海と空で(2)
浮かれすぎた妖精さんは集合場所に水着姿でおいでなさった。故に彼らの出発は三十分ほど遅れることになった。貸別荘があるのは、とある小さな島。九時出発は、フェリーの時刻に合わせた予定。余裕のある日程を組みはしていたが、その余裕が半分ほどになったのは事実。乗り遅れたら三時間待ち、今日の海水浴がほとんど無理となる。
「りょーやんが忘れ物なんかすっからだよ?」
そして、責められるのは冤罪の浅間良夜十八歳。世の中、無駄に理不尽だ。
「そーですよ、良夜さん、ちゃんとしてくださいね。フェリーの時間があるんですから」
押し付けたのは、運転中だというのに未だ帽子を脱いでいない美月、その人。室内で帽子を被るのはマナー違反です。
アルトが着替えに消えたとき、『もうちょっと待って』という美月と良夜に、タカミーズは『どうして?』と言う当然の疑問を呈した。こう聞かれるとタカミーズにアルトのことを教えていない二人は少し困る。別にタカミーズに教えてはいけない、と言う決まりもないのだが四ヶ月も五ヶ月も黙っていたのを今更……と言うのが二人の共通認識だ。それに出掛ける直前に説明するのも面倒。
そうなると、何らかの嘘をでっち上げなくてはならない。そこで美月は満面の笑みで嘘をでっち上げた。
「良夜さんが忘れ物しちゃったんですよ〜ダメですね、良夜さんは」
打ち合わせどころか目配せの一つもない。完璧なる不意打ちで、美月は責任を良夜の肩に乗っけた。その不意打ちのすばらしさと言ったら、忘れ物をした当人が一番になって驚きの声を上げるほど。
「じゃぁ、アパートに寄りましょうか?」
直樹の提案は誰もが考える最善策。
「ダメですよ、こういう事はちゃんと罰を受けて貰わないと。良夜さん、取りに帰ってくださいね」
美月はその最善策を笑顔で却下し、人生面白ければそれで良しの貴美が「そーそー、取りに行け! りょーやん」と片棒を担ぐ。かくして無理が通り、道理が引っ込んだ。
いい迷惑なのが、意味もなく喫茶アルトからアパートまでの道のりを往復させられた上に、罪を一身に背負わされた良夜だ。気分はまさに、人々の罪を背負わされて荒野へと放たれる生け贄の羊。背負った罪は一人分で、荒野じゃなくて国道だけど……
まだ九時前とは言え、真夏、快晴、地面はアスファルト、ともなれば、体感気温はうなぎ登り。アパートの駐輪場で引き返し、そこから喫茶アルトにまで帰って来たとき、良夜の体にはしっとりと汗がにじみ出していた。出発前だというのに、もうヘロヘロ。挙げ句の果てに、アルトには『遅い』と言って刺されるし、『フェリーに遅れたらりょーやんの責任、三時間の暇つぶしはりょーやんのおごりでお茶』と言うことまでもが貴美の提案によって決定していた。
『やっぱり、波瀾万丈な旅行になりそうだなぁ……』
前回のラストで予感だったその思いは、出発直前にして確信へと成長していた。
「初日から良夜のおごりでコーヒー? それは楽しみね」
諸悪の根源は『りょーやんのおごりでお茶』を無邪気に喜んでいた……って、それはまだ決定事項ではない。
「では、出発しますね!」
美月が高々と宣言し、貴美が「おー」と答える。イグニッションがまわされ、エンジンが深い眠りから目を覚ます。
そして、美月は首を一ひねり。おもむろに運転席から下りて一言。
「おかーさん! パーキングブレーキ、どーやって外すんですか!?」
てな事が出発時にあったり、シフトレバーを操作しようとした手を空振りさせたりと、同乗者を無駄な不安へと駆り立ててくれた美月女史だが、運転そのものは非常に順調だった。乗り慣れない普通車だというのに、とまどう様子も見せることなく、ブルーのワンボックスカーを国道から高速道路へと気持ちよく走らせていた。
カーステレオから流れるダンサブルな洋楽は、貴美が選んだCD。ミーハーなJ−Popしか聞かない良夜には良く解らない曲ばかりだが、アップテンポでスピード感溢れる楽曲は、かかっているだけで場の雰囲気を盛り上げてくれる。
