良い夜(1)
長かった夏休みも終わり、大学生も授業とレポートに追い立てられ始める九月末。良夜がバイト先からアパートの駐輪場へと帰ってきたのは、夜の十一時を少し回った頃のことだった。
二ヶ月近くも朝は朝寝夜は夜更かし、そんな怠惰な生活を繰り返してきた所為で良夜の体はちょっとした時差ボケのような状態。授業中、バイト中を問わず、非常に眠かったと言うのに今はやけに目が冴えている。
(今夜はさっさと寝なきゃ……)
夜更かしに慣れきった体を戒め、良夜はすっかり歩き慣れた夜の階段を自室へと向かって上っていた。
常夜灯が照らす階段を上りきり、貴美達の部屋の前を通り過ぎる。
「直樹、帰ってたんだ」
ドアの前に立てば、その向こう側から楽しげな話し声が聞こえた。取り立てて、聞き耳を立てているつもりもないが、毎晩通っていれば、直樹が帰っているのか、貴美が一人で居るのか、その程度は判るようになる物だ。
それに今夜は普段よりも話し声が大きい。
「今夜はうるさいな……」
また、貴美が酒を飲んで直樹を弄って遊んでるのだろう、そんなシーンが嫌でも思い浮かぶ。
タカミーズの部屋へと続くドアを横目で見ながら、自室のドアへと近付いていく。そして、目に入る一枚の張り紙。
『遊びに来い。吉田』
それは良夜の部屋のドアにガムテープで貼り付けられていた。便せんに書かれているのは少々癖のある乱雑な文字、何度か目にした貴美の文字だ。
「ジョーダンだろう……」
半ば呆然とつぶやき、良夜はその張り紙をピッと乱暴に引っぺがした。紙をつかんだ手は勢いを殺さず、そのまま、クシャッと紙を丸めようとする。
しかし、その手を一陣の風が留めた。秋を感じさせる涼しく優しい風。その風にふと顔を上げ、良夜は細い刀のような月へと視線を向けた。
丸めかけられていた紙は伸ばされ、良夜の手によりその風に乗せられた。優しい夜風に紙は少しだけ舞上げられ、そのままぱらっと冷たいコンクリートの床に舞い降りた。
そう、これを剥がしたのは風なのだ。自分ではない。剥がれていたから気がつかなかっただけだ。そんな言い訳を心の中だけでつぶやき、張り紙が貼られていたドアをゆっくりと開いた。
そこには――
「Happy Birthday! りょーや!」
妖精が居た。
話は三時間ほど前に遡る。未だ良夜がスーパーで肩こりに悩まされながら働いていた頃、美月達喫茶アルトのスタッフは店舗の前に全員集合していた。
「それじゃ、お義父様、美月ちゃんのこと、よろしくお願いします。美月ちゃんも、お義父様はそろそろお年なんだから、くれぐれも無理をさせないように。貴美ちゃんもお願いね?」
アイドリングをしている車の中から清華は顔を出し、回りの面々それぞれに声をかける。
清華の夫がドイツから帰国してきた。しかも、彼が連絡をしてきたのは成田だ。そこから「今、入国手続きが終わった」という電話をしてきたのが、小一時間ほど前。
閉店時間まで働いた後、清華はそそくさと帰宅準備を始め、掃除が終わる頃には帰る段取りを終わらせてしまっていた。
「はい、それより、清華さんも時間が時間ですから、お気をつけて」
「ビール、美味しかったって伝えておいてね」
「お父さんによろしく言っておいてください」
三人が口々に見送りの言葉を贈ると、清華は小さく笑った。そして、彼女の車が盛大にタイヤをきしませながら国道へと躍り出る。あっという間に加速していくファミリーカー、色々と問題のある速度にまで加速するまで僅か数秒。
「店長の言葉、聞こえてなかったのかな?」
「早く会いたいのでしょうね――おや……」
和明は貴美の苦笑いに言葉を返し、ふと、その視線を上空へと向けた。彼の目に映るのは刀のように天を切り裂く蒼い月、それは澄みきった夜空にひっそりと浮かび上がっていた。
和明の視線につられ、二人の女性も一様に天空へと視線を上げた。清華の車も遠くに走り去り、見える範囲の国道に一台の車も居ない。無人の喫茶アルトの前で、三人の男女は静かに天を見上げ続けていた。
