒髪は夜空にとけ込み、空と髪との境界線が判らなくなるほど。
「ですから、早く立って、帰りましょ?」
 寝転がった良夜の手を掴み、引っ張り上げようとする美月。良夜は彼女に手を取られながら、ゆっくりと彼女の頭の天辺から大地を踏みしめるつま先まで視線を動かし、苦笑いを浮かべた。
「……美月さん、立ってませんか?」
 地面に座り直し、良夜は再び、美月の顔を見上げなおした。その顔は相変わらず酒で朱色には染まっているものの、踊り場でしゃがみ込んでいたときの顔色の悪さは何処にも見えない。平たく言うとほろ酔い加減と言ったところだ。
「……はぅ〜 私は今、酔ってて立てない設定でした〜」
 バタバタと慌てた様子で、美月は良夜の隣に腰を下ろし、良夜の顔を見ながら取り繕うような笑顔をして見せた。
「設定だったんですか……って、帰らないんですか?」
 根が生えたようにぺたりと歩道に足を投げ出して座り込み、美月はニコニコと星へと視線を向けた。
「はい、今夜も星が綺麗ですからぁ……」
「そうね、今夜は星が綺麗で素敵だわ」
 アルトも美月の膝の上に寝転がり、満天の星空へと視線を向けた。見上げる星空には、都会では見られないような細かな星までもがまぶしく瞬き続ける。それを見上げる場所は国道の歩道の上。こんな所で……良夜はそう思わなくもないが、それを言う気にもなれず、彼自身も二人の淑女に合わせ、空を見上げ続けた。
「良い夜ね、今夜は。貴方の名前と一緒だわ」
「満月じゃないけどな」
「それは来週ですよ……ふにぃ……」
 ゆっくりと更けゆく早秋の夜。時折思い出したかのように走り抜けるトラック以外、三人の夜を邪魔するものは何も居ない。
「満月か……月はもう沈んだかな?」
 良夜がバイトから帰ってきたとき、そして、美月達が清華を見送ったときに登っていた細い月は、見上げる夜空の何処にも見あたらない。雲は見あたらないようだから、もう、山の向こうにでも沈みきったのだろう。
「星を見るときには月はない方が良いか……」
「あら、美月が邪魔なの?」
 星を見上げたまま呟いた言葉に、アルトがちゃかすような返事を返してきた。
「……悪意のフィルターを耳に常備するなって前から言ってるだろう?」
「してないわよ……まあ、美月も沈んでるようだけど」
「えっ?」と良夜が、隣に座っていた美月へと意識を向けると、彼女は俯いた状態でスースーと心地よさそうな寝息を立てていた。
「さっきまで起きてたじゃないか……」
「電池が切れたのかしらね? まあ、良いじゃない、良夜がお姫様抱っこで運べば」
「そのネタはもう良いって……仕方ない、おぶって帰るか……」
 やれやれと小さく嘆息しながら、良夜は寝入ってしまった美月を担ぎ上げ、喫茶アルトへの道を再び歩き始めた。美月を起こさないよう、のんびりと……
「綺麗な星空と月で『良夜』ね」
 とんと、良夜の頭に乗ったアルトが小さくつぶやき、良夜の誕生日は終わりを告げた。

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