上機嫌のアルトがそれに合わせて歌い始めると、それを良夜がそっと美月に教え、美月は「だと思いました」とにこやかに返事をする。
「りょーやん! こんな所で美月さんを口説くな〜」
「別に口説いてないって! 直樹、お前の彼女、どーにかしろよ」
「そんな無茶言わないでくださいよ」
直樹が冗談めかした口調でオチを担当すれば、車内に笑い声が響き渡った。まぶしい太陽の下をひた走るブルーのワンボックスカー、その車内は賑やかな空気で一杯。
「ところで、美月さん、今年の水着は?」
その賑やかな空気の発生箇所は、当然のようにいつもこの人、吉田貴美。後部座席を恋人と共に占領する彼女は、他の三人に声を掛けては、やいのやいのと騒ぎ立てていた。
「えっ、私ですか? 一応、ビキニなんですよ〜ちょっと可愛いのを選んじゃいました」
未だに白い帽子を被っている美月、隣に座ってるとちょっと邪魔。
「おっ、勇気ある行動!」
勇気ある行動はその一言。美月の地雷を抜け気味な笑顔で容赦なく踏みつける貴美に、直樹と良夜は戦慄を覚えた。
「……どぉ言う意味でしょうか? 下っ端ウェイトレスさん? 来月から給料、減らしますよ?」
例のキレた笑みを浮かべる美月、ハンドルにかけた手をプルプルと震わせ、ルームミラー越しに貴美へと殺気を含んだ視線を向けた。横顔を見ているだけで謝ってしまいたくなる笑顔だ。
「あはは、それはちょっとやだな。でも、小さいサイズには小さいサイズで良さがあるんよ?」
貴美はその視線を平然と笑って受け止め、更に追い打ちを掛ける。良夜には真似できないことを彼女は当たり前のようにやってのけた。全く憧れもしなければ、痺れもしない。
「そんな良さ、ありません!」
「ないわよっ!!!」
からかわれてる美月はともかく、黙って聞いているだけだったアルトまでもがきっちりとキレた。むしろ、運転に集中しなくて良い分、アルトの方が威勢良くキレてる。それが髪を握る手から良夜へと伝わってくる。抜けるから止めろ。
「胸の谷間にアセモが出来ないとか」
「ごめんなさい、ごめんなさい、後でよーく言い聞かせておきますから……」
真顔でナイチチの利点を貴美が言い切れば、直樹は速攻で謝り始める。絶妙のタイミング。貴美が受け流している分、直樹が美月の怒りをもろに受け、彼は半べそ状態だ。
しかし、謝罪されるべきナイチチ二人組は、怒り狂っていたことも忘れ、真っ暗な顔で『谷間にアセモ……』とブツブツ呟いていた。
「……衝撃の事実か……」
出来たことないんだろうな……と思いながら、良夜はほとんど誰にも聞こえないような声で呟いた。
「良夜さん!」
「良夜!」
全く同じタイミングで良夜を怒鳴りつける二人。ほとんど八つ当たり……まあ、『谷間のアセモなんて、二人には永遠に縁のない話だなぁ』なんて事を考えてたんだから、八つ当たりと言い切れない部分もある。
「まあまあ、美月さん、運転代わってあげっから、機嫌直しなよ」
「……そもそも谷間なんて……えっ? 吉田さん、免許持ってるんですか?」
ブツブツと文句を言っていた美月の顔に、パッと驚きの表情が浮かび上がった。真っ正面を睨み付けていた視線が、ルームミラーに映る貴美の顔へと動いた。
「持ってなきゃ、代わるなんて言わないよ、いくら私でも」
美月が見てるルームミラー越しの顔が苦笑いへと変わる。そして、貴美はごそごそとハンドバッグを引っかき回すと、その中から免許証を取り出し、それを自慢そうに鏡に向かって差し出した。
「……あれ、吉田さん、今日、分厚いミュールじゃありませんでした? 危ないですよ」
呆けてても女性、見るべきところを見ていた美月は、ハンドバッグの中へと免許を片付ける貴美に再び視線を送った。
「あぁ、大丈夫、なおのスニーカー借りるから。サイズ、一緒なんよ」