「どうかしました? お祖父さん」
「来週には十五夜ですね、と思いまして……今年もお団子を作ります?」
美月にそう聞かれると、和明はにこりと可愛い孫娘の顔を見つめて微笑む。
「あっ、そうそう。お月見の夜はお団子を出しますから、放課後、手伝ってくださいね」
「サテンにお団子って言うのも微妙だね。良いよ」
普段以上に忙しいことになるのだが、貴美は美月の申し出を二つ返事で引き受けた。なんと言っても彼女の営業人格は忙しいほどパフォーマンスを発揮する仕様になっている。
「うちのも一緒に作って良い? 毎年沢山作ってるから」
貴美は毎年、お月見というと大量のお団子を作っていた。それも、決してきなこは作らず、全てがあんこ。甘い物はなんでも好き、と言う自身のため、だけではない。
「なおがね、あんこ苦手なんよ」
ニコッと微笑み、貴美は話を続けた。
昔、泥団子をおはぎと称して貴美に無理矢理食べさせられた直樹。それ以来、彼はあんこを見ると「濡れた赤土の味を思い出す」と言ってあんこが大の苦手になった。いわゆるトラウマという奴だ。
しかし、愛の力なのか、理不尽な恋人への諦めなのか、嫌いなあんこも貴美が作れば直樹は食べる。もの凄い嫌そうな顔をしながら。それが貴美には嬉しくてしょうがない。嬉しくて仕方ないから貴美は機会があればあんこのお菓子を大量に作る。春のお彼岸にはぼた餅、秋のお彼岸はおはぎ、月見にはお団子、鏡開きをすれば当然のようにお汁粉、香川で食べられている『あんこ入り餅の雑煮』という奇妙な料理まで作って食べさせた事もある。
「吉田さんって時々、直樹くんに酷いことしますよね」
本心から嬉しそうに言う貴美を見つめ、美月は四季折々にトラウマをえぐられる直樹に軽く同情した。
「時々だなんて――」
ポンポンと軽く美月の肩を叩き、貴美はにっこりと一度言葉を切った。
「毎日だよ?」
「酷いです〜直樹くんはあんなに小さなお子さんなのに!」
そんな馬鹿話で盛り上がる淑女二人を横目に、和明は見上げていた空から喫茶アルトのドアへと視線を落とし、そのドアベルを小さく鳴らした。
「後はお若い物に任せて……老人は先に休ませて貰いますね」
返事も待たずに和明はフロアへと足を進め、二人のウェイトレスは『お休みなさい』と口々に声をかけ、その小さくも広い背中を見送った。
昼のうちはすごしやすい気温だが、営業も終わる時間になれば風はひんやりとし始めてくる。二人は冷たい夜空の下、喫茶アルトの壁にもたれ、無駄話に華を咲かせ始めた。
他愛もない話、お月見の夜には軽食のデザートをお団子にするとか、明日の天気は晴れだとか、明日の客は増えるか減るか等々……楽しげな二人の声は、静かな夜空にいくつも吸い込まれ、星の輝きに色を添えた。
「そう言えば、お月見になんかイベントってなかったっけ?」
いくつかの話題を渡り歩いた後、話は再びお月見に戻った。その時、貴美があれっと小首をかしげた。
「イベント、ですか?」
「そそ、たぶん、その周辺で何か面白くなりそうなイベントがあったと思うんよ」
イベントと言われても全く見当のつかない美月と、喉まで出ているのにそこから言葉が上がってこない貴美。二人は仲良く、うーんと首をかしげ始めた。
「お月見……十五夜……ああ、良夜さんの誕生日?!」
「そう! それそれ!! りょーやんの誕生日がお月見の夜じゃんか!」
細い月の下で悩んでいた美月が、ポンと一つ大きく手を叩き、つかえていた物をはき出せた貴美がびしっと美月の顔を指さす。
良夜とは季語の一つで『月の綺麗な夜』という意味を持つ。それは特に中秋の名月を指し、その夜に生れたことから父親がそう名付けたらしい。知り合った直後くらいに、美月も貴美も良夜からその話を聞いていた。
「あの……良夜さんの生れた日がお月見の夜って言うだけで、今年のお月見が良夜さんの誕生日とか限りませんよ」
そう言う名前の由来は聞いていても、本当の誕生日は二人とも聞いては居ない。もしかしたら聞いているのかも知れないが、細かな日付までは覚えていなかった。
