海と空で(10)
 夜の十一時少し過ぎ、昼前出発予定が昼を大幅に割り込んだため、大学付近にたどり着いたときにはこんな時間になってしまっていた。悪いのはひとえに高見直樹と浅間良夜の男二人組。いつもいつも『出したら片付けろ』と貴美に言われ続けていた直樹は、その彼女が別の部屋にいることを良いことに、なーんにも片付けずに一週間を過ごた。そして、良夜もそれに引きずられるように怠惰な一週間を過ごし、気がついたら、男部屋の床が見えないというありさま。
「なおのアホたれ」
「良夜さんのバカ」
「良夜の童貞」
 口々に罵倒されながらの片付けが終わり、帰れる状況になったのは昼の三時過ぎ。そこから大学周辺までに帰ってくる間も――
「りょーやんのヘタレ」
「直樹くんのお子様」
「直樹のチビ」
 ――等々、二人の男はずっと罵倒され続けていた。自業自得なのは判っているが、最後に囀る妖精が直樹に見えないのは、ちょっと不公平だと良夜は感じた。
 そう言うわけで、喫茶アルトで一杯のコーヒーを頂いてシメにする予定だったこの旅行も、良夜達のアパートの前で、それも『お疲れ様、またね』の一言だけでお開きになってしまった。
「終わっちゃいましたね」
 良夜達が降りた車内は、運転をする美月とその肩に座ったアルトの二人だけになっていた。途中、超安全運転の貴美に代わって貰いもしたが、それでも長時間の運転と旅行の疲れが吹き出し、美月の表情には少々の疲れが浮かび上がっていた。
「ええ、終わっちゃったわ」
 美月には届かない声の答えを返し、アルトは美月の髪を一回だけ優しく引っ張った。
 一度引っ張ればYes、二度引っ張ればNo。姿も見えず、声も届けられないアルトと意思の疎通をするために作られたルールだ。一頃、美月がモールス信号の本を読んでいたので、そっちでの会話も出来るかと期待していたものだ。が、それから数年、美月が何も言わないところを見るときっと挫折したのだろう。不出来な頭を思うと、アルトの目頭が無性に熱くなってきた。
 峠を越えるとすぐに喫茶アルトは見え始める。二人にとって、たった一つの帰る場所。既に営業時間の終わった店内に明かりは見えず、代わりに街灯が外から店を明るく照らし出していた。
「明日からはまたお仕事……沢山のお客さんが来てくれたら良いんですけどね」
「そうね、でもきっと来ないわよ。夏休みだもの」
 美月の言葉に声の返事は出たが、髪への返事に少し悩む。単純なYesでもなければNoでもない。アルトは少しだけ考えた後、一回だけ髪を引っ張り、しばらくの時間を置いてもう二回髪を引っ張った。
「んっと……」
 合計三回に及ぶアルトの「返事」に、美月は小さく頭をかしげた。
「最初一回だから、沢山来てくれる……って意味ですね!」
「……後の二回を無視してるし、無視するんなら悩む必要ないわよ……」
 微妙に勘違いをしている美月に、アルトは小さくため息をついた。
「まあ、良いわ……来てくれるんなら来てくれた方が良いんだから」
 訂正することも考えたが、ここで妙に訂正を加えると、余り良く出来ていない美月の頭脳が混線し始める。アルトはとりあえず、美月の髪を一度だけ引っ張り、視線を近付いてくる喫茶アルトの建物へと向けた。
 かっちんかっちんと響くのはウィンカーの音。通行量の減った対向車線を横切り、美月は車を喫茶アルト正面につけた。そこは来客者用の駐車場、とは言え主な客層が大学生な喫茶アルトでは、その使用頻度は随分と低い。従業員の駐車場はそこから少し離れたゴミ捨て場の近く。ただ、そこに止めると正面に喫茶アルトの洋館を見上げることは出来ない。
「――だからよね、多分」
 美月の肩からアルトは二階建ての洋館を見上げ、小さく呟いた。一週間ぶりに見上げる店舗は、一週間前と全く変わることなく、月と街灯の明かりで薄暗く照らし出されていた。
 車のキーが抜かれ、エンジンとステレオの音が消える。
 静寂。
 しかし、美月はそこから降りることはなく、夜の闇に浮かぶ自宅兼勤め先をぼんやりと見上げていた。
 調理師学校の研修旅行でイタリアにまで行ったとき以外、美月が喫茶アルトからこんなに長く離れて過ごしたことをアルトは知らない。そして、それはアルト自身も同じ事。彼女もこんなに長く、ここを留守にした経験はない。お互い、一泊二日か二泊三日程度まで。だから、美月の気持ちは、アルトにもよく判った。
「終わっちゃいましたね……旅行」
 再度のつぶやきは先ほどよりも小さな声だったような気がした。
「私、こんな楽しい旅行、初めてだったんですよね。イタリアに行ったときは、言葉は通じないし、ご飯は微妙に合わないし、時差ボケは酷かったし――」
「ボケてるのはいつもの事じゃない」
「だから、もうちょっとだけ、旅行気分……」
 邪魔をされたことにも気付かず、彼女は小さな独り言を続けた。
「好きになさい……ここまで帰ってくれば、事故の心配もないわよ」
 その気持ちをたっぷりと込めて、アルトは髪を引っ張る代わりに、美月の頬に優しく唇を押し付けた。
 かたかたと倒れるシート、そこに寝転がり、美月とアルトだけの旅行のオマケタイムが始まった。

