海と空で(4)
「って訳で、良夜! 海よっ!」
 やってきました真夏のビーチ。照りつける太陽、白い砂浜、青い海、色とりどりの水着お姉様、粉っぽいカレーに具のない焼きそば、そして、日焼け止めローションを塗ったくっている妖精!
「まずは日焼け止め……」
 海よっ! と、小さな手足を一杯に広げた彼女は、すぐにそれらを閉じると、美月が持ってきた荷物に取り付いた。そして、その中へと潜り込む。中身はバスタオルとかちょっとした化粧道具とか、貴重品と呼べるものは千円程度の中身を誇る小銭入れくらい。彼女が捜しているのは、彼女自身が出掛ける前に忍ばせておいた日焼け止めローション。SPFが高くてしかも肌に優しい高級品、らしい。詳しいことは彼女にも判らない。十数年前、海で泳いだときは日焼けで酷い目にあった。だから、彼女は今日という日のためにこっそり、日焼け止めクリームを調達していたのだ。清華の荷物のなかにあった奴、お年を召されると日焼けがシミになるからねぇ……
 ぺたぺた……良夜と直樹の立てたビーチパラソルの下、アルトは全身にその乳液を塗ったくる。前回、特に酷かったのは肩の辺りからうなじ、二の腕の辺り、この辺は真っ赤になった挙げ句、べろんべろんに皮が剥けた。んで、腕の先から太もも、つま先に……と、アルトは鼻歌交じりに白い肌へと乳液を染みこませていった。そして……
「ン……っと……」
 背中、特に羽と羽の間、ここに手が届かない。脇の下から回すと羽が邪魔になるし、肩口から回すと届かない。
「もうちょっと……もう少し……」
 肘は天を指し示し、しわ一つ産毛一本生えていないセクシー(自称)な脇の下を惜しげもなく晒して、指先を限界に伸ばす。そして、クイクイとそれを動かしてると……
「いったぁぁ! つった! つった!! 腕がつったわっ!!」
 ビーチマットの上でのたうつ妖精さん。意外と体が硬い。幼児は体が柔らかいものだが、所詮は推定年齢三十歳以上。
「……馬鹿か? お前」
 そのざまを、隣でジュースを飲んでいた良夜に全て見られていたのは、大いなる失敗。右腕を抱えのたうつ様を、良夜はニヤニヤと楽しそうに笑いながら、じーっと見つめていた。
「何よ! 塗らせて欲しいのっ?! このロリコン!!」
 腕は相変わらず痛いが、とりあえず体面だけは取り繕う。でも、目に涙が浮かんでたり、ローションが髪に付いたりしてて、とてもではないが取り繕えていない。そんなこと、本人が一番知っている。
「背中、まだら焼けになるぞ」
 彼のニヤニヤは止まらず、小さな声で彼女を馬鹿にし続ける。血を吐くほどに悔しい。
「うるさいわねっ! 大きなお世話よ!! さっさと行きなさい!」
 シッシッと手を振り、良夜をそこから追い出そうとするも、彼はニヤニヤと笑ったまま、彼女に「泳がないのか?」と聞いてくる。
「淑女はビーチチェアーで優雅に過ごすものなのよ!」
 本日、良夜達がビーチに持ってきているのは、飾り気のないレジャーシートとビーチパラソルだけ。ビーチチェアーなんてハイソな物はない。
「……ぷっ……じゃあな、ハイソな淑女さん」
 アルトの怒鳴り声に良夜は小さく鼻で笑うと、さくさくと砂を踏む心地いい音を響かせ波打ち際へと走っていった。
 その背中をぶっ殺さんばかりの怒りを込めて見つめるアルト、腕は相変わらずに痛い。
「りょぉやぁ……覚えてなさい!」
 ……一般的にこう言うのを逆恨み、と申します。
 
 平日とはいえ、最高気温三十度越えの今日、海岸には多くの人が思い思いに海水浴を楽しんでいた。透明度の高い海水は、一メートルほど下にある砂地とそこを泳ぐ小魚まで良く見渡すことが出来る。良夜達四人もその一画を確保しては、ざぶざぶと火照った体を冷たい海水で冷やしていた。
「どーよ、新作なんよ?」
 貴美がそう言って他の三人に披露したのは、もちろん、スクール水着ではない。大輪のハイビスカスがいくつもプリントされたワンピース。レッグも胸元も深く切り込みが入っているわけでもなく、どちらかというと大人しめ。スクール水着に比べればどんな水着だった大人しい部類に入るだろうが……
「よく似合ってますよ」
