紅茶強化月間(1)
 喫茶アルトの長い歴史の中、臨時休業はたったの二回しかない。
 一度目は一人息子拓也と清華の結婚式。この日、店は臨時休業という扱いではあったが、夕方からの二次会が喫茶アルトで執り行われるため、その準備をするバイトウェイトレスと応援の常連客達で喫茶アルトは大賑わい。しかも、常連客の数名は清華のことが好きだったとかでやけ酒を始めるし、やけ酒を飲んでいる常連客を見てウェイトレスまでやけ酒を始めたり、そのウェイトレスを見てまた別の常連客がやけ酒を始めたりと、複雑な人間関係に喫茶アルトは二次会が始まる前から大盛況……というか、二次会スタート時点で既に潰れた奴が――バイトウェイトレスを含む――数名、床で熟睡していた。
 そして二度目は、三島真雪のお葬式の日だ。こちらも朝一番、授業の休み時間、放課後、多くの大学生や職員達は、自分がいつも喫茶アルトを訪れていた同じ時間に姿を現していた。そして、やはり、定時には姿を合わしていたバイトウェイトレスが、弔問客という名の客にコーヒーを振るまい、フロアから真雪との別れを惜しむ人影が消えたのは、いつもの閉店時間という有様だった。
 多くの人に別れを惜しんで貰った真雪、彼女を一言で言い表すなら『大人げない大人』だったと、アルトは語った。
 思い立ったら一人で、もしくはアルトを連れてフラフラと外に遊びに行く。機嫌不機嫌の波が激しく、機嫌が良ければ常連客だろうが初顔だろうが声を掛けて無駄話、機嫌が悪ければ日当たりのいい席で一日お昼寝。咎められれば笑って誤魔化すか、拗ねて誤魔化すか、逆ギレするか。
 こんな調子だから、真雪の煎れる紅茶は三回のうち二回は何十分も待たされるか、もしくはいくら待っても出てこない。
 そう言うとき、いつも使われていた言葉が――
『真雪ちゃんだから仕方ないよ』
 ――だった。真雪が何をしでかしても、また、何もしなくても、誰もがこの台詞と苦笑いだけで許してしまう。飄々としていて、捕らえどころなく、捕らえたと思っても手の中で消えてしまう。しかし、気がついた時にはしっかり肩や頭の上に乗っている。まさに雪のような女性だった。
 そんな真雪を天国へと送り出した夜、清華は一人で喫茶アルトのキッチンにいた。シンクの前で静かにたたずむ清華、その服装は喪服でもなければ風呂上がりの寝間着でもない。男物のワイシャツに蝶ネクタイ、臙脂のスラックス、腰まで伸ばした髪は黒いゴムでしっかりと縛り上げられていた。いつもの喫茶アルトのウェイトレス姿だ。
 その日初めて一人になった清華は、その日初めての涙をこぼした。崩れ落ちることもなく、声を上げることもなく、ただただ、シンクの上で大粒の涙がこぼれ、弾け続ける。
 いや、正確に言うならば、その時、清華は一人ではなかった。涙の水たまりのすぐ横で、アルトがずっと座っていたからだ。
 その日、アルトは『喪服がない』という理由を付けて葬儀には参列しなかった。ただ、どこで真雪のことを思い出そうかと悩んだ挙げ句、一番人の少ないシンクに座って一日をぼんやりと過ごしていた。
 あらゆる感情がごっちゃになった時、人は逆に無表情になるものだとアルトはこの時初めて知った。
「……年上が先に逝くのは人の世……そうね、そう、人の世の、常なのよ……清華」
 清華が泣き始め、小一時間が過ぎた頃、アルトはようやくそれだけの言葉をひねり出すことが出来た。
 それは決して聞こえないはずの言葉。なのに、清華はまるでその言葉をスタートの合図にでもしたかのように水道の蛇口をひねり、そこに自分の頭を突っ込んだ。強い水流が清華の黒髪を叩き、結んであったゴム紐を解く。
「良し!」
 短い宣言、目一杯に開いた水道の音にも負けないつぶやき。清華は強く何度も顔を擦り、腫れたまぶたの中から涙を追い出す。
