紅茶強化月間(3)
 今を去ること二十年、夏。当時の夏も今年と同じく暑かった。あのうだるような暑さ、エアコンという物もなかった喫茶アルトフロア、その一つの席ではその気温を更に高めるようなバトルが勃発していた。後に『喫茶アルト三日戦争』と呼ばれることとなる争い。
 それは多くの犠牲を伴う戦いだった。紅茶を注文した客が初代フロアチーフに「黙ってなさい」と怒鳴りつけらたり、お冷やを頼んだ客が娘をおぶったウェイトレスに「セルフです」と言われたり、コーヒーを頼んだ客が店長に舌打ちされたり……良く潰れなかったな、この店。
 その名の通り、この戦は三日三晩続いた。そして、誰もが『そろそろ飽きたなぁ……』と思い始めた頃、一つの提案がなされた。それは、三日戦争に終わりを告げ、新たなる戦い『喫茶アルト夏の陣』と呼ばれる争いの火蓋を切ることとなる提案だった。
『夏休みに沢山売れた方の勝ちで良いじゃない……』
 妖精の提案は三者に受け入れられた。そして、勝負が始まった。
「コーヒーと紅茶、どっちがよりケーキに合うか?」
 この重大な命題への答えは、一夏の戦が終わるときに出るのだ。
「なあ、アルト……もしかして、ここの関係者は全員アホか?」
 大いなる戦史を聞き、良夜は頭を抱えた。

 貴美が休みの日曜日、紅茶強化月間が始まり二週間ほどの日数が過ぎていた。この日は直樹が貴美と一緒に出掛けていることもあり、久しぶりに良夜はアルトとの二人きりでの昼食をとっていた。そうなると話題に上るのは紅茶強化月間の話だ。
「何となく、誰も引けなかったのよ……若かったのね、みんな」
 二人は美月の運んできたタイムランチを食べながら、二十年前に起きたもう一つの「紅茶強化月間」の話に花を咲かせていた。
「それで、清華と真雪が『紅茶強化月間』ってのを始めたの……暇よね、二人とも」
 今日も良夜はコーヒーではなく、紅茶を飲んでいた。余り芳しいとは言えない紅茶強化月間に協力するためだ。アルトは話に一息を入れ、そのティカップから紅茶を一口飲んだ。
「なんて言うか……真面目に店を営業しろよな……」
「あら、そう言うフェアーのおかげで、夏休みも忙しかったのよ。結果オーライって奴よね、それに今回も結果オーライなのよ?」
 どんどん呆れていく良夜に、アルトはその手をペチペチとストローで叩いた。
「紅茶は売れてないけど、紅茶ゼリーは凄く売れてるもの」
 クスクスと楽しそうにアルトは笑い、ほらっと他の席に紅茶ゼリーと『コーヒー』を運ぶ美月の姿を良夜に示した。
 当初、紅茶ゼリーはティランチのオマケとして少量だけが作られ、店内で消費されていた。それが意外と評判が良く、一部で一般メニュー化の要望が聞こえるようになってきた。初めは美月もそれに乗り気ではなかったのだが、その要望がランチを食べない自炊学生からもわき起こり始めると、無視することが出来なくなった。
 で、仕方なく紅茶ゼリーを一般メニュー化したところ、紅茶ゼリーを目当てにティランチを食べていた客がコーヒーランチと紅茶ゼリーという取り方をし始めるようになった。
「紅茶ゼリーと紅茶じゃ、似たような味ばっかりになって飽きちゃうのよね」
 そう言って彼女は最後の紅茶ゼリーをパクッと口に運んだ。甘さ控えめ、紅茶の風味をそのまま生かした紅茶ゼリーはアルトにとってもお気に入りのメニューになろうとしていた。
「ふぅ、やっと、一息つきました……何か、久しぶりに働いてるって感じですよ」
 アルトと良夜の話が一息ついた頃、同じく仕事に一息つけた美月が二人の席へと足を運んできた。時ならぬ盛況は、期間限定との噂――美月は特に何も言っていない――の紅茶ゼリーのおかげ。
「それで、紅茶の方はやっぱり駄目ですか?」
「パッとしませんね……良夜さんが毎日協力してくれるから、何とかって所ですけど……」
「そろそろ、紅茶にも飽きてきたのだけどね……和明も二日目からはブレンドにグレードを下げたし……」
「一応、うちも経営してますから、毎日ブルーマウンテンのただ飲みを要求しないでください」
 良夜がアルトの言い分を伝えると、美月は苦笑いを浮かべアルトが居る辺りに手を伸ばした。その指先にアルトがちょこんと腰を下ろし、美月の爪をストローが触れる程度に突く。この夏覚えた新しいスキンシップ。
「紅茶も嫌いじゃないけど、やっぱり、コーヒーの方が好きなのよね」
 トントンと何度も美月の指先を突きながら、アルトはここ数日繰り返し続けている台詞を言った。
「あっ、そう言えば、さっきの話の続き。勝負、どっちが勝ったんだ?」
「夏の陣? 美月は知ってる?」
 アルトの言葉を良夜が通訳すると、美月は「はい」と大きくうなずいた。
「紅茶が圧勝だったんでしょう? お祖母さんの紅茶ってそんなに美味しかったんですね」
 気分屋でサボり魔だった真雪がこのひと月だけ心を入れ替えたように働いたところ、紅茶の売り上げは急上昇。それまで売り上げでコーヒーに勝ったことのなかった紅茶が、このひと月だけはコーヒーを圧倒したのだ。
 と、言うのが美月が清華に聞かされていた『夏の陣』の全容だった。
「……半分は嘘ね。嘘じゃないかしら……真雪の紅茶は美味しかったし、真雪がそのひと月だけ人が変わったように働いたのも事実だわ。悪い物でも食べたのかと思うくらいにね」
 アルトは大きく息を吐き、美月と良夜の顔を順番に見つめた。
「ただ……清華が男性客に媚びを売るという裏技に出たのが、最大の勝因よ」
「…………それですっ!!!」
 良夜がアルトの言い分を伝えた、まさにその瞬間だった。喫茶アルト中に椅子のすっ倒れる音と美月が両手をテーブルに叩きつける音が響き渡った。その大きな音にフロアの中で立てられていた全ての音が消え失せ、耳が痛くなるような静寂だけが訪れた。
「ふふふ……お母さんの時代と今の喫茶アルトとでは性能が違います」
「具体的に言うと?」
「今の喫茶アルトには吉田さんが居ます! 孫のいる歳のお祖母さんと喫茶アルトの初代関東平野娘お母――お客さん、何を言わせるんですか?」
 立ち上がった美月から下される視線に良夜は軽く恐怖した。