 最初にそう言ったのは、恋人の直樹。続いて良夜と美月の二人が異口同音に褒めると、彼女は満足したかのように何度もうなずいた。
「いやぁ、スク水を見抜かれたときゃ、どーしようかと思ったんよ」
「……見抜いた方もどうしようかと思いましたよ」
 ザブッ! ガックリとうなだれた直樹の頭を、貴美が冷たい海水に押し付ける。小さな手を一杯に動かして抵抗する直樹。彼の上げたしぶきが良夜と美月の体を冷たく濡らしていく。
「なおが見抜かなきゃ、もうちょっとウケてたんよ!」
 ばちゃばちゃと細く白い腕が水を掻き、彼は彼女の理不尽な怒りに精一杯の抵抗を見せていた。わざわざ、おニューのスク水で取りに行った笑いを取れなかった貴美は、その八つ当たりを直樹にぶつけていた。
「溺れさせるなよ」
「大丈夫ですよ、良夜さん」
 良夜が直樹の上げるしぶきを手で避けていると、隣で同じ様な仕草をしていた美月がきっぱりとした口調で言い切った。
「なんでですか?」
「だって、直樹くんが溺れても吉田さんがちゃんと人工呼吸をしますから」
「……あぁ、なるほど」
 ほとんど棒読み台詞で良夜は相づちだけを打った。
「はい! ですから、存分に溺れさせてくださいね! 私たちがちゃんと見守ってますから!」
 明るく可愛く胸元に手を寄せ、直樹が溺れタカミーズが口づけ、いや、人工呼吸をするその時を待ちわびていた。キスで満足する辺り、アルトよりも純情だと言える。
「……恋人運も悪けりゃ、友達運もねえな……直樹」
 と、当の友達が言ってます。
「舌入れて人工呼吸してあげんよ!」
「死ぬ〜〜死にます〜〜〜」
 貴美が直樹の頭を押さえつけ、それを笑いながら良夜と美月が見ている。そんなありふれたグループを遠くから狙う忍者、じゃなくて妖精さん。わざわざ遠回りをして海に入った彼女はストローを咥えると、第一話以降忘れ去られていた水遁の術でゆっくりと近付いていった。
 真上を向いて泳ぎ始める。真上を向かなきゃいけないのは、シュノーケル代わりのストローが真っ直ぐだから。他の方向を向くとストローに水が入って水遁の術にならない。見上げる視線の先には、水のベール越しに揺らぐ太陽と真っ青な青空。私、何やってんのかしら? と言う根源的な疑問が頭をよぎる。でも無視。
 彼女はまさしく「飛ぶように」泳ぐ。トンボのような羽で器用に飛ぶときと同じ要領で水を掻いて進む。その気になれば、トビウオのような泳ぎ方も出来れば、カワセミのように空中から水中へと飛び込むことも出来る。そして、水遁の術で息継ぎの心配も無用、もはや、彼女は海を制したと言っても過言ではない! 飛んでるとき同様、速度はとろいけど。
 大体の方向を確認すると、そちらに向かって羽を動かす。水面からちょこんと飛び出したストローの先端はまるで潜水艦の潜望鏡かジョーズの背びれ。太平楽に海を楽しんでいる大学生に天誅を与えるため、海面近くを静かに潜航していた。
 泳ぎ始める前に確認を取った場所へと向け、彼女は水中を飛び続けた。真上、真っ青な空とまぶしすぎる太陽しか見てない割りには、彼女の航跡は美しい直線を描く。このままならば数分のうちに彼女の目的、水中から良夜に鋭い一撃を加える、は達成される……かに見えた。
 泳ぎに来た人間がいつまでも一所にいるわけない。
「いやぁ〜遊んだ遊んだ」
「……絶対に殺す気だったでしょ?」
 たらふく海水を飲み、直樹の上げた顔には比喩表現ではなく死相が浮かんでいた。それに対し、恋人と思うさま(一方通行な)スキンシップを楽しんだ貴美は上機嫌だ。濡れてクシャクシャになった直樹の頭を、更にクシャクシャにすべく、グリグリと乱暴に撫でていた。
「いやいや、ちゃんと、なおが溺れたら人工呼吸してあげるつもりだったんよ? 舌入れて」
 悪びれることもなく、唇を刺して貴美は笑った。一応、息継ぎをさせるかのように、時折力を抜いていたので殺す気も溺れさせる気もなかったのだろう……その分、長い間遊ばれていた、とも言えるが。
「……そう言うことを言うから、美月さんが期待するんだよ」
「きっ期待だなんて! お二人のキスシーンを見たいな、とか舌も入れちゃうんだ〜なんて事、全然考えてないんですよ?」