「……そう、方向が決まったのね、精々突っ走りなさい」
 その日、一日が終わろうとしている時間になって、アルトは初めて微笑むことが出来た。
 その微笑みに背を向け、清華は戸棚から一つのティポットを取り出し、それを使って紅茶を作り始めた。
 濡れた髪から水滴がいくつも落ち、乾いていた床と清華の服を濡らし始める。それもかまわず、清華は作業を続ける、亡き姑の立ち振る舞いを思い出しながら。
「清華、笑いなさい! ウェイトレスの基本でしょっ!」
 アルトの明るい声を受け、出来上がった紅茶と暖めたティカップをトレイに、清華は再び、喫茶アルト二階の居住スペースへと駆け上がっていた。
 そして、喫茶アルトの二階に残っていた親戚と家族に紅茶を振る舞い、明日からは自分が紅茶を煎れますと満面の笑顔で宣言した。
 んでもって歳月は流れ、現在、夏休みのとあるラストオーダー――。
「店長、うち、紅茶なんてありました?」
 紅茶の注文を受けた茶髪の巨乳娘がそう言ったとき、清華は久しぶりに本気で泣いた。

 その日の営業終了後、美月は掃除を貴美に任せ、翌日の仕込みに取りかかっていた。彼女の前には様々な具材がコトコトと心地いい音を立ててながら煮込み続けられている鍋が一つ、そこからはまだ仕込みの段階ではあるが食欲誘う香りが湯気と一緒になって立ち上っていた。
 お玉についたスープを一滴、握った拳の上に置いたらぺろっと一舐め。数秒の沈黙と思考の後、美月はニコッと一つ微笑んだ。
「うん、今日も合格、明日も美味しい――ギャッ!?」
 彼女の視線が、コトコトと音を立てる鍋から綺麗に磨かれたタイルの壁を経て天井へと跳ね上がった。
 完璧に停止した思考の中、美月はゆっくりと視線を背後へと巡らせた。そこにいらっしゃるのは彼女の母君。日焼け跡の痛い肩にトンと顎を乗せ、右手で力一杯美月の髪を真下に引き下げてた。
「美月ちゃん!!」
「はっ、はい! お母様! 何か私に至らぬ所がございましたでしょうか?!」
 落雷のような怒声に美月の背中がピーンと伸び、直立不動の体勢を取った。
「美月ちゃん! 紅茶、どの位出てるの!?」
 その言葉に、えっ? と美月は言葉を詰まらせた。背後から髪を引っ張られていることも忘れ、美月はしばしの間視線を宙へとさまよわせた。そして、考え込むこと数秒、美月は小さく「多分、これくらい」と荒れた手を背後にいる鬼母へと広げて見せた。
「月に五杯ですかっ!?」
 鋭い怒声と髪を引っ張る手、それに美月は思わず墓穴を掘る一言を言ってしまった。
「イタッ! いえっ! 今年に入って――にゃぁぁぁぁぁぁ、痛い痛い痛い痛い痛い!!!!」
「貴女がしっかりしてないから、そんな風になるんです!!」
「落ち着いて〜〜〜お母さん、落ち着いてぇぇぇぇぇぇ、抜けちゃう、髪が全部抜けちゃう!!!」
 ガッツンガッツンと何度も髪が引っ張られ、そのたびに美月の顎がカックンカックンと早送りのししおどしのように何度も上下運動を繰り返す。激しい上下運動に、美月は船酔いのような感覚を覚えた。
「良いですか! 美月ちゃん、いえ、三代目チーフさん。喫茶アルトの紅茶と言えば、お義父様のコーヒーと並ぶ当店の看板メニューだったんですよ! それを、八ヶ月で五杯って一体、どー言うことですか?!」
「上手に煎れられる人が居ないからですぅぅぅ」
「美月ちゃんが全然練習しないからでしょっ!?」
「だって、忙しいくてぇぇぇぇぇ」
「今日現在、もの凄く暇だったじゃないですかっ!」
「紅茶の練習をするくらいなら、窓ふきでもしてる方が働いてるって気がするかなって、抜ける! 抜けちゃう! 丸坊主になっちゃいますぅ!!」
 言い訳とか反論をするたび、美月の髪が引っ張られ、そのたびにキャンキャンと悲痛な叫び声がキッチンどころかフロアにまで響き渡ったり、そこを掃除していた人物をこの場に呼び寄せた。