 と、言うわけで翌日。何も知らない貴美は、開店前の喫茶アルトへとやってきた。一応、夏休みは昼からと言う打ち合わせになっていたが、紅茶強化月間に入ってからは、紅茶ゼリーの用意があるので朝一番からのご出勤だ。
 手に持っていたヘルメットを倉庫に置き、タイムカードにガチャンと言う気持ちいい音をさせれば本日の営業開始。毎朝美月が用意してくれる真新しいエプロンを身につけ、彼女は倉庫からキッチンへと赴いた。
「おっはよ〜美月さん、昨日は紅茶売れた?」
 キッチンに貴美が入ってきたとき、美月は一人、仕込んであったスープの仕上げに取りかかっていた。
「二つですね、このままでは私達の目的はかないません」
「あちゃぁ……やっぱ、紅茶ゼリーを一般販売したのはまずかったね」
 振り向きもせずに返された答えを聞くと、貴美はオーバーアクションで天井を見上げた。
「そう言うわけです、吉田さん……てこ入れです」
 美月は相変わらず振り向きもせず、ただ、煮詰まってゆくスープをお玉でかき混ぜ続けるだけ。
「てこ入れったって……今から紅茶に合うスィーツでも捜す? それとも紅茶のバリエーションを増やす?」
 もちろん、この手の話は何度も繰り返され、そのたび『今更無理』という結論以外に出る答えは何もなかった。外注に頼っているスィーツを今すぐ増やすと言うことも出来なければ、紅茶のバリエーションも『売れないかも?』と言うことを考えれば冒険は出来ない。
 それが判りきっている貴美の声も、自然と沈んだ物になりがちだった。彼女は頭を下げると、その金に近い茶髪をガバッと大胆にかき上げた。
「いいえ……とりあえず、ベスト、脱ぎましょう……」
 ことさらに落ち着いたような口調で、美月はゆっくりと言葉を紡いだ。視線は相変わらず、鍋の中をじっと見つめたまま。
 その言葉に貴美は「なんだ、その手か……」と落胆の色を隠しもせずにつぶやき、粉ゼラチンの箱を戸棚の中から取りだした。
「……美月さん、私の背中、知ってるっしょ? あんなの晒して仕事なんて出来るわけないじゃん」
 この方法も貴美は考えていた。むしろ、初日の時点で貴美は考えていた。がしかし、背中の『バカ』は未だに消えてはおらず、とてもベストを脱げるような状態ではない。
「ですよねぇ〜ベストは脱げませんよね〜」
 貴美がむげに断ると、美月はパッと明るい声を出し、ようやく貴美の方へと振り向いた。
「では、シャツを脱いでください」
 そして、ポンと一つたかれる貴美の肩。握っていたゼラチンの箱が床の上に墜ちたのは、肩を叩かれた衝撃が理由ではないだろう。
「……はい?」
「ワイシャツです。ワイシャツを脱ぎましょう!」
「ベストだけで仕事すんの!?」
 思わず貴美は自分が今着ているベストへと視線を落とした。スーツの下に着るようなありきたりのベスト、色はズボンと同じ色。鳩尾の辺りから肩までが大きく開いたそれは、防寒と言うよりもデザインが優先された物に見えた。
「はい、下着までは脱げとは言いません。胸元がもの凄く開いたノースリーブだと思えば大丈夫です!」
「開きすぎ! ブラがもろに見えるじゃんかっ!!!」
 美月の両手が貴美の両肩を握り、ガシガシと大きく前後に揺り動かした。この時、貴美は直感的に思った――
『彼女は本気だ』
 ――と。
「時々、良夜さんにも見せてるじゃないですか!」
「私は時と場合と相手を選んでギリギリの一歩向こうを行ってるだけなん! そんな格好で働くんはギリギリを百歩は越えてるって!!」
 ぶんぶんと何度も顔を左右に振り、すがりつく美月の体を全力で押し返す。しかし、美月は折れない。彼女は貴美の大きな胸を涙目で見つめ、懇々とこの手しかないのだ、貴美ならば美人でスタイルもいいから大丈夫、挙げ句の果てには見せたって減らない、と一生懸命説得を続けた……貴美のブラウスのボタンに手をかけながら。