 急に話を振られた美月は、顔の前で大きく手を何度も振って、良夜の言葉を否定すると、微笑みながら小首をかしげて「知ってましたか?」と、付け加えた。
「ほら見ろ、期待してる」
 予想通りのごまかしをする美月に、良夜は人差し指を突きつけて笑った。
「えぇぇ、どーして判ったんですか?!」
 図星を指された美月の顔に、驚愕の色が浮かぶ。あれでごまかせると思っていた方が驚愕なのだが、いい加減それにも慣れた。
「まあ……アホなことしてないで泳ぐか」
 アホなことをしているというか、アホな会話をしているというか……
「もの凄く失礼なことを言われたような気がしますね」
 そうは言うものの、美月も髪を束ねる紐を結び直して気合いを入れる。
「んじゃ、あのブイまで泳いでどん尻がかき氷を奢るってどーよ?」
 貴美が指さしたのは、陸に対して平行に五十メートルほど行った場所にある赤いブイ。
「って訳で、よーいどん!」
 良夜達が良いも悪いも言うまもなく、貴美は合図をして全力で泳ぎ始めた。
 と、言うわけで、アルトがそこに到着した際、その場には彼女のターゲットも友人も一方的な知り合いもそこには居なかった。

 かき氷杯争奪自由形約五十メートル競走は良夜の敗北で幕を閉じた。直樹は素直に早かったが、貴美や美月に良夜が敗れたわけではない。純粋な順位で言うと一番が直樹、鼻差の二番良夜、一馬身差で三番貴美、大幅に遅れてどん尻美月という順番だった。
 抜け駆けして三番手って言うのもあれだが、貴美がゴールを決めたとき、美月は遥か後方で半分溺れているような雰囲気だった。んで、見かねた良夜が助けに行き、彼女を引きずるようにしてタカミーズの居るところへ連れてくると、彼女は震える指先でブイに触れて――
「はぁ……はぁ……三番です!」
 そう言った。息は乱れきっているし、髪を縛っていた紐が外れて某貞子さんのようになっているしと、とても勝利者の姿とは思えない姿。なのに、彼女の顔には晴れ晴れとした笑顔が浮かんでいた。
「三番……です! ごっごちそう……さまぁ……」
「……そんな死にそうな顔をしなくてもかき氷くらい……」
 自分の腕の中で、今にも息を引き取りそうな美月に良夜はため息混じりに言った。なお、本人の弁によると、かき氷よりも水泳で勝ったと言うことが嬉しかったらしい。
「ごっちゃーん、りょーやん」
 こういう事情で良夜はなし崩し的に、どん尻という全く嬉しくない称号を得ることになった。とりあえず、直樹に貴美の分を押し付け被害を半分に出来たのは、なかなかの戦略だと言っても良いだろう。って、こういう結果になるのなら、あの競争はナンだったのだろうか、と言う話になる。深く考えると辛くなるので、余り考えない。
「はい、美月さんはブルーハワイでしたね」
「吉田さんが宇治金時で僕がレモン」
「ありがとうございます」
「んっ!」
 愛らしい妖精が様々なポーズを取っているレジャーシートは、美月が意味もなく購入してアルトの倉庫に保管され続けていた逸品、今日が初めてのご活躍。両足を投げ出して座っていた美月は上機嫌で良夜の手から受け取り、胡座をかいて座っていた貴美はまるでひったくるかのような仕草で直樹からかき氷を奪い取った。
「……あの、吉田さん、どうかしました?」
 宇治金時が奪い取られ空っぽになった手と、それをガツガツと無造作に胃袋へと運ぶ貴美を見比べ、直樹は美月に声を掛けた。
「ああ、ほら、先ほど迷子のアナウンスがあったでしょう? それで、その迷子のお母さんかお父さんに怒ってるんですよ」
 美月の言うアナウンスならば、良夜や直樹にも聞こえていた。ピンポンパンポーンって奴から始まるありきたりな迷子案内。
「大体、子供はどこに行くか判らないんだから、ちゃんと見てなきゃいけんのよ!」
 貴美の話を聞くと、貴美はその時の怒りを思い出したのか、かき氷のカップを握り潰しそうな勢いで力を込めた。
「ああ、吉田さん、昔、遊園地で迷子になってもの凄く――」
「私は自分のトラウマだけで喋ってんじゃないんよ! あの時はもの凄く恐かったとか、今でも時々夢に見て泣いちゃうとか、そう言う問題じゃないん!」