「もう、遊んでんなら――ちょっと、清華さん、何してるん?!」
 フロアの掃除を終わらせた貴美が、キッチンにヒョッコリと顔を覗かせると、パタパタと駆け足で二人の元へと近付いてきた。
「吉田さぁん、助けてくださぃ……暴力母にころ……され……ます?」
 思わぬ助け船に美月の顔に喜色が浮かぶが、貴美はその美月の前を通り過ぎていった。
 そして、パタンとスープ鍋に蓋が被され、着いたままだった火が消された。
「スープが焦げんし、そもそも、こんな所でそんなに髪を引っ張ったら、髪がスープに入るっしょ!」
「あっ……ごめん、吉田ちゃん」
「では、続きをどうぞ。私は帰んよ」
 上司に対し、恭しい一礼をして倉庫へと歩を進める貴美、そこには彼女の大事なタイムカードがある。
「吉田さぁん!!!」
 出航しようとする助け船に、美月はすがりついて泣いた。

「もう……吉田さんって冷たいです。暴力母に娘が殺されかけていたのに……」
「ああ、そのくらいで死ぬんなら、なおは小学校のころに二桁は死んでるから」
 不満そうな美月の口調とは裏腹に、貴美の進入は結果的に彼女を助けることとになった。分別盛りの四十代、さすがに従業員の前で娘の髪を引きずり回すことは出来なかったようだ。
 今日のウェイトレス三人は、みな、一様に長袖のシャツの上からベストを着用していた。理由は簡単、まず、背中に刻まれた『バカ』の文字がシャツの上まで浮かび上がってしまう貴美がこの格好で働きに来た。それを見た美月はこれで胸を比べられずに済むと長袖から開襟シャツへと着替えようとした。が、それを許すような貴美ではなかった。
「私だけ暑いのは嫌。そもそも、こんな格好をする羽目になったのは誰の所為? 美月……さん?」
 自分がやったんじゃないんだけどなぁと思うところもある。あるのだが、こう言われてしまうと美月は逆らう事も出来ず、素直に自分もベストを着用した。名前、呼び捨てにされかけてたし。
 そして、仲良く冷房温度を下げる若者ウェイトレス達。すると堪えるのは若作りはしててもお年がお年の三島清華女史だ。冷え性気味の体を持て余し始め、結局、他の二人と同じ格好プラス、スラックスの下にパンストという完全防寒仕様。
 クールビズなんて言葉、喫茶アルトには存在しなかった。
 そんな季節感を著しく狂わせた三人は会談の場所をキッチンからカウンターへと移し、清華の煎れた紅茶と売れ残りのケーキを囲んでいた。
「んで、清華ちゃんは紅茶復権を計りたい、そう言うわけ?」
 一通りの説明が終わる頃、貴美の前からケーキは消え失せ、彼女はたっぷりとミルクと砂糖が足された紅茶で喉を潤してた。
「そう言うことです。吉田ちゃんもちゃんと協力してください」
 貴美の隣に座り、清華はティカップを両手で包み込むように口元へと運んだ。本来ならば香が強いはずのセイロンティ、しかし、開封後長く放置された所為でその香も随分と劣化してた。それが清華の眉をひそめさせる。
「でも、うちのお店、お祖父さんのコーヒーが一番人気ですからね……名物ですし」
「そうそう、コーヒーと紅茶、一緒に飲む人も居ないしさ……それに、二研や漫研の人もここに来たらコーヒー飲まなきゃ! って人ばーっかだよ?」
「やっぱり、中小飲食店が生き残るためには名物料理に特化しませんと……」
 美月と貴美が額を寄せ合い、ボソボソと言い訳めいた言葉をいくつも並べ立てる。直接的に『諦めろ』とまではどちらも言わないが、言外にはそのニュアンスがたっぷりと含まれた言葉達。聞きたくもないが、静かなフロアーでは嫌でも清華の耳にまで届いてしまう。
「そう言うことになるまで、美月ちゃんはほったらかしだったんですか!」
