海と空で(3)
「すいません! 乗ります、乗ります!」
 止めた車から飛び出した美月が、車を飲み込んでいるフェリーに向かって大きく手を振った。
「電車じゃないんだから……」
「この忙しい状況でもツッコミを忘れないのね、良夜は」
 美月が運転する車がフェリー乗り場でタイヤをきしませたとき、フェリーではすでに車の乗船が始まっていた。
 前回のラスト直後、貴美の運転する車は片側一車線の対面通行へと突入した。それでも貴美はあくまでマイペースに、制限速度七十キロを守り続けていた。まあ、警察的には優良ドライバーなのかも知れないが、後続車だの同乗者にはいい迷惑。すぐ後ろを走っていたセダンの運転手なんか、貴美の後ろを走り続けた小一時間の間、ずーっと眉間に皺を寄せっぱなし。それをアルトがアッカンベエーしたり、ベロベロバーしてみたり、手を振ってみたり、中指立てたりとずっと挑発し続けるもんだから、見えないであろうと言うことは判っていても良夜は気が気ではなかった。
 そして、運転を代わった美月も、どちらかと言えばのんびりしているタイプの人間。ギリギリまで慌てず『大丈夫ですよ』を連呼し、あわてふためいたのはフェリー乗り場十キロ手前で出航まで十五分という時間に気がついた瞬間だった。
 なんとかギリギリで乗船手続きを終え、ブルーのワンボックスカーは、その車体を同じ色の海と空の境目に横たえ、しばしの休息を得た。三十分弱の休憩の後にもう十五分にも満たないドライブをこなせば、彼のお仕事も一段落……

 甲板に出ればまぶしい太陽とむせ返るような潮の香り、ゆっくりと遠ざかっていくのは彼らの居た大地、そして同じ速度で近付いてくるのは彼らが向かう島。五人はそれら全てが見渡せる甲板の上で到着までの短い時間を潰していた。回りには数人の観光客達、まだ七月末ということもあって、家族連れよりも大学生らしき人の方が多い。
「あっちぃ……やっぱ、甲板は暑いね」
 まぶしい太陽を手のひらで避けながら、貴美はその太陽を見上げた。手のひら越しにも直視できないまぶしさと一秒ごとに肌を小麦色に変えていくような強い光。なのに何もせずには居られない気分にしてくれる、そんな夏の太陽を彼女は見上げた。
「でも、潮風は気持ちいいですよ」
 貴美の言葉に美月は、バタバタと風に煽られる帽子を押さえつけながら答えた。潮の香りをたっぷりと含んだ風、その喫茶アルト周辺では決して味わえない香を美月は胸一杯に吸い込む。
「風が強くて飛ばされそう……服の中に入れてくれるかしら?」
 美月にとって気持ちいい風も、吹けば飛ぶような妖精さんには強すぎる風。アルトは美月の帽子のようにバタバタと体を良夜の髪にしがみつくことでこらえていたが、それも限界に近い。良夜はそう言うアルトをつまみ上げると、シャツの胸元へと片付けた。
「フェリー乗り場から別荘とか近いんですか?」
「えっと……地図は……あぁ、すぐ近くですね。荷物を置いてすぐに行けば、今日、泳げますよ」
 直樹がそう尋ねると、美月はハンドバッグの中から小さく折りたたんだパンフレットの取り出し、三人の前に広げて見せた。フェリー乗り場から少し離れたところに貸別荘のマーク、そこから海水浴場までは歩いてはいけないが車ならすぐと言ったところ。
「あっ、なおなお、ちょっとこっちこっち」
 地図から顔を上げると、貴美は何かを思い出したかのように直樹の手を引いて舳先の方へと駆けだしていった。舳先とは言っても一般乗客がいける範囲での話、車両甲板の方へせり出した部分だ。直樹の手を引いた貴美は、そこの手すりへと向かった。
 そして、恋人の小さな体を背後から抱き上げ、手すりの二段目に立たせる。
「ほーら、今や懐かしのタイタニック!」
