紅茶強化月間(2)
「私のコーヒーは大丈夫なのかしら?」
 ウェイトレス三人組の密談を聞いていたアルト、彼女はまず第一にそんな思いを持った。
 もし、翌日から本当に紅茶ばかりが売れ始めたら、自分の飲むコーヒーがなくなってしまう。良夜に強迫を掛けて、無理矢理にでもコーヒーを注文させるという方法も考えられるが……アルトはそう考えながら、ちらりと二人の若いウェイトレスの顔を見上げた。
 ストレートに強迫を掛けて来るであろう太ってる――一般的には胸の大きな――方とニコニコ笑顔なのに無駄に押しの強いスレンダーな――一般的には貧乳な――方、二対一の強迫合戦に勝てる自信は正直なところない。
「いざとなったら……色気で攻めるしかないわね……さようなら清い妖精さん、私はコーヒーのために純潔を捨てるわ」
 アルトはギュッとストローを握りしめ、明日から始まるであろう戦いに覚悟を決めた。

 そして、翌日。その日、貴美は朝一番から喫茶アルトを訪れていた。その手には大量の印刷物。自宅のパソコンで作った紅茶強化月間の告知チラシだ。
『紅茶強化月間好評開催中。紅茶全品に割り引き。ランチに紅茶をご注文いただくと、紅茶ゼリーのおまけ付き』
 それを貴美はまず入り口ドアに、そして、テーブルの上に一部ずつ置いていった。
「本気ね、貴美、美月……ふふ、受けて立つわ」
 ひゅんっとストローを鳴らし、アルトは始まる勝負に軽い武者震いを覚えた。とりあえず、良夜にコーヒーを注文させたらアルトの勝ち。出来なければ負け。勝手に決めたルールで勝手に勝負を挑む。
 しかも、今日のドレスはいつもよりも少し短め。お辞儀をすれば下着が丸見えになる長さ。そして、その見えるであろう下着はレースの少し色っぽい奴。良夜が美月達の強迫に負けそうになったらしたら、色気でせめる。ロリコンの良夜ならばすぐに転ぶだろう、と、アルトは勝手に判断していた。
「さあ、勝負よ!」
 と言うわけだが、その勝負は開始以前にアルトのやる気を失わせた。
 まず、隠居の爺さま……じゃなくて老店長がアルトの為だけにコーヒーを煎れてくれた。それもアルトの大好きな最高級ブルーマウンテン、それがいつものテーブルにそっと置かれる。
「今日は紅茶ばかりかも知れませんから……」
 小さな声、そこにいるとは限らないのに、居ると確信した口調で和明は呟いた。
「……馬鹿、ブレンドで十分よ」
 胸が温かいを越え、熱くなってくる。アルトはほんの少しだけ塩味の効いたコーヒーの味と香り、そして暖かさをたっぷりと味わった。
 この時点でアルトのやる気はかなり目減りした。むしろ、良夜が紅茶を飲めば、明日も和明が気を利かせてブルマンを用意するかも知れない。そう考えると、むしろ紅茶を飲ませようかと思ってしまうほど。
 そして、第二に今がもの凄く暇な夏休みという事実。
 そもそも、訪れる客の絶対数が少ない。そして、その大学が休みなのに喫茶アルトまでやってくる客と言うのが「老店長の入れる美味しいコーヒーのファン」ばっかりだったりするわけだ。
 まあ、こいつらと言ったら、いくら貴美がお上品に『ただいま紅茶フェアーを開催中です』と言って見せようが、美月が明るく元気な声で『ただいま紅茶強化月間なんです!』と言おうが『コーヒー』という返事しか返さない。それはもう決定的に返さないんだから、どうしようもない。
 そんなわけで紅茶フェアー初日、二時間にして紅茶の販売実績は思いっきりゼロ。美月も貴美も、まっとうな手段では自らの物欲がみたされないことを知った。
 二人が、さてどうするか? と悩んでいる中、同人誌の大詰めを迎えた漫研の女子部員が一人、喫茶アルトを訪れた。貴美のよく知った顔って言うのだから、どんな物を書いているのか聞かなくても判る。
 大きな眼鏡を掛けた女性は大学生と言うには少々幼く見えるも、上手に化粧をすれば男が振り向く美人だとアルトは思った。胸が少々控えめな辺りも彼女に対するアルトの好感度を高める。
 しかし、彼女の目の下には大きく黒い隈、そして、ほっぺたにはスクリーントーンの切れっ端やベタの黒い汚れ。それらの雑多な汚れが、彼女の美貌を覆い隠してた。