「うん、ちょっと調べてくる!」
ガラン! と少々乱暴にドアベルの音を鳴らし、貴美はバタバタとフロアの中へとかけだしていった。
「調べるって……そんなに昔のカレンダーなんて残してませんよ……」
貴美に置いて行かれた美月は、星と月の明りに目を向けた。その瞬きは街灯にも負けず、仄かな明りを美月にいつまでも投げかけ続けていた。
「で、貴美が調べたら今日だったんで、急遽、良夜の誕生日パーティをやろう! って事になったの。感涙にむせぶ?」
ウェイトレス達のやりとりをアルトは美月の頭の上から見物していた。もちろん、こんな面白いイベントに参加しない手はない。彼女は美月の頭の上に座ったまま、二人があれやこれやと楽しそうに準備をしているのをずっと見守り続けた。
そして、貴美の部屋の前まで着くと、良夜が逃げないようにここで彼が帰ってくるのを待っていた、と言う訳らしい。進入経路は換気扇。身長二十センチにも届かない妖精さんにとって、民家のセキュリティなどないに等しい。
良夜が帰ってくるまでの暇つぶしは家捜し。相変わらず許容範囲内に納められた部屋に、少々物足りなさを感じたそうだが、そんなことを良夜に言われても困る。
「調べるって……どーやって調べたんだよ……」
全ての話を聞き終えた頃、良夜は最近持病になっている頭痛の発作に頭を抱えていた。
「ケータイ、旧暦で日付を指定したら新暦を教えてくれるサイトがあるらしいわ。便利な時代よね」
「……嫌な時代だな」
パチンと玄関の電気をつければ、アルトの小憎たらしい顔がよく見え始める。急に明るくなった玄関の中、アルトはまぶしそうに瞳を細め、彼の顔を覗き込んできた。その眉はギュッと中央により、少々不機嫌そう。
「何よ……女友達が誕生日を祝ってくれるのよ。もっと、嬉しそうな顔をしなさい」
良夜は決して、誕生日を祝われることが嫌なわけでもない。むしろ、誕生日なのになんのイベントもないことに寂しさを感じていなかったと言えば嘘になる。それにタカミーズや美月と飲むのも決して嫌いではない。
ただ、明日は平日なのだ。確実に潰しに掛かる貴美と脱ぎ癖のある美月とアルト、全く役に立たない直樹、この四人と飲むというのはかなりのリスクを伴う。
「一応、アルコールは控えることになってるわ。明日、仕事だもの」
良夜の不安にアルトがペチペチとストローで良夜の鼻を叩きながら答えた。
「……本当か?」
その言葉を信じられるほど、良夜は子供ではない。疑っていることも隠しもしない視線で、アルトの当てにならない笑顔をじーっと冷たい視線で見つめ続けた。
「信じる者は……バカを見る。信じてみなさい、バカ」
「自分が信じてないことを俺に信じさせんな」
「じゃぁ、行かないの?」
不機嫌そうだったアルトの顔が更に不機嫌な物へと代わり、ストローを握った手が縦横に振り回され始める。
「行くよ……はぁ……早めに終わることを願うか……」
もはや、事ここに至っては今夜の睡眠時間もいい感じで削られることは必至。明日の授業は半分以上夢の中で受ける羽目になるかも知れない。
良夜は目の前に浮かんでいたアルトの体を、ヒョイとつまみ上げ、自分の頭の上に乗せた。そして、脱ぎかけていた靴をはき直す。その表情は諦めの極致だ。
「料理はお鍋……アルコール控えめなんてあり得ないわよ」
座り心地良く座り直し、アルトは良夜の額をコツンコツンとかかとで叩き始めた。
「日本酒か、酒は……確実に潰されるな、賭けても良い」
「私もそっちに賭けるわ。賭は不成立ね」
「ああ……明日、必修があるんだけどな」
良夜はそう呟き、隣の部屋へと足を向けた。
そして、鍵の開いたままのドアを開き、やけにひんやりとした部屋の中へと足を進めた。そこで彼らを待っていた物は――
「酒メインなのは判ってたけど……」
「まさか、主役が来た時点で二人とも出来上がってるとは思わなかったわ」
いい感じに出来上がった淑女二人に挟まれ、その二人にペチペチと頭を叩かれて困っている素面の直樹だった。