喫茶アルトで働くときは別だが、彼女は高いヒールや底の厚い靴を好んで身につける。なんでも、斜め下から恨めしそうに見上げる直樹の顔もたまらなく良いらしい……この女、最低だ。
「じゃぁ、僕、裸足ですか?」
「私のミュール履いてたら? シークレットミュール」
「……吉田さん、他人の身体的欠陥であそ……ぶ……あぁ……なんて申しましょうか、三島さん、恐いです」
「私に身体的欠陥なんてないんですよ、知ってました? 高見くん」
先ほどまで散々、身体的欠陥をからかわれた美月、その心はささくれ立っていた。
「……何よ」
こっちは大丈夫だな、と良夜は切れないアルトを見て、ちょっぴり一安心。
「私は美月みたいに、スレンダーなことを気にしてないもの」
先ほど、美月以上にキレまくっていたことを、彼女は都合良く忘れ、プイッとそっぽを向いた。良夜はその小さな頭を指先でコツンと突き、貴美の乗り出した顔を避けて、直樹の方へと振り向いた。
「それより、直樹、吉田さんの運転って大丈夫か?」
「どー言う意味かな? りょーやん」
直樹へと向けていた視野に貴美の顔が滑り込む。
「普段の行動を思い返せよな……」
「具体的に言うと、ブレーキを踏まないとか、もの凄く飛ばすとか、私こそがルールだ! って思ってるとか」
そっぽを向いていたアルトが、振り返って良夜の思うとおりの不安要素を並べ立てた。でも、それをお前が言うなよな、と言う思いも力一杯あったりして、良夜は素直に頷くことが出来ない。
「あぁ、そう言う意味ね、納得」
アルトの声は聞こえていないが、貴美も良夜が抱くであろう不安は十分に理解していたようだ。乗り出していた体を背もたれに押し付け、大丈夫大丈夫とお気楽に手を振って答えた。
「……はぁ……一応、運転は大丈夫ですよ、凄く安全運転ですから。僕も何度か乗りましたから」
ものすごぉ〜く何か言いたそうな顔を貴美に一瞬向けると、諦めたかのようなため息を直樹はこぼした。
「そうそう、車の中であーんな事とかこーんな事――」
「してません!!! 全然してません!! 全くないですっ!!!」
「お弁当食べたり、お話ししたり……どった? なお」
ニヤリと冷たく微笑む貴美に、しまったと口を押さえ顔をうつむける直樹。貴美はあっという間に、後部座席を遊び場に、直樹を玩具にしてしまった。
「何を想像してたのかなぁ? お姉さんに説明してみんさい? 怒らないから」
「何でもありません! もう、吉田さんが変なことばっかり言うから!!」
「えっ、私? 私、なーんも言ってないよ? ねっ、りょーやん、美月さん」
彼女が彼の肩を抱き寄せ、顔を覗き込む、その構図はむつまじいカップルの姿と言えなくもない……会話の内容があれだけど。まあ……幸せそうだと言えば、幸せそうなのかも知れない。
「……なんて言うか、見事に貴美の思惑通りって感じね、直樹は」
トントンッとダッシュボードの上に飛び乗り、アルトはアップテンポな洋楽を奏でるステレオの上に腰を下ろした。そこは車内の四人、全員を見渡せる特等席。ドライブが始まったときから、彼女は話が盛り上がってきたらここへ、外が見たくなったら良夜の肩へと、高速をひた走る車内でチョロチョロ飛び回っていた。良夜は、事故ったら文字通り飛んでいくな、とちょっと不謹慎な想像をしてまう。
「直樹も大変だな……」
後ろを振り向き、知らない人に独り言、知っている人にはアルトへの同意となる言葉を呟く。
「ところで、良夜さん、あんな事とかこんな事って……何ですか?」
「ピーがピーしてピーピーピーよ」
ご機嫌の治った美月が質問をすれば、アルトがそちらを向いてセルフ伏せ字で答える。
「……勘弁してくれ……」
抱えた頭は、答えにくい質問をしてる二十一の乙女に対してか、嬉しそうにピーピー言ってる自称妖精に対してか……それは当の良夜自身、よく解らない。
「あぁ、もしかして、ピーがピーしてピーピーピーって奴ですか?」
「おぉ〜美月さん、大胆発言、して、そのピーで隠されたお言葉は?」