「恐いです、恐いですって!!!」
 彼の目の前に広がるのは大海原……ではなく車両甲板、落ちたら死ぬ高さ。その高さに直樹は抵抗することも出来ず、背後から自分の体を抱き上げる貴美に助けを請うばかり。くれぐれも真似しないように。
「なお〜ここは『空を飛んでる見たいよ〜』って言わなきゃ駄目じゃん」
「それは吉田さんの役目じゃないです! 落ちちゃう! 落ちちゃいます!!!」
 細い恋人の腰を掴んだ貴美は、喜色満面の顔で手を前後に動かしていた。そのたび、直樹の顔は車両甲板を覗き込むことになり、情けない声を大きくしていった。
「あっ、それ、ちょっと萌える。なおくん墜ちちゃ〜って言って」
「いっいつも言ってるのは貴――本当に落ちます!!!」
「余計なことを言うな!」
 ゆでだこのように顔を真っ赤に染め上げ、貴美は更にその手の動きに激しさを増していく。そして、直樹は本気で泣いた。
「良夜さん、私も……」
 やんややんやと見物客まで集まりだしたタカミーズのじゃれ合い、それを少し離れたところで眺めていた美月が、良夜の顔を見上げて小さく呟いた。
「持ち上げて欲しいんですか?」
「いいえ、持ち上げさせてください」
「……その細腕で持ち上がると思ってるのかしらね?」
 本当にくれぐれも真似はしないで下さい。

 フェリー乗り場から目的の別荘まではそんなに遠い距離ではなかった。車でほんの十五分ほどの距離。ログハウス風の建物がいくつも並び、そのほとんどは夏休みの家族連れやグループによって利用されている。ログハウス風の建物の中は十二畳程度のリビングキッチンとダブルベッドが置かれた寝室が二つ、良夜達のアパートと同程度のキッチンには一通りの台所用具があり、自炊も十分にすることが出来る。詳しい値段は聞いては居ないが、決して安い金額ではないことが想像できる。
「へぇ、いい感じじゃん、本当にロハで良いわけ?」
 貴美が見渡す室内は、木の素材感を十分に生かした板張りの部屋。彼女はドスンとその床に大きなボストンバッグを下ろして、高い天井を見上げた。そこには天窓、まぶしすぎる太陽が彼女の茶髪を明るく照らしていた。
「今更、お金を払えなんて言われても、私も払えませんよ」
「それは僕も同じですよ。それより、キッチンも立派ですよね。自炊ですか?」
「はい、喫茶アルト二号店、臨時オープンなんですよ。あっ、材料、後で買いに行かなきゃ……」
 直樹と美月の楽しげな会話、しかし、良夜の頭で聞いていたアルトが『喫茶アルト二号店』の言葉を聞いた瞬間、体をビクンと振わせた。
「どうした?」
「……なんでもないわ、それより、荷物を置いて早く泳ぎましょう」
 素っ気ない口調だが、それが余計に違和感を覚えさせる。良夜は頭上のアルトへと視線を向けたが、頭の上ではその表情をうかがい知ることは出来ない。
「なんでもって――」
「りょーやん、部屋割りすんよ!」
 いつまで経っても入り口でボソボソとアルトと話をしている良夜に、貴美の怒鳴り声が叩きつけられる。結局、良夜はそれ以上追求することも出来ず、判ったと貴美に返事をして他のメンバーの元へと近付くしかなかった。
「で、私となおが一緒の部屋でりょーやんと美月さんって事で……」
「絶対に言うと思いました」
 貴美の提案を予想していた直樹は、言うのも面倒くさいというような表情を見せた。
「うーん、私はそれでも良いような……やっぱり良くないような……」
 良夜の通訳でアルトと一晩中お話、と言う魅力的な誘惑に美月の心は揺れる……って、そっちの方を期待されるのもなかなか辛いわけだが……
「そりゃ、男部屋と女部屋だろう?」
「……覗いて良いよね?」
 当たり前の主張に貴美が当たり前じゃない反応を見せる。
「ふざけんな!」