 パン! 力一杯平手がカウンターを叩き、その振動にカップとケーキ皿が小さなステップを踏んだ。
「えっあっあの……お母様、お言葉を返すようですが、私、フルタイムで働き出したの、今年の頭……」
 迫力に軽く怯えながらも、美月はボソボソとした声で反論を述べた。
 彼女の言葉通り、彼女が朝から晩まで喫茶アルトで働くようになったのは、今年の頭からだった。それまでは専門学校に通って料理の勉強をしていた。
 そして、美月が本職として働き出すまで、二人のバイトウェイトレスが居た……訳だが、この二人がまあ、アルトに負けず劣らずのコーヒー党。和明と意気投合し、卒業するまでの四年間、せっせと新しいコーヒーのブレンドを開発してはメニューに載せていた、紅茶メニューを削って。そして、その新しいコーヒーメニューはアルトの定番メニューとなり、今では『それしか飲まない』という常連客も存在するほどだった。
「……すぐに是正させなさい!」
 もう一度、カウンターが叩かれ、清華自身のカップから紅茶の雫が手の上に飛び散っていった。
「それに……お母さんがお父さんとお家から出て行っちゃったから、こうなったんですよ? 私達だけが責められるのも……」
「うっ……だってぇ……四年も遠距離してたから、もう、単身赴任は嫌かなって……」
 美月の言葉に、今度は清華が声を小さくする番だ。彼女は消え入りそうな声で呟きながら、恥ずかしそうにティカップの縁を指先でツーッと撫で回し始めた。
「まあ、その気持ちもわかるよねぇ……好きな人とはずっと一緒に居たい物なんよ」
「あっ! さすが吉田ちゃん! 乙女心が判ってる! それに引き替え……こっちの娘は……」
 旦那様と恋人、少々の違いはあれども、最愛の人を有する二人があっという間に意気投合。そして、統合した視線がじろぉっと美月の顔を見つめた。
「だったら、海外出張にも付いていけば良かったんです!」
「自費でドイツに二ヶ月も三ヶ月も滞在できますか!」
 出来ればそうしたかったと言いたげな清華と、ついて行ってれば揉めることも仕事を取られることもなかったと言いたげな美月。二人のフーッ!! と威嚇せんばかりの視線が貴美の前辺りでバチバチと火花を散らした。
「あっ、旦那さんドイツ? じゃぁ、本場の黒ビールとソーセージだねぇ……お土産、今から無理?」
「吉田ちゃん、あなた、未成年でしょ……」
「飲むなとはいいませんけど、余り堂々と飲むのはちょっと……」
 威嚇しあっていたことも忘れ、清華と美月はほぼ同時に視線を中央に座る貴美へと向けた。
 しかし、そんなおきまりの台詞など、貴美は飽きるほどに言われ続けてきた。今更気にする物でもなんでもない。それより、今の貴美は『本場のソーセージで本場の黒ビールをグイッ!』に心奪われていた。
「……判りました。今月、紅茶が沢山売れたら、拓也君に電話して――」
「よっしゃ! 紅茶売るよ!」
 清華の言葉を最後まで聞きもせず、清華はドーンとテーブルから立ち上がった。その表情に迷いも陰りもありはしない。
「うわぁ……さっきまで全然乗り気じゃなかったのに……」
「ヨーロッパと言えば、妖精の本場ですよね……」
「売ります! 紅茶だろうがコーラだろうが、なんだって売ります!!」
 貴美を真似るように美月も立ち上がり、その手を大きく挙げた。
「はい、頑張りましょう!」
 最後に清華がそう宣言し、八月紅茶強化月間が満場一致で開催されることとなった。
 
「所で、私のコーヒーは大丈夫なのかしら?」
 人知れず、清華のケーキと紅茶を失敬していたアルト、彼女の頭には「やっぱり、ケーキにはコーヒーが良く合う」という一文しかなった。

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