真顔でセルフ伏せ字を連発する美月に、シート深く腰掛けていた貴美が身を乗り出した。さすが猥談の女王(工学部有志命名)、食いつきが違う。
「もちろん……全然、知りませんよ!」
何処まで本気で言ってるんだろう……アルトまでも含めた全員の視線を一身に浴び、美月はブルーのワンボックスを更に加速させていった。
出発してから二時間ほどが経った。ここは高速に上がって一時間ほど走ったところにある某サービスエリア。良夜達はそこで少し早い食事を取った。ちょっとしたレストランでの食事、食後のコーヒーが美味しくなかった、とはアルトの評価。良夜には普通のコーヒー。相変わらず、コーヒーにはうるさい。
「それじゃ……高速の間だけ運転して貰えます?」
ここでの休憩を終わらせると、美月は貴美にそのドライバーズシートを譲った。
「りょーかい、大船に乗った気分でくつろいでなよ」
とか何とか言いつつ、ハンドバッグから取り出したのは二枚の若葉マーク。貴美はそれをきっちりフロントとリアに貼り付けた。
「ほんっとーーーーーーーーーーに、大丈夫なのか?」
若葉マーク、それは大船と言うよりも泥船の証、良夜にはそうとしか見えない。
「もう、良夜さんって心配性ですよね、誰だって若葉の時期はあるんですよ」
「安全運転なのは間違いないですよ。オートバイでも無事故無違反ですから」
一日中の運転を覚悟していた美月は、思いも寄らぬ援軍に上機嫌。スライドドアーを開くと、頭を飾る帽子を押さえて車内へと乗り込む。そして、直樹も貴美のミュールを両手に持ったまま助手席へと滑り込んだ。
取り残されるのは、最近、ちょっと心配性な良夜と、その肩が座席の妖精さんの二人だけ。
「良夜……不安な気持ちは良く解るわ」
彼の気持ちを察してくれるのは、その妖精さんただ一人……ちょっと寂しい。
「免許持ってない人に言われたくないよ、ほら、乗らないと置いてくかんね!」
貴美はそう言うと、良夜が乗り込むよりも早くイグニッションをひねり、空ぶかしを一発。乗り手を変えた車は、ファミリーカーらしい小さな咆哮を上げて、小休止の終わりを告げた。
そして、車は再び彼のステージへと躍り出る。夏休みとは言え平日の高速、広くすいた車線を軽快に……軽快……?
彼のステージを飾るのは、赤丸に70と書かれた看板。それを貴美が律儀に守れば、様々な車が彼を置き去りに走り抜けてゆく。
「……良夜、いま、軽四が抜いていったわよ」
左側の窓に張り付いていたアルトは、自分と同じ名前を持つ車を見送る。動いていればそれで満足というアルトだが、ここまでびゅんびゅん抜かれるとその表情にはかげりが見えてくる。
「あぁ……そうだな……」
それは良夜とて同じ事。思いっきり飛ばされるのも恐いが、ここまでとろいのもちょっといや。抜かれるたびに振り向いて確認してくるアルトに、生返事だけを返していた。
「安全運転なのは良いんですけどねぇ……」
普段から運転をしている美月は、もっと暗い表情。彼女は被っている帽子のつばを指で撫でながら、気持ちよく走り去る見慣れた後ろ姿にため息を投げかけていた。
「どーよ、久しぶりだけど上手っしょ?」
だれる後部座席を尻目に、貴美は気持ちよいドライブを謳歌している。初めて乗る車への戸惑いもなければ、若葉マークらしい危うさもなく、自動車学校で教えられたとおり、百点満点の運転。ただ、流れを完璧に無視している、と言う事だけを除いて。
「えっと、吉田さん……ハンドル握ると人間変わっちゃって……」
困るような……それでも普段の行い通りに無茶な運転をしないだけマシなのか、それは貴美にもっとも近しい人物にも判断は付かない。
「こっち方向に変わる人なんて始めて見たわ……」
それは良夜ともども貴美の運転に不安を抱いていた妖精さんにも判らない。
「……この先車線減少……か……」
ゆっくりと近付いてくる道路標識、良夜がそれを読み上げると美月は思わず苦笑いを浮かべた。