 ただ、じっと喫茶アルトを見上げ続ける美月、そして、その額にペタンと女の子座りをしているアルト。広がったスカートが美月の目にまで掛かっているが、妖精を見ることの出来ない美月にとって、それは邪魔にもなんにもならないはず。
 静寂の時間、エンジンが止まり、カーステのデジタル時計が消えた今、二人が時間の経過を知る術はどこにもなかった。
「明日、晴れると良いですよね」
 店を見上げていた美月が小さな声を上げた。
「夕立くらいは降った方が気持ちいいわよ、雨上がりの空は素敵だわ」
 ちょっと複雑な返事、その言葉のヒダをローラーで押しつぶしたアルトは、美月の前髪を二度引っ張る返事に変えた。
「明日は雨なんですか? うーん、それだと、お客様が減っちゃうかも……」
 美月は飽きることなく店舗を見つめ、明日から始まるいつもの日常生活に思いをはせていた。
「そう、きっと明日は雨よ。もの凄い夕立が降るわ」
 なんの根拠もない台詞。朝からずっと空模様でも眺めていれば、翌日の天気くらいは予想も出来るが、今日の所はそれも無理。だから、今日の予報は予報でも予想じゃなくて、希望的観測。
「そっか……雨か……じゃぁ、明日のランチはカレー」
「雨とカレー? 全然結びつかないんだけど……」
 声に出しての返事はするが、髪は引っ張らない。そもそも、Yes、Noの二択でない言葉にアルトが返事を出来るはずもなければ、美月も最初から期待してないはずだ。
「売れ残りは暖め直して、明後日にインディアンスパゲッティ」
 案の定、アルトの返事を待たず、美月は独り言を続け始めた。
「スパゲッティにカレーが乗ってる奴でしょ? あれはカレーに対してもスパゲッティーに対しても冒涜だと思うのよね」
 それでもアルトは美月の額の上で返事の言葉を続ける。その表情に寂しさの陰りはなく、娘か妹を見守るような優しい笑みが浮かんでいた。
「それも売れ残ったら、パンに塗ってカレーピザトースト、うん、完璧」
「いい加減腐るわよ……それと、売れ残ることを前提にメニューを考えないで」
「お客さん……沢山、来ると良いですよね」
「いい加減な三代目チーフがいるような店に客なんて来ないわよ」
「良夜さん……や直樹くんも……来てくれ……ますよね……」
 彼女の言葉はゆっくりと間延びしていき、アルトのスカート越しに店を見上げていた目もゆっくりと細くなっていった。
「直樹は貴美が連れてくるけど、良夜は……昼まで眠って、昼寝もして、夜はバイトに行って、明日は来ないわよ、きっと」
「明日も沢山頑張らなきゃ……頑張ってカレーを作って……コーヒーも運んで……あっ窓も拭かなきゃ……」
「清華がするわよ、美月の仕事なんてないんじゃないのかしら?」
「だから、応援してくださいね……ある……とぉ…………」
 完全に閉じられる瞳、独り言はいつしか寝言に代わり、彼女の唇からはすーすーという規則正しい呼吸音だけが発せられるようになってきた。
「あっ、こら、こんな所で寝たら風邪……なんてひくわけないわよね。今夜は熱帯夜だもの」
 トンと美月の額を一蹴りし、アルトはその体をハンドルの上へと踊らせる。小なりとは言え他人に蹴っ飛ばされても起きないあたり、美月も良い根性しているわね、とアルトは少しだけ苦笑いを浮かべた。
「お疲れ様、美月。明日からも頑張ってね、喫茶アルトの三代目フロアチーフさん」
 ゴムなんだかプラスティックなんだかよく判らない材質、その上に腰を下ろして、アルトはゆっくりと鼻歌を歌い始めた。曲は甘ったるいラブソング。子守歌には少し不似合いかな、とも思うがそう言う気分だからそっちを優先した。
 そして、その一曲を歌い終えると、アルトもダッシュボードの上に丸まって眠り始めた。夢の中でたびのおさらいが出来る事を望みながら。
 自宅の前に居ながら、わざわざ車の中で眠るうら若き乙女と妖精、ちょっとだけ不思議な夜はこうして更けていった。

 訳だが――

 翌日、まぶしい直射日光を受け、アルトは猛烈な熱さの中で目を覚ました。
「だーーー、もう、熱い!」
 暑いじゃなくて熱い。真っ黒なダッシュボードは猛烈な朝日を十分に吸収し、その上で寝ているだけで茹だってしまいそうな気分、ゆで汁は自分の汗だ。
 飛び起きたアルトは、大声で熱い熱いと言いながら、寝汗で濡れたドレスを体から引きはがし始めた。
「美月! さっさと店に入って和明にアイスこー……ひー……を煎れさせましょう……よぉ?」
 大声で怒鳴った言葉が急速に小さくなってゆく。なぜなら、脱ぎかけのドレスの隙間から見た運転席に、美月の姿がなかったからだ。もちろん、後部座席や助手席にも居ない。
「……また忘れられた!?」
 もの凄く暑いのに背中は冷たい。
 バタバタと脱ぎかけのドレス姿とで飛び上がれば、足と羽がもつれて熱いダッシュボードにディープキス。踏んだり蹴ったりでドアに取り付いても、しっかり施錠された鍵はアルトの弱々しい力ではびくとも動かない。
「助けて! 茹だる、本当に茹だっちゃう! りょーーーやーーーー、みづぅきぃ〜〜〜〜」
 車の中に閉じこめられた妖精さんは、彼女の自信の予想に反して来店した良夜に、素っ裸で干からびかけているところを保護された。
 これにて喫茶アルト関係者ご一同様の旅行はお仕舞い。明日からは、また、ホンのちょっぴりだけ賑やかな日常が始まる。

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