「良夜はロリなのよ! ホモじゃないわ!」
 先ほどまでの素っ気ない口調が嘘のように、アルトはいつも通り良夜をロリコン扱いして喜んでいる。しかも、タカミーズを気にして返事しない物だから、『やっと認めたわね』と得意満面。やっぱり何もなかったんだなと先ほど心配した気持ちを、良夜は返して欲しくなった。
「じゃぁ、男部屋と女部屋で……りょーやんがなおを襲うときは吉田さんに声を掛けるということで」
「だから、襲いもしないし、声も掛けないって」
「なんよ! 美月さんだってきっと楽しみにしてんよ?」
「いっいえ……別に楽しみにはしてないかなぁ……っと」
 ビッと、貴美に人差し指で刺され、美月は大あわてで手を苦笑いする顔の前で振った。
「えぇぇ? 美月さん、楽しみじゃないの?」
「おまえさ、この女、どうにかしろよ……」
「最近、悪化する一方なんですよね、吉田さんの病気」
 もはや、とっくに諦めてます、とでも言いたげな口調と表情。二研だけじゃなくて、漫研にも顔を出している貴美、彼女の病気は加速の一途をたどっている。おかげさまで、タカミーズの部屋の本棚にはその手の同人誌だの商業誌だのが大量に納められている。しかも、その所為で直樹の買っているバイク雑誌やカタログなんかはどんどん行き場を失い、二研部室に避難せざるを得ない状況。
「一度、本気で医者に連れて行った方が良いかも知れないわね……」
 あきれ顔のアルト、付け加えられるのは「良夜のロリより酷いわ」というお言葉。いつもなら、俺はロリじゃない! と言いたいところだが、タカミーズが居るのでそれも出来ない。この調子でロリコン扱いされるのかと思うと、この一週間、どれだけストレスが溜まるのかわかりはしない。
「男子校出身者はみんな男にょ子が好きなはずなんよ……」
「男子校にだって彼女の居る奴は沢山居る!」
 文化祭とかに近くの共学校から恋人を連れてきている奴は、全校生徒から羨望のまなざしを受けていたもんだ。もちろん、良夜は羨望のまなざしを送る側の人間、送られる側に立ったことはただの一度もない。
「……りょーやんには居ないじゃん」
「うるせえ!」
「えっ、良夜さんには彼女居ますよ?」
 と、気持ちよく言い切ったのは美月。
「えっ、ホント?」
「いつの間に!?」
 美月の言葉に貴美と良夜が同時に驚きの声を上げた。
「って、良夜君まで驚いてますけど……」
「はい、妖精さんの彼女が居るんですよ、知ってました?」
 満面の笑顔でアルトを良夜の恋人扱い。
「……りょーやん、二次元に逃避するくらいなら、なおのお尻で我慢しとき?」
 ポンポンと肩を叩く貴美の手、その顔は本気で憐れんでいる……しかし、このヤオイ腐女子に二次元を呆れる資格があるのだろうか? 大体、良夜の部屋にあるその手のゲーム、半分は貴美のツテで手に入れた物だ。
「二次元じゃなくて、ちゃんと三次元ですよ?」
「ぬいぐるみですか?」
 直樹が『良夜の趣味』として喫茶アルト周辺で有名な話を持ち出した。
「どちらかというと人形に近いと思います!」
 もちろん、この話を流したのは、良夜と時々ぬいぐるみや人形を買いに出掛けている美月だ。全く悪気なしにやっているのだからタチが悪い。
「……好きにしてくれ……荷物置いて着替えようぜ……」
 はぁ、とガックリ肩を落とし、良夜は荷物を抱えて男部屋に割り当てられた部屋へと足を向けた。
「……良夜、悪いけど、私、ロリは嫌いなの」
 良夜が部屋に向かおうとすると、アルトはトンと彼の肩を蹴って、美月の肩へと飛び乗った。おそらくは良夜が着替えるのと、自分も水着に着替えたいからなのだろうが……捨て台詞のように言われ、良夜はちょっと傷ついた……泣いてませんよ? ええ、泣いていませんとも!