「いらっしゃいませ、ご注文はおきまりでしょうか? ただいま、そちらのチラシにあるとおり、紅茶フェアーを開催中です。紅茶全品二割――」
「ガトーショコラ、チーズケーキ、ショートケーキ、アイスコーヒー」
 疲れ果てた顔の女性は顔と同じように疲れ果てた声で、貴美が全てを言い終わる前に自分の注文を一方的に言った。
「……紅茶フェアー、き・こ・え・て・ま・す・か!?」
 カチーンと来る貴美、顔見知りと言うこともあり、少々強引な口調で先ほどの営業トークを続けようとした。
「なんでも良いから早く持ってきて……って言うか、寝かせて……三十分……部長、無理ですぅ……」
 こっくりこっくりと船をこぐ女子大生は、今すぐにでも熟睡をし始めそうな雰囲気。
「はい、判りました。オーダー繰り返します。ガトーショコラ、チーズケーキ、ショートケーキ、アイスティ、以上で――」
 復唱の途中で貴美の後頭部に鉄拳が炸裂した。
「吉田ちゃん、サラッとオーダーを捏造しない! 申し訳ございません。今すぐ、ガトーショコラ、チーズケーキ、ショートケーキにアイスコーヒー、お持ちします」
「ふわぁい……」
 早口でそれを伝えると、既にすやすやと眠りに落ちた漫研部員を置き去りに、清華は貴美をキッチンへと連れ込んだ。
「捏造禁止!」
「えぇ〜 どう考えてもそれじゃ無理じゃんか……」
「お客さんを減らすつもりですか!」
「コミケ前で修羅場ってる漫研部員がそんなこと覚えてないって」
「覚えてても覚えてなくてもです!」
「じゃぁ、あっちは良いん?」
 貴美がそう言って指を指したのは、直樹と話をしている美月だった。
「直樹くん、良いですか? これは吉田さんのためでもあるんです」
「えっと……あの、僕、昨日、吉田さんから散々紅茶をいただいたので……」
「でも、吉田さんも直樹くんが紅茶を飲んでくれればきっとよろこぶと思うんです」
 昨夜、直樹は散々貴美に紅茶を飲まされた。清華が自分の居なくなった後でも美味しい紅茶を出せるようにとの宿題をクリアーするための練習台だ。
「ですから、もう、紅茶は飽きちゃったんです……」
 美月が紅茶と一言言うたび、直樹の顔に浮かぶ苦笑いはその苦味を強めていく。
「でもですね、良いですか? これは吉田さんのためでもあるのですよ? 直樹くん。知ってましたか?」
 だと言うのに、美月の説得は終わることを知らない。
「ホント、もう、紅茶は見たくもないんですよ……」
 最初はハイハイと飲んでいた直樹もその数が二桁を超えた辺りから「もう飲めません、もう飽きました」と懇願し始めた。そこで貴美はこういう条件を付けた。
「店ではコーヒーでもコーラでもオレンジジュースでもなんでも飲めばいいから、練習にだけ付き合って欲しいんよ……ね? なお、愛してるから」
 愛してる恋人に愛していると懇願され、直樹は渋々、その条件を飲んだ。紅茶をそれから更に十数杯を頂くこととなった。なお、貴美はこの時、嫌そうながらも我慢して飲んでいる恋人の顔、と言う物を見るのに一生懸命で、紅茶の練習には余りなっていなかったらしい。
 そして、翌日、貴美は直樹の注文取りに美月を行かせた。
「お願いです。紅茶にしましょう?」
「えっ……あの……でっでも……」
 段々と気弱な返事になっていく直樹。彼はまさに貴美の思うままだった。美月が押せば直樹は最終的に折れる。恋人の性格を知り尽くした貴美の頭脳プレーが炸裂。
 そして、美月の後頭部でも清華の鉄拳が炸裂。
「ああ、もう! 美月ちゃんも吉田ちゃんも、何をしているんですか!」
 貴美がお説教を受けていたキッチンに、美月までもが引っ張り込まれた。そして、始まるお説教。
「……吉田さんの提案じゃないですか……直樹くんを説得しろって言うの……」
「私だけお説教はやだもーん」
 美月は頬を膨らませ、唇を尖らせて貴美に不平を言う。しかし、貴美はそれを平然と受け流し続けた。
「誰が言出したかは知りません! 捏造と説得は禁止です! ……もちろん、強迫もです! 特に吉田ちゃん!」
「……ちっ」
 もろに行動を読まれた貴美は小さく舌を打った。

「と、いう感じだったんですよ。今朝」
「と、言うわけで、見てる方が可哀想になったの、だから、今日は特別に紅茶を飲んでも良いわよ」