 直樹の言葉を途中で制し、貴美は一気にまくし立てた。その表情は珍しくストレートな怒りに満ちあふれていた。そして、かき氷を再び口へと掻き込み、小さな声で「子供が可哀想じゃん」と小さく呟いた。
「子供好き?」
 自分もかき氷を口に運びながら、良夜はレジャーシートの上へと腰を下ろした。ただの駄目人間じゃなかったんだなぁ……と、彼女をほんの少しだけ見直した。
「そうそう、ついでに子供を作る行為も好き」
「ぶーーーーっ! なっなんて事を言うんですか!!!」
 恋人の良い一面を友人に披露でき、少し天狗になっていた青年は口に含んでいた氷を思いっきり吹き出した。鼻から氷の塊が顔を出してる……
「いやぁ〜真面目な話してると、こう、背中の辺りにじんましんが出て来ちゃって……」
 まあ、貴美はどこまで行っても貴美ということだったわけで……
「……あれ?」
 シートの上に良夜が座ると、そこにアルトの姿はなかった。まさか、アルトが自分を狙って海に繰り出しているなど、良夜は思いもせず、回りをキョロキョロと見渡した。
「どうかしました?」
 それに気がついたのは直樹だった。
「いや……何でも……」
 直樹と交わった視線を離し、良夜は冷たいかき氷を口に運び始めた。チョココーヒー味のかき氷……世の中、何でもあるものだ。
「なんよ、グラマーな水着お姉さんが見たいんなら、この辺見てたら良いんよ?」
 と言って貴美が指さしたのは、自分の胸元ではなく、隣に座っていた美月の胸元。
「あの……どうしてこっちなんですか?」
「私のここは見料取るよ」
「ああ、なるほど……じゃぁ、かき氷代だけ、見て良いですよ。良夜さん。具体的に言うと一分くらいでしょうか?」
「じゃぁ、僕が三島さんのかき氷……冗談です、嘘です、ごめんなさい」
 直樹が続けようとしたのは『三島さんのかき氷代を出したことにして、良夜君が吉田さんの分を出したことにすれば』という言葉だった。そして、それを的確に予想した貴美はへらぁとした笑顔のまま、ビーチパラソルを砂浜から引き抜くと、それを大上段に振りかぶった。そして、土下座をして詫びる直樹。
 非常に面白いコントが隣で繰り広げられているが、良夜はちょっとそれどころではなかった。放って置くわけにも行かないし、一人で探しに行くのもタカミーズが居るから……さて、どうするかと思案に暮れながらも、かき氷は既に半分近くにまで減っている。結構、食い意地が張っている。
「かき氷食べ終わったら、今日はお開きにしますか? 良夜さん、ちゃんと一分見ました?」
 かき氷でキーンと痛む額をトントンと叩きながら、美月が一番最初に立ち上がった。時間的にはかなり早い。しかし、夕飯の買い出しもあるし、明日からが本番。今日は早めに帰るという選択肢は、貸別荘からここへと向かう車内で決められていた話だった。料理担当を買って出た美月にとって、買い出しは重大な問題。
「あっ、いえ、見てませんけど……」
 視線だけでアルトを捜していた良夜は、美月の言葉に反射的な答えを返した。
「むぅ……小さいから見たくないんですか? そうですか? そうですね、絶対にそう思っているに違いありません」
「りょーやん、ダメだよ、人の肉体的欠陥をあげつらったら」
「……いつも僕のこと、チビだの貧弱な坊やだの言ってる癖に……」
 小さく突っ込む直樹のお尻に貴美の長いおみ足がたたき込まれる。
「……ほんの半日前にそこで美月さんを追い詰めてたのは吉田さんじゃないか……」
 美月に事情を伝えて探しに行くことに決め、良夜は座り込んでいたレジャーシートの上から立ち上がった。ちょうど、貴美がビーチパラソルを引き抜いていてくれたおかげで、片付け事態はすぐに終わりそう。
『浅間良夜! 今すぐ、アルトちゃんを迎えに迷子センターにまで駆けつけなさい! 五秒以内!! 来なかったら刺す!!! 四!三! 二! 一!!!!』
 良夜にしか聞こえない怒鳴り声が遠くのスピーカーから、『あっ、あれ……誰だ、マイクスイッチ入れた奴……』と言う誰にでも聞こえる声を叩き落とすのが聞こえた。

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