 良夜が寝室に消えると、直樹もすぐ男部屋(仮称)にやってきて、一緒に着替えを終わらせた。別に何事もなかったわけだが「一緒に着替えた」という事実だけで、貴美がちょっぴり暴走しかけた、と言う話だけはしておく。直樹は「九分九厘冗談で言ってますから」とのことだが、残りの一厘は確実に本気だと良夜は思った。
 女性陣の着替えはどうしても遅くなってしまう。良夜達が極普通の海パンに着替えて出て来ても、女部屋で着替えている三人はまだ出て来ていなかった。
「それで吉田さん、どんなの水着?」
 と、言うわけで極普通の海パンの上にTシャツを羽織った二人はキッチンの真ん中に置かれたテーブルに座って三人を待っていた。直樹は濃いめのグリーン、良夜はダークブルー、どちらもトランクス型で当たり外れのない没個性な代物。
「それがですね、まだ、教えてくれないんですよ」
「直樹にも?」
 子供の頃から新しい服を買えば必ず直樹に見せていた、と言う貴美にはおかしな話。良夜は直樹の言葉に少しだけ首をひねった。
「ええ、絶対に萌え死ぬと買って言ってたんで……妙なことを考えてるんですよ」
 直樹が言うには、彼女は一週間ほど前に一人で水着を買いに行ったらしい。どこに行くにも直樹を引っ張っていく彼女には珍しい行動。そして、帰ってきてからも、直樹が「どんなのを買いました?」と聞いても、当日をお楽しみに、と言って見せてはくれない。絶対に何かある、それはもう、確信だった。
「僕はですね、スクール水着とかじゃないのかな、って思ってるんですよ。これまでのパターンとして」
「まさか。あの年でスクール水着なんか着てたら百パーセント馬鹿か、風俗のお姉様だぞ」
 もしくは未成年に悪い影響を与えるゲームのヒロインか……
「ですよねぇ〜きっと、きわどい奴だと思いますよ……ちょっと心配なんですけどね」
「アレか? 他の男には見せたくないって奴、スタイルだけはいい女と付き合ってると大変だな」
「あっいや……まあ、そうですね……僕も一応、人並みに独占欲とかありますから」
 とっさに否定しかけたものの、直樹は恥ずかしそうに良夜の言葉を肯定した。
「惚気んなって何回言わせるんだよ」
 テーブルの下で良夜が直樹の足をけると、それを合図に高い天井に二人の笑い声が吸い込まれていく。
 そして、女部屋のドアが開く音が響くと、そこに立っていたのは――
「……ごめん、着替えてくんよ」
 最高級の肉体美を誇る体を濃紺のスク水に押し込んだ吉田貴美嬢だった。
 その行動を読まれた上に馬鹿か風俗のお姉様と先回りされて言われた彼女は、そそくさと出て来たばかりの女部屋へと逃げ帰ってしまった。
「えっと……似合います?」
 貴美の後から出て来た美月は、恥ずかしそうにその身を包んだビキニを披露して見せたのだが、彼女自身、もはや、自分の水着がなんのインパクトも持たないことを十分に理解していた。赤と白のストライプ、細い紐で各生地を結んだビキニは十分に可愛い物だったのに……
「……見事にかっさらわれたわね……」
 フリルの付いたワンピースを良夜にスルーされたアルトは、貴美の消えたドアを苦々しそうに睨み付けていた。

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