 直樹の解説にアルトが少々の補足説明をすれば、察しの悪い良夜も一通りの事情は把握することが出来た。
 彼は二人の説明が終わると、軽く苦笑いを浮かべ、ため息を一つついた。
「直樹も大変だな」
「お腹チャプチャプで、夜中に何回もお手洗いに行きましたよ」
 そうは言いつつも、直樹は何処か嬉しそうな表情だった。それは彼が「飲まされた」と言う言葉を一度も使わず、代わりに「飲ませてくれた」「作ってくれた」という言葉を使っているところかも、アルトにはうかがい知ることが出来た。
「蓼食う虫も好き好き、よね……」
 アルトは小さくつぶやき、トーンと良夜の肩の上から飛び降り、直樹のコーヒーカップへと取り付いた。直樹がコーヒーを飲んでいることも、アルトが良夜に紅茶を許す一因だ。
 彼のコーヒーにはスティックシュガーが半分とミルクが数滴。甘党の彼女が、喫茶店に行くたび、彼の砂糖とミルクを奪い続けていたので、直樹はいつしかこういう飲み方しかできないようになっていたらしい。
 まあ、理由はどうあれ、アルトにとって、直樹の飲み方はギリギリ許容範囲内の飲み方だ。そこからコーヒーを少し失敬できたので、良夜のブラックコーヒーにこだわる必要はあまりない。ブラックがあればあるに越したことはないのだが……
「真面目にあの女との付き合い方、考え直した方が良いぞ」
 アルトが自分の肩から飛び降りるのを確かめると、良夜は再び、直樹の方へと視線を向け直した。
「ああ見えて、良いところもあるんですよ?」
「顔とスタイルって言うなよ」
「いや、そこはともかく……」
 笑いあう二人、アルトも釣られて小さく微笑み、少し甘めのコーヒーを喉へと流し込んだ。
 ほんの一分ほどの待ち時間を経ると、そこへ美月がメニューを持ってやってきた。手に持っていたメニューを良夜に渡し、代わりに食事の終わった直樹の食器を下ろす。
「いらっしゃい、良夜さん。注文はやっぱり、タイムランチとコーヒー?」
「僕の時は随分対応が違います……」
「あはは、説得と強迫は禁じ手扱いになりましたから」
 ブスッとふくれた直樹の頭を、美月がナデナデと優しく撫でる。撫で心地のいい頭は、最近の美月のお気に入り。
「それに良夜さんはコーヒー――」
「あっ、今日は紅茶。アイスで」
「――マニアなんです……はい?」
 良夜の言葉に、自分の言葉を中断させられ、美月は直樹の頭に手を置いたままキョトンとした顔を良夜に見せた。
「ですから、タイムランチをアイスティで」
「……レモンティとミルクティ、ホットでしたらキャンプリックティも出来ます! 後、洋酒を数滴垂らすと香りがまして、非常に美味しくなります!!」
 もう一度、良夜が注文を繰り返せば、美月の背筋はピーンと伸びる。そして、今朝、三人で打ち合わせをした追加メニューとアレンジの種類を一気に並べ立てた。
「……そんなに私が紅茶を許すのが物珍しいのかしらね……」
 余りにも慌てふためく美月を見上げ、アルトは思わず苦笑いを浮かべた。
 別にアルトは紅茶が嫌いなわけではない。ただ、コーヒーの方が好きなだけ。ちょっとだけほろ苦いコーヒーが好き。
「そうね、たまには紅茶もいいかもしれないわ。良夜、私も飲むんだから、間違ってもキャンプリックティなんて頼まないでね」
 キャンプリックティとはミルクティにたっぷりと蜂蜜が入った甘い飲み物。紅茶は嫌いではなくても、甘ったるい飲み物は余り好きではない。だから、飲むのならストレートかレモンティが良い。
「なんです? そのキャンプティとかって……」
 やっぱり、キャンプリックティの意味が解らなかった良夜が美月にそれを尋ねる。そして、アルトの主張を無視して、それを頼む。
 物珍しいから、らしい。
「だから、甘いのは嫌なの!」
 振り下ろされるストローが良夜の腕に突き刺さる!
「くっ! あっ……ごめん、美月さん、アイス……レモンティで」
 まぶしい太陽の下、今日のランチはよく冷えたレモンティがお供。紅茶強化月間、初日の売り上げはこの一杯だけでした。

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