「やーーーだーーー!!! ってーか、早速脱がそうとしてるしっ!?」
 バッとその手を払いのけ、貴美は自分の大きな胸を両手でギュッと隠した。二つほど外れたボタン、そのワイシャツの隙間からは白いシンプルなブラジャーが見え隠れ。
「うう……吉田さぁん……もう、私の望みは……私がワルツちゃんを迎えるためにはその手段しかないんですよ」
「ワルツちゃんってなんよ……って言うか、美月さんがしなよ!」
「新しい家族の名前です。それと、私がしてお客さんが釣れますか! 喫茶アルトの二代目関東平野娘ですよ!!」
「美月さん、興奮しすぎ……自分で胸地雷に突っ込んでる」
「吉田さんだって黒ビールにウィンナーが欲しいんじゃないんですか? 美味しいですよ、きっと……」
 手を自分の前で合わせながら、美月は貴美の顔を上目遣いに見上げ続けた。その目には大量の涙が浮かび上がり、貴美をして自分の方が悪いことをしているような気がしてくる、と言わしめるほど。
「そこまでするなら、通販で買うから、自分で」
「私にも自分で買えって言うんですか? あんなに高い物を!」
「……なに買わす気なんよ?」
「フランス人形ですよ。本物の」
 泣き顔だったはずの美月は、パッと顔を明るくするとパタパタとキッチンの片隅へとかけだした。そして、そこに置いてあった雑誌を取り出し、貴美の前に広げて見せた。
 そこに載っているのは、セルロイドやプラスティックで出来たフランス人形っぽい人形ではなく、陶器――ビスク――製の『本物』のフランス人形達とそのレプリカ。
「良いですよ……まさに妖精さんです……」
 金髪碧眼の美しいドール達、それを見ているだけで美月の口元はだらしなく半開きになり、目はうつろになってゆく。彼女にとって、ビスクドールは妖精そのものだった。その原因は良夜が、そこに載っているビスクドールの一体を指さし『羽をつけたらアルトそっくり』と言ってしまったことにあったりする。
「……美月さん、無茶苦茶」
 外されたボタンを戻しながら、貴美はドール達が愛らしく微笑むページに視線を走らせた。そこには、高い物ともなればファミリーカーを上回る『正真正銘』のフランス人形、いわゆるアンティークドールまでもが居た。
「このお金でどれだけ紅茶が飲めるんよ……」
「大丈夫ですよ、こちらは飲ませる方で飲む方ではありません」
「ちょっとそこのお姉さん……」
 駄目だ、この人にまともな理論は通じない……貴美は彼女の生活費二ヶ月分のドールを指さす美月を見て、そう確信した。

「……りょーやん、言いたいことがあったらなんか言いなよ……」
「……直樹、本気でこの女と別れた方が良いぞ?」
「吉田さん、あの……僕にも一応、世間体という物があるわけでして……」
「うるさい! したくてしてるわけやないんよっ!!!」
 下着のブラではなく、ビキニのブラの上にベスト、そしてスラックスという珍妙な姿をした貴美は、その夜、六年ぶりに本気で泣いた。
「……でも、これで本当に紅茶が売れるって言うんだから、この店の客層もおかしいわよね……」
 二週間ぶりのコーヒーカップに腰掛け、喫茶アルトの入り口に貼ってあるチラシを思い返していた。それには――
『紅茶が売れたら明日も吉田さんが同じ格好をしています』
 と、丸っこい字で書かれていた。
 こうして、喫茶アルトの紅茶強化月間は大盛況のうちに幕を下ろした。

 オマケ。
「……美月ちゃん、これで我慢しなさい」
「……お母さん、ドワーフさんは違います! ドワーフさんは!!」
 二桁万円のレプリカドールは当然のように却下され、美月の手にはヒゲもじゃずんぐりむっくりのぬいぐるみが一体握らされていた。
 命名、テノールさん。

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